碧空の下で

人生の第四コーナーをまわって

逃走論

2017-10-15 15:05:52 | 日記風雑感
友人からチェンマイに逃避しているなと言われて、ポッと思い出したのですが、浅田彰の「逃走論」ってのが昔あって、今でもあるが、逃げるが勝だというような意味にとらえると、ちょっと違うけど、多分、これは旅のはなしではないかと思ったりしているのです。知的な旅です。スキゾとパラノの二元論(にげろ)で語るのは面白くないのですが、ある意味わかりやすいのですね、この頃になってこの本の意味がちょっと重くなってきたように感じられてもう一度読み直したいと思っていますが、あいにくチェンマイではすぐには手に入らないので、あきらめております。それで、ふと思いついて、北欧のレミングというネズミが集団で自殺するのは個体数を減らすための行動なのか、集団でヒステリー状態になったのか、病気に感染したのかともかく何万匹という数のレミングが海に向かって走り出す光景は自然の力に恐怖すら感じます。あれは一体何なのか。あのドキュメンタリー映像はねつ造であってほんとは違っているということも書いてあるが、とにかく異常繁殖した後絶滅寸前になるという。不思議と言えば不思議な生態を見るにつけ、人間はどれくらい繁殖するのかなという疑問がわいてくるわけです。レミングには天敵がいて、その数によって増減が左右されるらしいのですが、人間の天敵は人間であるという、生物界でのパラドックスをいかにして解決してきたかが、人類の歴史というものかもしれません。つまりそれが政治というものの始まりであり、永遠に問われる問であり、永遠に解のない問題であります。アフリカに発生したとされる人類が、「逃走論」よろしく世界に逃走していくのは内部の闘争が常にあったからで、負け組が、外へ外へと押し出されて行ったのでは無いかと思っております。古代縄文人のDNAからみると、負け組(逃走者、これは肯定的な意味で)の最たる者が日本人の原型だったわけで、逆にいうと、最も闘争が下手な平和人種であったかもしれない。島国に守られて絶滅をまぬがれた希少種かもしれません。なんせ縄文時代は1万年つづいたらしいのですが、これは外部の天敵がいなかったからか、戦争するほど大きな部族が無かったからかおそらく両方の要素があったのだろうとおもいます。想像ですが。そこへ外部から弥生人がやってきた。稲作の技術っていうものすごいイノベーションであっという間に権力をもってしまったらしい。当時の人は初めて渡来した弥生人にどのような感じをもったのでしょうか。稲という富には勝てず、北と南に逃走するうちまじりあって今の日本の元が出来たらしい。その間さまざまな政治が繰り広げられて神話として残っていたりするのですが。今も昔も政治の役割は変わりません。変わったのは殺戮規模が格段に大きくなったことです。「人間の天敵は人間」というパラドックスをいかにかいくぐることができるか、縛られた状況の中では、知的発想が貧困になります。みんなレミングになって走るようになります。ポピュリズムは思考停止の前兆です。みんな走り出したくてうずうずしているような状況が日本の今の政治的風景だとかんじられるのですが。レミングはみんなが海に向かって走り出すときでも何割かはエスケープする奴がいてそいつらがのちに繁殖して種の絶滅を救っているのです。ワシはぐうたらレミングだ。政治の世界でも何割かの異分子は必要な存在であり、(野党の味方だ!)かの荘子が言った「無用の用」をないがしろすると自分の存立する基盤さえ失うことになる。政治が近代主義的に合理主義的な枠のなかで考えると「無用の用」などとふざけたものは切り捨てるのが筋ですが、その結果ファシズムとスターリニズムを生み出したヨーロッパの二番煎じを演ずることになるとイメージしておいた方がいい。保守政治の現実的な政治と言われるものの射程距離はどんだけや!たかだか選挙に勝つことだけ!来年のトランプ狂乱予想まで!だとすれば、恐怖の大魔王が落ちてくるぞ。心配なのは大江健三郎が発狂するかもしれんぞ。いやはや言い過ぎました。話は変わって、やさしい羊の群れである日本人のみなさんが好きなリーダーはヤギでなければならないというはなしを書こうと思ったのですがまたの機会に・・





コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« オマル・ハイヤームの四行詩... | トップ | 葬送の日 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

日記風雑感」カテゴリの最新記事