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釋超空のうた (もと電子回路技術者による独断的感想)

文系とは無縁の、独断と偏見による感想と連想と迷想!!

及び釋超空のうたとは無縁の無駄話

雑談:鬱陶しくてしようがない・・・

2013-07-01 15:02:01 | 釋超空の短歌
何もやる気がしない。何か書きつけて此の鬱陶しさを払しょくしよう。
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私の部屋の窓からスモーク・トリーの『煙』がよく見える。
この珍しい木は数年前だった家内が買ってきて広くもない我が家の庭に植えたら、
家中が薄暗くなるくらい成長し、今やモヤモヤとした『煙』だらけである。
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先日は文学を私はケなしたが、釋超空ほか数人の『文学』は私は好きなのである。釋超空の好きな歌について書こうか。と言っても実は以前書いたものであるが、
今の私の憂鬱さに、カツッを入れてくれる歌なのだ。
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『夕空の さだまるものか。
   ひたぶるに
 霄(は)れゆく峰に、
むかひ 居にけり  』
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座敷の障子を開け、正座して、武士が雨上がり夕空をじっと見ている。

傍らに太刀を置き、正座の姿は微動だにしない。
その凛とした姿。
なにかを覚悟しての夕空の凝視だろう。

あした切腹するのかも知れない。
***
与謝蕪村に以下の句がある。

『お手打ちの 夫婦(めをと)なりしを 衣替(ころもがへ)』

この夫婦の仔細な事情はここでは問わない。
ただ、あした夫婦共お手打ちなるのだ。
しかし今日は衣替えの日。

夫婦は今日平然として衣替えをする。
毎年行っているように。
***
私はこういう人たちの心構えに憧れる。
非日常を目前としながら日常の中の平常心。
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雨あがり空はやがて夕焼けへと赤く染まっていく。
開け放った障子の外の樹々も静かだ。
武士はやはり正座を崩さず凛として「霄(は)れゆく峰」をみつめている。
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私の鬱は、つまりは平常心の欠如なのだ。
それは自分で分かりすぎるほど分かっている。
***
『夕空の さだまるものか。
   ひたぶるに
 霄(は)れゆく峰に、
むかひ 居にけり  』

私も正座して『霄(は)れゆく峰に』向かおう。


84.『山深く こもりて響き風の音・・・』

2013-06-21 10:50:06 | 釋超空の短歌
『山深く こもりて響き風の音。夜の久しさを堪えなんと思ふ。』
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私は毎朝、散歩をしている。以前より私は、めっきり元気がなくなって歩く歩数もだいぶ減ってしまった。ここ10年程其の散歩を続けているのだが、ときどき出会う犬が三匹居た。

その一匹は飼い犬らしいが、いつも道をウロウロと、ほっつき歩いていた。車が通る道なので危ないなと思いつつ私は其の犬を横目に散歩を続けた。人懐こそうな愛嬌のある顔の犬であった。

二匹目の犬は、飼い主のお嬢さんらしき人が其の犬にリードをつけて、私の散歩の行先である公園の周りを、いつも、ゆっくりと其の犬と散歩していた。

其の犬は後ろ左脚が少し不自由で (おそらく生まれつきの軽い障害だろうが) ビッコをしながら歩いていた。しかし其の犬は其の散歩が嬉しそうであった。

私は此のお嬢さんは心優しい人に違いないと思いつつ、出会ったときは私は黙って軽い会釈したものだ。

これらの二匹の犬は柴犬だが、セントバーナードを連れた50歳代と思われる人とも、よく出会った。この犬は最初出会った頃から、かなりの成犬だったが、ここ数年その老衰ぶりが目につくようになっていた。 

私も20年近く犬と過ごした経験があるので、犬が如何にして老いていくかを知っている。

このセントバーナードも恐らく幼少の頃から可愛がられて育ったのだろう。しかし今や老衰して歩くのも、しんどそうであったが、この犬を連れていた人は、この犬の歩調に合わせていた。其の人は気長に犬が歩きだすのを待っていた。そのようなとき、其の犬の若き頃の跳ね回る元気の姿を思いだしたりしていたのだろう。私がそうであったように。
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ここ数か月、これらの三匹の犬の姿を私は全く見かけなくなった。
いずれも、通りすがりの名前も知らぬ犬たちばかりである。

私は、いちまつの寂しさを感じざるを得ない。

                        

83 『光る淵の 其処につどはす三世(みよ)の仏(ほとけ)・・・

2013-06-07 09:57:31 | 釋超空の短歌
『光る淵の 其処につどはす三世(みよ)の仏(ほとけ)
   まじらひがたき、現(うつしみ)。われは
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死んだら、どうなるだろうか?
あるいは『何処へ行く』だろうか?
というのは恐らく誰もが子供の頃から思う漠然とした感覚だろう。

それについて、いろいろな人が、いろいろなことを言ったり書いたりしている。
しかし、つまるところ、結局は、誰も分からない・・・に相違ない。
べつに分からなくたっても私如き凡人は何の不自由もない。

しかし確実なことは (世の中に、これほど確実なことはないが) 誰も例外なく、いつかは其の『体験』をする。
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私は或る病気で全身麻酔をしたことがある。そのとき、口にマスクさせられた時、ほぼ同時に私の意識はなくなっていった。
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遠くのほうから、***さん、***さん、という声が聞こえてきた。そして無事、手術は終わったことを告げられた。私は始め何のことか理解できなかった。が、『あ~、手術をしたんだと』と少しずつ意識が戻ってきた。私はマスクさせられたときから、声をかけられるまで全く何も覚えていない。
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生から死に至るまでの人間の体内臓器の死滅は、おそらく電気用語で言うところの同期はしていないだろう。各臓器が順不動で死滅していき、その死滅の順序に従い、固有の苦痛と意識の乱れが錯綜していき、最終的なご臨終となるのだろう。そのご臨終の後が死と呼ばれる状態に至る。 (死についての恐怖は、私個人としては此の生→死の過渡現象期間の肉体的苦痛にある。
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過渡現象と言う言葉も電気用語だが、全ての臓器が機能を失ったとき (医学的には死の定義はそんな単純なものではないだろう。事実、臓器移植が現実に行われているのだから) ともあれ、死後の『私の意識』は察するに全身麻酔時の『私の意識』と同様ではなかろうか、と私は思う。ただ、永遠に、***さんと呼ばれないだけである。
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私たちは時間は砂時計のイメージが固着している。しかし、永遠とは砂時計の砂が止まらないことでなく、おそらく或る異次元への跳躍 (曖昧な言葉だが) を意味しているように私には思われる。 上の釋超空の歌の「まじらひがたき」とは私はそのように独断する。
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『死んだらどうなるか』。
此のイメージの私の最も好きなものは宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』である。

83 『曇る日の・・・』

2013-03-30 16:19:20 | 釋超空の短歌
『曇る日の 
 まひる と思ふ空の色
     もの憂き時に、
         山を見にけり』
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幼い私と従兄は、私の母方の祖母に連れられて、近くの里山へ山菜とりに行ったものだった。そこは里山と言うより森と形容したほうがよい森閑とした深い緑の木立が密集した場所だった。 私たちは祖母の後について、その木立の中を分け入り山の奥へと進んだ。決して大きな山ではなかつたが、奥に進むにつれ或る霊気のようなものが私たちを包んでいた。それは木々が発散する冷気であり匂いであった。ともかく私たちは或る幽(かすか)な静寂さの中へと入って行った。そのとき、幼い私は或る自覚があった。山には精霊がいる、と。
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私は、あのときの、あの体験が現在も、ふと、よぎる時がある。
例えば、私の部屋の窓から見える木が微かな風に揺れているとき。
あるいは晩冬の薄雲に陽の翳りが見えたりするとき。

82 『雨のゝちに、雪ふりにけり・・・』

2013-03-24 10:07:04 | 釋超空の短歌
『雨のゝちに、雪ふりにけり。雪のうへに 沓(くつ)あとつくる我は ひとりを』
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我が忸怩たる人生を振り返って見れば、雪はなくとも、とぼとぼとした我が足跡が見える。

これから往く先のほうを見れば、我が足跡は当然見えない。

が、見えるような気もする。あいかわらず、とぼとぼと、頼りなく、寂しげに続いている。
寂しげに ? なにが寂しいのだ ?  寂しさを寂しがるという甘えか。

そう思うと、振り返って見える沓(くつ)あとも結局は甘えの跡だったらしい。
それが忸怩たる所以なんだろう。

これから往く先のほうを見れば・・・何処で其の足跡は消えるのだろうか。
今それが気になるようにも思えるし、気にならないようにも思える。
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わが こころ きずつけずあれ ・・・