碧空の下で

人生の第四コーナーをまわって

ノーベル文学賞で考えた

2017-11-04 20:44:13 | 日記風雑感
村上春樹がノーベル文学賞の候補に挙がっているというのは、本当かどうか知りませんが、毎年日本人が騒ぐ年中行事化したような感があります。それほどファンが多いのでしょうが、ワシにはあまりピンとこないのです。騙されたつもりでいくつかの作品を読んではいますが、いつも期待外れの思いがあります。古い人間なんでしょうか若い人ほどには評価することはできません。彼の作品に何が足りないかと言うと、作品の後ろにある時代性が見えてこないのです。誤解を恐れずにいえば、時代性なんぞ書く必要がないと考えているのではないか。もちろん直接的な表現で時代小説を書けと言うつもりはないのですが。たとえ恋愛小説であっても、その後ろに時代性が浮かんでくる作品があると思います。時代性という言い方が悪ければ、共通の分母である時代状況が見えてこない。これはないものねだりなのでしょうか。村上春樹が影響を受けたフィッツジェラルドのギャツビーを彼は高く評価していると思うのですが、あの作品の何がいいかといえば、恋愛を描いてはいるものの本当のテーマはアメリカの1920年代の、いわゆるローリングトゥエンティーの黄昏が見えてくることです。しかも悲しくも美しくしかもニヒルな現実の運命に託されて奏でられる別れのノクターンです。しかしながら、ここで考えることは、この作品を読むのはすでに過ぎ去った1920年代を知っている読者の視線です。今だからこそそんな評価ができるのだといえる。作品が書かれた当時はそのような視線でどれだけの人が読んでいたか、おそらくその当時の読者は恋愛小説としての認識が強かったと思うのです。ヘミングウェーがノーベル賞をとって、フィツジェラルドが選に漏れたのはその差であったとおもっています。しかし多分村上はフィッツジェラルドの美しさを意識しているのではないかと感じています。と言うことは将来、何十年か後に村上の作品が再評価されることになるかもしれません。多分その頃にはワシは生きていないと思います。何が言いたいかと言えば、幻想性に頼るなということです。例えフィクションであっても幻想性だけでは作品は作者の幻想の中だけにしか存在しない。作品として作者から離れていく作品こそ、作品として自立するものこそ、我々に伝わってくるものがあると言いたいのです。そのベースが時代性と言うか共通分母としての時代認識だと考えるわけです。美意識は個人的な幻想であって、個人差が大きいので、美で勝負する作品は大きな物語を描けない。しかしながら、あえてそれに固執する村上の魂こそ美しいと言えるかも知れません。ノーベル賞の選考委員には届かないけれど。
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