釋超空のうた (もと電子回路技術者による独断的感想)

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雑談:『鬼の研究』(馬場あき子)のメモ1

2013-08-04 12:40:55 | その他の雑談
三一書房版『馬場あきこ全集・第4巻・古典評論』に収められている『鬼の研究』を読んでいる。

以下は此の研究書に書かれている文章の私のメモだ。

私の印象に残っている文章の抜粋だから其の前の文章を読まなければ、ここに引用した文章の文脈は理解できないだろうと思う。

しかし以下に引用したものは、私が此の本を後日再読したとき・・・その可能性は極めて小さいのだが・・・参考のためのメモであり、それを、あえて「日記」として残したのは私は此の文章自体に強く惹かれるからだ。

(又この本を読んでいる時、私が感じていた、言わば的外れな感想も最後に付け足しておく。)
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私はもういちど、<おに>と<かみ>とが同義語であったかもしれぬという説にたちどまらざるを得ない。

それは、いいかえれば人間の心に動く哀切の両面である。

空気の清澄な月夜の夜、時ならぬ鬼哭の声をきくことは稀ではなく、日頃姿を見せぬことを本領とする鬼が、ふいに闇から手をのべて琵琶の名器を弾奏するなど、まことに哀れである。

その時、鬼の心に去来した瞬時の回想は何であったろう。

吟遊の声を奪って詩の下句を付し、敬愛する詩人の門前に拝礼をなして過ぎゆく鬼の心に、常ならぬ心の高鳴りを覚えるのも、じつに、あるいはわれわれ自身が、孤独な現代の鬼であることの証拠かもしれない。 (12頁)
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この「虫めずる姫君」という短編をみるとき、そこにあるものは美意識の倒錯という以上に、価値観の破壊と転換への積極的な自問の姿である。

人びとから嫌悪される毛虫や蛇の動きに、あまねき生きものの真摯にして苦しげないのちのさまをみつめ、蝶となる未来を秘めた変身可能の生命力に、醜悪な現実を超える妖しい力を感受していた美意識とは、まさしく爛熟しつつある王朝体制の片隅に生き耐えている無用者の美観というべきである。(16頁)
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貧寒たる現実に侵されず保っている血の誇り、塔のように屹立する反世俗の矜持、流離のうちに保ってきたそれら魂の美しさを<鬼>と呼ぶことは、ほのかな自嘲を交えた合ことばあり、互いの生きざまを照応しあうときの無上の賛辞である。(20頁)
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「斉明期」は七年七月天皇の崩を記し、八月一日の夕べ「朝倉山の上に、鬼有りて、大笠を着て、喪の儀(よそほい)を臨み視る」という記事をのせている。(27頁)
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<鬼とはなにか>を考えるとき、第一に頭に浮かぶことは、むしろこうした暗黒部に生き耐えた人びとの意思や姿であって (中略) 爛熟し頽廃にむかいつつある時代の底辺に、鬼はきわめて具体的な人間臭を発しつつ跳梁していたという印象を受けるのである。(106頁)
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<鬼>とは破滅的な内部衝迫そのものであり、心の闇に動く行為の影である。あるいはそれは極限的な心情のなかで、人間を放棄することを決意した心でもある。(144頁)
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私は女の鬼について考えるとき、いつもこの(鉄輪の女)の殺害未遂に終わった場面を、ことさらかなしく美しく思い浮かべる。

敗北し、守護神に逐われて深沈混沌とした心の闇に帰ってゆく鬼女の後姿にはまったく成功のかげがない。たとえもう一度、いや何度試みたとしてもとうてい夫を殺すことはできそうもないその心は、鬼と化してもなお深く愛しきっている弱さにおののいている。  (中略)

鬼とは所詮調伏されねばならぬものである。人間を放棄してまでも報いようとした怨みとはどれほどのものであったろう。

その怨みゆえに鬼に変貌ののちに見たものは、悔しくも変貌しきれぬ夫への恋着であり、愛執であった。

とはいえ、それがどう解決のつくことであったろう。

鬼になっても、ならなくても、愛することと、愛されぬこととは、けっして解決のつかない心の闇に属することなのであって、女にはいっそう厳しく、変貌をとげてしまった現実だけが残ったにすぎないのである。 (146頁)
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とりあえず、以上を引用として残しておく。

作者は能楽にも造詣が大変深く、随所に能が引用されている。

上の引用文をみても分かるように、能に対する引用は単なる紹介をはるかに超えている。

人間という存在の深淵を我々に覗かせているような印象を私は感ずる。

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ただ、私は自分でもよくわからないのだが、この本を読みながら、例のナチの強制収容所に送られて虐殺された人々を思わざるを得なかった。

アラン・レネの『夜と霧』の映像がちらついて仕様がなかった。

『鬼の研究』に登場する鬼に化した数々の女たちの妄執は、毒ガスに押し込まれた人々を前にして、一体いかほどの意味をもつのか? という私の言わば見当はずれの疑問が、見当はずれだとは思いつつも私は払拭できないでいる。