辰年は運気が上がる縁起の良い年と聞いていたのに、なんということか!元日には能登半島に震度7の地震が起き、2日には帰省ラッシュで満席の航空機と被災地支援の海上保安庁の航空機が衝突炎上、これほど酷い正月があっただろうか?余震は何十回も続き津波も起き早々「令和6年能登半島地震」と命名までされてしまった。
倒壊した家屋に挟まれた人たちを懸命に救助する警察や自衛隊員を脇によけチャンネルを変えてバラエティを見る気にはならないし、例年なら煎餅とお茶を抱え最初から最後まで観る箱根駅伝も全然楽しめそうになく消してしまった。
さっさと番組を戻してしまった民放局には目もくれずNHK地震関連ニュースを見続けた。さらに航空機事故に。
新しいニュースはさほど出てこないのに、何度もなんども同じニュースを見て、同じインタビューを聞き続けていた。
私一人ばかりがニュースを見て涙しても何の役にも立たない、何事も変わりはしないと重々わかっていてもやめられない。何もできないけどせめて悲しく腹立たしい気持ちの共有だけでも、そんな思いでいた。
3日になるとNHKでもずっとニュース番組ではなくなってしまったので、民放の朝のワイドショーに変えまたもや地震と航空機事故を追い続けた。
そしてふと自身の経験した阪神淡路震災と重ね合わせていることに気がついた。地震が起きた瞬間に普通の地震ではないと気がついたこと、3人の子供とテーブルの下に逃げ込んだこと、テーブルを食器棚から離し部屋のどの場所に置いたら生き残れるか必死に考えたこと、真っ暗な中で物が落ちたり棚が倒れたりするのを聞きながら何も出来ずにいたこと。
停電で暗い中で服を着替えオーバーコートも着て外に逃げる準備をしてから、テーブルの下に電話機を引っ張ってきて出張中の亭主と両親に無事を伝えたが、まだ地震のことすら知らない人達は意味もわからないふうだった。電話は以後何日も繋がらなかった。
あの時の唯一の救いは地震が起きたのが明け方で、あと1時間すれば夜が明ける、明るくなると思えたことだった。暗い時の災害は怖い!
そんなふうに何をする気も起こらず、何も食べたくもなく、ただただテレビの画面を追い、辛い思いに共感することが自分がすべきことのように思えた。
「共感疲労」というのだそうだ。なんか目が覚めた感じになった。共感するのは悪いことではない、ただ自分の生活とは切り離して自分は自分を生きなくてはならないと冷静になれた気がする。
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