集成・兵隊芸白兵

 平成21年開設の「兵隊芸白兵」というブログのリニューアル。
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霊魂の鐘を打つ人・杉田屋守伝(第33回・黄金時代の早大と、飛び込んだオッチャン)

2018-01-21 20:36:24 | 霊魂の鐘を打つ人・杉田屋守伝
 昭和2年4月、オッチャンは早稲田大学第二高等学院の学生として入学。晴れて天下の「ワセダ」の一員となりました。
 当時の大学には、学部に進学する前段階としての予備教育を行う機関として、2年制または3年制の「予科」というものが存在しました。
 オッチャンが入学した昭和2年当時は、官立高等学校、公立大学、私立大学のほとんどが3年制を採用しており、早大については大学令(大正7年12月6日勅令第388号)によって大学に昇格したことを受け、大正9(1920)年、他大学の予科に相当するものとして、早稲田大学早稲田高等学院(現在も同校名にて存在)を設置しました。
 当時の早大高等学院には、中等部から継続して勉学する学生が所属する「第一高等学院」と、よその中学5年を修了してから入学する「第二高等学院」がありました。第二学院の場合はいわゆる「予科」の課程が2年で終わり、その後は早大の各学部に進めるようになっていました。柳井中学を5年で卒業しているオッチャンは当然、第二学院の学生となるわけです。

 これとは別に、当時の各私立大学は「専門学校令(明治36年勅令第61号)」に拠って設置された3年制の「専門部」というのがあり、実は各校野球部の部員の多くは試験の難しい予科ではなく、専門部に籍を置いている者がたくさん存在しました。
 戦前の選手の入学・卒業年次を調べておりますと、6年在学する者もいれば、3年で出ていく者もおり、かなり混乱を生じますが、その原因は、こうした戦前独特の学制によるものなのです。

 ともあれ、オッチャン上京の日はあっという間にやってきました。
 当時、東京―下関駅間に就役していた急行列車は、1日3便。岩国駅(現・JR岩徳線西岩国駅)の発車時刻は未明の午前2時50分、午後1時52分、午後4時44分でした。
 当時の汽車の速力から考えると、東京着には20時間はたっぷりかかったと思われますので、オッチャンはおそらく午後1時52分発の汽車に乗り込んだのではないかと思いますが…ともかく、長い時間揺られに揺られ、オッチャンはやっとこさ東京にやってきました。

 オッチャンはあずかり知らぬことですが、このころの早大野球部は絶頂期にありました。
 大正14年9月、早大は5年ごとに交換招聘対戦を繰り返していた宿敵・シカゴ大学を日本に招いての対戦に2勝1敗2分けと勝ち越し、明治43年から続く因縁の対決を初めて制しました。
 また同年は東京帝大が正式参画し、天下晴れて「東京六大学野球連盟」が発足した年(春は東京帝大試験参加。秋より正式参加)でもありましたが、早大は東京帝大が正式参加した秋のリーグを制し、翌15年秋も優勝。
 これとは別に、19年ぶりに復活した早慶戦(復活初年度の14年度早慶戦はリーグ戦に組み込まれず、別途開催)も、大正14年は2戦全勝、15年春も2戦全勝、同年秋は2勝1敗でいずれもこれを制しております。

 選手は投手に竹内愛一(京都一商)や藤本定義(松山商)、捕手に伊丹安廣(佐賀中)、内野手に水原義雄(高松中)、井口新次郎(和歌山中)、根本行都(龍ヶ崎中)、山崎武彦(鳥取一中)、外野手に氷室(改姓・芥田)武夫(姫路中)、瀬木嘉一郎(横浜商)、河合君次(岐阜中)などの強力メンバーをそろえていました。
 特に打撃陣はすさまじく、大正14年春は水原、同年秋は氷室、15年春は伊丹と、3期連続で早大が最高打者(=首位打者)を獲得するほどの破壊力。

 それよりなにより、何といっても当時の早大の強さの支柱となっていたのは、大正9年から6年間、監督を任されていた飛田忠順(新聞記者転向後の筆名・穂洲)が完成させた「武士道野球」です。
 当時、定職にもつかず、野球の監督だけをしているというのは、世間から見れば「遊び人」のそしりを免れないものでした。
 また飛田は、第1回のシカゴ大学遠征時早大の主将でしたが、シカゴ大学に惨敗を喫した挙句、続いて行われた関西遠征では三高に敗れ、中学チーム相手に苦戦するなどの失態を重ねたため、引責辞任させられたという経緯がありました。そのため監督就任に際しては、重鎮OB橋戸信がこれを渋るなどしたそうです。
 しかし飛田は、のちに新聞記者としても活躍するクレバーな頭脳から、データを詳細に分析した理論的な野球を考察するいっぽうで日本野球の元祖・一高の「死の練習」を忘れてはならないと訴え、他に数倍する猛練習をもって肉体・精神の修養を行うとする武士道精神を野球に導入。前途有為の選手を鍛えに鍛え上げたのでした。
 その練習振りは周囲から「虐待」と非難されるほどであり、ノックが終わるとどの選手も立ち上がれなかったほどであったそうですが、確実な理論に裏打ちされた猛練習は、周囲の偏見や白眼視を見事に吹き飛ばし、見事大輪の花を咲かせたわけです。
 
 「つや消しの坂東武者」と形容されたバンカラな校風と「武士道野球」。これが見事にマッチした当時の早大野球部はまさに意気天を衝くばかりであり、第一次黄金時代と言って差し支えない時期を迎えていました。

 当時17歳のオッチャンは、そんな凄まじいところに単身飛び込んでいったのです。

【第33回・参考文献】
・「早稲田大学野球部五十年史」飛田穂洲編 早稲田大学野球部発行
・「東京六大学野球連盟結成90周年シリーズ⑥ 早稲田大学野球部」ベースボールマガジン社
・「日本の野球発達史」広瀬謙三 河北新報社
・「魔術師〈上〉 三原脩と西鉄ライオンズ」立石泰則 小学館文庫
・「ニッポン野球の青春」菅野真二 大修館書店
・「興風時報」73号(大正12年8月2日)
・フリー百科事典ウィキペディア「大学予科」「早稲田大学早稲田高等学院」「大学令」「専門学校令」「山陽本線優等列車沿革」の項目

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