二杯目のコーヒーを飲み干して、気分がはっきりしてきたハンスは、家に帰ると情報局のエドワード・スミスに電話をかけた。オフィスの電話らしく女性の受付のあと少し時間があってエドワード・スミスがあわてた様子で電話に出た。
「スミスです。電話を待っていました。実は貴方に協力していただきたいことがありまして連絡したのですが、モーテェック・ファーマーのことです。」
「モーテェックはどうなりましたか」
「ええ、昨日身柄を確保しました、射爆場で」
「射爆場ですか、怪我の具合はどうなんですか」
「身体的には何か所か怪我をしていますが、命に別状はないという診断です。いま軍の診療所にいます。しかし精神的といいますか、メンタルが正常ではないようなんです。我々の尋問にまともに答えられないのです。ただあなたに会って話をしたいと言うだけで・・」
「そうですか・・」
「それで、あなたに彼に会って話を聞いてほしいと思っておりますが、いかがですか。」
「・・私に尋問してほしいというわけですか。」
「ええ、できればお願いしたいと思っております。」
「私は彼の友人としてぜひ会って話したいと思っております。しかし、それはあなた方の望む尋問とは違います。すでに軍籍を離れた民間人の立場ですから、あくまで友人の立場で話したいのです。それはご理解いただけますか。」
「あなたの立場は尊重しますよ。もちろんプライベートな情報は伏せるようにしますが、会話の内容は録音させていただけますか。」
「私が嫌だと言っても、録音するのでしょう」
「・・ブルトマンさん、これはこの基地の安全にかかわることなんです。ひいては町の住民すべての方の安全のためです。ぜひご協力していただかなくてはなりません。」
「あなた方は私に何か隠していることがありませんか。どうも大げさすぎるように思われるのですが。」
「あなたの気持ちは分かりますが我々の持っている情報をすべてお話することはできません。それはあなたもお分かりのはずです。決してあなたに迷惑をかけることはありませんので、どのような形であれ彼と会って話していただきたいのです。謝礼も出すつもりです。」
「謝礼ですか。しゃれにもならん。」
「ブルトマンさん、これは大事なことです。あなたにも私にも町の人々にも。」
「私はへそ曲がりと思われるかもしれませんが・・あなた方情報局の仕事を邪魔するつもりはありません。むしろできれば元従軍牧師として協力したいと思っています。しかし私は牧師なんです。できることとできないことがあるのです。信者の告白を密告するほど罪なことはありません。軍にいたときも一切信者の告白の秘密は守りました。たとえ彼がスパイやテロリストであったとしてもね。この話は、はっきりとお断りします。」そう言うと、ガチャンと受話器を切った。「ふざけんな、糞ったれ・・・ノリ・メ・タンゲレ・・我に触れるな!だよ・・まったく礼儀も知らない奴だ。」とつぶやきながら、タバコに火をつけた。窓際の安楽椅子に腰かけると同時に電話のベルが鳴った。
「ブルトマンさん少し待ってください・・分りました。それではあなたのおっしゃる通り録音は致しません。そのうえであなたにご協力していただくようお願いします。モーテェック・ファーマーが正常なメンタルにもどることに期待するしかないでしょう。・・ブルトマンさんあなたの良心を傷つけるようなことを言って申し訳ない。気を悪くしないでください。決して録音しないと約束しますので、彼にぜひ面会してください。お願いします。」スミスからの電話だった。ハンスはタバコの煙を大きく吐き出すと、その煙が消えるのを待ってから決意したように
「・・よろしい、信頼こそすべての始まりです。あなたの言葉に真心があれば、ほんとうに録音しないというなら、私は友人として彼に面会することができます。場所は射爆場でモーテェックと二人だけで会いましょう。それでいいですか。」
「もちろん、よろしいです。あなたにお任せします。彼が正常になることを期待していますのでよろしくお願いします。あとで迎えの車を回したいと思いますが、いいですか」
「そう、それでは夕方5時ころ来てもらえますか」
「了解しました。5時に迎えに行きます。お待ちください。」
「ああ、待っています。」
指に挟んだタバコの煙が細く立ち上がってタツノオトシゴの連鎖のように揺れていた。黒猫が足元にやってきて身体を擦り付けながら、小さく鳴いた。ハンスが猫を抱き上げて今日一日の吉凶を占うようにその眼を覗き込んで、心の準備をする癖になったのはいつごろからか、一人ではないと言い聞かせている自分の顔が猫の眼に映っていた。彼が孤独と言うものを少し意識するのはそんなときだ。心に風が吹いて通り抜けていく感覚が若い時よりも強く感じられた。それは虚しさではなく、むしろ流されていく安逸さが、いまは少しずつ違ったものになってきていた。
五時少し前に、車がやってきた。カートライトがハンスの家の玄関をのぞいて網戸越しに奥に声をかけた。
「ブルトマンさん迎えに上がりました。」
「ありがとう、今すぐいくよ」
普段着の上にジャケットを着て出てきたが、十字架だけは、胸にV字に掛けられていた。
「モーテェックの具合はどうなんだい。」車に乗り込むと運転席のカートライトに話しかけたが、カートライトは返事を濁したまま、車の運転に専念したようすで、無駄なおしゃべりはしない情報局の者らしく前を見つめていた。基地のゲートを過ぎて、診療所のある建物のまえに進むと、スミスの車が見えた。
「診療所の中にスミスがいますので、話を聞いて下さい。」
そう促されてカートライトが駐車場の前に車を止めると、ハンスは診療所の中に入った。病室の前にはスミスともう一人の男が待っていた。スミスがハンスを見つけると、近づいてきて、隣の空き部屋に案内した。
「今日は来ていただいて、有難うございます。電話でも話したように、モーテェックを病室から連れ出してもかまいませんが、我々はそれを監視しておりますので、もし何かあれば、すぐに行動する準備は整えておきますので、ご了解ください。」
「それは、どういう意味ですか、彼が逃げ出したりするとか、あるいは・・」
「それは彼に面会していただければ、分かります。彼のメンタルが正常ではないと感じております。何をやらかすか予想しがたいのです。あなたに危害を加えることも予想しておかなければなりません。」
「そうですか、・・たとえ暴力を振るわれても私はかまいません。私が助けを求めない限り来ないでくれますか。」
「分かりました。我々はモーテェック・ファーマーが正常になってくれることを願っております。真相を解明する意味でね。できれば彼の口からそれを聞くことができるようご協力下さい。」
「もちろん、彼の意志でそうすることには協力するつもりです。」
「お願いします。射爆場まで車で送りますので後はご自由にしてください。」
スミスがもう一人の男に合図すると、彼はモーテェックの病室の扉を開いて、ハンスを中に入れて、ドアを閉めた。窓のない部屋の隅のベッドの上で、モーテェックは天井を見つめていた。ハンスが近づくと、それに気づいて彼は上半身を起こしながら、懐かしそうな眼で、ハンスの顔を見た。
「久しぶりだね、君の怪我の具合はどうかね・・、君が会いたがっていると聞いてやってきたんだが、話はできるかい。」
「ブルトマンさん、お久しぶりです。会えてうれしいです。」そう言って、握手を求めた手には包帯が巻かれていた。ハンスが出された手を握ると、かすかに震えているのが伝わってきた。
「傷は痛むのかい。」
「まだ少し動かすと痛いです。しかし、もう体の心配はありません。」
「それは何よりだ・・、ところで今回の件でいろいろあったようだね。私だけに話したいことが有ったら、この部屋から出て誰もいない射爆場で話を聞こうと思っているのだが、どうかな。」
「ああ、そうしていただけると話しやすいです。」
「よし、じゃあ早速行こう。車が待ってる」
モーテェックが軍のジャンパーを羽織って部屋を出ると、スミスが待っていた。
「射爆場まで送っていきます。」そう言って、彼の車で広大な無人の射爆場の入口まで連れていくと、道路の片側に車を止めて後ろの座席にふりむきながら
「私はここで待ってますので、話が終わったらまた診療所まで送っていきます。」
というと、二人を降ろし駐車場に車を回した。二人が砂漠の中に入っていくのを車から降りて見届けると彼はすぐに車の中へ戻って行った。
「久しぶりだ、ここへ来たのは。このなにもない砂漠というか荒地が好きなんだ。と言ってもここには多くの動物が住んでいるんだ。ウサギやコヨーテやキツネや昔はバファローもいたらしい。君が生まれる前の話だがね」そんな話をはじめて、二人で荒野の道を歩き始めたのだったが、モーテェックはそんな話には興味を示さず、ひたすらハンスの後にしたがって、うつむき加減で歩いていた。その歩き方が奇妙な歩き方で、爪先立ちをした格好で肩を落として、自分の一歩か二歩先を見つめながらついてくる。ハンスが立ち止まると彼も同じく立ち止まり、歩きはじめるとまた同じく歩きはじめた。ハンスが道端の倒れた木の幹に腰かけると、彼も同じように腰かけた。
「それじゃあ・・まず爆発事故のことを聞きたいが、なぜ爆発が起こったのか原因は分かっているのかい。君の同僚が亡くなって、ほかに何人も怪我をしたということだが、単に操作ミスだけなのかい。」
「そのことについて、よくわからないのです。」
「爆発したのは榴弾砲です、この弾は新兵器です。教官の伍長がそう言っていました。」
「その弾は地上に落下してから爆発するのではなく、空中で爆発する仕掛けになっています。デジタル的な砲弾です。」
「それで不発弾が無くなると言っていました。特にジャングルや砂地の接近戦に使うのだそうです」そのようにポツリポツリとモーテェックは話始めた。
「なるほど、榴弾砲はベトナムでは懲りたからな・・新兵器ね。・・それで情報局が動いたわけか」
「その弾の発射訓練をしていたんです。実戦訓練です。予定の標的に当てるだけではなく、索敵しながらの訓練でした。その途中私は命令を聞いたので、仲間にその旨伝えたんですが、つまり、水平射撃をしろと言ったんです。バズーカ砲みたいに」
「誰の命令だったのかね」
「それが、誰だったか後から思い出そうとしても分からないのです。しかしはっきりとその命令を伝えなければいけないとそのことばかり考えていました。」
「教官の命令ではないのかね」
「それが今思い出すと分からないのです。」
「誰かがその命令を私にしたことは確かなんですが」
「その時、教官はどこにいたのかね」
「分かりません。」
「それで、仲間がその命令を聞いて、水平射撃をしたというのかい」
「結果的にはそうなんですが、最初はその命令を冗談だろうというふうに聞いていたようなんですが・・」
「ジャクソンが急になにか思いついたように弾を込めて水平射撃をしようとしたんです、そしたら筒のなかで弾が爆発したんです。」
「ジャクソンと言うのは死んだ砲撃手だね。彼は自分の判断で水平射撃をしたのかい、君の命令ではなく」
「それは分かりません。私は命令を伝えました。それは事実です。」
「君に誰が命令したのかということが重要なのだが、・・・なにかほかに思い当たることはないのかい。・・」
「実は、命令を2回聞いています。別の命令です。」
「それで、どんな命令かな」
「それは、怪我をして診療室で寝ていたときです。逃げろと言う命令です。この場所からできるだけ離れろと言う命令です。それとブルトマンさんに会えという命令です。」
「何だって誰が命令したんだい!診療室に上官か誰がいたのかい。」
「いえ、誰もいません。それで、診療所から抜け出して、射爆場まで歩いて行ったんです。射爆場をうろついている間に夜になり、気が付くと夜空に赤い月が出ていました。それを眺めていたんです。・・」
「あっ・・そうか。それで、照明弾が飛んだわけだ。」
「モーテェック、君に命令したのは誰なのか分かったよ。それはね、たぶん赤い月だよ。」
「赤い月って、誰ですか」
「それは君自身だよ、君の分身ともいえるがね。」
「それはどういうことですか・・」
「それは、君の心の中に赤い月と交信できる何かがあるのさ、普段は分からないけどね、それがはたらくと誰かから命令されたように感じるのさ。みんながみんなそれを持っているわけじゃないから、人に説明しても理解されないことが多いけど。」
「じゃあ私は二つの違う心を持っているというのですか。・・よくわかりません」
「君はタバコを吸うかい。」そう言ってハンスがタバコを取り出して、モーテェックに勧めたが、彼はタバコは吸わないと言って断った。
「そうかい、君はタバコを吸わないはどうしてだい。それも命令されているのかい」
「それは、命令されているわけではないです。」
「最近ね、タバコを吸う人が減ってきたんだ。昔はみんな吸っていたんだけど、理由は何だかんだと言うけどね、本当は違うのさ、誰かに命令されているのに気付いていないだけなんだよ。それは白い太陽の命令かもね、・・・アメリカ人ってバカなことをするのがお得意でね、禁酒法ってのが昔あったのは知ってるかい。酒は道徳に反するとかいう理由でね、おかげで、マフィアが酒を売ってのさばった。今度はタバコの締め出しだ。今やシスコのレストランに行ったらタバコも吸えないさ。・・君はタバコを吸わないけど、私はタバコを吸うよ、いいかい君の心が人と違うと言うのはその程度のことだよ。それを知っておくべきだ。他人が無理解であろうが、気にしないことだね。・・けれど、誤解されないようにうまくやれよ、特に情報局の人間にはね。この件については命令された話をしない方がいいと思うよ。彼らは君が違う心を持っていると薄々感じているからね。」
ハンスはタバコの煙を吐き出すと、空を指差した。
「そら、あそこに赤い月が出てきたぞ、君の上司だ。敬礼でもしなよ、はっはっは・・」
「・・・・」
「冗談はさておいて、人の心は複雑でね。自分自身よくわかっていない。分からないことについては話さない方がいいとある哲学者は言っていたけど。分からないものがあるということに気付くのが信仰のはじまりだ。コヨーテの鳴き声であろうと、赤い月であろうと、神であろうとそれは同じことだ。君が君自身の心についてどう思うかわからないけど、世の中には解らないことは山ほどある。君が君自身をわからなくてもたいしたことではないさ。だれも自分を知っているやつは居やしないから。・・大概の人はそれを神と言うものに預けてしまって安心するのさ、私もその一人かも知れないがね。問題はそのことではなくその結果さ、人は結果しか見ないからね。人にとってその結果が良ければ受け入れるし、悪ければ排除されるのが現実でね。そして風のように変わる薄っぺらな現実の中でしか生きられないのが我々の悲しさだ。」
「ブルトマンさん、私はどうすればいいのか教えて下さい。」モーテェックの瞳に赤い月が映っていた。
「そうだね、まずは休暇願いを出すことだ。そして、メンタル・クリニックへ行って専門家と相談するのも良いかもしれない。シスコにいい専門家がいるよ。もしよければ紹介してあげてもいいよ。軍の健康保険があるうちにね。」
「そうします。」
「私からも、基地には休暇を出すように助言しておく。情報局にもね。」
「ありがとうございます。あなたのおかげで道が開けてきたように思います。」
「いや、安心するのはまだ早いさ、君が基地で働けるようになって、奨学金を手に入れるまでは、綱渡りみたいもんだ。悪魔のタックルをうまくすり抜けられるよう神に祈っているよ。休暇願いが認められたら連絡してくれ。・・それから、念を押すけど、情報局の者に赤い月の命令の話はするなよ、やっかいなことになるからな。うまくやれ」そのような話が終わると二人は駐車場の車に向かって歩き始めたのだった。
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