集成・兵隊芸白兵

 平成21年開設の「兵隊芸白兵」というブログのリニューアル。
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警察術科(主に逮捕術と柔道、あと剣道ちょこっと)の長い長い歴史(第20回)

2021-07-26 19:13:38 | 雑な歴史シリーズ
【その34 実戦からの乖離を強めた「警視庁捕手術」】
 いろいろと悪評芬々だった「捕手の形」はそれでも一応の完成を見、警視庁管内では施行と同時に、直ちに各署の柔道助手に対して訓練が実施され、同助手たちによって各署警察官に伝授されることとなりました。
 しかし、もともとが講道館の作った「極の形」の亜流であった「捕手の形」は現場警察官、特に剣道修行者方面からの受けが非常に悪かったようで、「捕手の形」制定からわずか5年後の昭和5年、警視庁内に「警視庁捕手術制定研究会」なるものが発足します。
「当庁ニ於テハ大正十三年柔道捕手ノ形ヲ制定シ爾来之ヲ練習シ来タリスガ今形ハ主トシテ柔道ヲ基本トシテ制定シタルガ為、剣道練習者ニ於テハ之ヲ練習スル者少ク、従テ同形ヲ一般警察官ニ於テ容易ニ之ヲ修得シ、且ツ実際ニ活用可能ナル実務ニ即シタル捕手術ヲ考案制定…」という、まるで剣道出身者の恨み言のような設立趣意の下、警視庁は技術制定委員として、このような当代一流のメンバーを招へいし、技の選定にあたります。

【剣道】中山博道・桧山義質・齋村吾郎・堀田捨次郎各師範
【柔道】永岡秀一・三船久蔵・中野正三・佐藤金之助・川上忠 各師範

 委員のひとり、堀田捨次郎師範の言によれば、各師範の体験談のほか、現役警察官の逮捕・制圧体験談をもとに諸々技を検討し、とくに心を砕いたのは「この術を如何なる素人にでも活用せしめ得るようにという点」であり、これは警視庁側たっての要望でもありました。
 各師範が約6か月間「午後八、九時ごろまでも繰り返して研究」(堀田師範談)を続けて作られた「警視庁捕手術」は、前捕・後捕・摺違小手挫・摺違腕挫・袖捕・突込・切掛・追捕・下突刺・中断・脚斬・上段・切下・突出・脚払の15技から成立するものでした。
 ただ、これらの技術は「陽の目を見ることもなく机中深く塵埃に塗れている」(「警視庁武道九十年史」)そうで、おそらく警察部内のどこかに資料が一応存在するのでしょうが、その全容を知る人は令和の現在、誰一人存在しないと断じていいでしょう。
 
 しかし、「捕手の形」の欠点を補填せんとの高い志を抱き、大先生方が熱く検討して作った「捕手術」ですが、残念ながら、これまた一般警察官には見向きもされないシロモノとなります。
 「警視庁武道九十年史」に曰く。
「『捕手の形』や『警視庁捕手術』も実のところ、演武始などの儀式用に終わってしまったようである。」
「たまに役に立つと思われても、訓練に精を出す気にはなれなかったろう。」
 こうなってしまった原因は明白で、ひとつは上記の「有識者」たちが、明治維新から遠く離れ、みんな純正純粋な「柔道マン」「剣道マン」だけになってしまっていたこと、そしてその「柔道マン」「剣道マン」たちが、型というものに対してあまりに無知無識だったため、です。
 
 1つ目の説明はなんとなくわかると思いますが、2つ目に掲げた原因については、少し説明が必要でしょう。
 柔術・空手を問わず、型というものは古ければ古いほど実戦的です。
 これは、型を作った古の武芸者が、一歩間違えば殺し、殺されるという環境に身を置いていたことを考えれば、至極当然のことでしょう。
 そういった古い型の動作はものすごく地味であり、動きも必要最小限ですが、これは「少しでも無駄な動きをすれば、相手にすぐ付け込まれる」という、実戦ならではの状況を勘案すれば、当たり前のことです。
 たとえば、古い型には「跳ぶ・跳ねる」という動作がほぼ存在しません。現代格闘技では当たり前以前のものである、跳ねるようなフットワークなんて、まったく存在しません。これは「無駄な動きをしない」「相手に動き出しを悟られない」ということを考えれば、ごく当然の帰結でしょう。
 こうした古い型は、単に「技のかけ方を覚える」というだけではなく、「実戦」というものの流れをパターン化して読み取る、技に適した身体を練るなどといった、実に多様な効果がある、精妙なものなのです。
 
 翻って、捕手術を作った「名人」たちは、確かに当代では随一の名人ではあったと思いますが、いかんせん、柔・剣道が「スポーツ柔道」「スポーツ剣道」に偏したあとに「名人」となった方々ばかりであり、自らが型を練った経験がありません(昇段審査などのため、仕方なく覚えたことはあるんでしょうが…)。
 たとえば、「捕手術」制定員のひとりで、当時「剣聖」と謳われた中山博道先生は、自らを「スポーツ剣道のヒトであって、撃剣のヒトではない」ときちんとカテゴライズしており、撃剣系の名人と立ち会うことは、終生ありませんでした。
 このころ、中山先生と同じく、剣道系の名人として名高かった高野佐三朗が、剣の解釈を巡って撃剣系無敵の名人・鹿島神流の国井善弥と揉め、直接対決することとなり、高野は2太刀目で、国井の突きを喉に食らって完敗します。
 それを聞いた中山はポツリと一言。「高野さんもつまらないことをしたものだ。自分なら立ち会わない。」

 ともあれ、「捕手術」選定委員のお歴々…つまり、「型」によって技や身体を練り上げた経験がなく、若いころから「試合に勝つ!」ための練習だけに明け暮れていたスポーツ柔・剣道の名人?たちが、古伝並みの完成度を持った「型」を構築し得たとは到底考えられません。
 あくまで個人的な見解ですが、捕手術とは「立ち関節技のかけ方を、適当に羅列しただけの、陳腐なもの」であったと思料されます。
 このあたりの病理は【その32】で見た、「捕手の形」のそれとまったく一緒であり、何の改善もなされていません。

 以上見てきましたとおり、「捕手の形」と「捕手術」は、その成立過程で同じ過ちを同じように繰り返し、「実戦に供する」という所期の目標を全く達成し得なかった、無用の長物であったと断ずることができましょう。

2 コメント

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Unknown (安納 雲)
2021-07-26 22:22:51
おお、国井善弥師範のエピソードが
新しく聞けました
ありがとうございます。
祖父が大絶賛しておりました。

つくづく人間は時々の都合に
翻弄されますね(>_<)

型の順番しか知らない身の上ですが
技の起こりを見せないというところを
よく考えてみます。
ありがとうございます! (周防平民珍山)
2021-08-01 06:53:17
 安納 雲さま、ありがとうございますm(__)m
 
 国井師範のような武芸百般なんでもござれ、という実戦系の「目利き」を諮問委員に迎えなかった捕手術、軍刀術はけっきょく「使えないシロモノ」となっていき、戦後制定された逮捕術も、同じ道をたどっていきます。
 
 あともうちょっとだけ続きますので、お付き合いお願いいたします。

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