タイムマシンによろしく!!

明日は、タイムマシンがなくても、やってくるから・・。

タイムマシンによろしく130

2013-08-30 08:04:20 | アニメ
このまえ、ビデオで、
「魔法使いに大切なこと」という、
アニメを見ました。

このアニメでは、
魔法(まほう)という手段が、
一般的に認(みと)められていて、
国として、公的に、
魔法を使う機関(きかん)があって、
魔法使いが、公務員として、
働いているという設定になっています。

区役所みたいな、公的な場所には、
魔法課(まほうか)という課があって、
そこに行って、
魔法を使ってほしい!と頼(たの)み、
正式にお金を払うと、
その人の望みの魔法を、
魔法士が、かけてくれるという、
仕組みになっています。

だから、魔法は、
かってに使ってはいけないことになっていて、
正式に国家の試験を受けて、
魔法士として、認定(にんてい)されないと、
魔法を、使えないという、
仕組(しく)みになっています。

それで、主人公たちは、
魔法士になるために、
正式な魔法士の仕官(しかん)に付いて、
研修(けんしゅう)を受けるという話しです。

その中で、
試験に合格できなくて、
正式な魔法使いになれなかった、
魔法使いが、出てきて、
その落ち込んだ、卑屈(ひくつ)な姿を見ていて、
同じ魔法士の研修を受けている、
主人公の友達が、

「人と、比(くら)べるなんて、最低だ!!」

と、言っていた。

実力がないのが、最低なのではない。
『人と、くらべる』のが、最低だ!
と、言うのだ。
ちょっと、スルドイ!と思った。

自分にベストを、尽(つ)くして、
なんで?卑屈(ひくつ)になる必要が、ある?
なんで、人と比(くら)べてしか、
ものごとを、判断できないのか?

そこに、人間の持つ、
ある種の弱みが、あるような気がした。


釈尊(しゃくそん/釈迦[しゃか]、ブッダ)が、
残した名言がある。

釈尊は、言った。


『私は、人の中に、
 抜(ぬ)きがたき一本の矢(や)が、
 刺(さ)さっているのを、見た!』


 その抜(ぬ)きがたき一本の矢(や)とは、
 『差異(さい)への、こだわり』です。

差異(さい)への、こだわり!
すなわち、人と自分との違(ちが)い。
人と自分を、比(くら)べてしまう。

人と自分とを、比べる、
強烈(きょうれつ)な、差別意識!
ここから、さまざまな争(あらそ)いが、生まれ、
ここから、あらゆる不幸が、生まれる。

人間に競争心は、必要だ。
けれど、『差異(さい)への、こだわり』という、
抜(ぬ)きがたき一本の矢(や)が、
ささっているかぎり、
人間に、安穏(あんのん)と幸せを、
もたらすことは、できない!のも、
事実だと、思う。

このアニメの魔法使いは、
「人と比(くら)べるなんて、最低!」
と、言った。
考えてみたら、
もし、人と比べなかったら、
まったく、卑屈(ひくつ)になる必要は、ないはずだ。

卑屈の原因は、
人と、比べることにある!
これが、『差異への、こだわり!』だと思う。


では、人間に、突(つ)き刺(さ)さった、
「差異(さい)への、こだわり」という、
抜(ぬ)きがたき矢(や)を、抜くためには、
どうしたら、いいのだろうか?

ここに、重要な問題がある!
差異への、こだわりを、
協調(きょうちょう)に変え、
差異への、こだわりを、
個性を、尊敬しあう、
尊重(そんちょう)の心に、変えていく。

口で言うのは、簡単だけれど、
実際にやるのは、難(むずか)しい。
なぜなら、それができていたら、
戦争は、無くなっていたし、
戦争は、起こらないはずだからです。

人間は、いまだ戦争を、続けている。
それは、いまだに、
差異への、ごたわりに、
執着(しゅうちゃく)しているからだと思う。

差異への、こだわりは、
おそらく、人を否定(ひてい)するのみならず、
自分自身も、否定してしまう。
なぜなら、差異に執着するかぎり、
心が、安まることはないし、
そこから生まれるのは、
破壊(はかい)しかないからです。

差異へのこだわりは、
卑下(ひげ)の心を呼び、絶望を生む。
差異へのこだわりは、
嫉妬(しっと)をもたらし、憎しみを呼ぶ。
差異へのこだわりは、
敵対心(てきたいしん)をもたらし、争いを引き起こす。

自分に対しても、人に対しても、
破壊は、永遠に続く・・。


なぜ?そうなってしまうのだろう・・・。


それは、自分が、本来、
『根源的(こんげんてき)に、最高に素晴らしくて、
 最高に偉大(いだい)で、最高に魅力があり、
 欠(か)くことのできない、
 大切な尊(とうと)い存在なんだ!』
ということが、わかっていないからだと思う。

自分の尊厳性(そんげんせい)が、わからないから、
人の尊厳性も、理解することが、できない!
それが、
『差異への、こだわり』だと思う。

この自分の、
あるいは、人間の、
究極(きゅうきょく)の尊厳性を、
本当に理解することを、望むならば、
方法は、一つしか、ない!


それが、
創価学会が実践(じっせん)している、
『南無妙法蓮華経を、となえる!』
と、いうことです。
これ以外、絶対にない!!


・・・・・・・・・・・・・こころ(タイムマシンによろしく)・・・・・・・・・・・・・

創価学会の人たちが、
日々、となえている、
『南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)』・・・。

この、『南無妙法蓮華経』は、
すべての人間の中にある、
最高に偉大で、最高に尊(とうと)い生命であり、
また、南無妙法蓮華経は、
人間の最高最大の、尊厳性(そんげんせい)を、
無限に凝縮(ぎょうしゅく)した
エネルギーのようなものだと思う。

人間の中にある、
最も偉大な、生命エネルギー・・!
心と体から湧(わ)き上がる、
無限の勇気と無限の希望、
無限の歓喜(かんき)・・!
無限の知恵と無限の幸福!
どんな困難(こんなん)も
撥(は)ねのけていける輝(かがや)きを
持った生命であり、
心の状態(じょうたい)・・!

それが、『南無妙法蓮華経』だと思うけれど、

その、最高に尊(とうと)い生命である、
『南無妙法蓮華経』は、
すべての人の中にある・・!

だから、自(みずか)ら、
南無妙法蓮華経を、となえる時、
南無妙法蓮華経が、
人間の尊厳性を、無限に凝縮(ぎょうしゅく)した、
エネルギーであるがゆえに、
自分の中から、
偉大なる生命の尊厳性が、開花し、
また、自分で、
自分の生命の偉大さと、尊厳(そんげん)を、
感じることが、できるようになる。

南無妙法蓮華経を、となえることによって、
自分で、自分の生命の尊厳と偉大さを、
感じることが、できれば、
当然の結果として、
人の中にも、生命の尊厳と偉大さを、
感じることができ、
また、見ることができる!

そうなれば、結果として、
争(あらそ)いは、なくなっていく!

自分も、他の人も、
同じように、尊厳と偉大さ、
あふれる生命だからです!

それが、自分の生命で、
わかるようになるから、
南無妙法蓮華経は、すごい!!
だから、創価学会は、
世界192ヶ国に、ひろがり、
世界中に、平和の和を、広げ、
幸福を、もたらし、
世界中の有識者たちから、
絶大な共感(きょうかん)と期待をもって、
絶賛されている!!

そこには、
「差異への、こだわり」は、無い!
世界を、一つに、つなぐ、
共感と歓喜(かんき)の和が、ひろがるだけだ!


だから「差異への、こだわり」という、
人間に、突き刺(つきさ)さった、
抜(ぬ)きがたき矢(や)を、抜くには、
どうしたら、いいかと言えば、

生命の次元(じげん)から見ても、現実生活から見ても、
結果として、
『南無妙法蓮華経を、となえる』
以外には、ない!!!と、
明確に、断言(だんげん)することが、できる・・・!


・・・・・・・・・・・・・こころ(タイムマシンによろしく)・・・・・・・・・・・・・

タイムマシンによろしく129

2013-08-24 15:33:44 | 幸せ
人間の不幸を、考える時、
おおまかに、二つのパターンが、
あるそうです。

ひとつは、念仏宗的な不幸。

念仏(ねんぶつ)というのは、
「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」と、となえ、
現実の世界では、幸せになれないから、
極楽浄土(ごくらくじょうど)という、あの世の世界で、
幸せになろう、という思想です。

ようするに、
完全な現実逃避(げんじつとうひ)です!!。

だから、念仏型の人は、
苦しいことがあっても、乗り越(こ)えようとせず、
何事も、しかたない!と、
あきらめてしまいます。

しかも、念仏型の人は、
現実逃避の終局(しゅうきょく)の形として、
自分を、傷(きず)つける行動に出てしまい、
現実から、逃げよう!逃げようと、
自殺してしまう人が、多く出ます。

また、実際、念仏(南無阿弥陀仏)を、
となえていると、
だんだん、気持ちが、落ち込(こ)んできて、
自分の生命力が、奪(うば)われていきます。
だから、現実から、逃げたくなり、
自殺したりしてしまいます。

念仏(南無阿弥陀仏)を、となえている人、
あるいは、念仏宗の人は、
ちょっと良くなったと思ったら、
ドーンと落ちて、
またちょっと良くなったと思ったら、
また、ドーンと落ちる、
苦悩が、絶(た)え間なく続く、
地獄(じごく)のような人生になっていきます。

これを、
『念仏無間地獄』と、言います。

実際に、モルモットを使った実験では、
念仏(南無阿弥陀仏)を、
聞かせているモルモットは、
だんだん、元気がなくなってきて、
普通より、早死してしまうそうです。

よく、年配(ねんぱい)の方などは、
危急(ききゅう)の時に、
南無阿弥陀仏と、となえる人がいますが、
これは、とんでもない間違(まちが)えで、
南無阿弥陀仏をとえなるのは、
「早く死にたい、早く死にたい・・!」
と、となえているのと同じです。

そして、実際に、
そのような結果になってしまいます。

これが、念仏宗的な不幸です。
だから、何ごとも、逃げてしまい、
あきらめてしまう人は、
念仏型不幸の人で、
その人は、先祖が、
念仏宗(浄土宗、浄土真宗)だったりして、
過去世(かこせ/過去に生きていた時代)において、
念仏の信仰を、していたと考えられ、
念仏の悪影響(あくえいきょう)が、かなり、
色濃(いろこ)く、出てていると思われます。

これが、ひとつめの不幸のパターン。


二つ目の不幸のパターンは、
禅宗(ぜんしゅう)的な不幸です。

禅宗は、
経文(きょうもん)は、月を差(さ)す指のようなものだから、
そんなものは、自分で悟(さと)ってしまえば、
いらないんだ!と、言っています。

要するに、慢心(まんしん)です!

仏(ほとけ)が、
仏法の哲学(てつがく)と、
実践方法、生命の法則(ほうそく)を、
未来の世界と、人々を、幸せにするために、
残されたのが、経文ですが、
そんなものは、必要なんいだ!
オレ様は、スゴイから、
座禅(ざぜん)をくんで、自分で悟(さと)り、
自分で、仏になるんだ!
と言っているのが、禅宗です。

けれど、実際は、
座禅を組んで、悟り(さとり)を得た人なんて、
本当は、一人もいません!
自分でかってに、
自分は、仏(ほとけ)になったんだ!と、
無理(むり)やりに、思い込(こ)んでいるだけです!
単なる、カッコだけです。
悟(さと)りを得ることは、120%、
ありませんが、
キチガイになることは、あるでしょう。

仏(ほとけ)だと思えば、仏なんだ!
という、無理やりな教えが、禅宗なのです。
ようするに、
オレは、天才だと思えば、天才なんだ!
というのが、禅宗(ぜんしゅう)です!

だから、禅宗的な不幸の人は、
能力がないのに、できると思い込(こ)んでいる!
ひとりよがりで、プライドばかり高く、
実際は、何にもやっていないし、
幸せに向かって、動こうとしない!
けれど、おれは、できるんだ!
オレは、イケテルんだ!と思い込んでいる。

それが、禅宗的な不幸の人です。
これが、二つ目の不幸のパターンです。

こういう傾向(けいこう)の強い人は、
先祖が、禅宗だったり、
あるいは、過去世に、
禅宗の信仰を、やっていたと、
考えられます。

禅宗は、実際には、
仏法の哲学を、破壊(はかい)する行為なので、
「禅宗は、天魔の行(おこな)いだ!!」
と、いわれています。
ようするに、禅宗をやっていると、
精神的に、おかしくなっちゃうって、
ことではないか?と、思います。


これが、二つの不幸のパターンです。
念仏的な不幸も、禅宗的な不幸も、
どちらも不幸なことは、わかると思います。

何が、欠(か)けているか?というと、
あたりまえに考えれば、
「現実の中で、夢に向かって、
 一生懸命、努力し、がんばっていく!」
ということです。

これがなかったら、
何も成就(じょうじゅ)しないのは、
だれでも、わかります!

けれど、上の二つのパターンからも、
わかるように、不幸な人は、
それが、なかなか、できない!

それは、なぜか?というと、
二つのパターンとも、
自分の生命に、間違(まちが)った思想、
間違った宗教が、
本人の願望とは、関係なく、
自分の中に、
根付(ねづ)いてしまっているからです!

これは、恐(こわ)い!
自分の生命の中に、
自然と根付いてしまっているので、
どうしても、そうなってしまう。
抵抗(ていこう)できない!
知らず知らずのうちに、
不幸の方に、引きずられてしまう。

ここに、本人が知っている、知らないに、
かかわらず、間違った宗教が、もたらす、
決定的な不幸が、あります。


どうにもならない・・・。


なぜ、ああなってしまうのか・・!
なぜ、あんなことをしてしまったのか・・!
なぜ、こんな不幸な自分になってしまうのか・・!
自分はどうして、こんな環境(かんきょう)の中に、
いるのだろうか・・・!

そのようなことが、
世の中には、多すぎます。

そして、それらの不幸は、
生命に宿(やど)ってしまった、
間違った宗教による!と、
言えます・・・。


この不幸を、打ち破(やぶ)ることは、
半端(はんぱ)なことでは、できません。
実際、それぞれの人生の経験から、
それが、わかる人が、
多いのではないのでしょうか?
なかなか、自分の持っている、
傾向性(けいこうせい)は、変えられない!

はっきり言えば、
その、念仏や、禅宗のような、
間違った宗教によって、
インプットされてしまった、
自分の命の傾向性、
不幸の根本原因は、
『真実の仏法(ぶっぽう)』の実践(じっせん)による以外、
打ち破ることは、できません!!!


実は、それが、
創価学会が、実践している、
真実の仏法(ぶっぽう)である、
『南無妙法蓮華経の仏法』です。


・・・・・・・・・・・・・こころ(タイムマシンによろしく)・・・・・・・・・・・・・

南無妙法蓮華経の仏法は、
現実と戦っていくための信仰です。
現実を、いかに切り開き、
夢をかなえ、幸せにしていくか!
そのために、
南無妙法蓮華経を、となえます!

南無妙法蓮華経を、となえていると、
現実と戦う、知恵と勇気と、
強力な生命力が、
無限に、湧(わ)き上がってきます。

南無妙法蓮華経を、となえていると、
真正面から、自分を、見つめることが、
できるようになり、
謙虚(けんきょ)に、誠実に、ものごとを、
とらえられるようになっていき、
今の自分に、何が必要なのか?
また、何をやったらいいのか?が、
明確になっていき、
現実の中で、
果敢(かかん)に戦っていける、
強い強い、誠実(せいじつ)な人間に、
変わっていきます。

棚(たな)から、ボタモチのようなことは、
ありません。
そんなものは、エセ宗教です。

現実に、
自分自身が、知恵をしぼって、努力し、
また、勇気を出して、行動し、
自分自身が、
変わっていくことによって、
夢が、かない、幸せになっていけるのが、
南無妙法蓮華経の仏法(ぶっぽう)です。

だから、
不幸に、とらわれた人には、
なかなか、できない、
常識的な努力、あるいは勇気や行動、
それらの、勝利し幸せになっていくためには、
必要欠(か)くべからざるものが、
自然のうちに、すべて、
そなわってしまうのが、
不思議(ふしぎ)ですが、
南無妙法蓮華経の仏法です。

また、皆が努力している中でも、
勝利し幸せになっていくための、
最も価値(かち)ある努力、
最高の行動が、
南無妙法蓮華経をとなえていると、
その時々、不思議にも、
できるようになっていきます。

ゆえに、勝っていけるんです。


また、南無妙法蓮華経の仏法は、
それだけでなく、
さまざまな「運(うん)」や、ラッキー、
幸せを引き寄(よ)せる、
計(はか)り知れない
無限の力(ちから)やエネルギーとなって、
その人を助け、
幸せに導(みちび)いていきます。

普通は、どうしようもないような、
「運」、「不運」・・。
それさえも、幸せの「福運(ふくうん)」に、
変えていってしまうのが、
南無妙法蓮華経の仏法です。


だから、創価学会の人たちは、
南無妙法蓮華経を、真剣に、となえる中で、
自然のうちに、勝利の条件が、
ととのってしまい、
勝利し幸せになるために必要なことが、
自然のうちに、できるようになってゆくから、
また、「運」を強力に、
自分に引き寄(よ)せていけるので、
その当然の結果として、
勝利し、幸せになっていけるんです。

これは、学歴があろうが、なかろうが、
どこの国の、どんな環境の人であっても、
変わりがありません!

世界中、どこでも、
ご本尊(ほんぞん)に、
真剣に南無妙法蓮華経を、となえぬき、
そして、仏法の実践としての
創価学会の活動を、やっていく。
その中で、すべての人が、
勝利と幸せのノウハウと幸運を、
自然のうちに、自分の生命に身に付け、
幸せになっていけます!

単なる方法論でもなく、理屈(りくつ)でもなく、
生命そのものを、『幸せ』に変革してしまうから、
それが、できるんです!!


こんなすごいことは、
他では絶対、できないでしょう・・・。


それが・・、
創価学会が実践している、
南無妙法蓮華経の仏法です・・・・!


・・・・・・・・・・・・・こころ(タイムマシンによろしく)・・・・・・・・・・・・・

タイムマシンによろしく128

2013-08-11 12:42:15 | 日常
先日、会社で、
すごく、いやなことがあって、
ムシャクシャして、いらいらして、
心が、すごく、すさんでいました。

たまたま、
どうしても行かなければいけない
創価学会(そうかがっかい)の会合があって、
参加したんだけれど、
創価学会の心の、あったかい人間に、
接(せっ)していたら、
だんだん、すさんだ心が、落ち着いてきて、
会合から帰る時には、
スッキリした、気分の良い、
前向きな心になって、
帰ってきました。

これって、スゴイことだと思う。
こういう時こそ、
創価学会員で、良かったと思い、
感謝を、おぼえます。
人は、接していく人間に、
影響(えいきょう)を受けやすいということだと思う。

日蓮大聖人も、
「人間は、良い仲間に接していると、
 その良い香(かお)りに、そまっていき、
 自分も、良い人間になっていく。
 逆に、悪い仲間に接していると、
 その悪い臭(にお)いが、しみついてしまい、
 自分も、悪い人間になっていく。」
というようなことを、
言っていた。

現実の戦場のような世界に
生きていると、人生、
いろいろなことが、ある!
ムシャクシャするようなことが、
無いほうが、おかしいし、
そういうことの連続だと思う。
その中で、自分を、立て直(なお)していくことは、
なかなか、大変だと思う。

自分は、創価学会の良き仲間がいるから、
その良い香(おか)りに、ふれて、
自分を、見失わずに、すむ。
けれど、これが、
もし、創価学会員でなかったら、
さまざまなプレッシャーの中、
どれだけ、心が、すさんでしまっていたことか!
その蓄積(ちくせき)が、どれだけ、
自分を傷(きず)つけ、
人生を、台無(だいな)しにしていたことか!
そう、思うと、ゾッとする。

創価学会のある婦人が、言っていた。

「創価学会員でなかったら、
 どれだけ、殺伐(さつばつ)とした、
 寂(さみ)しい人生になっていたことか・・!」


世間一般的に、
人は、
さまざまやプレッシャーや、イライラ、
痛手を、解消(かいしょう)しようと、
お酒を飲んだり、レジャーに
熱中したり、
エステ・リラクゼーション系の趣味に、
熱中したりして、
何とか、その痛手を、解消しようとしている。
それが、悪いとは、言わないけれど、
そこには、自分の痛手を、根本から
解消する、方途(ほうと)と、価値(かち)が、
ほんとうは、無いように思われる。
おそらく、生命に、きざまれた、
痛手や、イライラは、蓄積(ちくせき)されて、
残ったままだと思う。
その中で生きるのが、
どれだけ、大変か!と思うと、
創価学会に入った自分としては、
正直、かわいそうに、思えてくる。

すでに、創価学会を知り、
創価学会の素晴らしさを、
実感(じっかん)している自分としては、
もう、上にあげたような生き方は、
したくないし、もう、
できないだろうと思う。
それを思っただけで、
その殺伐(さつばつ)とした心が、浮かんできて、
ゾッとするからです!

逆に言えば、
創価学会員であることが、
どれだけ、幸せか!
ということだと思う。
創価学会員であるということが、
どれだけ、満(み)ち足りたことか!
創価学会員であることが、
どれだけ、人生を、
輝(かがや)かしく、魅力的なものに、
していてくれるか!

それだけで、
創価学会員であることの価値は、
ありすぎるくらい、あると思う。

・・・・・・・・・・・・・こころ(タイムマシンによろしく)・・・・・・・・・・・・・

創価学会の人に、触(ふ)れていると、
すさんだ心が、だんだん、消えて、
あったかい、すがすがしい心に変わっていく。
(当然、真面目に、創価学会の信仰と活動を、
 やっている人のことを、さします)

それは、なぜ?だろうか?

それは、当然、
南無妙法蓮華経を、となえているからだと、
思う。
『妙(みょう)とは、蘇生(そせい)の義(ぎ)なり』
と言って、
南無妙法蓮華経を、となえていると、
自分の生命が、蘇生(そせい)していく。
心が、きれいになり、元気になり、
すがすがしく、さわやかになっていき、
生きるのが、気持ちよくなっていく。

また、南無妙法蓮華経とは、
宇宙の法則(ほうそく)でもあり、
生命の法則でもある。
南無妙法蓮華経を、日々となえているということは、
その宇宙の法則、生命の法則にのっとって、
生きていることになる。
だから、宇宙の法則、生命の法則にかなった、
生き方、生活を、していることになるので、
当然、サーフィンを楽しむように、
気持ちよく、スムーズに、
幸せを感じながら生きることになる。

創価学会は、その南無妙法蓮華経という、
宇宙の法則、生命の法則に
がっちりとギアが噛(か)み合い、
その宇宙の法則に最高にかなった活動と行動を
している団体であり、場所だということもできます。

だから、創価学会そのものが、
南無妙法蓮華経という宇宙の法則であり生命の法則であり、
また幸せの法則のなかに、
存在していると、いうこともできます。

だから、その創価学会の活動の中に、
身を置(お)くことによって、
自分の生命も浄化(じょうか)され、蘇生(そせい)して、
元気になってくる。
輝いてくる。
それは、宇宙と生命の法則にかなっているからです。

だから、それは、
日々の痛手やストレス、
傷ついた生命を、蘇生(そせい)させることになり、
その繰(く)り返しの中で、
悩みや問題を解決できたり、
自分の幸せに向かって、
夢や希望も、かなえていける方向に、
進んでいける。

それが、創価学会という場所であり、
創価学会が、やっていることだと思う。

そして、それは、
当然、日々の生活の中に、
現(あらわ)れてくる。
創価学会の中で、南無妙法蓮華経を、となえている、
その生命の香(かお)りは、
自分だけでなく、職場を、地域を、
世界を、良い香(かお)りに、変えていく!

単純に言うと、
世界を、幸せに変えている!ということです。
その力(ちから)は、スゴイ!

だから、創価学会の人たちは、
ほんとうは、職場の中でも、
地域の中でも、世界の中でも、
決して、欠(か)かせない、貴重(きちょう)な、
かけがえのない存在なんだと思う。

けれど、それを、世間の人たちは、
なかなか、気づかない。
それを、気づくのは、
創価学会員の、その人が、
いなくなった時だろう・・。

けれど、ほんとうは、
それでは、もう、
遅(おそ)すぎる・・・・・・。

・・・・・・・・・・・・・こころ(タイムマシンによろしく)・・・・・・・・・・・・・


タイムマシンによろしく127

2013-08-04 11:30:25 | 
近年、本を読まない人が、
増えているようで、
1ヶ月に読んだ本が、
ゼロ冊だったという高校生は、
5割を超えているそうです。

文字というものは、
不思議な力(ちから)が、あって、
活字を読まない人は、
想像力(そうぞうりょく)が、育たないそうです。

テレビなどの映像メディアにばかり、
頼(たよ)っていると、
主体性や創造的な精神が、奪(うば)われて、
既成(きせい)の概念(がいねん)や権威・権力に、
とらわれやすくなり、
他者への想像力が失(うしな)われていくそうです。


確かに、文字というものは、
不思議(ふしぎ)だ。
創価学会の第二代会長の、
戸田城聖先生が、
若いころ、学習塾をやっていて、
大変、独創的(どくそうてき)な授業だったそうです。

子供たちに、
「これから、犬を出してあげよう!」
と言い、子供たちは、喜ぶ。
そうすると、戸田先生は、
黒板に、「犬」という文字を書く。
子供たちは、
「なーーんだ!文字か!」
と言って、がっかりする。

でも、犬という文字は、
確かに、「いぬ」なんです。
ここに、文字のもつ不思議な力、
文字の概念(がいねん)があり、
子供たちに、文字の概念を、
身(み)につけさせていく。

「犬」という文字から、
一人一人が、思い浮(う)かべる犬は、
それぞれ、違っている。
けれど、そのだれが創造(そうぞう)した犬も、
間違えでは無い。
すべての人が、自分の中で、
自分だけの犬の概念を、
創造しながら、心の中で、
描(えが)いている。
また、たった「犬」という、
一文字だけなのに、その中に、
膨大(ぼうだい)な量の情報と、
思い出、想像力を、
発揮(はっき)できる人も、いるだろう!

それが、文字のもつ、可能性です。

文字は、人間に、
固定観念(こていかんねん)を、与えるのではなく、
その人の中の、その人だけの、
無限の想像力を、かきたて、
無限の知恵となって、
その人を、はぐくんでいく。

それが、文字だと思う。


それで、思い出したのが、
創価学会員が、毎日、
南無妙法蓮華経を、となえて、
祈っている、『ご本尊(ほんぞん)』です。

創価学会が、祈っている「ご本尊」は、
すべて、文字で、描(えが)かれている。
真ん中に、『南無妙法蓮華経』と、
仏(ほとけ)の根源的な生命の、
象徴(しょうちょう)の名前が、書かれている。
この『南無妙法蓮華経』とは、
宇宙の法則(ほうそく)でもあり、
生命の法則でもある。

真ん中に書かれた『南無妙法蓮華経』の回りには、
人間の生命のさまざまな性質、特性、
人間の生命の中にある、心の働きと力(ちから)、
あるいは、可能性と影響力(えいきょうりょく)が、
すべて文字で書かれ、みごとに表現されている。

だから、ご本尊は、
生命の縮図(しゅくず)であり、
宇宙の縮図だとも言える。
また、自分の中の無限の可能性を表現したものが、
『ご本尊(ほんぞん)』だとも言えます。

もし、これが、
仏像(ぶつぞう)や絵であったら、
仏(ほとけ)の生命は、
ひとつの、固定された形になってしまい、
そこから、想像力や知恵、あるいは、
人間の中にある無限のエネルギーを、
発揮することは、不可能となってしまう。

いわゆる、そうなったら、
ひとつの、ありきたりの仏様(ほとけさま)ということになり、
「ありがたやー、ありがたやー」
という、単なる、仏を崇拝(すうはい)するだけの、
おすがり信仰になってしまう。


ところが、『ご本尊(ほんぞん)』は、ちがう!

ご本尊に、書き描(えが)かれている文字は、
仏の生命そのものを、表現していますが、
それは、そのまま、
『自分自身』の生命を、表現しています。

どういうことかというと、
仏の生命は、同時に自分の生命でもある!
ということです。

仏の生命という光り輝(かがや)く、
最高の幸せをつかむことのできる生命は、
どこか遠くにあるのではなく、
今、ここに!、
自分の中にある!ということです。

いわば、ご本尊は、
どんな苦難(くなん)も乗り越(こ)えて、
幸せをつかむことのできる、
最高の自分自身を表現したものだと、言えます。

最も強く、偉大で、やさしくて、
最高に魅力(みりょく)があって、絶対に負けない・・。
それが「仏(ほとけ)の生命」だと表現できますが、

その・・、「仏の生命」が・・、
自分の中にあるから、
どんな悩みも解決でき、
どんな困難(こんなん)も乗り越え、
夢や希望をかなえて、
幸せを勝ち取っていけると、
いうことです。

ご本尊は、
無限の自分自身、
最高の自分自身を
具現化(ぐげんか)したものだとも、
言えます。


文字の話しに戻(もど)ると、
ただ「犬」という一文字だけでも、
その文字から、人々は、
無限の想像力を発揮でき、
一人一人が、違(ちが)う個性ある「犬」を、
創造(そうぞう)でき、思い描くことが、できる!

これが、『ご本尊』という、
最高の自分を、表現しきった文字だったら、
どうだろうか?・・・・

「犬」という文字から、
さまざまな想像力やストーリーを、
創造し展開(てんかい)できるように、
「仏(ほとけ)の生命」「最高の自分自身の生命」を、
表現しきった『ご本尊』から、
自分だけの、自分らしい、
最高に素晴らしい自分を、創造し、
無限の知恵と、無限の勇気、
無限の希望を、創造しながら、
自分自身を、どこまでも、
際限(さいげん)なく、開花していける!

それが、『ご本尊』です。


そして重要なことは、
ぼくたちが、ご本尊に、
『南無妙法蓮華経を、となえる』
ということです。

ご本尊の中心に、描かれているのも、
『南無妙法蓮華経』ですが、
この南無妙法蓮華経という宇宙の法則には、
自分の中の無限の可能性を、
現実に、開花していく、
大きな大きな力(ちから)とエネルギーが、
あるということです。

だから、ぼくたちが、
『ご本尊』を見て、南無妙法蓮華経を、
となえるとき、
『ご本尊の無限の可能性』が、
すなわち『南無妙法蓮華経』の、
無限の可能性、無限の希望、無限の夢、
無限の知恵、無限の幸せが、
『犬』というたった一文字からも、
無限の想像(そうぞう)が湧(わ)き上がるように、
南無妙法蓮華経をとなえる、その人の中から、
創造され、
開花していくんです・・・。


・・・・・・・・・・・・・こころ(タイムマシンによろしく)・・・・・・・・・・・・・

ご本尊の文字は、
ただの文字ではなくて、
無限の希望、
無限の勇気、
無限の知恵、
無限の幸せ、
無限の勝利を、
あらわしている。

だから、そのご本尊を見て、
ぼくたちは、
自分の中から、
無限の希望、
無限の勇気、
無限の知恵、
無限の幸せ、
無限の勝利を、
創造(そうぞう)していく。

そして、それを、
たんなる空想や想像(そうぞう)ではなく、
現実の形にするために、
南無妙法蓮華経を、となえる!。

南無妙法蓮華経には、
自分の中にある、
希望と勇気、知恵と幸せ、
そして、勝利を、
現実のものとしていく『力(ちから)』が、
ある!ということです。

だから、
『ご本尊』という
想像力の宝庫(ほうこ)のような本尊に、
南無妙法蓮華経を、となえると、
自分の中の、無限の力(ちから)と知恵、
無限の希望とエネルギーが、
現実に発動(はつどう)して、開花し、
現実のなかで、夢を、かなえ、
幸せになっていくことが、できる!!


『ご本尊』と、『南無妙法蓮華経』は、
幸せをつかんでいくための、
完璧(かんぺき)なシステムだと言えるかもしれない。
そして、そのシステムには、
一点の狂(くる)いもなく、
一点の無駄(むだ)も、ない。

だから、創価学会の人たちは、
真面目に、ご本尊に、
南無妙法蓮華経を、となえて、
信仰を、していくことによって、
必ず、だれでも、
自分らしく、幸せになっていけるわけです。


これは、理屈(りくつ)ではなく、
現実の結果として、そうなります。


だから、創価学会は、
世界192ヶ国に広がり、
夢や希望をかなえて、
勝利と幸せを、もたらしている。


犬という、たった一文字から、
人々が、膨大(ぼうだい)な量の
創造力を発揮できるように、
ご本尊から、人々は、
無限の希望と勇気、
無限の知恵と幸せを創造し、
そして、
南無妙法蓮華経をとなえることによって、
現実に勝利と幸せを、
勝ち取っている。


その人の、
その人でしかできない、
自分だけの最高の幸せの形を創造し、
開花し続けている・・・!


・・・・・・・・・・・・・こころ(タイムマシンによろしく)・・・・・・・・・・・・・