タイムマシンによろしく!!

明日は、タイムマシンがなくても、やってくるから・・。

タイムマシンによろしく93

2012-09-01 13:11:06 | ドラマ
先日、
「がんばって、いきまっしょい!」
というドラマを見た話しをしたんですが、
このドラマは、
高校の女子ボート部の物語で、
そのドラマの中で、
ボート部のコーチ役(やく)を演(えん)じている、
石田ゆり子が、


「あるのは、
ゴールのゴール。スタートのゴール。
その二つだけ」

 
と、言っていた。


「ゴールのゴール」は、
それで、もう、おしまい。

そこから得(え)るものや、そこから生まれる、
反省や、アイデアなどは、なく、
ただ、単(たん)に、
それで、終わり。


「スタートのゴール」は、
ひとつのゴールから、さまざまなことを、
学び、反省(はんせい)し、
そこから、
いろいろなアイデアと知恵(ちえ)を出しながら、
ゴールを、出発点として、
また、前進していく。


どちらが、良(よ)いかは、
わかりきっている!


ただ単に、
ゴールをゴールと、するのか?

それとも、
ゴールを、新たな出発点として、
スタートするのか?


けれど、それは、
人には決められない。

自分で、決めるしか、ない。
自分の心が、
その、どちらかを決める。


仏法(ぶっぽう)には、

『現当二世(げんとうにせ)』

という、言葉がある。


「現(げん)」は、現在を表(あらわ)し、
「当(とう)」は、未来を、表している。


過去は、もう、どうでもいい!
現在と未来が、大切だ!!

遅(おそ)すぎることなんて、絶対にない!

たえず、『今』を、出発点にして、
スタートし、前進していく!

そうすれば、
おのずと、未来は、
良い方向(ほうこう)に、変わっていく。


それが、仏法で説(と)く、
『現当二世(げんとうにせ)』の生き方だと、
思う。


すべてを「スタートのゴール」にしていく、
この現当二世の生き方は、
子供のころや、10代の若いうちは、
自然と、できていると思う。

けれど、年をとるとともに、
辛(つら)いことや、悲しいこと、
さまざまな苦しみやプレッシャーを受(う)ける中で、
そういう生き方が、
だんだん、
できなくなっていく場合もある。


なぜならば、
ゴールを、スタートのゴールにしていく生き方には、
瞬間(しゅんかん)、瞬間、
ものすごい、
気力(きりょく)と勇気とエネルギーが、
必要になってくるからです!


年とともに、
それだれの気力とエネルギーを出すのが、
おっくうにもなり、
辛(つら)くなってくる。

過去に、とらわれ、
ゴールをゴールにする生き方のほうが、
断然(だんぜん)、
楽(らく)だからです。


当然(とうぜん)、
ゴールを、
スタートのゴールにする生き方のほうが、
良いことは、わかっている。

わかっているけれど、できなくなってくる。


「だったら、
それだけの気力とエネルギーを、
いったい、どこから出せば、いいんだ!」


と、言いたくなってしまうからです。


・・・・・・・・・・・・・こころ(タイムマシンによろしく)・・・・・・・・・・・・・

瞬間、瞬間を、
スタートのゴールにしていくためには、
ものずごい!
気力とパワーとエネルギーが、
必要となってくる。

その気力(きりょく)とパワーとエネルギーが、
あったなら、
その人の人生は、
大きく変(か)わっていくし、
もっともっと、幸せになっていける!

その、瞬間、瞬間を、
スタートのゴールにしていく、
気力とパワーの強力なエネルギーが、
実(じつ)は、
創価学会(そうかがっかい)の人たちが、
日々、となえている
『南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)』
だと、
言うことができます。


南無妙法蓮華経は、
生命力(せいめいりょく)の元(もと)のようなもので、
南無妙法蓮華経を、となえていくと、
自分の生命が蘇生(そせい)していく。

自分の生命が、歓喜(かんき)していく。

だから、
南無妙法蓮華経をとなえていくと、
どんな辛いことがあったとしても、
自分の中から、
生命力を湧(わ)き上がらせながら、
新しく生まれ変わったような輝(かがや)きを得(え)て、
未来に向かって挑戦していける。


また、
南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)は
蘇生(そせい)の力なので、
病気などの時も、
真剣に南無妙法蓮華経を、となえていくことによって、
自分の生命(せいめい)を蘇生させ、
病気を克服(こくふく)する大きな力にも
なっていく。

そういう生命を復活(ふっかつ)させ、
蘇生させる、
また、人生を勝利させていく、
未来を開く無限(むげん)の太陽(たいよう)のような力が、
「南無妙法蓮華経」なんです。


だから、日々、
南無妙法蓮華経を、となえていると、
気力やパワー不足(ぶそく)ということが、
なくなっていく。

なぜなら、
日々、『南無妙法蓮華経』という、
『気力やパワーのもと』、
『生命力のエネルギー』を、
たえず、
充電(じゅうでん)しているからです!


だから、創価学会の人たちは、
仏法(ぶっぽう)でいう「現当二世」の生き方、
すなわち、
ゴールを、スタートのゴールにする生き方が、
日々、瞬間、瞬間できてくるので、
その結果(けっか)、
当然、幸せにも、なり、
人生を、勝利していける!!!


それが、創価学会の、
南無妙法蓮華経を、となえる、
生き方だと、思う。



『今』という時間に、
どれだけ、
爆発的(ばくはつてき)な力と、情熱を、
発揮(はっき)できるか。


その、かけがいのない、今、
この瞬間に、
勝つために、
南無妙法蓮華経は、あり、
南無妙法蓮華経を、となえる・・・!


・・・・・・・・・・・・・こころ(タイムマシンによろしく)・・・・・・・・・・・・・


タイムマシンによろしく92

2012-08-28 09:20:04 | ドラマ
このまえ、
「がんばって、いきまっしょい!」という、
ドラマを見ました。


岩井俊二監督の『花とアリス』という映画を見て、
その映画で主演(しゅえん)していた鈴木杏が、
ドラマ「がんばって、いきまっしょい!」
にも、でていたので見たくなったのですが、
その「がんばって、いきまっしょい!」の、
ドラマの登場人物が、


「自分にウソついたら、負(ま)ける!」


って、言っていた。


自分にウソついたら、負ける!


この負けは、確(たし)かに、
表面上(ひょうめんじょう)は、
人に、どう見えようと、
自分の心の中では、
絶対に、消(け)すことが、できない、
『負け』かもしれない。


昨今(さっこん)は、
「勝ち組」とか「負け組」とか、
言うけれど、
それは、一般的(いっぱんてき)に、
表面的な部分で、
判断(はんだん)されている。


それは、だれでも望(のぞ)むものであり、
だいたい、親(おや)にしても、
子供には、
社会的にも、経済的にも、
恵(めぐ)まれた人生であってほしいと、
願う。

それにプラスして、
自分のやりたいこと、
自分の好き嫌い、
人のためになることをしたいとか、
世界の平和に貢献(こうけん)したいとか、
世界と人々の幸せになることをしたいとか、
さまざま要素(ようそ)が相(あい)まって、
自分の人生が、
形成(けいせい)されていく。


サステナブルな社会(持続可能な社会)とか、
SDGsなど、
環境(かんきょう)や人道(じんどう)に
基(もと)づいているかも、
重要になってくる。 


けれで、やはり、
表面的な勝ち負けは、
避(さ)けることは、できない。


生きなければならないからだ。


そして、
表面的な勝利だけを、
求(もと)めてしまう場合も、
あるかもしれない。


確かに、表面的な部分も、大切(たいせつ)だ!


けれど、表面的には、
人に、うらやましく思われている、
勝ち組の人でも、
ほんとうに、心の中で、

「自分は、勝ったと思っているか?」

は、疑問(ぎもん)だと思う・・。


ただ、単(たん)に、
表面的な、
「勝ち組」というブランドを、
追(お)い求めていただけかも、
しれない・・。


そして、


「自分は、自分にウソを、ついていないのか?」


と、自分の心に聞いたとき、
心の中には、
荒廃(こうはい)たる荒野(こうや)しか、
残(のこ)っていない場合も、
あるかもしれない・・。


本当の勝利、
それは、
死(し)ぬ時に、

『自分は勝った!!』

と、こころから言って、
ニッコリと微笑(ほほえ)んで
死んでいけるような、
生きざまかもしれない。


そこには、
自分に対して、
ウソを、つくような生き方は、
決(けっ)して、無(な)いからだ。


自分にウソを、つかない生き方、

それは、心からの勝利を、生む。


けれど、
自分にウソを、つかない生き方って、
いったい、どうしたら、できるんだろうか?


創価学会二代会長の、
戸田城聖(とだじょうせい)先生が、
仏法(ぶっぽう)の真髄(しんずい)は、

「自分自身に、生ききることだ!」

と、言っている。

これは、単に、
自分本位(ほんい)に、
わがまま放題(ほうだい)、生きるということでは、
けっして、ないと思う。


自分自身、
それは、どんなに、もがいたって、
他(ほか)の人とは、違(ちが)う。

自分という存在(さんざい)は、
他には、
絶対に、ありえない!

だから、人と比(くら)べても、
どうしようもない。

ありのままの自分を、
ありのままの一つしかない個性(こせい)を、
人のためにも、自分のためにも、
全力で、開花(かいか)させていく生き方!


それが、
「自分自身(じぶんじしん)に生ききる!」
という、
生き方かも、しれない。


では、そういう生きかたを、
実際(じっさい)に、やるには、
どうしたらいいのか?


それには、はっきり言って、

『南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)を、
となえるしかない!』


ご本尊(ほんぞん)に、日々、
南無妙法蓮華経を、となえて、となえて、
となえぬいて、生きるしかない!


ご本尊(ほんぞん)とは、
創価学会(そうかがっかい)の人たちが、
信じ、祈っている対象の本尊で、
日蓮大聖人(にちれんだいしょうにん)が、
未来のすべての民衆のために書き表した、
紙などに描かれた曼荼羅(まんだら)で、
仏(ほとけ)の生命(せいめい)そのものを、あらわしたものであり、
自分の生命そのものを表現(ひょうげん)したものでもあり、
その必ず幸せになっていける仏(ほとけ)の生命が、
自分自身の中にあることを、
あらわしたものが、
ご本尊(ほんぞん)です。


その、ご本尊に向(む)かい、
南無妙法蓮華経を、となえる時、
不思議(ふしぎ)と自分の中の
悪しき惰性(だせい)や怠惰(たいだ)が消え去(さ)り、
真実の自分、
ウソのない自分と立ち向かわないわけには、
いかなくなってくる!


そして、
自分自身に挑戦しようとする、
勇気が、
湧(わ)き上がってくる!


そして、
自分にウソをつかない生き方へと、
立ち戻(もど)ることが、
できるようになっていく。


それは確かに、
勇気(ゆうき)のいることかもしれない!


けれど、そうであるからこそ、
最高に素晴らしく、尊(とうと)く、
魅力的(みりょくてき)な行為(こうい)であることは、
間違いない!!


なぜなら、それは、

「自分にウソをついたら負ける」

とは、正反対の結果(けっか)、

すなわち『勝利』を、
必ず、生(う)むからです!!


だから、
「自分にウソをつかない生き方」をしたいなら、
『南無妙法蓮華経を、となえぬくしかない!』と
言い切(き)ることが、
可能(かのう)となる!!


なぜならば、
南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)は、
世界に、
たった一つしかない自分の中から、
真実の自分を、
本当の自分を、
無限(むげん)に開花させゆく、
唯一(ゆいいつ)の法則だからです!


・・・・・・・・・・・・・こころ(タイムマシンによろしく)・・・・・・・・・・・・・


この生命の法則(ほうそく)に、ウソはない!


だから、創価学会員は、
南無妙法蓮華経の信仰(しんこう)を、
最後まで、貫(つらぬ)いていったときに、

『自分は、本当に勝った!!!』

という、
心の底(そこ)からの、
一点のウソもない、
喜びと歓喜(かんき)と、幸せと満足(まんぞく)を、
世界中のどんなセレブよりも、
深く!強く!
感じ、味(あじ)わうことが、できる!


本当の勝利者とは、
そういう人を、言うのではないのだろうか。


逆(ぎゃく)に、
どんなセレブであろうと、
どんな成功者であろうと、
この南無妙法蓮華経の生命の法則に背(そむ)くかぎり、
本当の幸せ、
本当の勝利感、
本当の歓喜と満足は、
けっして、感(かん)じ、
味わうことは、できない!


なぜなら、
南無妙法蓮華経は、
生命の法則であると共(とも)に、
「究極(きゅうきょく)の自分」の法則であるがゆえに、
南無妙法蓮華経の法則に背(そむ)くことは、
『自分の法則』に背くことになり、
自分自身にウソを、つき、
自分自身に背くことに、なってしまう。


それは、まさしく、

「自分にウソを、ついたら負ける!」

という現象(げんしょう)を起こし、
生命の上では、
その人は、
「負け組」になってしまうからです・・・・!


・・・・・・・・・・・・・こころ(タイムマシンによろしく)・・・・・・・・・・・・・


タイムマシンによろしく72

2012-04-29 14:48:27 | ドラマ
先日から、
ドラマ「野ブタを、プロデュース」
を見た話しを、しています。

このドラマは、
不器用(ぶきよう)で、いじめられっ子の女子高生を、
二人の男子高校生が、
人気者にプロデュースする!
という物語になっているんですが、
ドラマだから、こういう魅力的(みりょくてき)な話しに
なるけれども、
現実のことを、考えたら、
自分を、だれかが、
プロデュースしてくれるようなことは、
まず、ありえないだろうと思います。

現実の世の中では、
お金が、からむか、利益(りえき)が、からむような、
芸能人でもなかったら、
だれかが、自分をプロデュースしてくれるようなことは、
99%、起こりえない。


残る可能性としては、
「自分で自分を、プロデュースする!」
ということだと思う。


けれど、自分を自分で
プロデュースするっていったって、
自分ほど、やっかいなものはないし、
自分ほど、思うようにならないものも、
ないかもしれない。


けれど、何かを成し遂(と)げた、
偉人(いじん)と言われる人たちは、
無意識のうちにも、
自分を、
プロデュースしているんだと思う。


客観的(きゃっかんてき)に考えてみると、
自分をプロデュースするためには、
怠惰(たいだ)で、怠(なま)け者の自分だったり、
感情に流される自分だったり、
そういう安易(あんい)に流される自分を、
コントロールする、
自分を客観的に見れる、
よほど優秀な、

『もう一人の自分』

といえる自分が、必要となってくる。


けれど、その優秀な、

『もう一人の自分』

を作ること自体、
大変に困難(こんなん)なことは、言うまでもない。


その・・、
自分をプロデュースしてくれる、
最高のプロデューサーが、いてくれたら・・!


自分の可能性や夢を、
みごとに実現してくれる、
天才的なプロデューサーが、
いてくれたら・・・・!


自分の人生は、大きく変わり、
開花(かいか)していくかもしれない。


けれど、実(じつ)は、
あなたにとっても、
すべての人々にとっても、
自分の可能性や夢を、
みごとに実現してくれる、
天才的プロデューサーが、
います。


実は、それが、
創価学会(そうかがっかい)が、信じ、
祈る対象としている『ご本尊(ほんぞん)』だと、
言えるんです。


そして、自分をプロデュースすることが、

『ご本尊に、
南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)を、
となえる』

ことだと言えます。


・・・・・・・・・・・・・こころ(タイムマシンによろしく)・・・・・・・・・・・・・

いきなり、突拍子(とっぴょうし)もないことを、
言っているようですが、
少し、説明すると、
『ご本尊(ほんぞん)』は、
最高の自分を、表(あら)わしています。

無限の可能性と、無限の知恵と、
無限の力を持った最高の自分!


それが、『ご本尊』だと言うことができます。


こんどは、
『南無妙法蓮華経』の説明を少々すると、
『南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)』は、
宇宙のすべてを変化させる、
無限の可能性と力を引き出す、
エネルギーそのもの!
みたいなものなんです。

だから、『ご本尊』に、
南無妙法蓮華経を、となえる時、
『ご本尊』という無限の可能性と知恵、
無限の力を持った最高の自分と、
現実に今、生きている自分の生命(せいめい)が、
「南無妙法蓮華経」という、
無限の可能性を引き出すエネルギーによって、
電流のように直結(ちょっけつ)し、
そこから、生命の変革(へんかく)がもたらされ、
『ご本尊』という最高の自分による、
あらゆる可能性を引き出す、
自分自身のプロデュースが、
開始されると、
表現することができます。


最高の自分である『ご本尊』は、
無限の知恵、無限の力、無限の可能性そのものだから、
そこから、プロデュースされた自分は、
自分が、思いもよらなかった、
素晴らしい自分が、引き出されたり、
思いもよらなかった幸せ!
思いもよらなかった夢や希望を、
かなえたり、
時として、自分が、
まるで考えていなかった世界へ、
自分を、踊(おど)り出させていきます。


どういうことかというと、
『ご本尊』の知恵と力(ちから)は、
自分自身には、到底(とうてい)、
計(はか)り知れないから、
その計り知れない知恵と力によって、
プロデュースされたならば、
当然、自分の思いもよらない幸せを、
実現することになっていき、
自分の思いもよらなかった夢や希望を、
かなえていくことに、なったりしてきます。


これが、創価学会が実践(じっせん)している、

『ご本尊に南無妙法蓮華経を、となえる』

という、
仏法(ぶっぽう)の信仰だということが、
可能です。


だから、創価学会の仏法の信仰を、始めると、
すべての人が、ドラマになります!

すべての人が、ドラマの主人公となって、
大きな幸せのドラマを、展開(てんかい)することが、
できるようになっていく!!


おそらく、
こんな楽しい人生は、ないでしょう。


それが、世界192ヶ国に広がり、
世界中の人たちに、
幸せのドラマをもたらしてきた、
創価学会の、
『南無妙法蓮華経の仏法(ぶっぽう)』
だと言えます・・・。


・・・・・・・・・・・・・こころ(タイムマシンによろしく)・・・・・・・・・・・・・


タイムマシンによろしく71

2012-04-25 09:06:31 | ドラマ
先日、
「野ブタを、プロデュース」という
ドラマを見た話しを、しました。

そのドラマの最初のころ、
野ブタ(信子)を、
高校の人気者にプロデュースすることになる、
修二が、
唯一(ゆいいつ)、
自分の憩い(いこい)の場にしていた、
川辺の柳(やなぎ)の木が、ありました。


あるとき、いつものように、
その川辺の柳の木のスポットに行ったところ、

柳の木がない?

その柳の木は、抜(ぬ)かれて、
なくなってしまっていた。

そこで、たまたま、
修二は、
柳の木に首を吊(つ)って、
自殺(笑・・)しようとしていた、
野ブタ(信子)に、
会うことになります。

その後、
修二のクラスに、
信子が転校(てんこう)してきて、
大変なイジメに会う信子を見て、
修二は、信子(野ブタ)を、
人気者にプロデュースすることを、
決意することになります。


その中で、修二は、
信子に言います。

「おまえ自身が変わらないと、
また、いじめられるぞ!

根(ね)こそぎ、ひっこぬかれるぞ!
それでいいのか?」


その後、
修二と野ブタ(信子)は、
二人が、めぐり合った場所にあった柳の木が、
船に乗せられて、
別の場所に運ばれているのを見つける。

修二は、喜び、
信子を自転車に乗っけて、
一緒に、船で運ばれている柳の木を、
見つめ続ける。

修二は、言う。

「柳(やなぎ)もまさか自分が海の上を行くなんて、
思ってなかっただろうね!」

「生きていれば、なにが起こるかわからない。」

信子は、言う。

「あるんだ!生きていける場所、

あたし、大きな木になれるかな・・

誰にも、ひっこぬかれない、
大きな木になれるかな・・」


修二は、言う。

「なるしかねーだろ!」


苗木(なえぎ)は、枯(か)れない限り、
成長し続け、
そのために、根を深く広く張(は)って、
栄養を、取り入れ、
少しずつ、大きな大木へと、
成長していく。


それが、自然の道理(どうり)かもしれない。


仏法(ぶっぽう)では、
創価学会(そうかがっかい)では、
人間を、本当に幸せにすることのできる、
真実の仏法の法則(ほうそく)があることを、
一人の人間に、気づかせて、
その、仏法の信仰に、
目覚(めざ)めさせていくことを、

『仏種(ぶっしゅ)を植(う)える』

と、いいます。


「仏種」とは、仏(ほとけ)になる種(たね)。


仏(ほとけ)とは、
幸福の王者、勝利の王者という意味だから、
「仏種を植える」とは、
その人の生命に、
幸福になる種(たね)、
勝利者になる種を、植えることになります。


種が、芽生(めば)え、苗木となり、
栄養分を、たくさん取って
成長していけば、
当然、大木となっていきます。


それが、自然の道理です。


それと同じように、
一人の生命(せいめい)に植えられた、
仏種(幸せになる種、勝利者になる種)は、
時とともに、成長していけば、
必ず、
幸せという大木に、成長していきます。


それが、
創価学会が実践(じっせん)している、
南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)
の仏法です。


だから、創価学会に入会し、
ご本尊(ごほんぞん)に、

(ご本尊とは、南無妙法蓮華経を
となえる対象である、文字で描かれた
曼荼羅(まんだら)の本尊で、
仏(ほとけ)の生命そのものを、あらわしたものであり、
自分の生命そのものを、あらわしたものでもあり、
その、必ず幸せになっていける
偉大な仏(ほとけ)の生命が、
自分自身の中にあることを、
あらわしたものが、ご本尊です。)

・・そのご本尊に、
南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)を
となえる、
仏法(ぶっぽう)の信仰を始めることは、
その人の生命に、
仏種が植えられたことになり、
南無妙法蓮華経を、となえ始めたということは、
その人の生命の仏(ほとけ)の種(幸せの種)が、
芽(め)を出し、苗木として、
成長を始めたことを、
意味します。


その苗木に栄養を与(あた)えることが、

『南無妙法蓮華経を、となえる』

ことであり、
また、創価学会の、
仏法を根底(こんてい)とした活動ということに
なります。


・・・・・・・・・・・・・こころ(タイムマシンによろしく)・・・・・・・・・・・・・

この幸せの苗木は、
南無妙法蓮華経を、となえることと、
創価学会(そうかがっかい)の活動という、
自分の生命の「幸せの栄養(えいよう)」を
与え続ければ、
必ず、だれでも、
幸せと勝利という、
大きな、大きな大木に成長していきます。


これは、どんな人がやっても、
変わらず、
必ず、同じ、
幸せという結果が、出ます。

もっとも、木々にも種類があるように、
仏種(ぶっしゅ)も、その人の、その人らしい、
幸せの姿として、開花していきます。

けれど、
途中(とちゅう)で、
南無妙法蓮華経をとなえることを、
やめてしまったり、
創価学会から、離(はな)れてしまったりすると、
仏種という、幸せの苗木は、
枯(か)れてしまいます。


すなわち、幸せには、なれない!


ということです。


それは、植物に
水を、与えなかったら、
枯れてしまうのと同じです。

また、光が、
まったく、閉(と)ざされてしまったら、
枯れてしまうのと同じです。


生命の次元(じげん)から考えると、
南無妙法蓮華経を、となえないことは、
植物に、水を、与えないのと同じです。

また、創価学会から離れることは、
植物に、光を、まったく当(あ)てないのと、
同じです。


幸せのためには、
人間の生命も、
植物とおなじように、
水と光が、必要なんです。


だから、本当に幸せになりたかったら、
本当に勝利したかったら、
生命における、幸せになるための、
水と光を、求(もと)めるべきです。


その『水』の役割(やくわり)をするのが、
『南無妙法蓮華経』であり、
『南無妙法蓮華経を、となえる!』
ということになります。

そして、『光』の役割をするのが、
『創価学会』という存在(そんざい)になります。


この言葉に、ウソは、ありません。
必ず、そうなります。


世界192ヶ国に、
創価学会が根付(ねづ)いているのは、
そのためです。


それが、創価学会の人たちが、植えている、
幸せの苗木!
南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)の
仏法だと思う・・・・・。


・・・・・・・・・・・・・こころ(タイムマシンによろしく)・・・・・・・・・・・・・


タイムマシンによろしく70

2012-04-21 14:12:28 | ドラマ
このまえ、
「野ブタを、プロデュース」
というドラマを、見ました。


不器用(ぶきよう)で、いじめられっ子の女子高校生を、
二人の男子高校生が、
人気者に変えていこうと
奮闘(ふんとう)する物語になっています。


いじめられっ子の信子(通称、野ブタ)は、
いつも、信子を、いじめているグループの、
ボス的存在のバンドー(女性)に、
年に1度行われる高校の恒例(こうれい)行事、
公衆の前で
『愛の告白(こくはく)を行う』という
『1・1・4 (イイヨ) 』の日、(11月4日)
というイベントで、
嫌(いや)がらせに、
愛の告白を、させられることになる。

相手は、野ブタを人気者にしようと、
がんばっている修二だ。

信子(野ブタ)は、
勇気を出して、
バンドーのところに行き、
イベントでの告白を、
やめさせてくれるように頼(たの)む!

けれど、バンドーは、
「1・1・4 (イイヨ) 」のイベントは、
いちど、申し込んだら、
キャンセルできないんだ!
と言って、つっぱねる。

信子(野ブタ)は、言う。

「私は、クラスで、浮(う)いてるけど、
バンドーさんだって、もっと浮いてます。」

バンドーは、言う。

「そんなことは、あんたに言われなくても、
幼稚園の時から、わかってるんだよー!」


信子は、言う。


「人は、変われると思う。」


バンドーは言う。

「別に、私、変わりたくないし・・」


信子は言う。

「なんで、同じこと繰(く)り返すんですか?
なんで、変わろうと思わないんですか?」


バンドーは、立ち去(さ)る。

立ち去るバンドーに向かって、
信子は、言う。


「人は、変われます!」


いよいよ、
「イイヨの日」(11月4日)が、来る。

告白者(野ブタ)が、告白すると、
告白を受ける人が、二つのロープのうち、
ひとつのローブを、引く。

OKだったら、告白者(信子)の上には、
花吹雪が舞(ま)い、
NOだったら、告白者(信子)の頭に、
バケツから、水が、かぶせられる。


告白を受ける修二は、答えが出ない。


その時、信子は、

「告白する相手を変える!」

と言いだす。

司会者は、それを受け入れる。

なんと、信子は、告白する相手に、
女性であるバンドーを、選ぶ。

バンドーは、前に出て、
二つのロープの前に立つ。

そして、一本のロープを引く。


信子の頭には、花吹雪(はなふぶき)が、舞う。


バンドーは、

「間違っちゃったよ!」

と、捨て台詞(ぜりふ)を残して、
立ち去る。


あとから、修二たちは、
どうして、バンドーは、
花を、降(ふ)らしたんだろうと、
野ブタ(信子)に聞く。


信子は、言う。


「自分も、変われるんだ!って、
思いたかったんじゃないのかな・・?」



自分も、変われる。

これは、本当は、だれでも、
思っていることかもしれない。

別に、変わる必要なんかない!
と言っても、
心の底では、変わりたいと思っているのかも、
しれない。

「変われる」ということが、
わかっていたら、

「変わりたい!」と、

素直(すなお)に言えるのかもしれない。

また、必ず、
変われる保証(ほしょう)があるならば、
変わることに、
挑戦しようとするのかもしれない。


けれど、
現実という世界の中で、
いやというほど、
「変われない!」ということを、
体験してきてしまったために、
「変わりたい!」とも言えないし、
本心を、心の底に沈(しず)めてしまって、
変わりたいとも思わなくなっているのかも、
しれない。


・・・・・・・・・・・・・こころ(タイムマシンによろしく)・・・・・・・・・・・・・

本来(ほんらい)、
宇宙も、生命も、
変化し続ける。

それが、生命の本質(ほんしつ)だ。

ただし、良く変わるのは、
至難(しなん)の技(わざ)だ。

その、生命を、宇宙を、
良い方向に、
強力に変革(へんかく)していく力のことを、

『南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)』

という。

だから、
南無妙法蓮華経を、となえていると、
自分の生命(せいめい)が、
良い方向に、
急激(きゅうげき)に変わっていく。

自分の生命が、変わるということは、
自分の生きている環境(かんきょう)、
世界、宇宙も、
変わるということです。


それが、
南無妙法蓮華経の力(ちから)です。


だから、
南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)を、
となえることは、
自分が、変われることを、
心の底から、認(みと)めることになり、
また、自分の生命が、
現実に、変わっていくので、

『人って、変われるんだ。
自分は、変われるんだ!!』

と、心から、叫(さけ)び、
感じることに、なっていく。


『南無妙法蓮華経を、となえられる』

ということは、
自分が、変われる武器(ぶき)、
自分が、変われる希望と勇気を、
同時に手に入れたのことに、等しい。

だから、どんな時でも、
余裕(よゆう)がある。

だから、創価学会(そうかがっかい)の人たちは、
どんな状況の時でも、
底抜(そこぬ)けに明るく、
元気がある。


信子(野ブタ)は、言った。


「人は、変われます!」


その言葉を、堂々(どうどう)と、
希望を持って、確信を持って、
最大限の歓喜(かんき)を持って、
言うことが、できるのが、
創価学会の生き方です。


あたかも、それは、
バンドーが、信子に、
花吹雪を、降らせたように・・・・・!


・・・・・・・・・・・・・こころ(タイムマシンによろしく)・・・・・・・・・・・・・