釋超空のうた (もと電子回路技術者による独断的感想)

文系とは無縁の、独断と偏見による感想と連想と迷想!!

及び釋超空のうたとは無縁の無駄話

86 『我が庭のやつでの広葉・・・』

2013-08-11 10:25:09 | 釋超空の短歌
 わが庭のやつでの広葉 ゆすりたち。
      さやかに こゝを風の過ぎゆく 
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父が病死し、その後、母も病死して、もう何年たつのだろう。

わたしは父の居ない母宅に六年寝泊りした。

その母宅には、"やつで"が植えてあった。丈夫な植物で何の手入れをしなくても、つやつやした葉を茂らしていた。 母宅には、いろいろな木々が植えてあった。

母の死後、幸いにも母宅を購入してくれる人が現れた。

しかし其の人は家ではなく土地が欲しかったようだ。

その土地を売却後、しばらく私は其処を訪れなかった。

何年か後、其処をたまたま通ったら、家は無く、庭にあった木々も全て処分されていた。
車の駐車用として平地にされていた。

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あの"やつで"も無くなっていた。

わたしは、亡くなるということは、こういうことだなと思った。

雑談:『はじめての現代数学』(瀬山士郎著)

2013-08-11 07:49:00 | 非文系的雑談
講談社現代新書に掲題の本がある。

タイトルから分かるように、一般読者向けに書かれた現代数学の、文字通りの入門書であるが、なかなか、どうして、私はゲーデルの、かの有名な「不完全性定理」を此の本で私なりに理解できた。

「理解できた」と云っても「私なりに」であって、真に理解するには数学基礎論のドクターコースでも理解できるとは言えず、この道の専門家の竹内外史氏によると、プロの数学者でも此の定理を理解しているのは、世界広しと言えども数名だそうである。

私は此の定理を「理解」すべく、いろいろな集合論等の一般読者向けの本を読んできた。

しかし、それらの本の中で最もナルホドと納得できたのは掲題の本での解説であった。

この定理について知らない人はネットで調べるとよい。そこそこに解説している。

もし貴方が数学の素人で此の定理に関心があるならば、この本の第4章「形式の限界・論理学とゲーデル」を一読・・・と云っても、それなりの努力は必要だよ・・・してみるとよい。私同様に、ナルホドと思うだろう。

この世に生まれてきて知らずにあの世に逝くのは勿体ないモノは数々あれど、私に云わせれば此の定理もその一つであるんだよ。

雑談:芥川也寸志の音楽

2013-08-10 11:13:59 | その他の雑談
NHK BSでクラシック倶楽部という1H枠の音楽番組が毎朝放送されている。

私はこの番組は片っ端から録画していて暇なとき・・・まぁ、いつも暇なんだが・・・気が向いたら視聴している。

私はマーラーやワグナー以外の声楽は苦手で其れらは敬遠しているが、それ以外は全て視聴している。詰まらなかったら途中で遠慮なくoffできるから重宝である。

時々、現代の日本の作曲家による曲も演奏されることがあるが、特に日本の作曲家という故でもないが余り私は面白いと感じたことはなく大抵は途中でoffしている。

昨日、芥川也寸志の特集の録画を視聴した。

芥川也寸志と云えば、あの赤穂浪士のテーマ曲が有名だが、私はこの曲は名曲だと思っているから、この番組での此の曲の演奏も気持ちよく聴いた。

私は芥川也寸志の音楽は此れしか知らなかったが、放送された他の数曲は初めて聴いたのだが、私は気に入ってしまった。

彼はショスタコーヴィチやプロコフィエフの音楽を敬愛していたそうで、私はプロコフィエフは馴染みはないがショスタコーヴィチは比較的よく聴いているので、この放送で紹介された芥川也寸志の曲を聴きながら、なるほどと思ったりした。

日本の作曲家というと武満徹しか私は知らなかったが、芥川の音楽は武満徹の世界とは全く異質なモノで、武満徹を陰とすれば芥川は陽でかつアグレッシブとでも云える曲相であった。

ここらがショスタコーヴィチ的とも云えて私には此の一種の『騒音』が快かった。

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映画音楽というジャンルはあるが、TVもしくはラジオ音楽 (これらの番組でのオープニングやエンディングで流される音楽) にも私の印象に残っているものが、いくつかある。

冨田勲の『日本の素顔』や『新日本紀行』。

喜多郎の『シルクロード』。大野雄二の『小さな旅』。

これらは後世に残るべき名曲だと私は思う。TVやラジオの終了と共に泡沫のように消え去るには惜しい。

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昔、『世にも不思議な物語』という毎週一回一話の恐怖番組があった。私は好んでみていたのだが、ネットで調べたらあった。

http://www.jikanryoko.com/yonimo.htm

この番組のオープニングに流れる曲は私は今でも耳の奥に残っている。

たらーら、たらーら、という旋律が不安定に下降していくもので、作曲者は分からないが私は此れも「名曲」として挙げたい。 たぶん、この番組をご存じの方もいるだろう。

雑談:『サラサーテの盤』を聞く

2013-08-07 15:06:18 | 釋超空の短歌

私は内田百の幻想短編小説が好きだ。『東京日記』とか。

この『サラサーテの盤』も妙な感触の短編で、試しに検索してみたら内田朝雄が朗読していた。

http://www.nicovideo.jp/watch/sm15465310
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鈴木清順監督の映画『ツィゴイネルワイゼン』も私は観ているはずだが、全く記憶に残っていない。

ただ、この映画で川端の料亭がでてきたと思ったが、その場面あたりで古めいた橋もでてきた記憶だけが・・・私の勘違いかもしれないが・・・ぼんやりとある。

実は其の橋は私は見覚えがあるのだ。

それは大井川に架けられた古い木橋で、確か養老橋と言った感じの名前の橋で、いかにも古伝説にでも出てきそうな古木しかし橋であった。

しかし今や此の木橋はないだろう。

雑談:『鬼の研究』(馬場あき子)のメモ2

2013-08-05 14:12:23 | その他の雑談
前回に続き此の本での印象的な文章を抜粋する。
この本を読んでの私の簡単な感想を最後に書いておく。
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鬼となる女の心は、もちろん個人の不逞な思慮や、妄執や、邪淫などから生まれたものではない。

その思いを封じ、行動を制して、非力の美しさのみを命とさせたものは、いうまでもなくそれぞれが生きた世の倫理なのであって、多くはそれの命ずる美意識にしたがって生きようとした。

ただ、その倫理や美意識を、わずかにはみ出し、超えようとする情念をもつとき、目に見えぬ圧力に耐えかねて自ら鬼となるべく走り出したものもすくなくなかったであろう。              (中略)
ただ、王朝説話の世界を発端とする鬼の系譜について考えるとき、その心情的流れは、非人間的な鬼になることを求めながら、実はもっとも人間的な心が求められている場合がほとんどである。人間的情愛の均衡が破綻したことに原因の全てがある。(152頁)
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<般若>の面を云々するにあたって、なぜか<小面>から論じなければならない羽目にいたってしまうのは、この両端を示す面がいずれも女面であって、きわめて演技的な小面のほほえみの内側には、時には般若が目覚めつつあるのではなかろうかという舞台幻想に取りつかれるからである。

つまり小面と般若によって表現される中世の魂は、決して別種のものとみることができないということであろうか。                            (148頁)
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それ以来私は泥眼や橋姫の面をかけていなくとも、すべての小面のかげにはひとつずつ般若が眠っているのだと考えることにした。

般若と小面は表裏をなすものであり、小面に宿るほのかな微笑のかげは、修羅を秘めた心の澄徹のゆえでなくてはならない、とそう思うのである。  (185頁)
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<空しい>にもかかわらずけっして諦めきれないという、生命の深みから静かに湧いて来てやまぬ執念のような人生への疑惑、それが<黒塚の女>の老残を支える命なのである。

<徒(あだ)なる心>とは空しい人生のおおくをみつくし、儚い世のいくつかを知りつくしたのちに、なお悟り得ずやみがたく動く世への愛情である。

徹底的に、非社会的存在となりはててもなお断ちがたい世への執心とはまさに非論理の情念の世界に属するものであり「恨みても甲斐なかりけれ」と否定的に肯定する以外に方法はない。  (197頁)
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ここまでが、此の本において私が関心のある箇所の、ほぼ全てである。この本には勿論、男の鬼の系譜も書かれている。

しかし其の男の諸々の鬼たちには私は興味がわかない。私に言わせれば此の鬼どもの心は貧弱で底が浅い。

鬼は、やはり女でなくてはならない。

私が男であるためでもあろうが、女の心の在りようは私には古井戸を連想させ、罔(くら)い。少なくとも正体不明の何ものかに私には見える。

この『鬼の研究』が男性によって書かれていたならば、おそらく、そのことだけで、女というより人間の心の闇は薄らいで見えただろうと思う。

女性によって書かれたということが、単に「研究」をはるかに超えて、人間の心の闇へと不気味に肉薄していたのだろうと思う。

女とは男にとって実に不思議な且つ怖ろしい存在なのだ、という思いを私は此の本を読んで更に強くした。