集成・兵隊芸白兵

 平成21年開設の「兵隊芸白兵」というブログのリニューアル。
 旧ブログ同様、昔の話、兵隊の道の話を続行します!

警察術科(主に逮捕術と柔道、あと剣道ちょこっと)の長い長い歴史(第21回)

2021-07-29 19:28:12 | 雑な歴史シリーズ
【その35 戦争による「スポーツ武道」振興とナゾ多き護身術】
 さて、「捕手術」が世に出たあたりから、わが国は徐々に戦時体制へと移行していきますが、そうしたご時世の中武道、特に柔道と剣道は国威宣揚・戦意高揚の手段として、大いにもてはやされます。
 本連載第15回において、「警察は昭和初年頃から、『警察官は強いぞ!』というイメージ戦略のため、たくさんの著名柔・剣道家を選手として抱え、また、警察官の中からも、柔道・剣道の強い者は試合専用に強化するなどして、『警察選手』をどしどし大会に送り込んだ」という話をしましたが、その活躍の舞台の多くは、この時期のものです。
 特に「紀元二千六百年」ということで、国家全体が浮かれていた昭和15年には、2月に全国剣道大会と全日本東西対抗柔道大会、4月には橿原神宮奉納全国武道大会、5月には日満交歓剣道大会と東亜武道大会、6月には奉祝天覧武道大会…いわゆる「天覧試合」といった具合に、ほぼ毎月、全日本クラスの武道大会が行われているという、驚くべき過密スケジュールでした。
 しかし、こうした「試合に勝つ!ための柔・剣道」の推進は、必然的に逮捕制圧に効果のある「実戦テクニック」の沈滞を招き、結果として、【その34】でお話したように、捕手の形や捕手術が「演武始などの儀式用に終わってしまった」(「警視庁武道九十年史」より)という現象を招いたことは、逮捕術の歴史を語るうえで、決して看過してはならないと思います。
 
 蛇足ではありますが、陸軍でもこのころ、「剣道と実戦剣術の乖離」が悲喜劇を読んでいます。
 上海事変のみぎり、近代戦としては珍しく「斬り合い」が生起しました。
 爾後に戦死者を検案したところ、斬殺された日本軍人には、剣道の高段者が多く含まれていました。
 敵の十九路軍のいでたちですが、ナチス・ドイツ貸与のスチールヘルメットをかぶり、厚手の綿入れを着込み、両肩からは十文字に革製の弾帯を掛けた状態。
 これに対し、94式軍刀を握ったスポーツ剣道高段位将校は、剣道と同様「メーン!」「ドー!」と斬りかかっていったのすが、面を狙った斬撃はヘルメットにかすり傷をつけるだけ、「ドー!」は革帯や綿入れに切り傷をつけるだけ、というありさまで、逆に十九路軍の兵隊に青龍刀で逆襲されるという、情けない結末を招きます。

 この結果からは様々な「戦訓」が読み取れますが、単純に「剣道は実戦で使えるか否か」ということだけに特化して言えば、上海事変におけるこの出来事は、スポーツ剣道というものの限界を、明示して余りあるものといえます。
 この戦訓をもとに「将校の指揮刀なんか資源の無駄遣いだから、全部拳銃に替えてしまおう」とか「いやいや、近接戦闘なら刀が有効だ。ならば、実戦で役立つ技術を作って、軍の学校できちんと教育しよう」という話が出ればよかったのですが、残念ながらこの事実は、陸軍戸山学校剣術科教員のうち、心あるごく一部の教員の暗黙知にとどまり、集団知とはなりえませんでした。
 結果、大東亜戦争においてわが国軍の陸軍将校は、軍刀術の教育が一切為されないまま、軍刀を腰からぶら下げることとなります。
 これは、戦闘で役に立たない非戦闘員を増やし、且つ、本来なら火器・兵器の製作に回すべき鉄材の無駄遣いに直結し、大東亜戦争の敗因の一翼を担った…おっと、話が横にそれました。戻しましょう。

 時代は下り、大東亜戦争の戦況はどんどん悪化、もはや柔・剣道大会どころではなくなった終戦間際、警視庁は「徒手護身術」なるものを発案します。
 この「徒手護身術」が、「捕手の形」や「捕手術」と大きく違うのは、警察で作られた技術のくせに、その用途は逮捕制圧のためのものではないという点、そして、その技術を明示した資料が一切なく、その実態を知る者が誰一人いないという点です。

 このナゾ多き「徒手護身術」の概要ですが、「警視庁武道九十年史」によりますと、「犯罪者等を対象とした逮捕制圧という基本概念は薄れて、敵前上陸を敢行するのであろうと予測された米英の軍隊を相手に、徒手空拳で国土防衛にあたろうという悲壮な感じ方が強かったように思う」とあることから、純粋な逮捕・制圧の技ではなく、「神州不滅!米英撃滅!」というスローガンを満足させるために作り出された、竹槍訓練のようなものだったのでは?と考えられます。
 そのため、この製作に携わった人間は終戦後、「米英撃滅!」の護身術を作ったせいで戦犯にされることを恐れ、一斉に口をつぐんだことから、その概要を知る者が誰もいない状態になった…といったところでしょうか。
 そうでなければ、終戦のその日、全国に93,935人もいた警察官(数字は「山口県警察史 下巻」による)にやらせていた?(警視庁だけでやっていたことかも知れません。知っている方がおられましたら、ご指導お願いします。)「徒手護身術」が、わずかな期間で雲散霧消した理由を、合理的に説明できません。
 しかも幸いなことに、終戦と同時に、内務省や警視庁にあった武道関係の書類の殆どが焼却処分され、「徒手護身術」のテキストなどもすべて灰燼に帰したわけですから、証拠隠滅は完璧です(;^ω^)。

 以上長々とお話ししましたが、大正~昭和戦前・戦中の時期における警察武道の流れや要点をまとめますと、
① スポーツ柔・剣道の振興に重点が置かれたため、「実戦で使える技術」の開発は全く振るわなかった
② それでも現場警察官は「実戦で使える逮捕術」の設立を要望し、結果「捕手の形」そして「捕手術」が作られたが、スポーツ柔・剣道家に諮問したのが運の尽き、いずれも実戦に堪えうるものとはなりえなかった
という2点に集約されます。

【その36 終戦~現行警察組織成立までの概略説明】
 昭和20年8月15日、わが国は大東亜戦争に敗れます。
 百冊一文のしょうもない歴史関係本では、「進駐軍の進駐や、政治権の移行は極めて整然と行われた」みたいなことが書かれていますが、これは「進駐軍史観」に染められたクソ人間による歴史改ざんです。
 まず、ウソ偽りのない「進駐軍による日本進駐」の実態を振り返ってみましょう。

 日本敗北から僅か10日後の8月25日、「鬼畜米英」の国民に対する乱暴狼藉を強く懸念した内務省は、全国各新聞に、5か条の「進駐に対する心構」、8か条の「進駐後の心構」を掲載、国民に必要以上の不安を抱かせないよう努力するとともに、「決して進駐軍人と個人接触するな。特に婦女子は隙を見せるな」と警告しています。

 米進駐軍の日本進駐はその3日後の8月28日、先遣部隊が厚木飛行場に飛来したことにより始まります。マッカーサー元帥がコーンパイプを咥え、輸送機「バターン号」からノソノソ降りてくる写真。皆さんも教科書などでご覧になられたことがあると思いますが、まさにあのときです。

 その直後から厚木基地付近では、えらい騒ぎが連続して発生します。
 まず、付近民家に進駐軍兵士が押し入り、娘を凌辱しては家財道具を持ち逃げするという強姦・強盗事件が多発します。
 それと同時に多発したのが、進駐軍の警備にあたる警察官が、進駐軍人からサーベルを取り上げられる事件。
 日本の警官が佩用しているサーベルは、アホで無学な米兵にとって「とても珍しいオモチャ」であり、そうしたアホが「勝った国は負けた国に何をしてもいい」という毛唐の常識を丸出しにした結果、サーベルの強奪事件件数は、8月29日~9月1日までのわずか4日間で40件!1日あたり10件!という多数に上りました。
 この事件の少し後に「日本警察の武装は治安維持の観点から残置する」という命令が発出(後述)されるのですが、これはその直前のことであり、警察官は「敗戦国の警察官としての屈辱に、唇をふるわせて耐えたという」(「山口県警察史 下巻」より)。
 余談ですが、進駐軍人による警察官のサーベル略奪、そして婦女暴行・強姦はその後、全国規模で多発。婦女暴行・強姦については、米兵が厚木に到着したその日の晩から発生し、多い時には1日当たり46件も発生。家族に対する暴行・強姦を救わんとして殺害された夫・父親・息子の数は驚くなかれ、講和発効までの間に、2536人もの多数に上りました。
 戦時国民が挙って敵愾心を燃やした「鬼畜米英」は絵空事でもなんでもなく、本当に、それそのものだったのです。
 
 このように、進駐軍の暴虐から始まった「日本の戦後警察史」ですが、終戦から現行組織に至るまでの間には、以下に示したような改編を経ております。

【①進駐軍直轄時代(終戦~昭和23年6月まで)】
 進駐軍による各種の指令を、戦前そのままの組織図を持つ日本警察が代行する形であった時代。
 昭和20年9月2日付「一般司令第1号」内「追テ指示アル迄、日本国土内ニ在ル日本国警察機関ハ、本武装解除規程ノ適用ヲ免ルルモノトス」により、当面の間、旧内務省時代の警察体制の維持が決まるも、進駐軍は「戦前・戦中から続く中央集権体制をやめろ」と各種の組織改編指示を連発、混乱が続く。
 なお、警察官の武装については、昭和21年1月16日付「日本警察の武装に関する件」という指示文書により、警察官の武器の携帯、とりわけ拳銃の携帯をオフィシャルに認めることとなった。
 またこのころ、各種警察武道が一時中断の憂き目を見る(のち詳述)。 

【②国家地方警察・自治体警察時代(昭和23年7月~29年2月まで)】
 進駐軍による「警察組織の政治介入不可・治安組織への回帰、民主化」という強硬な指示を受け、時の片山哲内閣の下、
・村落部の治安維持は国家地方警察の管轄とし、国の予算で運営
・そのほかは自治体ごとに設置する自治体警察の管轄として自治体の予算で運営。予算確保の観点上、さしあたって人口20万人以上の都市から同警察行政を実施する
という、国家地方警察&自治体警察による二本立ての警察行政を具体化することとしたが、まずは進駐軍内において、民生局と民間情報部公安課との見解がまったく一致せず、また、アメリカ人独特のクソいい加減さもあいまって、自治体警察を人口5000人クラスの零細町村にも置くこととなり、また、東京都の管轄を警視庁で一本化する案も却下されるなど、現実に即さないおかしな改編がなされた。
 昭和23年12月17日、この制度を明文化した警察法施行。同日付を持って内務省は消滅し、業務引継ぎの暫定組織として内事局が設置される。

【③現行警察組織への改編 (昭和29年6月~現在まで)】
 国警・自治警方式はわが国の国情や現状にそぐわず、制度開始数年にして以下のような問題が生じた。
① 国家地方警察と自治警は、親元となる組織が全く違うため、1つの国内に2つのまるで違う警察が存在する状態となり、各種の連携が全く取れない状態に陥った。
② ①に付随し、広域犯罪への対処がうまくいかないことが頻発した。
③ 一部自治警が財政難により、運営自体が厳しくなった。
  大都市はともかく、地方の零細な町村が持つ自治警察は経済基盤が脆弱であり、運営資金窮した挙句の給料の遅配・欠配が続いた。また、こう した警察官の窮乏に乗じ、ヤクザ等が金品で不良警察官を手なづけるといった癒着が、全国で頻発した。
④ 国運営と地方自治体運営2つの警察、いずれもが国民の税金から成り立っているが、その税金が2つの警察に別々に流れているという「無駄遣い」への批判が殺到した。

 わが国の主権回復を契機に、これらの問題を解決すべく諸々検討がなされ、国警・自治警の一本化が図られることとなった。
 比較的経済的余裕のある自治警は反対意見をブチ上げたものの、最終的には一本化の方向でまとまり、昭和29年6月8日に「警察法」が改正され、国家公安委員会の下に警察庁、その下に都道府県警本部がぶら下がる現行形式となる。

 以上掲げた①~③時代のうち、「警察武道受難の時期」といえるのが、①~②の時期だったのです。


2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (老骨武道オヤジ)
2021-08-01 21:59:14
きめ細かな戦前戦中戦争直後の検証、ご苦労様です。偉大な使い手がいたであろう格闘技の世界・・しかしながら単純努力型のジジイには自身の目で見た現実のみが真実です(水を差すようで申し訳ありませんが)。偉大なる先人のフィルムに残った動画で多少は推察出来ますが、私は自身の目で見、体感したことのみを財産に・・ガタのきた老体をメンテするのみです。・・みもふたもないコメントでスミマセン(>_<)。
ありがとうございます! (周防平民珍山)
2021-08-08 19:04:29
 老骨武道オヤジさま、おひさしぶりです。
 まあ、偉大な使い手伝説はさまざまに転がっていますので、今回のお話を進めるうえでの七味唐辛子程度の意味で(;^ω^)ご理解いただけますと幸いです。

 このシリーズ、もうすこしだけ続きますので、よろしければ、お目汚しにお読み頂きますれば幸甚です。

コメントを投稿