夜のハイウエーに出ると、昼間とは違って先が見通せない分、長い直線道路は夜には眠気を誘って、時折通る長距離トラックのライトだけが刺激になって覚醒の合図のように通り過ぎて行った。盛んにタバコを吸ってみたものの、フェニックスまであと1時間ぐらいのウィケンバーグあたりでとうとう眠気に勝てず道路沿いにあった長距離トラックの溜まるトレーラーコートの片隅に車を停めて、車の中で少し睡眠をとることにした。急ぐ旅でもないし、早く着いたところで宿を探すことになる。運転席の背もたれを倒して、遠出用に持ってきた古い上着をかぶり時々走り去る車の小さな音を聞きながら眼を閉じるとあっという間に眠りに落ちていった。それからどれだけ時間が過ぎたのだろうか、寒さで目が覚めると車の中はまだ薄暗かったが外にはすでに夜明けの明るさが水滴で曇った車のガラス越しに見えていた。充分に寝足りるほどの睡眠を得たわけではないので、ぼーとしたまどろみのなかにしばらく漂っていると、コツコツと音がして人の話し声のようなものがかすかに聞こえてきた。眠いままでそれに反応する気にもなれないのだが、コツコツとたたく音が大きくなって、それが車のウインドウーを叩く音だと気が付いた。かぶっていた上着をどけて起き上がると車の中を覗いている者が声を上げた。
「おお、起き上がったぞ。死んでるわけじゃなさそうだ。」
ハンスはその声をきいて、いっぺんに目が覚めた。水滴の紗のかかったウインドー越しに二人の人影が動いているのが見えた。よく見るとひとりは保安官か警察のような恰好をしているもう一人は年寄りらしい。二人は中を覗き込みながらハンスに声をかけた。
「やあ、ちょっと窓を開けてもらえるかな。」
そう言ったのはこのあたりでは珍しい黒人の保安官の太った男だった。窓を開けると、まぶしい朝日が斜めにさして荒野の朝が始まっていた。
「おや、牧師さんかい。車の中に死体があるって聞いたもんでね」
そう言って傍らにいた年老いた黒人の男の方を見たが、それが案の定間違いだったらしく、しかも乗っていた人物が牧師であれば犯罪の匂いもしないので面倒くさそうに質問をはじめたのだった。
「運転免許証を見せてもらえますか。」
一応保安官らしく職務を果たすつもりなのか、ハンスから運転免許証を渡されて、ちらっと一瞥しただけですぐにそれを返すと
「ここで寝ているのは構いませんが、これからどちらへ行かれるのですか」
「フェニックスです。ついつい眠くなってここで休んでいたんだけれど・・」
「そのようですね。車の中で寝るのはあまり安全とはいえませんよ。いろんな奴がいますからね。・・それじゃ運転に気を付けて」
そういうと、車から離れて行った。それで黒人の年寄りが恐縮したのか、保安官に声をかけた
「どうです。カフェでコーヒーでも朝食もありますよ。よかったら牧師さんもどうぞ」
そう誘われて三人はトレーラーコートの敷地にあるカフェへと向かって歩いて行った。夜の間に4台ほどトレーラーが入ってきていた。それぞれ広い敷地の都合のいい場所に駐車してあった。黒人の年寄りはここの管理を任されているらしく、カフェにはいると、二人をカウンターに座らせて、自ら厨房に入りコーヒーと朝食を作り始めた。
「保安官、このあたりは治安が良くないのかい」
ハンスがそう尋ねると、保安官は渋い顔で
「ああ、いいとは言えないね。今年はこの郡で83人死んだね。あなたが死んでたら84人目だった。このあたりじゃ、いまだに腰に拳銃をぶら下げているやつを見かけるよ・・」
ハンスはその言葉を聞いて、昔のことを思い出していた。ベトナムでの苦々しい思い出であった。彼の中隊125名が出撃してジャングルで戦闘となり激戦の挙句中隊は敗走した。戦死した者は83名だった。3日間の戦闘で負傷者を含めてほとんど全滅に近い状態であった。もはやそこでは狂気が支配していた。ヘルメットに自ら銃弾を撃つものや、死んでいく兵士を見つめて動けなくなったものや、服を脱いで叫んでいる者もいた。それらの光景が鮮やかに浮かび上がってきた。
「トイレは何処だい」
そう管理人に尋ねて、その時その席を外すのが彼にできる唯一の動作だった。トイレの中で込み上げる嘔吐を感じながら、
「くそったれ。・・」
とつぶやくのだった。このトラウマはなかなか克服できなくなっていた。忘れることが人にとって心の安定をもたらすうえで重要なことだと身にしみてそう思うのだが。そう簡単には忘れることはなくいつも心の底に隠れていて時々地震のように心を揺らしてくる。何か別の生き物に心が支配されているような恐怖と苦しみが襲い掛かってくる。
「なんで83人なんだ。くそっ。これもコヨーテなのか・・」
冷静なハンスの思考が少しづつ変化し始めていた。トイレの鏡に写る自分の顔を覗いて見るとそこには別人のような顔があった。今まで自分の顔をまじまじ見ることはなかったが、狂人のような陰鬱な顔がそこに写っていた。驚きと見たくないものを見てしまった恐れが自己嫌悪とともに心に広がった。思わずハンスは洗面台に両手をついて眼を閉じた。自分の心が自分から引き離されていくような恐怖心で眼を開けることができないのだ。トラウマにおびえる自分の姿を見る勇気がないのだ。しかしその一方でそれに抗う意識はまだ少しは残っていた。
「恐れるな、自分のみじめな姿を恐れるな。鏡の向こうにいるのあの男を蹴飛ばしてやれ。」
心の中でそのように言ってみるが、しかしそれは二人の自分という乖離を認めることでもあった。ハンスは両手を洗面台について、眼を見開いた。そして決意したように顔を上げると鏡の中の男の眼を真正面から見つづけた。大きく灰色がかった青い瞳がかすかに動いたのが見えた。自分のみじめな表情を見届けてやろうという気になっていたのだが、そう決意したその瞬間に表情はいつものように見慣れたものになっていた。
「ちぇ、その程度なのかい、コヨーテのやつは・・」
そうつぶやいて、強がってみたものの、動揺した心を鎮めるために、水道の水で顔を洗うことで気分を落ち着かせたが、なにもなかったように店のカウンターヘと戻って行くには少し時間が必要だった。そしてしばらくして店のカウンター席に戻るとすでにコーヒーが出ていた。
「牧師さん、もうすぐトーストと玉子ができますよ。コーヒーはお代わりしても構いませんから」
管理人の年寄りがガラガラ声でそう声をかけて、カウンターの上のコーヒーの入ったガラスのサーバーを指差した。保安官はタバコをふかしながら、二杯目のコーヒーをカップに注いだ。
「牧師さん。フェニックスは初めてかい。」
「一度来たことがあるけど、一日も居なかったね。友人が死んだからね。その遺体を貰い受けに来たことがあるんだ。・・彼はフェニックスで射殺されたんだ。・・」
「へえ、牧師さんの友人がですか。」
「ああ、警官に射殺されたんだ。」
そこまで言うと、相手が保安官であったことを思い出したがかまわず、
「ご丁寧に、前と後ろから撃たれていたよ。3発だ。」
保安官は顔色一つ変えず、すぐに尋ねた
「あんたの友人は黒人かい。」
「ああ、黒人の大学生の青年だ」
「そうかい。ご愁傷様だね。・・一つ教えてやろう。フェニックスは全米で最も警官に射殺される人が多いところだよ。特に黒人は・・。だから俺が保安官になったのは、撃たれないためさ・・」
冗談とも本気とも取れる話し方で、にやっと笑ってハンスの顔を見た。
「私も牧師になった理由は似たようなもんだ。誰にも撃たれたくなかったし撃ちたくもないからね」
「なるほど、俺もまだ射殺したことはないさ。腰に銃はつけてるけど弾は警告用に一発しか入ってないよ」
そんな会話をしていると、年寄りの管理人がトーストと玉子を乗せた皿を二人に差し出した。それを受け取りながら保安官が訊いた。
「なあ、爺さん。あんたは人を撃ったことがあるかい」
「もちろん。あるさ、若いころだがね」
「へえ、初めて聞いたよ。・・人は見かけによらないな。ちょっと参考にその話きかせてくれないか」
それがきっかけで、管理人の昔話が始まった。
「あそこに古い写真が掛けられているだろ、あの左側にいるのが若い時の俺さ」
そう言い始めて、店のカウンターの奥に掛けられた写真を指差した。革の額縁に真鍮の拍車のような飾りが4隅についていた。写真には10人ぐらいの男たちが写っていた。
「ここに写ってる連中は昔の仲間さ。リベリオンランチ(反抗牧場)の時代だ。あの頃は面白かったさ。黒人も白人もヒスパニックもインディアンも誰でもこの牧場に来たんだ。仕事のない奴はみんな集まってきた。その連中をトラックに載せて農場へ送り出すんだ。綿花摘みやトウモロコシの収穫や道路工事など仕事はいっぱいあったからね。もとはと言えばこの牧場は南北戦争で負けた南軍の子孫が始めたんだ。まあ、お互い助け合う気持ちがあったんだね。でもボスが死ぬといさかいが起きたんだ。」
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます