タイムマシンによろしく!!

明日は、タイムマシンがなくても、やってくるから・・。

タイムマシンによろしく151

2014-03-27 09:28:22 | 幸せ
日蓮大聖人の御書(ごしょ)に、
一生成仏抄(いっしょうじょうぶつしょう)という、
御書が、あります。

御書(ごしょ)とは、日蓮大聖人が、書かれた、
論文や手紙などを、すべて、
集めたものです。
それぞれ、その論文や手紙の種類によって、
何々抄(しょう)とか、何々論とかの、
名前が、ついています。

その日蓮大聖人(にちれんだいしょうにん)の御書の、
一生成仏抄の一部に、こう、あります。

『ただし妙法蓮華経(みょうほうれんげきょう)と、
 唱(とな)へ持(たも)つと、いうとも、
 もし、己心(こしん)の外に、
 法ありと思わば、
 まったく妙法(みょうほう)にあらず、
 そ法(不完全な法)なり。』

通解(つうかい)すると、
「ただし妙法蓮華経(みょうほうれんげきょう)と、
 となえ持(たも)っていると、いっても、
 もし、自身の生命の外に、
 法(ほう)があると思ったならば、
 それは、まったく、妙法ではなく、
 不完全な法である。」

妙法蓮華経とは、
究極(きゅうきょく)の法、究極の力(ちから)の名前です。
略(りゃく)して「妙法」とも、言います。
そして、
南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)とは、
この究極の法、究極の力を、
顕現(けんげん)した、
仏(ほとけ)の生命の名前です。
 
ぼくたちが、
南無妙法蓮華経を、となえるのは、
妙法蓮華経という
「大いなる力」「大いなる法」と、
「自分自身」を、
交流させるためだそうです。


ぼくたち、人間は、
人生において、
さまざまな悩みや障害(しょうがい)に、ぶつかります。
そうすると、目先の悩みや障害によって、
目の前が、真っ暗になり、
希望や未来が、
見えなくなったりすることが、あります。

「もう、ダメだ!無理(むり)だ!」
「どうせ、おれなんか、こんなものさ!」

そこまで、いかなくても、
惰性(だせい)であったり、
しっかりした希望や未来を、
見ようとしないで、
日々を、過(す)ごしたり、
生きていたりすることも、あると思います。

こういう生命や心の状態を、
「無明(むみょう)」と、いいます。
字を見れば、わかるように、
「無明」とは、「明かりが無い!」
真っ暗な生命状態だと思います。
ほんとは、もっと、深い意味が、あるようですが、
「無明」とは、だいたい、
こういう心の状態だと、思います。

その「無明(むみょう)」を、打ち破(やぶ)るために、
ぼくたちは、南無妙法蓮華経を、
となえます。

さきほど、南無妙法蓮華経を、となえるのは、
妙法蓮華経という
「大いなる力」「大いなる法」と、
「自分自身」を、
交流させるためだと言いましたが、
その南無妙法蓮華経を、となえると、
大宇宙の「大いなる力」である、
「妙法蓮華経」と「自分自身」の生命が、
交流して、つながっていく。

そうすると、
「自分自身の生命」に
「大宇宙の大いなる力」が入り込(こ)み、
また、自分の生命自体も、共鳴(きょうめい)して、
本来(ほんらい)の力である、
大宇宙の力が蘇(よみがえ)り、
復活(ふっかつ)していく。

そうすると、
「もう、ダメだ!無理だ!」
「おれなんか、こんなものさ!」
と、思ってしまう「無明」が、打ち破(やぶ)られ、
妙法蓮華経という、
「大いなる法」「大いなる力」は、
自分自身の生命から、湧(わ)き上がり、
開花していきます。

そうすると、悩みや問題が、解決し、
新しい、希望の人生が、
開けてくるわけです。


ところが、ひとつ!
問題が、あります。

それが、
日蓮大聖人が、言っている、
『ただし妙法蓮華経と、
 唱(とな)へ持(たも)つと、いうとも、
 もし、己心(こしん)の外に、
 法ありと思わば、
 まったく妙法にあらず、
 そ法(不完全な法)なり。』

という、言葉です。

たとえ、
南無妙法蓮華経を、となえたとしても、
自分の外(そと)、自分という生命の外に、
法(ほう)があり、
妙法蓮華経という
「大いなる力」「大いなる法」を、
自分の外、自分以外のところに、求めたならば、
妙法蓮華経という、
真実の法則(ほうそく)、宇宙の法則では、なくなり、
不完全な法に、なってしまう。

その結果、
たとえ、南無妙法蓮華経を、となえたとしても、
悩みや、問題が、解決しない場合があり、
本当の幸せが、
つかめなくなってしまう場合がある。

現実的には、
創価学会(そうかがっかい)が祈っている、
「ご本尊(ほんぞん)」と、「南無妙法蓮華経」は、
あまりにも、スゴイので、
別に自分の中に、妙法蓮華経という、
「大いなる力」「大いなる法」があることを、
意識(いしき)しなくても、
本来、自分の中に南無妙法蓮華経という、
「大いなる力」「大いなる法」があるので、
南無妙法蓮華経を、となえていると、
無意識のうちに、自分の中にある、
「大いなる力」「大いなる法」が、発動(はつどう)し、
開花して、悩みや問題が、解決したり、
夢や希望が、かなったりしますが、
もう一歩、深く、立ち寄(よ)れば、
自分の中に、妙法蓮華経という、
「大いなる力」「大いなる法」があることを、
信じ、自覚しないと、
「大きな境涯(きょうがい)」「絶対的な幸せ」は、
つかめない!ということです。

なぜなら、
自分の中に妙法蓮華経という、
無限の力があることを、信じないと、
日蓮大聖人が、いうように、
それでは、不完全な法になってしまい、
不完全ということは、
100%では、ない!ということだから、
南無妙法蓮華経という偉大(いだい)な力は、
本当には、自分の中から、
湧(わ)き上がり、開花していかないからです。


そして、その結論として、
日蓮大聖人は、こう言っています。

『ゆえに、妙法と唱(とな)へ、
 蓮華(れんげ)と読まん時は、
 我が一念(いちねん)を指して、
 妙法蓮華経と、名(なづ)くるぞと、
 深く信心を、発(おこ)すべきなり』

通解すると、
「ゆえに、妙法を唱(とな)え、
 蓮華(れんげ)と読む時は、
 (南無妙法蓮華経を、となえる時は)
 自身の一念を指して、
 (自分の心のことを、さして、)
 妙法蓮華経と、名づけているのだ!と、
 深く信じ、信心を、起こすべきである」

という意味です。


南無妙法蓮華経は、
自分の中にあるのであって、
南無妙法蓮華経という
「偉大な力」「偉大な法」は、
決して、
自分の外にあるものでは、ない!
すなわち、
『妙法蓮華経とは、自分自身のことだ!』
と、いうことです。


ここに、
創価学会が、実践する、
南無妙法蓮華経の仏法(ぶっぽう)と、
そのほかの宗教との、
決定的な違(ちが)いが、あります。


・・・・・・・・・・・・・こころ(タイムマシンによろしく)・・・・・・・・・・・・・

キリスト教にしろ、一般的な仏教にしろ、
およそ、宗教と呼ばれるものは、
神や仏(ほとけ)を、
「大いなるもの」「絶対的なもの」
「聖なるもの」と、
あがめているかもしれない。

けれど、その神や仏(ほとけ)などの、
「絶対的なもの」「聖なるもの」は、
最初から、祈る側、
すなわち、ぼくたち人間とは、
かけはなれた、分離(ぶんり)したところに、ある。

だから、所詮(しょせん)、
人間は、神や仏には、なれないし、
いくら、祈ったところで、
真実の幸せは、つかめない!
ということに、なってしまう。

それらの宗教は、
神や仏を、あがめれば、あがめるほど、
もっとも大切な人間が、自分が、
どんどん、卑小(ひしょう)
になっていってしまう。

神や仏が、人間とは、
隔絶(かくぜつ)した存在である以上、
神や仏を、偉大だ!偉大だ!と、
あがめれば、あがめるほど、
結局、人間は、あわれになり、
みじめになる一方です。

だから、どうしても、
人間は、神や仏の、
奴隷(どれい)のような存在になっていってしまう。


現実的に考えて、
このような状態で、
人間が、幸せになれるとは思われません!


ところが、
創価学会が、実践(じっせん)している、
南無妙法蓮華経の仏法(ぶっぽう)は、違う!

最初に話したように、
妙法蓮華経とは、
究極の「大いなる法」「大いなる力」の、
名前です。
そして、南無妙法蓮華経とは、
その究極の「大いなる法」「大いなる力」を、
顕現(けんげん)した、
仏(ほとけ)の生命の名前です。

その仏の生命、
南無妙法蓮華経という、
「大いなる法」と「大いなる力」を有(ゆう)した、
仏(ほとけ)の生命は、
自分の外にあるのでは、なく、
『自分の中』にある!!!!!

その無限の可能性を秘(ひ)めた、
南無妙法蓮華経という、
仏の生命が、自分自身の中にある以上、
その「大いなる法」「大いなる力」を有した、
仏(ほとけ)の生命を、
自分自身の中から、引き出し、
自分自身の中から、開花させていけば、
いいわけです。

それが、できるのが、
創価学会が、実践している、
南無妙法蓮華経の仏法であり、
その現実的な実践が、
「南無妙法蓮華経を、となえる」
と、いうことです。

だから、
日蓮大聖人が、言うように、
自分の中に、妙法蓮華経は、あるんだ!
妙法蓮華経という、
「大いなる力」「大いなる法」は、
外のどこかにあるのではなく、
自分の中に、あるんだ!と信じ、
南無妙法蓮華経を、となえる時、
その南無妙法蓮華経の偉大な力、無限の可能性は、
自分自身の中から、湧(わ)き上がり、
開花していく。

すなわち、
どんな悩みや問題も、解決し、
夢を、かなえ、幸せを、つかんでいける!


ここに、
創価学会が、実践している、
南無妙法蓮華経の仏法(ぶっぽう)の、
決定的な優位性(ゆういせい)があり、
世界が、創価学会の仏法を、
求める理由があります。


・・・・・・・・・・・・・こころ(タイムマシンによろしく)・・・・・・・・・・・・・

タイムマシンによろしく150

2014-03-18 09:26:22 | 勝利
ぼくは昔、
広島カープ(プロ野球)のファンでした。

それで、テレビで広島カープの試合を見ていると、
よく、長谷川良平(はせがわりょうへい)という人が、
解説をやっていた。

以前、その長谷川良平氏が、
亡(な)くなったという記事が、
新聞に、のっていて、
切り取って、取っておきました。

長谷川良平氏は、プロ野球の広島カープの、
創設期(そうせつき)のエースとして活躍した人で、
肺炎(はいえん)のため、
76歳で、亡くなられたそうです。

長谷川氏は、
愛知・半田商工から、1950年、
市民球団として、発足したばかりの広島に入団。

身長1メートル67センチの小柄(こがら)な体ながら、
右横手の変則的(へんそくてき)なフォームから、
生み出されるシュートを武器に、
弱小時代の広島のエースとして、支(ささ)えた。

強気な投球が、持ち味で、
1年目から15勝を挙(あ)げるなど、
8年連続で、2ケタ勝利。
55年には、30勝で最多勝に輝き、
「小さな大投手」と呼ばれた。

63年の引退後は、
広島のコーチを経(へ)て、
65年のシーズン途中に監督就任。
67年まで指揮をとり、
その後は、中日のコーチも、務(つと)めた。

2001年、
野球殿堂(でんどう)入りを、
果(は)たした際には、

「弱小時代の広島は、
 私には、いい!環境(かんきょう)だった。
 それが、小さな私には、
 バネになった。」

と、話している。

弱小だから、だめなのでは、ない。
弱小だから、こんな環境では、
いい仕事が、できないのでは、ない。

弱小だからこそ!
闘魂(とうこん)を燃やして、
いい仕事が、できた!
弱小だからこそ、
自分の力を、最大限に発揮(はっき)して、
勝利することが、できた。


人は、時として、
さまざまな環境や、境遇(きょうぐう)などから、
こうだから、ダメなんだ。
こうだから、どうしようもない・・・
こうだから、自分は、もう・・・
とか、できない理由、
無理な理由を、並(なら)び立てることがある。

たしかに、それは、
だれだって、あるだろう。
けれど、それを並べていたら、
きりが、ないかもしれない。

創価学会(そうかがっかい)は、世界中に広がっているから、
いろんな国の人たちが、いる。
海外の人たちは、
ずこく、合理的(ごうりてき)な考え、
個人主義的な考えが、好きな人が、
多いようです。
だから、当然、創価学会が実践している、
南無妙法蓮華経の仏法(ぶっぽう)を、
納得(なっとく)させるためには、
日本とは、説明の仕方が、
違ってきたりするそうです。

さきぼとも、話したように、
海外の創価学会の人たちも、いろいろと、
悩みを、抱(かか)えている。
人間だから、当然です。

その時に、
さまざまな環境や、境遇(きょうぐう)などから、
こうだから、ダメなんだ。
こうだから、どうしようもない・・・
こうだから、自分は、もう、できない・・・
ではなくて、
だからこそ!がんばるんだ!
こうだからこそ!戦うんだ!
こういう自分だからこそ、全力で挑戦するんだ!
という話しを、するそうです。

「こうだから」ではなくて、
『こうだからこそ!』がんばる!!

「だから」から、
『だからこそ!』への変換(へんかん)!!

一見(いっけん)、
「だから」に『こそ』を足(た)しただけだから、
あんまり変わらないように思うかもしれません。

けれど、「だから」と『だからこそ』では、
天国と地獄(じごく)くらい違ってくる!

「だから」は愚痴(ぐち)の命です。
こうだから、だめなんだ。
こうだから、もう・・・。
「だから」にはいつでも逃げ道があり、
後ろ向きの命が出てしまう。

けれど、『だからこそ』だと180度違(ちが)う!!
だからこそ、がんばろう!
だからこそ、戦うんだ!
『だからこそ』だと、どんな状況でも、
その状況を出発点として、
前向きに挑戦していく
清々(すがすが)しい希望がある!

『だからこそ』だと、
絶対に愚痴(ぐち)はないし、
後ろ向きにはならない!


それが、『だからこそ』なんです!


だから、『だからこそ』という発想(はっそう)は、
スゴイことだし、素晴らしいことなんです!

けれど、ここまでだと、
どこかのセミナーと、たいして変わらない。
いくら、『だからこそ』だと言ってみたところで、
現実の苦難(くなん)うずまく世界に生きていると、
『だからこそ』の方が良いことは、
わかっていても、
現実には、それができないで、
『だから・・』になってしまうことの方が、
多いからです。

これでは、だだの理屈(りくつ)にすぎません。

けれど、これが、
創価学会の南無妙法蓮華経の仏法(ぶっぽう)だと、
ガラッと変わってくる!
創価学会の南無妙法蓮華経を
となえる仏法の信仰は、
現実に確実に、
『だからこそ』を可能にする、
ものすごいパワーであり
力(ちから)であり、
エネルギーだからです!!

南無妙法蓮華経を、となえる仏法(ぶっぽう)の信仰は、
現実に人間の生命を変革してしまうんです!
現実に人間の生命を、
絶望から希望へ。
あきらめから挑戦へ。
悲しみから歓喜へ。
宿命(しゅくめい)に打ちひしがれている自分から、
宿命を打ち破(やぶ)る自分へ。
夢をかなえていける強い自分へ。
自分の生命の中にある、
あらゆる不幸を、
幸せへと変革してしまうんです!

だから、南無妙法蓮華経を、となえていくと、
実際に、「だから」という、
あきらめと苦悩の生命から、
『だからこそ』という
希望と挑戦の幸せの生命に、
変革されていくんです!
だから、悩みや問題を、解決でき、
そして夢や希望も、
かなえていけるようになっていくんです!

日本的に言えば、
南無妙法蓮華経を、となえていくと
『負(ま)けじ魂(だましい)』が、
ふつふつと、湧(わ)き上がってくる!
だから、勝っていける。
そして、幸せになっていける。


ここに、
創価学会が、実践(じっせん)している、
南無妙法蓮華経の仏法の醍醐味(だいごみ)が、
あるんですが、
ようするに、
南無妙法蓮華経を、となえていくと、
「こうだから、ダメなんだ」という、
あきらめの心から、
『こうだからこそ!』がんばるんだ!という、
挑戦し、戦う心に、変革される!

それが、
南無妙法蓮華経を、となえることの、
スゴサです・・・・!!!


海外の創価学会の人たちは、
こういう話しで、ほとんど、
納得(なっとく)するそうです。
そして、現実に、
そのとおり、真剣に、
南無妙法蓮華経を、となえ続けて、
ことごとく、その人その人の、
悩みや問題を、解決し、
幸せを、つかんでいます。

海外の人は、
合理的だから、結果が出なかったら、
やりはしません!
南無妙法蓮華経を、真剣に、となえて、
現実に、素晴らしい結果が、出るから、
創価学会は、世界192ヶ国に、
広がっているわけです。


・・・・・・・・・・・・・こころ(タイムマシンによろしく)・・・・・・・・・・・・・

こうだから、ダメなんだ・・というふうに、
悩みや問題を、自分ではなく、
自分の外にあるものの、せいにしてしまう。
また、悩みや問題を、
自分が原因だと認(みと)めたとしても、
それを、「だから、もう自分は・・・」というように、
無理な理由、できない理由、と決めつけ、
どうにもならないものとして、
あきらめてしまう・・・。

ところが、それでは、
一向(いっこう)に、悩みは、解決しないし、
問題も、解決しない。
一生、そのまま!ということです。

そうではなくて、
仏法(ぶっぽう)では、
一念三千(いちねんさんぜん)の法則を、
説いています。
一念三千とは、
一念(いちねん/こころ)の違いによって、
違う三千の世界が、できあがるということです。
ようするに、
自分の心を、変えることによって、
自分の環境、自分の人生、自分の世界を、
変えることが、できる!と、いうことです。

ただし、理屈では、わかっても、
人間、そう簡単に、心を変えるなんて、
できる話しでは、ありません!


だから、南無妙法蓮華経を、となえるんです!!


南無妙法蓮華経には、自分の心を、
劇的(げきてき)に、変革させる、
スゴイ力(ちから)が、ある!
ということてす。

だから、南無妙法蓮華経を、となえていくと、
こうだから、ダメなんだ!という、
理由を、探す、「あきらめ」の心から、
『こうだからこそ!』
かんばるんだ!挑戦するんだ!
という、何ものにも負けない、
強い強い、自己を変革する心(こころ)に、
変わっていきます!


ここに、
南無妙法蓮華経を、となえる、
スゴサと、素晴らしさが、あります。
だから、創価学会の人たちは、
さまざまな困難や悩みを、克服(こくふく)して、
幸せになり、
人生を、勝利することが、できるんです。


広島カープの長谷川良平氏のように、

「弱小時代の広島は、
 私には、いい!環境だった。
 それが、小さな私には、
 バネになった。」

と、言えたら、
人生、勝ったも同然(どうぜん)かもしれない。
また、そうなるために、
ぼくたちは、南無妙法蓮華経を、となえる。


そして、必ず、勝利できる・・・・!


・・・・・・・・・・・・・こころ(タイムマシンによろしく)・・・・・・・・・・・・・

タイムマシンによろしく149

2014-03-06 08:47:03 | ドラマ
以前、ビデオで、
「野ブタを、プロデュース」
というドラマを見た話しを、しました。

この物語は、
不器用で、いじめられっ子の
女子高校生(ノブタ)を、
二人の男子高校生、
修二と彰(あきら)が、
人気者に、変えていこうと、
奮闘(ふんとう)する物語です。

このドラマの最終回で、
修二が、引越しで、転校することに、なる。
親は、修二に、
残りたいのなら、
オマエだけ、残ってもいい!
と言う。

けれど、母親は、
仕事で海外に行っていて、
ほとんど、家に帰らないし、
弟のことが、気がかりで、
修二は、転校することを、決意する。

その話しを、聞いて、
修二と一緒に、ノブタを、プロデュースしようと、
がんばっていた彰(あきら)は、言う。

「なんで、もっと、自分のこと、
 大事に、しないの?」

修二は、言う。
「だれかのためにって、いうのはさ・・!
 自分を大事にしないって、ことなのかな?」

「オレは、ノブタのために、
 一生懸命(いっしょうけんめい)、やっている時が、
 いちばん、自分らしかったなって、思うんだ!」

「オマエも、そうじゃない?」

「ノブタだってさ、だれかを喜ばそうと
 している時が、いちばん、
 いきいき、していないか・・・?」


だれかのために一生懸命になっている時が、
いちばん、自分らしい・・・・!

逆説のようで、ここには、
真実が、ふくまれている・・!!

人間とは、もっと言うと、
生命とは、そういうふうに、
できているんだ!と、思う。

だから、だれかを、喜ばそうとしている時が、
いちばん!いきいき、してくる・・!

生き生きしてくるとは、
生命が、輝(かがや)いてくると、いうことです。
人のために、一生懸命、やっていると、
人が、輝くのではなく、
自分の生命が、輝いてくる・・・!。

人のために、一生懸命、やることによって、
本来、自分自身の中に内在(ないざい)している、
『生命の輝き』が、復活(ふっかつ)し、
輝き出してくる・・!

それは、
生命が持っている、
本源的(ほんげんてき)な喜び、
本源的な幸せ、
本源的な使命に、目覚(めざ)め、
生命が、本来、持っている輝きを、
取り戻(もど)し、
開花させていく瞬間なのかも、しれない。


実は、ここに、
仏法(ぶっぽう)で説く、
『宿命転換(しゅくめいてんかん)』の法則が、
ある!

宿命転換とは、
自分のさまざまな宿命、
自分の存在そのものが、持っている、
苦しみとか、悲しみとか、
運命とか、境遇(きょうぐう)など、
自分の生きていることそのものを形成している、
どうにもならない生命のゆがみや癖(くせ)など、
そして、それによって人生に引き起こる、
さまざまな出来事や、
そのことによって、 できあがってくる、
その人の環境や境遇(きょうぐう)、
その人が背負(せお)ってしまった人生を、
自分の生命の根本から変革(へんかく)することによって、
自分自身も、世界も幸せにしていくと、
いうことです。

その仏法(ぶっぽう)で説く、
宿命転換の法則(ほうそく)とは、

『人のために、一生懸命になる!
 人を幸せにしよう!と、一生懸命、
 行動することによって、
 自分の人生が、開けてくる!
 人を幸せにすることによって、
 自分の宿命が、転換(てんかん)され、
 幸せになっていく。
 人生が、大きく開けてくる!』

と、いうことです。

ただし、問題がある!!!
創価学会初代会長の牧口常三郎先生が、
言っているんですが、
人それぞれが、持っている、
『宿命(しゅくめい)』とは、そんなに、
生(なま)やさしいものでは、ない・・・!

これは、ある程度、
人生を、経験していくと、わかると思う。

だから、いくら、
人のために、一生懸命、行動しても、
小善(しょうぜん)といって、
小さな良い行動、小さな善を、行ったとしても、
宿命を、打ち破り、変えることは、
できない。

また、中善(ちゅうぜん)といい、
中ぐらいの良い行動、中ぐらいの善を、
行(おこな)ったとしても、
やっぱり、宿命を変え、
幸せになることは、できない!!

宿命は、それほど、
生やさしく、ない!からです。

これら、小善、中善とは、
普通、人間として生きていれば、
社会のモラルや、人との関わりの中で、
行(おこな)うことができ、
ごく、当たり前の人間としての、
善意ある行動です。

これらの人間としての、
善意ある行動は、確かに、
素晴らしい行動であり、
大いに、たたえられるべきですが、
残念ながら、それらの、
人のために、行動する、
人の幸せのために、行動する、
「小善」「中善」では、
まだ、「宿命転換」するには、
足(た)りない!

はっきり言えば、
それでは、宿命転換は、できないんです・・!!

では、
どうしたら、宿命転換が、できるのか?

それには、
『大善(だいぜん)』を、行うしかない!!!
大善とは、大きな善、
すなわち、人を幸せにするための、
最も価値(かち)のある大きな行動と、
いうことです。

この大善を、行わないかぎり、
宿命転換は、できない!ということです。

たとえば、
自分に立ちはだかる、
大きな悩みが、ある。
人生に、ふりかかる大きな壁(かべ)がある。
夢を、かなえるために、
どうしても超(こ)えなければならないものが、ある。
しかし、どうしても、超えられない。

それらの、どうしても超えられないような壁を、
越えるためには、
大善を、行うしか、ない!!!
ということです。


では?
その『大善』とは、
どういう行動か??


実は、その、
大善の行動が、
創価学会が、実践(じっせん)している、
『仏法(ぶっぽう)の信仰』であり、
現実的な仏法の実践である、
『創価学会の活動』です。

残念ながら、
この創価学会が、実践している、
ご本尊(ほんぞん)に、南無妙法蓮華経を、
となえる仏法の信仰と、
仏法の実践である、
創価学会(そうかがっかい)の活動でしか、
『宿命転換』は、できません!!!!


・・・・・・・・・・・・・こころ(タイムマシンによろしく)・・・・・・・・・・・・・

それほど、
仏法(ぶっぽう)とは、すごい!ということですが、
その仏法の真髄(しんずい)が、
南無妙法蓮華経であり、
つまるところ、南無妙法蓮華経が、
『仏法』だということができます。


その仏法の真髄(しんずい)である、
南無妙法蓮華経とは、どういうものかというと、
全宇宙の法則であり、
大宇宙を変革するエネルギーのようなものです。

人のために、一生懸命、やっていると、
自分の生命が、輝いてくる。
その、生命を、輝(かがや)かす、
本源的なものが、
南無妙法蓮華経だと、思います。

すなわち、
南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)は、
生命に幸せを、もたらす、
もっとも深く、もっとも大きく、
もっとも強いエネルギーのようなものです。

だから、
南無妙法蓮華経は、
自分にとっても、
まわりの人々や世界にとっても、
最高にして、最大の幸せを、もたらすもの、
すなわち、『最大の善を、もたらす元(もと)』
と、言えるかも、しれません。

だから、
自分にとっても、人々にとっても、
最大の幸せを、もたらす南無妙法蓮華経を、
日々、となえることによって、
その最大の善(ぜん)が、
自分の中から、もらたされていく。


南無妙法蓮華経は、
『最大の善を、もたらす元(もと)』
『最大の善をもたらすエネルギー』
だから、
その南無妙法蓮華経を、
自分で、となえることによって、
自分自身の生命から、
幸せと善の波動(はどう)が起こり、
その幸せと善の波動を、
世界に発信していくことができる。

それは、南無妙法蓮華経を、となえることによって、
自分の生命を、本源的に、
最高に輝かせる!ことになる。

それと同時に、その仏法の、
現実的、具体的(ぐたいてき)な実践である、
創価学会の活動を行っていくことによって、
自分の中にもたらされた、
『最大の善をもたらすエネルギー』、
『幸せの善の波動』は、
人々と、世界に、
伝(つた)わり、
広まっていくことになります。

だから、その仏法の実践である、
創価学会の活動は、
もっとも価値(かち)のある、
人々を、本源的に幸せにできる、
『最大の善』、『大善』に、
つながっていきます。


少々、理屈(りくつ)っぽくなりましたが、
創価学会のひとたちは、
南無妙法蓮華経を、となえる仏法の信仰と、
仏法の実践である、
創価学会の活動を、
日々、行っているから、
病気や、経済的な悩み、
また、その他あらゆる悩みを、乗り越え、
困難(こんなん)に思える、さまざまな壁を乗り越えて、
夢を、かなえ、
幸せになっていけるんだと、思います。

理屈よりも、
『悩みや困難を、乗り越えることが、できた!』
さまざまな壁を、打ち破(やぶ)り、
『夢を、かなえることが、できた!』という、
現実の結果が、もたらされるから、
創価学会の人たちは、
この仏法の信仰を、やっているわけです。


そして、この南無妙法蓮華経の仏法が、
世界192ヶ国に広がり、
あらゆる国で、
人々が幸せになっていけた結果を見れば、
この南無妙法蓮華経の仏法と、
創価学会の活動が、
文字通り(もじどおり)、
大善の行動であり、
宿命転換ができる、唯一無二(ゆいいつむに)の、
行動だと、言えるはずです・・・・。


・・・・・・・・・・・・・こころ(タイムマシンによろしく)・・・・・・・・・・・・・