タイムマシンによろしく!!

明日は、タイムマシンがなくても、やってくるから・・。

タイムマシンによろしく204

2023-01-02 05:42:41 | アニメ
先日、
ディズニーのアニメ映画、
「シュガー・ラッシュ」の話しをしました。

この物語では、
ゲームの世界の『お菓子(かし)の国』で、
少女たちが、カーレースで、
勝敗を競(きそ)っている。

ゲームセンターのカーレースのゲームを、
擬人化(ぎじんか)したような設定(せってい)です。

そして、
ヒロインのヴァネロペは、
カーレースに出たくても、
出ることができない、
不具合(ふぐあい)をもった存在として、
生きている。

いわゆる、
コンピューターの中の
『バグ』というやつで、
ヴァネロペがカーレースに出場すれば、
ゲームに不具合が発生(はっせい)し、
ゲーム自体が壊(こわ)れてしまう・・。

そうなれば、
ゲームの世界の『お菓子の国』は、
崩壊(ほうかい)し、
みんなが生きていけなくなる。

ヴァネロペ自身も、
自分が『バグ』であるために、
お菓子の国から逃(に)げることもできず、
死んでいくしかなくなる。

ゆえに、どうしても、
ヴァネロペをカーレースに
出場させることはできない!!


これが、お菓子の国の王たちが、
ヴァネロペをカーレースに出場させず、
ヴァネロペを排除(はいじょ)して、
いじめ、蔑(さげす)み続ける理由です。


けれど、
そこには、トリックがある・・!


そのトリックに、
他のゲームの世界から迷(まよ)いこみ、
やってきたラルフは、
気付(きづ)く・・・!


そして、ラルフの助けを得(え)て、
ヴァネロペは、
カーレースに出場する。

やがて、
お菓子の国の王の正体(しょうたい)も、
暴(あば)かれ、
お菓子の国の王は、
実(じつ)は、
その国を乗(の)っ取った、
悪(あ)しき「ウイルス」であったことが
わかる。

ラルフとヴァネロペは、
そのお菓子の国を乗っ取(と)った、
悪のウイルスを倒(たお)し、
ヴァネロペは、
カーレースで勝利して、
ゴールする。


その瞬間(しゅんかん)、
悪のウイルスに支配(しはい)されていた
呪縛(じゅばく)が解(と)け、
お菓子の世界は、
劇的に、美しく、
平和な世界に変わる。


ヴァネロペ自身も、
劇的に変化して、
素晴らしい女王の姿(すがた)を
現(あらわ)す。



人は、
ヴァネロペのように、
環境(かんきょう)や世界、
また、それに関わる人々によって、
岐路(きろ)に立たされる場合がある。


それは、単純(たんじゅん)にいうと、
「幸せになるか」「不幸になるか」
という岐路(きろ)です。


大げさに言えば、
人はその岐路に立った時、
それを、
「自分で選んでいる!」
と言えます。

環境がどうだとか、
世間(せけん)がどうだとか、
人がどうだとか、
自分の状況(じょうきょう)がどうだとか、
いろいろなことがあって
見えづらくなっているけれど、
実は、
「幸せになるか」「不幸になるか」・・・、

それを・・、

「自分で選んでいる!」

と言えると思います。

そしてその積(つ)み重(かさ)ねが、
今の自分になっているんだと思う。


けれど、人は、
往々(おうおう)にして、
幸せになるか、不幸になるかを選んでいるのが、
自分であるということを、
忘(わす)れてしまう。

環境が悪い、
状況が悪い、
人が悪いと、
人や世の中に振(ふ)り回されて、
肝心(かんじん)なことを忘れてしまう。


それは、
幸せになるか、ならないかを決めるのは、
自分自身だということです。


ところが、だまされてしまう・・・!


さまざまな状況や周りの人たちの
見方や風潮(ふうちょう)、
自分の今のさまざまな技量(ぎりょう)
などのことを考えてしまい、
自分は幸せになれないのではないか?
などと錯覚(さっかく)してしまう。


周りの環境や状況、
まわりの人々の見方や流れに
だまされてしまい、
幸せになるか、ならないかを決めているのは、
自分自身であることを忘れてしまう。


けれど、だまされてはいけない!!


幸せになるか、ならないかを決めるのは
自分自身なのだから!!
 

ヴァネロペは、
自分が、このお菓子の世界で、
不具合(ふぐあい)、
すなわち、「バグ」として生き、
みんなから蔑(さげす)まれ、
のけ者にされて生きることもできた。


けれど、
ヴァネロペは、それを選(えら)ばなかった!!


すなわち、幸せになることを、
選んだ・・!!


ゆえに、
レースに出場して、
偽(いつわ)りの王(おう)の正体が、
暴かれ、
ヴァネロペはゴールして、
勝利した。


これが、
もし、ヴァネロペが、
自分が「バグ」であることに甘(あま)んじ、
諦(あきら)めて、
レースに出なかったら、
どうなったであろうか。

状況(じょうきょう)は、
何も変わらず、
ヴァネロペは、蔑(さげす)まれ、
不幸のまま、死んでいったであろう・・。


不幸というのは不思議(ふしぎ)で、
そういう不幸に慣(な)らされてしまうと、
一歩、
踏(ふ)み出すのにも勇気がいるし、
新しい環境や世界に行くのが、おっくうだから、
自分自身で、自分を、
だましてしまう場合さえ、ある・・。


けれど、それは、
ディズニー映画「シュガー・ラッシュ」の中で、
ヴァネロペが、
お菓子の国の「偽りの王」、
「悪のウイルス」に、
だまされているのと同じで、
自分の中の悪(あく)のウイルスが、
自分の「本当(ほんとう)の姿」、
すなわち「幸せ」を、
出させないようにしているのかもしれない。


だまされる、
もっともな何かの理由は、ある思う。


けれど、
だまされていたら・・、
ドラマもストーリーも、
始まらない。


まして、
幸せが生まれることはない。


だから、だまされてはいけない。


幸せになるか、ならないかを決めるのは
自分自身なのだから!!



仮(かり)に、
自分が、不遇(ふぐう)であり
不幸であったとする。

そうであったならば、
環境や、周(まわ)りの状況、
周りの人たちの見方や考え方に、
甘んじている必要は、
ないと思う。


試(ため)しに、
映画・シュガー・ラッシュのように、
その環境をつかさどる、
国や世界、王のほうが、
偽りの、悪しきウイルスであり、
間違っていると、
自分の環境や状況を、
ゲームのような感覚(かんかく)で
想像(そうぞう)してみたら、
何かの新しい視点(してん)が、
見えてくるかもしれない・・。

自分が、
ヴァネロペのような立場(たちば)だと、
想像してみたら、
ひとつの考えに囚(とら)われていた心が、
いったん、解放されて、
精神的(せいしんてき)に、
楽(らく)になるかもしれない。

さらに、
それを、きっかけにして、
良い方向(ほうこう)に、前進することができたなら、
なおのこと、幸せではないのだろうか・・。


ただ・・、
人が持っている
「宿命(しゅくめい)」というものは、
生(なま)やさしいものでは、ない・・。


持って生まれた
運命や境遇(きょうぐう)、
そこから引(ひ)き起こる、
さまざまな悲しみ、苦しみ、
どうして自分だけがと思うような、
辛(つら)い出来事、災難(さいなん)、

そのような、
どうしても避(さ)けることのできない
宿命のようなものを、
仏法(ぶっぽう)では、
『宿業(しゅくごう)』という。

それは、
自分の中に宿(やど)ってしまっている
『業(ごう)』であり、
この「宿業」があるから、
人は苦しみ、悲しみ、
幸せになれないまま、
不幸を背負(せお)って、
生きていると言えると思います。


そして、この『宿業(しゅくごう)』ほど、
やっかいなものは、ない・・!


この宿業だけは、
そんじょそこらのことでは、
打ち破(やぶ)ることが、できないからです。

それこそ、
岩を切(き)るような思いがするかもしれない。


そして、
その宿業を打ち破る、
唯一(ゆいいつ)の利剣(りけん)が、
創価学会(そうかがっかい)の人たちが、
日々、となえている、
『南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)』であり、
『ご本尊(ほんぞん)』だと、
言えます。

この『宿業』だけは、
創価学会の人たちが、となえている、
『南無妙法蓮華経』と『ご本尊』でないと、
断(た)ち切ることは、できません。

横暴(おうぼう)なように聞こえますが、
本当にそうだから、
しょうがありません。

他のなにをやっても、だめです。



人気のマンガ、
『鬼滅の刃(きめつのやいば)』の中で、
主人公の炭治郎(たんじろう)が、
修行中、岩を切るシーンがあります。

師匠(ししょう)の言いつけで、
「岩を切れ!」
というのです。

岩(いわ)を切れと言われても、
炭治郎は、
とても、岩が、
刀(かたな)で切れるとは、思わない。

あたりまえです。

そして、
炭治郎が、岩を切るために、
さまざまな苦心(くしん)で
努力をしている時に、
炭治郎の前に、
少年の剣士(けんし)が、あらわれる。

その少年の剣士は、
炭治郎に襲(おそ)いかかり、
それ以来、
二人で、剣の修行を重(かさ)ねる。

しかし、その少年の剣士は、
とても強く、
炭治郎は、歯(は)がたたない。

実は、
その少年の剣士は、
鬼(おに)に殺された剣士の
幽霊(ゆうれい)であった。

また、同じ時期、
鬼に殺された少女の剣士の幽霊も、
登場して、
炭治郎に、さまざまな「知恵」を、
さずける。

炭治郎は、最後まで、
二人の剣士が、幽霊であることには、
気づかなかったが、
二人のおかげで、
成長していく。

やがて、
まったく歯が立たなかった少年剣士と、
互角(ごかく)に、
戦えるようになっていき、
鬼(おに)と戦うための糸口(いとぐち)も、
つかんでいく。

そして、
炭治郎が、
初めて少年剣士に勝ったとき、
少年剣士は、
にっこり笑って、消えていく。


そのとき、
なぜだか、
岩が、切れていた。


漫画(まんが)だから、
なにか、すごい力(ちから)で、
岩が切れたように描(えが)いてもよいのだけれど、
そうは描かないで、
ふたりの子供剣士の幽霊と修行(しゅぎょう)する中で、
成長し、岩が切れたというのは、
とても素晴(すば)らしい表現(ひょうげん)だと、
思った。


思うに、
岩と、炭治郎だけだったら、
客観的(きゃっかんてき)にも、
岩が、切れるようには思えない。

けれど、そこに、
二人の子供剣士の幽霊が、
加(くわ)わることによって、何かが生まれ、
人間の中にありながら、
人間の意識を超(こ)えた
『何か』の働きによって、
岩を切ることができた。


そういう表現だと、思う。


人間の中にありながら、
人間の意識を超えた『何か』?

人間の中に、あることはわかる。
けれど、それを出すことは、
考えもしない。

たとえば、
思いもしない力(ちから)、
思いもしない可能性、
思いもしない希望、
思いもしない才能(さいのう)、
思いも及(およ)ばない知恵、


そして、
思いもよらない幸せ・・!!


それが、何であるのか、わからなくても、
それを出すことのできる武器(ぶき)が、
実は、
南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)であり、
ご本尊(ほんぞん)だと、
たとえることが、できます。


前の、
「宿業(しゅくごう)」の話しに戻(もど)ると、
宿業を断ち切ることのできる、
マンガ・鬼滅の刃でいえば、
岩を切ることができる、
その、人間の中にありながら、
人間の意識を超えた『何か』が、
「南無妙法蓮華経」であり、
「ご本尊」であると言えば、
わかりやすいかもしれない。

また、
宿業を断ち切るためには、
「南無妙法蓮華経」と「ご本尊」が、
鬼滅の刃の、
二人の幽霊剣士のような
役目(やくめ)を果(は)たしていると表現すれば、
納得(なっとく)しやすいかもしれない。



仏法(ぶっぽう)では、
『妙法(みょうほう)の利剣(りけん)』
という言葉を、使う。

「妙法」とは、
「南無妙法蓮華経」を略(りゃく)したもので、
妙法と南無妙法蓮華経は、同じです。

そして、
「妙法の利剣」でないと、
「宿業」という岩は、切ることができない。

それは、
鬼滅の刃の中で、
日輪刀(にちりんとう)という、
年中日光を浴びている
特殊な鋼(はがね)で作られた刀(かたな)でないと、
鬼を倒(たお)すことができないのと、
同じです。

普通の刀(かたな)で、
鬼を、どんなに切っても、
首(くび)を切っても、鬼は死なない。

日輪刀で、鬼の首を切ったときだけ、
鬼(おに)は死ぬ。

それと同じように、
「宿業」を「鬼」にたとえるならば、
宿業という鬼は、
「妙法の利剣」でないと、死なない。


宿業は、
妙法の利剣、
すなわち、
「南無妙法蓮華経」でないと、
断ち切ることができない!
ということです。


それが、
創価学会が実践(じっせん)している、
ご本尊に、南無妙法蓮華経をとなえる、
仏法(ぶっぽう)の信仰だと、
言えると思います。


※ちなみに、「ご本尊」とは、
仏(ほとけ)の生命そのものを、
目に見える形に、書き表(あらわ)したものであり、
同時に、自分の生命そのものを、
表現したものでもあり、
その必ず幸せになっていける仏(ほとけ)の生命が、
自分自身の中にあることを、あらわしたものが、
ご本尊(ほんぞん)です。


・・・・・・・・・・・・・こころ(タイムマシンによろしく)・・・・・・・・・・・・・

話しは違(ちが)いますが、
池田先生(創価学会インターナショナル会長)が、
このようなことを、
言っていました。


「絶対強盛(ぜったいごうじょう)な
信心(創価学会の信心)とは、
子どもが怖(こわ)いことが起こると、
「おかあちゃーん」と
母親のところへ飛(と)んでいくようなものです。


その気持ちで御本尊(ごほんぞん)に願ったら、
すごいことになります。


これは理論(りろん)ではありません。
信心(しんじん)です。

母親のところへ、
死にものぐるいというか、
純粋(じゅんすい)というか、
それ以外にないのだと言う、
その一念(いちねん)で
御本尊に直結(ちょっけつ)し、
願っていけば、
どんなことも通じます。


その祈りは、かないます。


それが信心の究極(きゅうきょく)です。」


何を言いたいかというと、
創価学会の
南無妙法蓮華経をとなえる
仏法(ぶっぽう)の信仰が、
どれだけスゴイか・・!

ということです。


本当に信じ、
本気(ほんき)で実践していった時、
どれだけ素晴らしい、
どれだけスゴイ結果(けっか)が生まれるか!

ということです。


そして、どれだけ幸せになっていけるか!


ということです。


だから、世の中の環境や状況にだまされてはいけない!!


創価学会の
南無妙法蓮華経をとなえる
仏法の可能性は、
無限大(むげんだい)なのだから。


創価学会二代会長の
戸田城聖先生は、言われた。


「人生は、強気でいけ!!!」


世の中は、世界は、
良く言えば、
愛情や善意(ぜんい)に満(み)ちている。

逆(ぎゃく)に、悪く言えば、
悪意やマイナスのエネルギーが
充満(じゅうまん)しているとも
言えます。


そして、時として、
そのマイナスのエネルギーが、
自分に襲(おそ)いかかってくることもある。

さまざまな環境や状況、
人間模様(にんげんもよう)や
自分に降(ふ)りかかってきた運命が、
自分を、
押しつぶそうとする時もある。


けれど、戸田先生は言われた。


「人生は強気でいけ!!」


そして、
強気でいけるだけの
絶対的な確証(かくしょう)であり、
力(ちから)が、
創価学会が実践している、
南無妙法蓮華経をとなえる、
仏法の信仰だということです。


そして、決然(けつぜん)と、
その創価学会の仏法の信仰(しんこう)に
立ち上がった時、
世界の善意のエネルギー、
幸せのエネルギーが、
自分のもとに集まってくる。

自分の世界が、
善意や愛情に満ちた世界に
変わっていく。

それは・・、
アニメ「シュガー・ラッシュ」の中で、
ヴァネロペの世界が、
不幸から、幸せと平和の世界に、
変わっていったように。


そう、言えると思います。


だから、周(まわ)りがどうであれ、
状況がどうであれ、
それらの環境に、だまされてはいけない!!


なぜなら、
幸せになるか、ならいなかを決めるのは
自分自身なのだから・・・!


そして、
自分自身で幸せを切り開いていける、
自分自身で悩みを解決していける、
夢や希望をかなえていける、
決定的で最強無敵(さいきょうむてき)の
武器(ぶき)であり力が、
創価学会が実践している、
南無妙法蓮華経をとなえる、
仏法(ぶっぽう)の信仰だということです。


それは、あたかも、
マンガ・鬼滅の刃の中で、
炭治郎が、
岩を、切ったように・・・!!


・・・・・・・・・・・・・こころ(タイムマシンによろしく)・・・・・・・・・・・・・


タイムマシンによろしく203

2022-09-16 18:05:33 | アニメ
ディズニーのアニメで、
「シュガー・ラッシュ」という映画があります。

この物語は、
ゲームの世界のキャラクターを
擬人化(ぎじんか)したような物語で、
ゲームセンターのモニター画面の中で
動いているキャラクターが、
いかにもその時間、
働いて生活しているような
構成(こうせい)になっています。

その中でヒロインとして登場するのが、
少女ヴァネロペです。

ヴァネロペは、
お菓子の世界に存在(そんざい)し、
その世界では少女たちがカーレースで
勝敗を競(きそ)っている。

簡単(かんたん)に言えば、
ゲームセンターのカーレースの
ゲームの世界に生きているという
設定(せってい)です。


けれど、ヴァネロペには
不具合(ふぐあい)がある!!


コンピューターでよく言う

「バグ」

ということでしょうか・・。

ヴァネロペは、
そのゲームの世界の不具合であり、
マイナスの存在だと
扱(あつか)われている。

そのために、ヴァネロペは、
他の人たちから「のけ者」にされ、
カーレースに出ることもできない。

みんなから、蔑(さげす)まれ
嫌(きら)われる存在として生きている。


ある時、
別のゲームの世界から
迷(まよ)い込んだラルフは、
お菓子の世界で
そのヴァネロペと出会う。

そして、ラルフが持ってきた
メダルによって、
ヴァネロペは
カーレースの出場の権利(けんり)を得る。

しかし、お菓子の世界の王は、
なぜだか、
執拗(しつよう)にヴァネロペの
レースへの出場を阻(はば)もうとする。

ヴァネロペには「不具合」、
バグがあり、
彼女がカーレースに出場すれは、
このお菓子の世界自体(じたい)がおかしくなり、
壊(こわ)れてしまい、
このカーレースのゲーム機自体が
廃棄(はいき)され、
お菓子の世界の住民、
そしてヴァネロペ自体も不幸になる!

というのが表向(おもてむ)きの理由です。


けれど、実は、別の理由があった。


ヴァネロペは
王の妨害(ぼうがい)によって、
窮地(きゅうち)に追い込まれるが、
決して屈(くっ)しない勇気と行動、
そしてラルフの助けを得(え)て、
お菓子の国のカーレースに出場する。

ここでも、ヴァネロペを
ゴールにたどり着かせないように、
王の容赦(ようしゃ)ない妨害が続く。


それは、なぜなのか???


実は、
「王」というのは偽(いつわ)りで、
その王の正体(しょうたい)は、
お菓子の国のゲームの世界を
乗っ取った、

悪(あ)しき「ウイルス」

だからです。

この「ウイルス」である
偽りの王によって、
お菓子の国の世界は支配(しはい)され、
そのことによって
ヴァネロペは不具合となり、
この世界から
排除(はいじょ)された存在になっている。

ヴァネロペは、
実(じつ)は、
このお菓子の世界を
元の世界に復活(ふっかつ)される
重要な存在であり、
ヴァネロペがゴールした時、
この世界を復活させる

「何かが起こる!!」

ということです。

だから、ウイルスである「王」は、
ヴァネロペのゴールを阻止(そし)しようとしている。


しかし、
ヴァネロペとラルフの活躍(かつやく)により、
ウイルスである王は敗れ、消えていく。


そして、ヴァネロペは、
とうとうゴールにたどり着く!!


その時、
いままでウイルスである
王に支配されていた
お菓子の国のゲームの世界に、
劇的(げきてき)な変化がもたらされる。


ヴァネロペ自身も
劇的に変化し、
「女王」の姿(すがた)をあらわす。


実は、ヴァネロペは、
お菓子の国を統治(とうじ)する女王であった!!!


そして、ウイルスによって
記憶(きおく)を消されていた住民たちも、
記憶を取り戻し、
女王に深く、お詫(わ)びをする。



考えてみると、
不具合により皆から嫌(きら)われ、
のけ者にされていたヴァネロペも、
女王であるヴァネロペも同じ人物です。


ヴァネロペは、
不具合で皆(みな)から嫌われ
のけ者にされている世界で、
そのまま生きていくこともできた。


けれど、
ヴァネロペは屈(くっ)せず、
あきらめず、
希望と勇気と挑戦によって、
自分のいる世界を、
自分が女王として
堂々(どうどう)と生きていける世界に変えた。


人間も同じなのではないだろうか・・・!


仮(かり)に、
今、自分がいる環境が、
不遇(ふぐう)であり不幸だったとする。

けれどその環境(かんきょう)は、
アニメ「シュガー・ラッシュ」のように、
偽りの世界であり、
ウイルスによって支配された
環境だと考えることはできないだろうか・・・?


そう考えた時、
今、
自分が、
かかえている不遇(ふぐう)や不幸も、
仮(かり)の姿であり、
偽(いつわ)りの姿だと
考えることはできないだろうか・・・?


そして、ヴァネロペのように、
希望と勇気と挑戦によって
道を切り開き
ゴールした時、
自分の世界が、
自分が、
王者のように輝(かがや)く
環境へと変わっていくと、
とらえることができないだろうか・・・?


創価学会(そうかがっかい)が実践している
仏法(ぶっぽう)では、
『一念三千(いちねんさんぜん)』
という法則(ほうそく)を説いています。

「一念三千」とは、
一念(いちねん)、
すなわち心(こころ)の違いによって
三千の違(ちが)う世界ができあがる!
という生命の法則です。


三千の心の違いによって、
未来の世界は、
それぞれ三千の違う世界が生まれていく・・・。


自分の心によって、
世界が変わり、
自分の心に合った世界が、
そこに存在していくことになる。


ものすごく単純(たんじゅん)に考えれば、
人は三千の違う世界の中から、
自分の心で、
そのどれかの世界を選(えら)んでいる!!
と、とらえることができます。

その三千の世界の中には、
ヴァネロペのように、
自分が、のけ者にされ、
蔑(さげす)まれ嫌(きら)われている
世界もあるかもしれない。

また、
これもヴァネロペのように、
自分が女王、
あるいは王のように、
堂々と生きている世界もあるかもしれない。


一念三千の法則から考えるならば、
人は、自分がいく世界を、
自分の心によって選んでいる・・!!


と言えます。


楽観的(らっかんてき)に
ポジティプに考えれは、
人は、
未来の三千種類の世界の中から、
自分が行く世界を選ぶことができる!!
と、とらえることもできます。


それが、
生命における
『一念三千(いちねんさんぜん)の法則』です。



確かに、未来はわからない・・・。

未来には無限(むげん)の可能性がある・・・。


不幸になる可能性も、
幸せになる可能性も・・・。


それを選び、
つかむことのできる法則が、
先程(さきほど)から話している
「一念三千の法則」ですが、
この、「一念三千の法則」を

いったい?
どうやって使っていくのか・・??

どうやって、
自分の人生に生かしていくのか?

そして、この「一念三千の法則」を
どうやって、ものにし、
人生を勝利していけるのか・・・?


それが、問題です。


実は、この「一念三千の法則」を
現実に動かし、
現実に結果を出し、
現実に幸せになっていける、
究極(きゅうきょく)の力であり方法が、
創価学会(そうかがっかい)が実践している、
南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)を
となえる、
仏法(ぶっぽう)の信仰なんです。


けれど、おそらく、
だれでも思うのではないか?
と思うのが、
いくら一念三千の法則を説(と)いても、
そんなものは、
単なる
机上(きじょう)の空論(くうろん)に
すぎないのではないか!
ということです。


問題は現実だからです。


現実を変えられなければ、何の意味もない。


現実の悩みを解決できなかったら、
そんなものは、
よくある言葉の遊びでしかない。

そして、現実の夢や希望を、
かなえていけなかったら、
いったい、
一念三千の法則が、なんだというのだろうか・・・。


けれど、創価学会が実践(じっせん)している
南無妙法蓮華経を
となえる仏法の信仰(しんこう)は、
言葉の遊びではない!!


『南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)』は、
現実を変える、
ものすごい力(ちから)なんです。


南無妙法蓮華経は、
一念三千の法則を
現実のものとする
『秘宝(ひほう)』なんです。

幸せをつかむ究極の法則であり、
未来を幸せに変える
究極の力(ちから)が
『南無妙法蓮華経』なんです。

だから、創価学会の、
南無妙法蓮華経をとなえる
仏法(ぶっぽう)を実践していった時、

自分の世界が、環境が、
大きく変わっていく。

自分自身の境涯(きょうがい)が
大きく変わっていく。

そして、王者のように幸せを勝ち取っていける!!



昔、
アンドレイ・タルコフスキー監督の
『惑星(わくせい)ソラリス』
という映画を見ました。

その世界では、
自分が深く思い願っている存在が、
現実の姿(すがた)をして、
具現化(ぐげんか)され、
あらわれてきてしまう。

すでに自殺して亡(な)くなり、
いるはずのない妻(つま)が具現化し、
さまよい、
主人公は苦しむ。

その果(は)てに、
自分が子供のころから、
愛してやまない故郷(こきょう)、
地球の、
我(わ)が家と家族、
その土地と自然が、
惑星ソラリスから、
出現(しゅつげん)してしまう・・・。


この物語は、
SFの架空(かくう)の物語ですが、
人間の『一念(いちねん)』には、
「こころ」を、
具現化していく力(ちから)が、
あると思う。


人は、
自分の夢や希望、
願いを、
現実に、
実現してきた・・。

それは、
人間のこころには、
夢や希望を、
実現していく力が、

『ある!!』

ということです。

そして、その、
人間の『こころ』の力が、
明確(めいかく)に発揮(はっき)された時、
夢や希望が、
かなっていく・・・!!

しかし、その
「こころの力」が、
不明瞭(ふめいりょう)で、
さまざまな障害や不純物(ふじゅんぶつ)によって、
発揮されなくなってしまっている。

そのために、
さまざまな苦しみや悩みが
生(しょう)じて、
人は、
不幸に沈(しず)んでいく・・・。

そう、言えると思います。


しかし、
「こころ」における、
さまざまな障害や不純物が、
取り除(のぞ)かれたならば、
「こころ」は、
力を、存分(ぞんぶん)に発揮して、
夢や希望が、かなっていく。


それが、
「こころの力」ではないかと、
思われる。

そして、
「こころ」から、
障害や不純物を取り除き、
こころの力を、
無限大に発揮していく力が、
さきほど話した、

「南無妙法蓮華経」

です。

そして、
南無妙法蓮華経の力によって
解放(かいほう)された、
「こころの力」によって、
惑星ソラリスのように、
幸せの世界が出現してくる。

ヴァネロペのように、
貧(まず)しい姿から、
女王の姿を、あらわす。

それが、
南無妙法蓮華経であり、
南無妙法蓮華経を、となえることだと、
思います。


・・・・・・・・・・・・・こころ(タイムマシンによろしく)・・・・・・・・・・・・・

昔、創価学会は、
貧乏人と病人の集まりだと言われた。

その人たちが、
創価学会の
南無妙法蓮華経の仏法(ぶっぽう)を
実践することによって、
どうなっていったかといえば、
貧乏人は裕福(ゆうふく)になり、
病人は健康になっていった。

そして、ことごとく
創価学会の人たちは、
幸せになり、人生を勝利していった。

それは、
アニメ「シュガー・ラッシュ」の中で、
自分が、のけ者にされ
蔑(さげす)まれている世界にいた
ヴァネロペが、
女王となり、
その世界を幸せに変えていったのに
似(に)ている。


そういう変化を、
現実のうえで可能にしてきたのが、
創価学会だとも言えます。


いまでは、
創価学会は世界192カ国に広がり、
その世界中の人たちの悩みを解決し、
夢や希望をかなえる
大きな大きな力となって、
その人たちの環境を変え、
自分を変え、
その人たちに幸せと勝利を、もたらしている。


たとえば、
道が何本にも分かれた
分岐点(ぶんきてん)があるとする。

そして、その道の先(さき)に何があるか、
すべて見えているとします。

そうしたならば、
人は、
わざわざ自分が
不幸になる道を進みはしない。


自分が行きたい道、
自分が幸せになる道、
自分が勝利していける道を
進むでしょう。


ところが、
人は人生の道の先に、
何があるか、わからない・・。

だから、
途方(とほう)にくれたり、
あきらめたり、
絶望(ぜつぼう)したりしてしまう。


そして、敗れていく人も多くいる・・・。


創価学会の
南無妙法蓮華経をとなえる
仏法(ぶっぽう)の信仰は、
いくつも分かれた道の先に、
何があるのか、
見えているのに似(に)ている。

見えていれば、
幸せになる道を進んでいける。
不幸になる道を避(さ)けることができる。

そして自分の夢や希望を
かなえて勝利していける。


そういう生き方ができるのが、
創価学会の
南無妙法蓮華経をとなえる仏法の信仰です。


もちろん、
幸せになっていくために、
さまざまな努力、
挑戦が必要なのは当(あ)たり前です。

また、
アニメ「シュガー・ラッシュ」の
ヴァネロペのように、
それを妨(さまた)げる、
さまざまな妨害(ぼうがい)があるかもしれません。

ある意味、
幸せにさせまいとする、
さまざまな勢力(せいりょく)が
自分の前に立ちはだかることも
あるかもしれません。

けれど、
ヴァネロペのように、
希望を持ち続け、
勇気と挑戦によって
立ちはだかる苦難(くなん)を、
乗り越えていったとき、
必ず幸せになっていけるのが
創価学会の信心です。

また、
創価学会の
南無妙法蓮華経の仏法を
実践していくことによって、
自分の中から自然(しぜん)に、
その「勇気」と「希望」を
湧(わ)き上がらせていくことができる!!

その、自分の中から
湧(わ)きあがってきた
勇気と希望によって、
どんな苦難(くなん)も乗り越(こ)え
勝利していけるようになっていく!!

その大元(おおもと)のエネルギーが、
創価学会の、
南無妙法蓮華経をとなえる、
仏法(ぶっぽう)の信仰だということです。


南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)は、
環境とか境遇(きょうぐう)とか、
運命とか宿命とか、
それらの軋轢(あつれき)や障害(しょうがい)の
上にある力(ちから)であり法則だと
言えます。

運命や宿命(しゅくめい)、
軋轢(あつれき)や障害の、
『上』にある力であるがゆえに、
悩みや困難(こんなん)を乗り越え、
夢や希望を、かなえていく
力(ちから)が、ある!!
ということです。

それが、『南無妙法蓮華経』であり、
『南無妙法蓮華経を、となえる』
ことだと言えます。


たとえば、
話しのよくわかる、
良い社長がいたとします。

会社内に、さまざまの問題があり、
ある社員が悩(なや)んでいる。

同僚(どうりょう)や課長や部長に話しても、
さまざまな思惑(おもわく)や
軋轢(あつれき)があって、
まったく解決しない。

けれど、その話しのよくわかる、
良い社長に話し、
訴(うった)えていったなら、
希望や要望(ようぼう)が
かなっていく可能性が高い。

今度は、ブラック企業(きぎょう)で、
社長も、頑固(がんこ)で、
話しのわからない社長だったとする。

けれど、その国の王がいて、
その王は、大変、優秀(ゆうしゅう)で、
善良(ぜんりょう)な王だったとする。

その優秀な国の王に、
問題を訴え、伝えることができたなら、
国が動き、
ブラック企業の問題が解決できる
可能性(かのうせい)もでてくる。

こんどは、国の王も、
暴君(ぼうくん)で、
どうしようもないような王だとする。

しかしその国の王の上には、
「宇宙(うちゅう)の王」がいて、
その宇宙の王は、
大変、優秀で、
ものわかりの良い、
素晴(すば)らしい王様だったとする。

宇宙の王から見れば、
地球の一国の王など、
小さな島の住人(じゅうにん)にすぎない。

だから、
その素晴らしい宇宙の王に
話しを伝え、訴えることができたなら、
宇宙の王が動き、
暴君の圧政(あっせい)を改(あらた)め、
民衆の希望や願いが、
かなっていく可能性も強くなる。

その『宇宙の王』が、
南無妙法蓮華経であり
南無妙法蓮華経の力だと、
たとえることができます。

だから、
南無妙法蓮華経をとなえることは、
願いや祈りを、
宇宙の王に伝え、訴えることになり、
宇宙の王を動かす行為(こうい)だと、
考えることができます。

宇宙の王に訴え、
宇宙の王を動かすのだから、
願いや祈りが、
かなわないわけがない!!!

宇宙の王は、
地球のちっぽけな王とは
比(くら)べものにならないほど
広大(こうだい)で無限の力を有(ゆう)していると、
考えられます。

その『宇宙の力(ちから)』を動かしたならば、
さまざまな悩みや問題も、
悠々(ゆうゆう)と解決できるのではないかと、
思われる。

それが、

『南無妙法蓮華経を、となえる』

ことだと、
たとえることができます。



ヴァネロペは、あきらめなかった。

絶対に負(ま)けなかった。

絶対に希望を捨てなかった。

それと同じように、
南無妙法蓮華経を、となえることによって、
絶対に負けない「生命力(せいめいりょく)」を
湧(わ)き上がらせていくことができる。

その「生命力」は、
強い強い「心(こころ)」、
希望の心、
幸せの心となって、
その人の人生を開花(かいか)していく。

その生命力、
強い強い心は、
悩みを解決し、
困難を乗り越えさせ、
夢や希望をかなえる
力(ちから)となっていく。

さきほど話した、
「一念三千の法則」によれば、
その強い強い心、
幸せの心によって、
世界が幸せに変わっていく。


自分にとって
希望に満(み)ちた世界に
変わっていく・・・!


それが、
創価学会の
南無妙法蓮華経をとなえる、
「仏法(ぶっぽう)」の信仰です。


それはあたかも、
アニメ「シュガー・ラッシュ」の中で、
ヴァネロペが、
虐(しいた)げられ、
のけ者にされている世界から、
自分が女王となり、
堂々(どうどう)と生きていく、
幸せと希望の世界に、
変えていったように・・・!!


・・・・・・・・・・・・・こころ(タイムマシンによろしく)・・・・・・・・・・・・・


タイムマシンによろしく202

2020-05-05 14:14:41 | アニメ
「シュタインズ・ゲート」という
アニメがあります。

この「シュタインズ・ゲート」という物語は、
映画やドラマ、アニメなどでは
よくある、
「タイムマシン」を題材にした話しですが、
携帯電話を使って、
過去にメールを送るというのが、
斬新(ざんしん)かもしれない。

主人公の岡部は、
ひょんなことから、
過去にメールが送れる
装置(そうち)を発明する。

しかし、過去にメールを送るたびに、
過去が変わり、
そのことによって現在も大きく変わる。
その繰(く)り返しの中、
最終的には、
取り返しのつかない大変なことに
なってしまうという、物語です。

たった一通(いっつう)のメールであったとしても、
過去にメールが送れるとしたら、
ひとりの人生、
あるいは世界を、
大きく変えることになってしまう。


場合によっては、
人の生死を変えることすら
可能となってしまう。


その繰(く)り返しの中、
世界が大きく変わり、
大きな事件をもたらす結果となってしまう。

このアニメの中では、このように説明している。

ひとつの人生、
あるいはひとつの運命、
ひとつの人生軸(じんせいじく)のもとに
形成(けいせい)された世界を、
ひとつの『世界線(せかいせん)』
ととらえる。

人間の人生、世界の成り行きを、
ひとつの『世界線』のうえに成(な)り立っていると
考えるわけです。

ところが、タイムマシンを使い、
過去に行って、
Aという人を殺したとする。

そうすると、その世界は、
今まで、Aという人間が
存在する「世界線」であったものが、
Aという人間が存在しない、
別の世界線へと移動する。


「世界線」が変わるわけです。


そうすると世界の歴史や、
さまざまな人間の人生までも
変わってしまう。

そう、とらえています。

そして、そのことを

『世界線が変わる』

と表現しています。


主人公の岡部が、
過去にメールを送ることによって、
その「世界線」が変わり、
その繰り返しの中、
とんでもない事件に巻(ま)き込まれる
ということです。

やがて岡部は、
仲間とともに、
メールではなく、
人間の記憶(きおく)を
過去に送る装置(そうち)を開発する。

肉体は無理でも
記憶を過去に送ることができれば、
ほとんどタイムマシンと
同じようなことができるということです。

そのことを、このアニメでは、
「タイムリープ(時間を跳躍[ちょうやく]すること)」
と表現しています。

そして、その装置をめぐり、
岡部の幼(おさな)なじみである、
マユリが殺されてしまう。

岡部は、マユリを助けるために、
タイムリープ・マシンを使い、
過去へと戻(もど)り、
マユリを救(すく)おうとする。

マユリを逃がし、
別の場所へと逃避(とうひ)する。

しかし、なぜだか、
同じ時刻になると、
マユリは殺されてしまった。

そして、岡部は、
そのたびにタイムリープを繰り返し、
過去に戻るが、
どんな手をつかっても、
どんな場所に逃げても、
暗殺者に殺されなかったとしても、
暗殺者が現(あらわ)れなくても、
マユリは同じ時刻になると、
必ず死んでしまった。


まるで、運命に殺されるかのように・・・。


このアニメの中では、このように説明しています。

一本のロープを
天井に吊(つ)るしたとする。

一本のロープは、一見(いっけん)、
一本に見えるけれども、
実際は、細い糸が何本も何本も
重(かさ)なって、一本のロープを
形成(けいせい)している。

その一本一本の細い糸が、
『世界線』だというのです。

一本一本の細い糸は、
それぞれが独立(どくりつ)した
糸ではあるけれど、
それがまとまったロープの到達点(とうたつてん)は、
必ず、天井に吊るした
到達点である『一点』にたどり着く。

一本一本の細い糸が、それぞれ違(ちが)うように、
かりに「世界線」が違ったとしても、
最終的には、
同じロープの到達点、
「一点」にたどり着いてしまう。

すなわち、最終的な結果を
変えることは、できない!
ということです。

ゆえに、岡部が過去に戻り、
どんなにマユリを助け、
行動を変えても、
最終的な到達点である
「マユリの死」を変えることができない・・・!


このような、
どうしても避(さ)けることのできない
宿命(しゅくめい)のようなものを、
創価学会が実践する「仏法(ぶっぽう)」では、
『宿業(しゅくごう)』といいますが、
小手先(こてさき)で、どんなに手を尽(つ)くしても、
どんなにお金を使っても、
ありとあらゆる方法を駆使(くし)したとしても、
変えられないのが、
悪(あ)しき運命といえる
『宿業(しゅくごう)』です。

では、宿命とも宿業ともいえる、
「マユリの死」を、
どうやって回避(かいひ)し、
変えていくのか・・・?

このアニメでは、こう説明している。

たとえ過去に戻り、
世界線を変えたとしても、
その世界線が、
一本のロープのような
一点の結果に向かう世界線であるならば、
結果を変えることはできない・・!

宿命とも運命ともいえる、
その変えられない結果を変えるためには、
一本のロープに束(たば)ねられた世界線ではなく、
別の違うロープに束ねられた世界線に
移動するような
大きな変化をもたらさなければならない。

すなわち、別の、もう一本のロープに
飛び移(うつ)るような、
大きな、
劇的(げきてき)な変化が
必要となる。

その大きな劇的な変革(へんかく)を
成し遂(と)げないかぎり、
「マユリの死」という
結果を変えることは、できないと・・。

そして、その劇的な変化を起こすために、
この物語は
展開(てんかい)されていくわけです。


かりに、世界線という運命の糸を、
少し変えることができたとしても、
その到達点である
結果を変えることは、できない・・・。

先ほど言ったように、
このようなどうしても変えられない
悪(あ)しき宿命を、
宿業(しゅくごう)と言いますが、
この「宿業」を打ち破(やぶ)り、
変えないかぎりは、
未来は開けない。

人は、この宿業があるから、
苦しみ、敗れ、
不幸に沈(しず)んでいく・・
と言えます。

そして、その宿命を変えるためには、
世界線の集まった一本のロープから、
別の世界線のロープに飛び移るような、
劇的な変革が必要となる・・・!


実はその、
世界線の集まった、
宿業という結果を変えられない
一本のロープから、
宿業を打ち破り宿命を変えることのできる
別の世界線のロープに
飛び移るようなことを可能にする、
唯一(ゆいいつ)の方法といえるのが、
創価学会(そうかがっかい)が実践する、
南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)
をとなえる、
仏法(ぶっぽう)の信仰であり、
その仏法の実践活動である
創価学会の活動なんです。

南無妙法蓮華経とは、
南無妙法蓮華経という
法則(ほうそく)であり力とは、
この宿業を打ち破り変えることのできる
力(ちから)であり、
法則だと、
言えます。

創価学会の人たちは、
その
『南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)の仏法』
を実践しているから、
幸せになっていけるんです。

どうしても変えられなかった
宿業を打ち破り、
宿命を転換(てんかん)して、
幸せをつかんでいけるんです。

そして、そういう偉業(いぎょう)を
創価学会のひとりひとりが、
ことごとく!
やってきたのが、
創価学会の歴史です。

だから、創価学会は
発展しているのであり、
世界192カ国に広がっているんです。


別に、タイムマシンがなくても、
世界を、
平和に、幸福に、変え、
ひとりひとりの悩みを解決し、
夢や希望をかなえさせ、
最高の幸せをつかませてきたのが、
創価学会です・・・。

あえて例(たと)えるならば、
このアニメでいう、
世界線の集まった一本のロープから、
別の世界線のロープに
飛び移るような変化を、
現実の世界で実現してきたのが、
創価学会だと
言うこともできます。

また、それを可能にするのが、
創価学会が実践(じっせん)する、
南無妙法蓮華経をとなえる、
仏法(ぶっぽう)の信仰だということです。


・・・・・・・・・・・・・こころ(タイムマシンによろしく)・・・・・・・・・・・・・

このアニメでは、
過去を変えることによって、
未来を変えていった。

けれど、未来を変えるのだったら、
別に、
過去を変える必要はない・・。


すなわち、「今」を変えればいいわけです。


そして、その「今」を劇的に変えていく、
究極(きゅうきょく)にして最大の力が、
創価学会が実践している、
南無妙法蓮華経をとなえる、
仏法(ぶっぽう)の信仰です。


創価学会が実践している、
その「仏法(ぶっぽう)」では、
『一念三千(いちねんさんぜん)』
という法則を、
説いています。

『一念三千』とは、
心の違(ちが)いによって、
違う三千の世界ができあがる!
という生命の法則です。

どういうことかというと、
もし、本当に
「こころ」を変えることができたとしたら、
その人の世界は
変わっていく!!
ということです。

そしてその「こころ」を
本源的(ほんげんてき)に、
本当に変えていける
唯一(ゆいいつ)の力と言えるのが、
創価学会の人たちがとなえている
『南無妙法蓮華経』です。

その南無妙法蓮華経をとなえているから、
創価学会の人たちは、
心を変え、
そのことによって自分の世界を変え、
不幸から幸せへ、
絶望から希望へと、
人生と未来を変えていけるわけです。


このアニメの物語は、
架空(かくう)の物語であり、
ありえない話しです。

けれど、仏法で説く
「一念三千」の法則の、
説明に利用することは、
可能です。

創価学会の人たちが、
ご本尊(ほんぞん)に、
南無妙法蓮華経をとえなえていく時、
南無妙法蓮華経とは、
生命を、心を、
本源(ほんげん)から
劇的に変革していく力なので、
南無妙法蓮華経をとなえていくことによって、
その人の「こころ」が、
パッと変わる。

簡単に言えば、
不幸だった心が、
幸せに変わるわけです。

一念三千の法則から言えば、
こころが変わるということは、
その人の世界が変わる!
ということです。

シュタインズ・ゲートというアニメで言えば、
『世界線』が変わる!
わけです。

心が変わることによって、
いままで不幸なる世界線にいたものが、
別の、
幸せをもたらす世界線に
変わる!わけです。

かりに、
その変化が最初は目だたない、
ごくわずかの違いだったとします。

けれどそれでも、
最初にいた不幸なる世界線には、
その人はもう、いない!
と考えられます。

こころが変わったことによって、
その人の世界が変わり、
世界線が変わったと考えるわけです。

そして、その世界線が変わった世界で、
また創価学会の
南無妙法蓮華経をとなえる
信仰をやっていくことによって、
また「こころ」が変わり、
世界が変わっていく。

その時点でまた
世界線を移動し、
「世界線」が変わるわけです。

そして、その世界線が変わった世界で、
また南無妙法蓮華経をとなえていった時、
また「こころ」が変わり、
世界が変わっていく。
そしてまた世界線が変わっていく。

幸せの方向へ、
幸せの方向へ、
どんどん世界線を移動していくと、
考えることができます。

そして、その人のいる世界線は、
どんどん分岐(ぶんき)していき、
最初にいた
「不幸なる世界線」とは、
遥(はる)かにかけはなれた
『大いなる幸せの世界線』
に移動している!!と、
とらえることができます。


だから、
幸せになっていける。
勝利していける。
最初の不幸なる自分とは、
かけ離れた、
素晴らしい幸せを
つかんでいけるわけです。

そして、そういう変化を
現実の上で可能にするのが、
創価学会が実践している、
南無妙法蓮華経をとなえる、
仏法の信仰だということです。


そして、最も重要なことは、
この、
創価学会が実践している、
『南無妙法蓮華経をとなえる仏法』
の信仰は、
宿命を変え
宿業(しゅくごう)を打ち破ることのできる、
唯一(ゆいいつ)の方法だと
いうことです。


ゆえに、
どうしても変えることのできない
宿命、宿業(しゅくごう)が
立ちふさがったとしても、
シュタインズ・ゲートの中で言う、
一本の、宿命を変えられない
世界線のロープから、
運命を変え
宿業(しゅくごう)を打ち破ることのできる、
別の世界線のロープに
飛び移るような
劇的な変革を、
もたらすことができる。

そして、宿業(しゅくごう)を打ち破り、
新(あら)たな、
最高の幸せと勝利を、
つかんでいける!!


創価学会の、
南無妙法蓮華経をとなえる
仏法の信仰が、
『宿命転換(しゅくめいてんかん)』
『人間革命』を、
可能にするわけです。


それはあたかも・・、
アニメ・シュタインズ・ゲートの中で、
主人公たちが、
マユリを死から救うために、
世界線を大きく変える、
劇的な変革を、
もたらしていったように・・・。


・・・・・・・・・・・・・こころ(タイムマシンによろしく)・・・・・・・・・・・・・


タイムマシンによろしく196

2017-04-01 13:56:33 | アニメ
人気のあるマンガ、
あるいはアニメに、
「進撃(しんげき)の巨人」
というのがあります。

その「進撃の巨人」の中で、
「女型(めがた)の巨人」というのが
出てきます。

女型の巨人は、
強力な敵(てき)で、
最終的に、この女型の巨人と
主人公であるエレンは、
戦うことになるのだけれど、
その女型の巨人の正体が、
軍の訓練兵として、
3年間、同じ釜の飯(かまのめし)を
食べた仲間である、
アニであることを知って、
エレンは戦うことができない。

エレンの巨人化の能力を
使うためには、
確固(かっこ)たる目的が必要で、
目的がはっきりしないと、
エレンは巨人化の能力を
使うことができない。

敵であるアニが、
訓練兵時代の仲間であったために、
それがブレーキとなって、
どうしても巨人化することができない。

最終的には、他の仲間の
叱咤激励(しったげきれい)によって、
エレンは巨人化して、
アニと戦うが、
エレンが躊躇(ちゅうちょ)し
巨人化できなかったのも、
ごもっともだとも思う。


何かの明確な目的がないと、
どんなにスゴイ力(ちから)も
使うことができない・・・。

明確な目的を持って、
本当にそうしようと思わないかぎり、
その力を使うことができない。


確かにそれは、うなずける。


目的もなく、本当にも、
そう、思っていなかったら、
その力が出てくるとは
思われないからです。

また、自分が、
目的のもと、
本当にそうしようと思うから、
その力を発揮していくことができる。


これは、アニメやマンガの
中だけの話しではなくて、
現実の中でも、
そうだと思う。


人は、何かの目的を持って、
ほんとうにそうしようと思わなかったら、
その力を発揮(はっき)することができない。

目的に目覚(めざ)め、
ほんとにそうしようと思うから、
そのように行動し、
それを成し遂(と)げていく。

はっきりとした目的意識をもって、
ほんとうにやろうと思う時、
そのための、
さまざまな知恵や能力を発揮し、
自分が実現したいことを
成(な)し遂げていく。


それが、人間というものだと思う。


けれど、
それが難(むずか)しいのも、
現実だと思う。

だから、幸せになりたいのに、
なかなかなれないことも、
多々(たた)あると思う。

また、
不幸に沈(しず)んでいってしまう人々も、
多くいる・・。

やはり、幸せになっていくためには、
明確な目的意識と、
それを開花させていくための
『方途(ほうと)』が、
必要になってくると思う。

その明確な目的意識と、
それを実現していくための
方法と行動が噛(か)み合っ時、
人は幸せになっていけるのではないか・・!
と思う。


実は、その、
幸せに対する明確な目的意識と、
それを実現していく究極(きゅうきょく)の方法が、
創価学会(そうかがっかい)が実践している、
南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)
をとなえる、
仏法(ぶっぽう)の信仰なんです。

創価学会が実践(じっせん)する、
南無妙法蓮華経をとなえる
仏法の信仰は、
自分の中に、
幸せに対する最高の目的意識を
もたせてくれる。

目的意識を持つというよりも、
南無妙法蓮華経をとなえていると、
自分の中から、
幸せになろうとする、
「最高の意識(いしき)」が、
自然に湧(わ)き上がってくる。

やがて自分の中から
湧き上がってきた
「幸せに対する最高の意識」は、
さまざまな知恵や勇気、
行動となって、
その人を動かし、
結果として、
その人を幸せにしていってしまう。


南無妙法蓮華経をとなえることは、
自分の中から、
幸せに対する最高の意識を
目覚(めざ)めさせ、
幸せに対する最高の目的、
また、幸せに対する最高の生命力、
最高の勇気や知恵をもたらし、
それは、自分の中から、
さまざまな力(ちから)、
能力や可能性を
発揮(はっき)することになっていき、
そうなった時、
おのずから、
その人は、
幸せになっていくことができる。


それが、
創価学会が実践している、
『南無妙法蓮華経をとなえる、仏法の信仰』
だということです。

また、南無妙法蓮華経を
となえることの可能性と力(ちから)は、
無限大なので、
南無妙法蓮華経をとなえていくことによって、
自分だけでなく、まわりの人々、
環境や世界からも、
幸せをもたらす、
さまざまな可能性を引き出し、
それは、結局(けっきょく)、
自分のいる世界、
環境を幸せに変えていくことになる。


ゆえに、勝利していける。
幸せになっていける。


・・・・・・・・・・・・・こころ(タイムマシンによろしく)・・・・・・・・・・・・・

進撃の巨人の中の
エレンのように、
人は人生において、
戦うか戦わないかの、
瀬戸際(せとぎわ)に立たされる時が、
ある・・・!!

その時に、勝つか負けるかは、
その人の中にある、
『目的意識』にかかっている。

その『目的意識』が、
真(しん)に正しく、
強靱(きょうじん)なものであるならば、
その人は、どんな瀬戸際(せとぎわ)に
立たされたも、
戦うことができる。

そして、勝つこてができるだろう。

その最も正しく、
最も強靱(きょうじん)な
目的意識を持つことができるのが、
この創価学会の、
南無妙法蓮華経をとなえる、
仏法(ぶっぽう)の信仰だと、言えます。

幸せと平和に対する、
これ以上素晴らしく、
これ以上強靱な目的意識は、
ありません!!

また、幸せと平和に対する、
これ以上の希望であり、
エネルギーもありません。

幸せと平和に対する、
無限(むげん)の力(ちから)となるもの!

それが、
創価学会の、
仏法(ぶっぽう)の信仰です。


だから、創価学会の人たちは、
幸せになっていけるんです・・!

また、創価学会の信仰と、
他の信仰との違(ちが)いは、
ここにあります!!!

どんな苦難(くなん)の中でも、
どんな絶対絶命(ぜったいぜつめい)
の時であろうとも、
平和と幸福に対する、
最高の目的意識をもって、
立ち上がることができる。

エレンが立ち上がったように・・!

そして、勝利していける!!!


・・・
重要なことは、
創価学会が実践している、
『南無妙法蓮華経をとなえる』
という仏法の実践が、
自分の中から、
幸せに対する最高の目的意識を、
『現実に、湧(わ)き上がらせる!!』
ということです。

そして、それにともない、
幸せをもたらすための
最高の生命力、
最高の勇気、
最高の知恵が、
実際に湧(わ)き上がってくる!
ということです。


それは結局、
自分の中から、
さまざまな可能性を
発揮していくことにつながり、
やがて、悩みの解決や、
夢や希望の実現など、
さまざまなことを可能にし、
その人に
勝利と幸せをもたらしてくれる。


あたかもそれは、
「進撃の巨人」の中で、
エレンが、明確な目的を持った時、
巨人化という、とてつもない力を
発揮できたように、
大きな大きな可能性と力を、
発揮してくれる・・・。


・・・・・・・・・・・・・こころ(タイムマシンによろしく)・・・・・・・・・・・・・

タイムマシンによろしく184

2016-01-05 08:22:45 | アニメ
人気のあるアニメで、
「魔法少女まどか☆マギカ」という
アニメがあります。

この物語は、
魔法(まほう)少女に対するあこがれを、
逆手(さかて)にとったような
ダークな内容ですが、
通称(つうしょう)キュウべえという宇宙生命体が、
少女に、どんな願いでも、
ひとつだけ叶(かな)えてあげるかわりに、
魔法少女となって
魔女と戦ってほしいという、
契約(けいやく)を結(むす)ぶ物語で、
少女たちは、
自分の願いをかなえるために、
魔法少女となって、
魔女たちと戦うことになる。

魔法少女となったものは、
魔女の呪(のろ)いを受けることになり、
ほっておいたら、その魔女の呪いによって、
自分が死んでしまうことになる。

けれど、魔女を倒すと、
ある種の生命を浄化(じょうか)する
アイテムが手に入り、
そのアイテムによって、
自分の生命を浄化して、
生きながらえることができるという話しです。

だから、魔女と戦い、
魔女を倒(たお)すしかない・・。

それでも、このアニメの中で、
魔女は、呪(のろ)いによって
人間の命を奪(うば)う、
悪そのもののような存在なので、
魔法少女たちは、
その悪である魔女を倒して、
人々と、この世界を守るという
正義(せいぎ)と使命感(しめいかん)があり、
それが、彼女たちの
支(ささ)えになっていた。

けれど、魔法少女たちは、
やがて、
その悪そのものである「魔女」が、
実は、魔法少女のなれのはてであることを、
知ってしまう。

魔女とは、実は、
魔法少女の生まれ変わりであり、
魔法少女たちは、
魔女の呪(のろ)いによって、
最終的には、
「魔女」になってしまう。

すなわち、自分たちは、
世界のため、人々のためと思い、
正義と希望をいだいて、
魔女と戦ってきたのに、
結局(けっきょく)、自分たちが、
人間を呪い、殺していく
魔女になることがわかってしまい、
正義と希望が、
完全に打ち破(やぶ)られてしまう。


そして、魔法少女たちは、絶望(ぜつぼう)していく。


そして、最後の最後、
魔法少女になることを拒(こば)んでいた
マドカは、
魔法少女となることを
決断する。


ひとつの願いと、ひきかえに・・・。


その「マドカ」が叶(かな)えてほしい願いとは、

「過去から現在にいたるまで、
魔法少女から魔女が誕生する前に、
すべての魔女を
消滅(しょうめつ)させてほしい!!」

・・ということだった。

そうなれば、魔法少女たちは、
自分が死ぬ時に、
自分が魔女になるという絶望をいだかず、
希望と正義をもって、
安らかに死んでいける・・。


「魔法少女たちの希望と正義を
 奪(うば)わないでほしい・・」


それが、マドカの願いだった・・。


そのマドカの願いは、
かなえられるが、
その願いがあまりにも壮大(そうだい)であるため、
マドカは、人間としての
個体を保(たも)つことができず、
宇宙のある種の法則(ほうそく)、
概念(がいねん)となって、
宇宙の中に溶(と)けこんでいく。


マドカは、いわば、
魔法少女の希望となって、
宇宙に消えていった。


そうして、魔法少女たちは、
絶望をいだくことなく、
死んでいけるようになっていく。


絶望から、希望へ。

マドカの願いは、
この絶望を消し去り、
希望を生み出すことだったのかもしれない。

あらゆる人々の中から、
絶望を消し去り、
希望を生み出す・・・。


わかりやすい譬(たと)えだから
言うのだけれど、
創価学会(そうかがっかい)の人々がとなえている、
『南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)』とは、
そういう力(ちから)だと思う。

すべての人の中から、
絶望を消し去り、
希望を生み出してしまう!


それが、『南無妙法蓮華経』の力です。


だから、創価学会の人たちは、
『南無妙法蓮華経を、となえる!』
ことによって、
どんな苦難(くなん)も乗り越(こ)えていくことが、
できる。

どんな絶望も打ち破(やぶ)り、
希望を生み出し、
そして人生に勝っていける。

南無妙法蓮華経をとなえることは、
無限の希望をもたらすので、
結果として、それは、
自分のさまざまな夢や希望も、
かなえていけるようになっていく。


南無妙法蓮華経の力は、
計(はか)り知れないので、
それだけではないけれど、
希望を生み出す力、
絶望を打ち破る力が、
南無妙法蓮華経だと言えます。



話しは少し変わりますが、
このアニメのストーリーの中で、
「祈れば祈るほど、呪(のろ)われていく・・」
というような表現がでてくる。

確かに、デタラメな宗教、
間違(まちが)った宗教においては、
そう表現(ひょうげん)しても、
いいかもしれない・・。

間違った宗教、デタラメな宗教に
祈るということは、
その間違った宗教、デタラメな宗教に、
自分の生命と人生を、
ささげていくことになる。

間違った、デタラメの宗教に、
自分の生命と人生をささげていったならば、
当然(とうぜん)の結果として、
自分の生命と人生は、
間違った、デタラメなものになっていく。

自分の生命と人生が、
間違ったデタラメなものになっていったならば、
その結果として、
さまざまな不幸が、
もたらされてしまう・・!
ということです。

だから、それは、結果として、
「祈れば祈るほど、呪(のろ)われていく」
ということになってしまう。


それが、
間違った宗教、
デタラメな宗教というものです。

そして、その間違った宗教、デタラメな宗教が、
日本にはびこっている、
葬式仏教(そうしきぶっきょう)や神社信仰、
観光宗教などです。


それとは逆(ぎゃく)に、
『祈れば祈るほど、幸せになっていく!』
『祈れば祈るほど、希望を生み出していける!』
のが、さっきも言ったように、
創価学会の人たちが実践(じっせん)している、
南無妙法蓮華経の仏法(ぶっぽう)です。

南無妙法蓮華経とは、
希望の法則なんです・・!


間違った宗教、デタラメな宗教のように、
祈れば祈るほど、
不幸になっていくようなことは、
あってはならない!

本当に幸せになっていける宗教。
本当に悩みを解決していける宗教。
本当に希望をかなえていける宗教が
求められる。

そして、それが、
創価学会が実践している、
南無妙法蓮華経をとなえる、
仏法の信仰です。


・・・・・・・・・・・・・こころ(タイムマシンによろしく)・・・・・・・・・・・・・

このアニメで、マドカは、
魔法少女たちの絶望を消し去り、
希望となった。

それは、アニメの中の話しだけに、
あまりにも壮大(そうだい)で、
宇宙規模(きぼ)の物語だけれども、
それと同じように、
壮大なエネルギーが、
ぼくたち人間の中にもある!!


その壮大な希望のエネルギー・・!

それが、『南無妙法蓮華経』だと言える。


絶望を打ち砕(くだ)き、
希望を生み出す、
壮大(そうだい)な壮大な、
希望のエネルギーが、
『南無妙法蓮華経』だと
表現できます。

だから、ぼくたちが、
南無妙法蓮華経をとなえる時、
ぼくたちの中から、
その壮大なエネルギーが湧(わ)き上がってくる。

それは、人間が持っている
本源的(ほんげんてき)なエネルギーとも
言えますが、
その人間が本来(ほんらい)持っている
本源的なエネルギーが
湧(わ)き上がってくるから、
悩みを解決していけたり、
困難(こんなん)を打開(だかい)できたり、
夢や希望をかなえていけたりするわけです。

そして、幸せと勝利をつかんでいける・・!!


あえて、譬(たと)えるならば、
アニメ「魔法少女まどか☆マギカ」の中で、
マドカが、 自(みずか)ら、
宇宙の力、宇宙の法則(ほうそく)となって、
宇宙をかけめぐり、
魔法少女たちの絶望を消し去り、
希望を生み出していったように、
ぼくたちが、南無妙法蓮華経をとなえる時、
宇宙の希望のエネルギーが、
ぼくたちの生命の中を、かけめぐる。

そして、絶望を消し去り、
希望を生み出していく。

その本源的で、
宇宙的とも言える、
幸せのエネルギーであり希望のエネルギーが、
『南無妙法蓮華経』であり、
絶望を消し去り、
希望を、どこまでもどこまでも
開花していける方法が、
創価学会の人たちが実践している、
南無妙法蓮華経をとなえる、
仏法(ぶっぽう)の信仰だと、
いうことです。


それは、あたかも、
アニメ「魔法少女まどか☆マギカ」の中で、
マドカが、
魔法少女たちの
絶望を消し去り、
希望を、生み出していったように・・・。


・・・・・・・・・・・・・こころ(タイムマシンによろしく)・・・・・・・・・・・・・