碧空の下で

人生の第四コーナーをまわって

大きな樹の物語5

2021-09-15 13:24:57 | 大きな樹の物語

 

次の日の昼前10時ころ、ハンスが寝不足の頭で、窓のカーテンを開けると同時に居間の電話が鳴った。陸軍の情報局のエドワード・スミスからであった。

「ハンス・ブルトマンさんですね」

「いえ、違います」思わず口に出た言葉にハンス自身が驚いた。

「ハンス・ブルトマンさんではないのですか・・、彼はそちらにご在宅ではないのですか。」

「ハンスはいま留守です。よければご用件を伺っておきますが・・」とっさの判断で嘘の答えをしてしまったのが自分でも戸惑った

「それでは、ブルトマンさんにお伝えください。私エドワード・スミスのほうに電話していただければ有難いのですが、電話番号は昨日お伝えしてあります。よろしくお伝えください。」

「分かりました。スミスさんですね、伝えておきます。」

「ありがとうございます。お聞きしますが、あなたはどなたでしょうか」

「私は・・親戚の者でして・・ハンスのいとこです」

「ああそうですか、よろしければお名前は・・」

「あのう、今ちょっと取り込み中なので・・」

「ああ、いや結構です。連絡を待ってます。」

そう言って、電話は切られた

「世の中の水はまっすぐ流れると思ったら大間違いだ」ハンスは特に相手に対して嫌悪の感情を持っているわけではなかったが、声に出して呟いていた。けれど、なんでこんな対応をしてしまったのか、寝不足の不機嫌さもあったが、彼の気持ちが少しずつ世の中から離れていたいという心の変化を感じていた。それの意味するものがなんであるか、彼自身にもよくわからないのだが、単に歳のせいで、少し傲慢になったかも知れないと感じてはいた。左の首の後ろの痛みを手でほぐしながら、彼はその痛みが昨日の件によるものだと思い出していた。長らく眠っていた記憶の種がはじけて心のひだに突き刺さったような痛みに、どのように向き会ったらいいのかわからない今の自分に対するいらだちと悲しみ似た感情を持て余していた。ハンスはいつものようにしばらく安楽椅子に座って窓の外を眺めていたが、急に空腹感を覚えて、思い出したようにジェニーの店へ行くことにした。独り身のハンスは食事をとるのは、外食が多くジェニーの店は近くあって、おなじみの店というか家族同様に扱ってくれるような親しい雰囲気が気に入っていた。通りを出て左に曲がると、住宅地の中にジェニーの店はあった。道路に面した広い駐車場の奥に普通の住宅を少し改造しただけの、看板が出ていなければレストランとはわからないような佇まいで、店の前にある花壇にはマリーゴールドが彩りを添えていた。ドアを手で開けて中を覗くと、昼食にはまだすこし早い時間のせいか、道路側の三個あるテーブルと反対側にあるカウンター席にもお客は一人もいなかった。奥の厨房へ声をかけると、ジェニーがいつものように頭に赤いバンダナをまいた姿で現れた。去年彼女が40才の誕生パーティーを店で開いたときハンスも呼ばれて、冗談半分で誕生日の祝福のミサを執り行ったのは、前の年に彼女の夫を亡くした慰めの意味もあったのだが、今は元気になって、むしろ前よりも明るく幸せそうにみえた。

「いらっしゃい、何にします」

「いつもの、それとチーズポテトをつけて」

「飲み物はビールそれともワイン」

「コーヒーを入れてくれないか、ブラックでね」

「珍しいのね、何かあったの、焼けた七面鳥が空から舞い降りてきそうね」

「ああ、見えないサソリにやられた」

「そりゃ大変、医者には行ったの。今日はなんだか疲れたような顔してる」

「冗談さ、寝不足なのは間違いないけど」

「そういえば昨日の夜、基地のほうで派手に花火が上がってたわね」

「ああ、建国記念日はとっくに済んだはずだがね」

「何かあったのかしら、ご存じない」

「それは分からない、けど普通の訓練ではないようだ。」

「そう、少し待ってて先にコーヒー入れるわ」

そう言って奥の厨房からカップと皿を持ってきて、コーヒーミルに豆を詰めた。

「私ね、ハーブの畑を造ろうと思ったのよ。それで後ろの空地を耕して、種をまいたの、そしたらね、種を間違えたのかコスモスが生えてきてあたり一面コスモスの畑になってね、おどろいたわ。でもね、コスモス畑も悪くないなと思ったの。死んだジョンもコスモスが好きだったって思い出して、きっと彼が見たかったんだと思ったのよ。」

「そうか。ジョンはコスモスが好きだったのか」

「私ね近頃昔のことばかり思い出すようになって、それまで気にもかけたことのない些細なことまで思い浮かぶの。コスモスだってずうっと忘れていたことよ」

「いい思い出だからけっこうじゃないか」

「でもね、まだ思い出にふける歳でもないわ・・コーヒーはお代わりできるわ」

コーヒーカップを差し出してジェニーはハンスの前にくると、急に小声で

「私そろそろこの店やめようと思ってるの、あなたにだけは言っておく」

「ほんとうかい、驚いたな。何かあったのかい」そう言われてジェニーは一瞬下を見ながら、決意した表情で顔をあげると、

「私ね、妊娠したようなの」

「・・冗談にしては笑えないね」

「そうね、冗談みたいな話に思えるわね。でも本当の話よ」

「・・そうなのかい。・・でもそれは食事をする前にいうことじゃないだろう。」ハンスはそう言うのが精いっぱいだった。動揺していた。このような話をするには、やはり心の準備が必要だった。

「ああ、ごめんなさい。私相談する人がいなくて、ずっと一人で考えていたの。食事が終わったら話してもいいかしら」

「ああいいさ、私は牧師だ人の悩みを聞くのが仕事だよ」そう自分に言い聞かせたが、妊娠した女性の悩みを聞くようなことは今までになかったから、頭の中では予期せぬ驚きの波がおしよせていた。現実はいつも人の先回りをしてやってくる。あたふたとしたところでそれが過ぎ去っていくわけではないことぐらい知らないわけではなかったが、思えば、長い付き合いのジェニーのことについて何も知らなかったことに気づいていた。ジョン・スコットとジェーン・マリア・ブライトンがこの店を持ったのはいつだったか、それすらもう覚えていない。何も無い田舎の町でなにか変化があれば印象が残るはずだが、年中変わらない青い空の広がりと広大な砂漠にかこまれて暮らしていると、町の変化なんか目にはいらないようになっていたのかも知れない。食事に出されたライ麦パンをかじり、外のコスモスが揺れているのを眺めながら、コーンスープにチリソースを少し垂らして、スプーンを回すと赤い渦巻が皿の中に浮かんだ。それをそっとすくって口に入れる。辛い刺激がのどを通って今日一日の始まりを告げたような気分になる。ジャガイモチーズをほおばって、スクランブルエッグを玉ねぎのみじん切りと混ぜたのをサラダ菜と一緒にスプーンにのせた。けれど今日の食事は、あまり味がしなかった。食事が終わるとジェニーがコーヒーのお替りを持ってカウンターの隣の席に腰をおろした。

「それで、嫌なら答えなくてもいいが、君が妊娠したというお相手は誰なのかね」

「それは、目の前にいるわ、あなたよ」

「えっ、きみは人をおちょくるつもりでそんな話をしたのかい。ふざけている暇はない」

ハンスはついつい大きな声を出してしまった。

「怒らないで聞いてちょうだい。馬鹿なことを言ってるのはよくわかっているわ。でもわたし決めたのよ、それしかないと思ったの」そういうと、ジェニーの瞳に涙があふれてくるのが見えた。

「いいかいジェニー、何があったか知らないが、君の言ってることは間違っているよ、冷静になって話してごらん。いったい何があったのか話してくれ」そう言われてジェニーは気をとりもどして話始めた。

「ジョンが亡くなったあと、彼の知り合いの人が何人か尋ねてきたわ、生前から知っている人ばかりでよく彼の思い出ばなしをしたわ。そのうちの一人が親切にしてくれてね、私もさびしかったのもあって、その人と寝たの。相手の名前は言えないわ。彼はいつか結婚しようと言っていたけど、私にはその気はなかった。その後、彼はあたらしい仕事を探しに行くと言ってラスベガスに行ったわ、それ以来こちらには連絡がないの、私の友達がラスベガスのホテルで彼を見たと言ってたので、私、そのホテルに訪ねて行ったんだけど、彼がしばらくそこで仕事をしていたとホテルの人は言ってたわ。けれど今は仕事を辞めてどこかへ行ったらしいの、それっきりよ。」

「その人は君が妊娠していることを知っているのかい」

「知らないわ。でもいいの、わたし生むことに決めたの。ジョンの子共ができたと思って。家族がほしいのよ、私には最後のチャンスを神様がくれたのだと思うのよ。」

「君がそういうふうに考えるのは分かるよ、しかし、なぜ60歳に近い私がその子の父親だと言うのかね」

「それは、もし私の子供がうまれたら、当然誰の子共なのか、みんな詮索するわ、それで、私・・あなたの子共だということにしてほしいのよ、結婚してほしいとは言わないわ、でも名義だけの父親になってほしいの。ご迷惑な話だということは十分わかっている。でもそれしかないのよ、女がここで生きていくのはそういうことなのよ分かるでしょ」

「もし断ったらどうするつもりだい」

「分からない。でも私の運命を引き受けて見せるわ」

「君は強いな、その強さがあれば生きていけるよ」

「そうじゃない、私には何もないの、あるのは小さな命だけなの。それを失うことは・・」

「思いつめない方がいい、道はたくさんあるはずだ、我々が知らないだけでね」

「どんな道があるっていうの」

「それを探そうじゃないか、必ず道があると信じることから始めなければ、現実に打ち勝つことはできないよ。」

「私いつも男にだまされてきたの、ジョン以外のね、だから期待してないわ。」

「今は時代が違うけど、君は一生胸に赤い文字を縫い付けて生きなければならないことになるかもしれない。その覚悟ができているのかな」

「ああ、その話知ってるわ、でも私の場合は不倫じゃない。なにも悪いことをしていないわ」

「そりゃそうだけど、この町の人々がどう考えるか、物わかりのいい人だけではないさ」「そうね、それはよくわかるけど、私には子供が必要なの、生きる望みよ、一生に一度の主の恵よ。分かって・・・それにあなたにだって家族がいたほうがいいんじゃないの」ハンスにとって家族という言葉はながく忘れていた言葉だった。ベトナムから帰国した後、ずっと心の傷がいやされていなかったのと現実に対する価値が希薄になっていたせいで、まるで自分の檻の中で外を見ながら動き回っている動物みたいな生活が彼の日常となっていたことに気付いていた。ジェニーに言われるまでもなく、何かが足りないことを以前から自覚していたが、求めて今までの生活を変える気にはなれなかったのは、自分を明け渡す勇気がなかったと感じていた。

「君は自分の子供に人生を賭けるつもりだね、それとも、もし君のお相手が帰ってきたらよりをもどすつもりはないのかい。」

「そうね、そのことも考えたわ、けど来るか来ないかわからない人を待つ気はないの、子供のことだけで頭が一杯なのよ」

「もし君が心底そう思っているなら、私に何ができるか考えてみよう」ジェニーの意気込みに押されたのと現実に関わりあう気力が自分の何かを変えてくれるかも知れないという気持ちがハンスにそのような返事をさせていた。

「ありがとう。少し気持ちが楽になったわ」涙をおさえながらジェニーはハンスの顔を見つめていた。

 

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 大きな樹の物語4 | トップ | 大きな樹の物語6 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

大きな樹の物語」カテゴリの最新記事