【その4 横山作次郎VS中村半助戦の経過と、そこから垣間見えるもの】
横山作次郎。173センチ、86キロ。井上敬太郎門下から、嘉納の引き抜きによって講道館に移籍した異色の巨漢。
中村半助。筑前有馬藩の御留流・良移心頭流の達人であり、かつ、荷車や米俵を風車のように振り回すことができたという、これまた怪力大兵の強者!
「講道館VS古流柔術」の戦いでは、西郷四郎VS好地(うけち)円太郎戦などと並び称される名勝負ですが、多くの文献で書き記されている勝負の概要はこういったものです。
「双方が秘術と体力の限りを尽くし、審判の制止をも振り切って試合続行、延べ55分にも及ぶ熱戦となったが、双方の体を案じた三島総監が止めに入り『この勝負は俺が預かる』とし、引き分けとなった」
上記の内容だけをうのみにしていると、物事の本質を見誤ります。逆にこの試合を深く掘り下げると面白いことが見えてきます。
今回は「深く掘り下げる」ほうにリキを入れ、お送りしたいと思います。
まずこの試合、面白いことにいつ実施されたかがいまだに特定できていません。
主要なものとしては3説が存在し、
①明治19年6月の警視庁武術大会
②同21年1月における弥生社武術大会(天皇陛下行幸)
③「その2」で嘉納治五郎が言っていた、同21年の弥生社武術大会
といったところ。
この時期を特定するキモは「三島総監が勝負預かりとした」という点で、そのことから勘案しますと、実は嘉納が主張する③が、真っ先に脱落となります。
実は21年の弥生社武術大会挙行の折、三島総監はリウマチの治療のため神奈川県は大磯に滞在していたため、不在でした。
そうなりますと①②に絞られてきますが、「姿三四郎」の著者・富田常雄や磯貝一十段(後述)が「明治19年説」を採っており、また、横山とともに同試合に出場したという宗像逸郎(明治17年講道館入門。のちの講道館指南役・五段)も「明治19年」と回顧していることから、ほぼ①で間違いない…と思料されますが、それはさておき。
この試合でまず注目すべきは、両者の着衣。
横山はかなり高い確率で、講道館の稽古着を着用していたと思われます。
当時の講道館の稽古衣ですが、まず上衣は現在の柔道着より襟がかなり固く、かつ、肘が完全に露出するほど袖が短いもの。下衣はこれまた膝のあたりまでしかない短いもので、裾をひもで縛って着用していました。
対する中村の着衣は不明ですが、江戸末期のころから、柔術の乱取では武士の普段着がそのまま使われていたとのことですので、角袖・袴スタイルだったかと思われます。
柔術側にとっては、今まで見たこともない、実につかみにくいシロモノであり、戸惑ったであろうことは想像に難くありません。
次に注目すべきは、試合の経過。
先ほどもお話ししましたように、ほとんどの書籍が「55分に及ぶ熱戦だった」と記載するのみで、その「熱戦」がどのような試合内容だったかを書いていません。
なぜか?
結論から申しますと、この試合において横山は徹頭徹尾劣勢であったため、後年同試合に触れる際には、わざと試合内容を書かないようにしたから、と思料されます。
冒頭申し上げたように、横山は講道館の生え抜きではなく、別道場から嘉納が引き抜いてきたいわば「超弩級」です。
なぜ嘉納はそんなことをしないといけなかったのか。答えは簡単、ヘビー級の多い一流柔術家を「試合で倒す!」ためです。
講道館生え抜きチームは小兵ぞろいであるため、将棋でいえば金銀や飛車角に相当する「超弩級」の存在は、絶対に必要でした。
嘉納の目論見通り、横山は試合の前年、明治18年に「入門」という名の道場移籍を果たして以降、パワフル且つキレッキレの立ち技で他流を圧倒しますが、当代一流の名人・中村は一味違いました。
宗像の証言によりますと、中村は試合劈頭、横山の足払いを食らって倒れますが、即座に寝技に持ち込み、上四方に抑えてしまいます。
横山はあふれるパワーでメチャクチャに暴れ、なんとか固め技を解いて逃げますが、横山は以後、中村を投げても寝技に付き合わない、中村は立ち姿勢では防御を固めて立ち技に付き合わない、という展開となります。
中村は時折横山に投げられますが、その都度瞬時に体勢を入れ替えては固めてしまい、その都度横山は滅茶苦茶に暴れて逃げる…ということが続きます。
試合当時横山は22歳、中村と10歳以上の年齢差があったからこその逃げ方ですが、寝技では完全に中村が圧倒していました。
実はこの試合、中村は徹頭徹尾、講道館と同様、「引手・釣手」を取って戦っていたとの証言があります。
現在の柔道ではそうしないと反則を取られるくらい「当たり前」となっている「引手・釣手」ですが、中村の良移心頭流をはじめ、柔術諸派は、そんなものに捕らわれない様々な組手をするのが当然であり、中村があえて講道館風の組手を選択したということは、中村が講道館の実力を低く見積もり、自らに不利な試合ルールを何気なく承諾してしまったがゆえ、としか思えません。
中村は、見たこともない道着を着用した相手に、敵方の提案した組手で付き合うという二重の束縛があったわけですが、そんな中でも有利に試合を進めており、その尋常ならざる実力が伺えます。
試合は決め手なく55分が経過し、最終的には三島総監が「勝負預かり」としたことで終結しましたが、試合終了後、宗像が横山に対し「危なかったね、疲れただろう」と語りかけたということからも、横山の苦戦が偲ばれます。
さてここまで長々と「横山VS中村」の戦いの経過を見ていただきましたが、この試合からは「当時の講道館の特色」が浮かび上がってきます。
まとめますと、こんな感じでしょうか。
① 講道館柔道は原則、徹頭徹尾立ち技のみの技術でできていた
② 講道館柔道は「試合に勝つ!」ことだけを見据えて作られた技術だった
③ 試合技術のみならず、ルール設定や着衣など、「試合に勝つ!」ことにあらゆることを志向させた
横山VS中村戦は引き分けに終わりましたが(嘉納治五郎としてはかな~りの誤算だったと思います)、のちにお話します通り、講道館は以後、①~③を駆使・発展させ、柔術各派を「試合」と「政治力」で撃破、警察武道としてのみならず、天下に覇を唱えていきます。
次回は、嘉納治五郎はどういった時代背景及び経緯を経て①~③を確立させるに至ったか、という点を見ていきたいと思います。
※ 横山VS中村戦の様子については、HP「文献資料文武館」内「古流と講道館流」に記載されたものを引用致しました。
横山作次郎。173センチ、86キロ。井上敬太郎門下から、嘉納の引き抜きによって講道館に移籍した異色の巨漢。
中村半助。筑前有馬藩の御留流・良移心頭流の達人であり、かつ、荷車や米俵を風車のように振り回すことができたという、これまた怪力大兵の強者!
「講道館VS古流柔術」の戦いでは、西郷四郎VS好地(うけち)円太郎戦などと並び称される名勝負ですが、多くの文献で書き記されている勝負の概要はこういったものです。
「双方が秘術と体力の限りを尽くし、審判の制止をも振り切って試合続行、延べ55分にも及ぶ熱戦となったが、双方の体を案じた三島総監が止めに入り『この勝負は俺が預かる』とし、引き分けとなった」
上記の内容だけをうのみにしていると、物事の本質を見誤ります。逆にこの試合を深く掘り下げると面白いことが見えてきます。
今回は「深く掘り下げる」ほうにリキを入れ、お送りしたいと思います。
まずこの試合、面白いことにいつ実施されたかがいまだに特定できていません。
主要なものとしては3説が存在し、
①明治19年6月の警視庁武術大会
②同21年1月における弥生社武術大会(天皇陛下行幸)
③「その2」で嘉納治五郎が言っていた、同21年の弥生社武術大会
といったところ。
この時期を特定するキモは「三島総監が勝負預かりとした」という点で、そのことから勘案しますと、実は嘉納が主張する③が、真っ先に脱落となります。
実は21年の弥生社武術大会挙行の折、三島総監はリウマチの治療のため神奈川県は大磯に滞在していたため、不在でした。
そうなりますと①②に絞られてきますが、「姿三四郎」の著者・富田常雄や磯貝一十段(後述)が「明治19年説」を採っており、また、横山とともに同試合に出場したという宗像逸郎(明治17年講道館入門。のちの講道館指南役・五段)も「明治19年」と回顧していることから、ほぼ①で間違いない…と思料されますが、それはさておき。
この試合でまず注目すべきは、両者の着衣。
横山はかなり高い確率で、講道館の稽古着を着用していたと思われます。
当時の講道館の稽古衣ですが、まず上衣は現在の柔道着より襟がかなり固く、かつ、肘が完全に露出するほど袖が短いもの。下衣はこれまた膝のあたりまでしかない短いもので、裾をひもで縛って着用していました。
対する中村の着衣は不明ですが、江戸末期のころから、柔術の乱取では武士の普段着がそのまま使われていたとのことですので、角袖・袴スタイルだったかと思われます。
柔術側にとっては、今まで見たこともない、実につかみにくいシロモノであり、戸惑ったであろうことは想像に難くありません。
次に注目すべきは、試合の経過。
先ほどもお話ししましたように、ほとんどの書籍が「55分に及ぶ熱戦だった」と記載するのみで、その「熱戦」がどのような試合内容だったかを書いていません。
なぜか?
結論から申しますと、この試合において横山は徹頭徹尾劣勢であったため、後年同試合に触れる際には、わざと試合内容を書かないようにしたから、と思料されます。
冒頭申し上げたように、横山は講道館の生え抜きではなく、別道場から嘉納が引き抜いてきたいわば「超弩級」です。
なぜ嘉納はそんなことをしないといけなかったのか。答えは簡単、ヘビー級の多い一流柔術家を「試合で倒す!」ためです。
講道館生え抜きチームは小兵ぞろいであるため、将棋でいえば金銀や飛車角に相当する「超弩級」の存在は、絶対に必要でした。
嘉納の目論見通り、横山は試合の前年、明治18年に「入門」という名の道場移籍を果たして以降、パワフル且つキレッキレの立ち技で他流を圧倒しますが、当代一流の名人・中村は一味違いました。
宗像の証言によりますと、中村は試合劈頭、横山の足払いを食らって倒れますが、即座に寝技に持ち込み、上四方に抑えてしまいます。
横山はあふれるパワーでメチャクチャに暴れ、なんとか固め技を解いて逃げますが、横山は以後、中村を投げても寝技に付き合わない、中村は立ち姿勢では防御を固めて立ち技に付き合わない、という展開となります。
中村は時折横山に投げられますが、その都度瞬時に体勢を入れ替えては固めてしまい、その都度横山は滅茶苦茶に暴れて逃げる…ということが続きます。
試合当時横山は22歳、中村と10歳以上の年齢差があったからこその逃げ方ですが、寝技では完全に中村が圧倒していました。
実はこの試合、中村は徹頭徹尾、講道館と同様、「引手・釣手」を取って戦っていたとの証言があります。
現在の柔道ではそうしないと反則を取られるくらい「当たり前」となっている「引手・釣手」ですが、中村の良移心頭流をはじめ、柔術諸派は、そんなものに捕らわれない様々な組手をするのが当然であり、中村があえて講道館風の組手を選択したということは、中村が講道館の実力を低く見積もり、自らに不利な試合ルールを何気なく承諾してしまったがゆえ、としか思えません。
中村は、見たこともない道着を着用した相手に、敵方の提案した組手で付き合うという二重の束縛があったわけですが、そんな中でも有利に試合を進めており、その尋常ならざる実力が伺えます。
試合は決め手なく55分が経過し、最終的には三島総監が「勝負預かり」としたことで終結しましたが、試合終了後、宗像が横山に対し「危なかったね、疲れただろう」と語りかけたということからも、横山の苦戦が偲ばれます。
さてここまで長々と「横山VS中村」の戦いの経過を見ていただきましたが、この試合からは「当時の講道館の特色」が浮かび上がってきます。
まとめますと、こんな感じでしょうか。
① 講道館柔道は原則、徹頭徹尾立ち技のみの技術でできていた
② 講道館柔道は「試合に勝つ!」ことだけを見据えて作られた技術だった
③ 試合技術のみならず、ルール設定や着衣など、「試合に勝つ!」ことにあらゆることを志向させた
横山VS中村戦は引き分けに終わりましたが(嘉納治五郎としてはかな~りの誤算だったと思います)、のちにお話します通り、講道館は以後、①~③を駆使・発展させ、柔術各派を「試合」と「政治力」で撃破、警察武道としてのみならず、天下に覇を唱えていきます。
次回は、嘉納治五郎はどういった時代背景及び経緯を経て①~③を確立させるに至ったか、という点を見ていきたいと思います。
※ 横山VS中村戦の様子については、HP「文献資料文武館」内「古流と講道館流」に記載されたものを引用致しました。
次回はお二方もご指摘の「柔術スポーツ化」の話になります。引き続きお読みいただきますれば、大変幸甚でございます。
よろしくお願いいたします。