釋超空のうた (もと電子回路技術者による独断的感想)

文系とは無縁の、独断と偏見による感想と連想と迷想!!

及び釋超空のうたとは無縁の無駄話

52. 『 いにしへや、かかる山路に 行きかねて・・・ 』

2011-09-23 14:46:47 | 釋超空の短歌
『   いにしへや、
  かゝる山路に 行きかねて、
     寝にけむ人は、
   ころされにけり

   雨霧のふか山なかに
 息づきて、
 寝(ぬ)るすべなさを
   言ひにけらしも

 山がはの澱の 水(み)の面(も)の
   さ青(を)なるに
 死にの いまはの
    脣(くち) 触りにけむ   』
***
このうたには下記の前書きが添えられている。

『ーー城破れて落ちのびて来た飛騨の国の上(じやうらふ)の、
    杣人(そまびと)の手に死んだ処。』

上(じやうらふ)とは国語辞典で調べると、『年功を積んだ上位の人』とある。
***
このうたの状況はこういうことらしい。

昔,飛騨の国の何処かの城の高位の女官が、戦いで敗走し、山へ逃げた。
霧雨の降る、その山で一夜を過ごそうとしているとき、「きこり」に殺された。

おそらく釋超空は、民間伝承探訪の旅の途中で、この逸話を土地の人から聞いたのだろう。 

その逸話に触発されて、このうたを作ったのではないか。

このうたの透徹にして透明な哀感は、まさに釋超空の世界だと私は思う。

特に以下の最後の箇所は、北原白秋が釋超空を評して言うように、『尋常人の鍛錬(たんれん)によっては得られぬ、不気味なほどの底から光って響いて来る』、或る幽鬼さをも感じさせないだろうか。

釋超空以外の人が、この不気味なほどの静謐な詩的イメージを表現しえただろうか。 素人ながら私はそう思う。

『 山がはの澱の 水(み)の面(も)の
   さ青(を)なるに
 死にの いまはの
    脣(くち) 触りにけむ 』