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チリチリリン

風にゆれる風鈴のように
こころ休まる音を届けたい

写真展「東京・TOKYO」

2016年12月08日 | 展覧会

 

 

写真美術館で「東京」を題材にした写真展を見てきました。3階は美術館所蔵の写真、2階は新進作家の写真、別々ですというので、今回は2階の新進作家の写真展にしました。

好き嫌いはあるけれど、スカイツリーをバックに、何枚もの写真をつなげたパノラマのような写真は興味深いものでした。デジタルカメラは作者の意図しない隅々までも鮮明に映し出します。その端っこの東京が面白かったです。隅田川の花火大会の薄暮の写真には、提灯に飾られた屋形船や岸で場所取りをする大勢の人々が写ってるし、三社祭の写真では、道路を埋め尽くす人々の群れは完全なカオスではなく神輿に向かってたなびいているような波が見て取れて、とても面白いものでした。別の写真家の東京の風景写真は、洗練された高層ビルと長屋のような昔の民家が入り混じり、これが東京なんだと思わせるものでした。

次に行くときは3階の写真を見てみたいです。

冬晴れの日が続いています。今日は高架を走る電車から真っ白な富士山と反対側には筑波山が見て取れ、今日見たパノラマのように感じました。

 

 


杉本博司 ロスト・ヒューマン展

2016年11月10日 | 展覧会

2年間のリニューアルを終えて、東京都写真美術館がTOP MUSEUMとして帰ってきました。その第一弾が杉本博司ロストヒューマン展です。杉本氏の作品を実際に見たのはメトロポリタン美術館展の「海景」1点です。あとはテレビで那智の滝の撮影に挑むドキュメンタリーを見ただけで、印象としては、内面は非常に『熱い』人だけど作品は『静』『無』だと思っていましたが、今回の作品には杉本氏の『意志』が強く押し出されていると感じました。

展示は3部に分けられていて、「今日世界は死んだ もしかすると昨日かもしれない」「廃墟劇場」「仏の海」と続いています。

「今日世界は死んだーー」では入口に氏の「海景」の一枚がかかっています、静かな海の写真です。一歩入ると全然様子は変わって、世界の終焉を告げる33のシナリオとともに、氏が収集した廃墟のような品物が展示されています、写真ではありません。

 

アンディーウォーホル風に飾られたキャンベルスープ缶に掲げられたシナリオです;

 『私はコンテンポラリーアーティストでした。

今日、世界は死んだ。もしかすると昨日かもしれない。

後期資本主義時代に世界が入ると、アートは金融投資商品として、株や国債よりも高利回りとなり人気が沸騰した。

若者たちはみなアーティストになりたがり、作品の売れない大量のアーティスト難民が出現した。

或る日突然、アンディーウォーホルの相場が暴落した。キャンベルスープ缶の絵は本物のスープ缶より安くなってしまった、そして世界恐慌が始まった。

瞬く間に世界金融市場は崩落し、世界は滅んでしまった。

アートが世界滅亡の引き金を引いた事に誇りを持って私は死ぬ。世界はアートによって始まったのだから、アートが終わらせるのが筋だろう。』

 

 

キンチョールの缶と防護服に書かれたシナリオは;

『私は養蜂家でした。

今日、世界は死んだ。もしかすると昨日かもしれない。私の飼育している蜂達の異変に気付いたのは10年ほど前だった。巣に帰ってこないミツバチが増えてきたのだ。蜂が帰巣本能を喪失したとされた。蜂はせっせと甘い蜜を運んでも、人間に搾取されてしまうということを何万世代もかけて体で学んでしまったのだ。世界中の蜂にこの情報は共有されて、蜂は死に絶えてしまった。種の自殺だ。すると世界中の植物に異変が起こった。多くの種子植物は受粉ができなくなり、その数は激減していった。ほとんど砂漠化した地表の景色も悪くはない。(中略)次の世が来ても、人間がいる限り蜂は帰ってこないだろう。』

 

このシナリオはすべて手書きで、著名人が代筆しているというなんとも贅沢な展示です。 政治家やジャーナリストや宇宙飛行士などの世界の終焉を語る33のシナリオを読むうち、愚かな人間は本当に世界を滅ぼしてしまうだろうと思えます。そして最後の作品はまたあの静かな海です。世界が死んでも海は残るということなのでしょうか。

 

「廃墟劇場」は杉本氏がアメリカ各地の廃墟となった劇場を撮影したものだそうです。自ら張ったスクリーンに自選の映画を投影し、カメラのシャッターを開放して、映画フィルム1本分の光で撮影された崩れた壁や朽ちた座席などはものすごい怖さと迫力を感じます。作品の前には投影された映画の題名が掲示されていましたが、みんな世界が終わる映画でした。

 

そして世界が終わった後の展示が「仏の海」です。大判に引き伸ばされた9枚の京都三十三間堂の千手観音です。末法思想の世に極楽浄土を望んだ仏の姿です。その静かだけど圧倒的な強さを感じる佇まいに、これが杉本博司の『意志』だ!と思いました。

前々から開催されたなら観に行きたいと望んでいた杉本博司の写真展でしたので、今日は幸せな気分です。

 

 

 

 

 


モネの池の睡蓮

2016年09月19日 | 展覧会

 

 

フランス、ジベルニーで、モネへのオマージュとして、モネの池の睡蓮を描いた日本画の展覧会が開かれているというニュースを見たのは2013年のこと、紹介されていた絵はなんとびっくり!真っ赤な池にカラフルな葉っぱの浮かぶ素晴らしく綺麗な睡蓮でした。「ジベルニーまでは行かれないなぁ、東京に帰ってきたら観にいこう」と思ったのをすっかり失念していましたが、先日鮮烈な青い花を見て、ハッと思い出しました。

あの睡蓮はどこにあるのだろうと検索したら、ちょうど今、湯河原の町立美術館で、平松礼二画伯から寄贈された睡蓮の絵が展示されているのを知りました。湯河原美術館は湯河原駅からバスで入った温泉街の中にあります。なぜこんな奥に?という感じですが、古くから親しまれた湯河原温泉に湯治できていた竹内栖鳳や安井曾太郎らが宿泊した古い温泉宿を改築して使っているそうです。遠いですが、娘の家からなら我が家からの半分の時間です。

美術館の一室がが平松礼二館になっていますが、睡蓮の絵は11点が企画展示室にありました。済んだ色合いの大変綺麗な絵です。でも私の観たかった絵と違います。テレビで見たオランジュリー美術館のモネに匹敵するような強烈な絵はありません。金属箔を使って7色に輝く葉っぱも見当たりません。

かなり意気消沈してして美術館の人に尋ねたところ、ジベルニーで発表された絵はすべてフランスに買い上げられ、一度も日本には帰ってきていないそうです。3年間に一度、ドイツで展示されただけだとか。当分見ることは叶わないようです、残念ですねぇ.....

画伯は軽井沢にアトリエがあって、睡蓮の池も作ってあって、絵を描いているのをテレビで見ました。一面に雲の姿を映した池に咲く睡蓮の大作でした。次はあの絵を見られることを待つことにしましょう。

 

モネへのオマージュから

 

 

 

 

 

 湯河原美術館の池にあるのは、

 モネの庭から平松画伯に贈られた睡蓮です

 

 

 


ジュリア・マーガレット・キャメロン展

2016年09月17日 | 展覧会

      

 

キャメロンは写真を芸術に高めた人だそうです。現在のフォトグラファーは誰もが自分の写真を芸術だと思って写しているでしょうから、彼女はその先駆者ということなのでしょう。「自分の視覚にとても美しく映るところまで焦点を持っていき、そこで手を止めた、それ以上レンズを絞って明確な焦点にはしなかった」という写真は少しぼんやりしていますが、確かに美しいです。

今の写真はなんでもありで、隅々まで事細かに写し取ったものもあるし、中心にだけ焦点があって周りはぼかしたものもあり、人それぞれなので、キャメロンの写真がそれほどセンセーショナルなものとは思えませんでしたが、同時代の他の写真と比べるとそれまでとはだいぶ違っているのがわかりました。

彼女の肖像写真は一人一人の人物がとても魅力的に撮れています。また、彼女は寓話の世界や歴史上の人物をモデルを使ってポーズをとらせて写しているのですが、それは写真で作り上げた絵画のようです。上の写真も性的虐待を受けた親を殺した女性を、本人でなくモデルを使って写したもので、当時は民心の反感を買ったそうです。

モデルにポーズをとらせた絵画的写真より、その人なりの肖像写真の方が、私としては好きだなぁと思いました。

 

          

 

 


鈴木 其一の朝顔図屏風

2016年09月16日 | 展覧会

メトロポリタン美術館の「 鈴木 其一朝顔図の青色の解明」という番組を観たときから、いつかメトロポリタン美術館に行って朝顔図屏風を観たいと願っていました。あれから3年、残念ながらメトロポリタン美術館に行くことは叶いませんでしたが、朝顔図の方が来てくれました。

六曲一双の朝顔図屏風はかなり大きくて、離れた所から見ると踊るような青い花の躍動感が際立っています。花びらの質感を出すために岩絵具と膠の配合を変えているそうですが、間近で見ると本当に薄くて柔らかい花びらそのもので、ビロードのような光沢もあり、手を伸ばせば咲いている花に触れられそうでした。

この絵を知ってから、青い朝顔に憧れて、青い花を見ると種を譲り受けて庭に咲かせています。今年も咲いたけど、この朝顔はウチのよりもっと青いなぁと見惚れてました。

三年越しの夢が叶って長時間朝顔図を見つめ、他の絵はあまり見ませんでした、テヘッ!