タイムマシンによろしく!!

明日は、タイムマシンがなくても、やってくるから・・。

タイムマシンによろしく162

2014-07-24 09:16:38 | アニメ
このまえ、ビデオで
「ゲド戦記」という、
アニメ映画を、見ました。

この中で、
死を恐(おそ)れ、永遠の命を求めて、
暗黒の世界に身を投(とう)じてしまった、
クモ(人の名前)という魔法使い(まほうつかい)が、
登場します。

どういうことかというと、
クモは、死を恐れるがゆえに、
現実の世界で、
精一杯(せいいっぱい)、生きることを拒否(きょひ)し、
暗黒の(悪魔の)魔法を使って、
人間としてというより、
化け物(ばけもの/おばけ)として、
永遠に生きようとしていきます。

しかし、悪の魔法使い、クモの野望も、
魔法使いの賢人(けんじん)「ゲド」と、
この映画では、
永遠の生命の象徴(しょうちょう)として描かれている、
龍(りゅう)の化身(けしん)である、
少女「テルー」によって、
打ち砕(くだ)かれ、
クモは、滅(ほろ)び去(さ)っていきます。


生と死、
よく、アニメなのでは、
このテーマが、わかりやすく、
とりあげられているけれど、
これほど、難(むずか)しく、
これほど、重要なテーマは、
確かに、ないと思います。

しかし、死とは、
生きるという感覚を、失(うしな)わないかぎり、
体験することは、当然、
できないので、
それを、理解することは、
不可能に近いかもしれない。

いったい、生と死を、
どうやって、とらえたらいいのか?
こんなこと、人は、
正直、考えたくないかもしれませんが、
あえて、少し、考えていきたいと思います。

池田先生(創価学会インターナショナル会長)が、
この生と死について、
日蓮大聖人(にちれんだいしょうにん)の御書の中にある、
(御書(ごしょ)とは、日蓮大聖人が書かれた、
 論文や手紙を、すべて集めたものです)
『生死一大事血脈抄』の講義(こうぎ)の中で、
説明されています。

死の、とらえ方は、
一般的に、二つあるそうです。

ひとつは、
死ねば、無(む)に帰(き)するという考え。

もうひとつは、
死んでも、不滅の霊魂(れいこん)が、
続くという考え方です。

けれど、
釈尊(しゃくそん/しゃか/ブッタ)は、
死とは、その、どちらでもない!と、
言っています。

ここに、仏法(ぶっぽう)の不思議と、
真髄(しんずい)が、
あるような気がします。

まず、
死ねば、無に帰するという考えでは、
死への恐怖や、死に縛(しば)られた不安から、
永久に解放(かいほう)されることは、
ありません。

次に、自分の霊魂(れいこん)は、
不滅(ふめつ)であるという考えは、
往々(おうおう)にして、
「今の自分が、そのままで、
 不滅でありたい!」という、
安易な欲望の表現に過(す)ぎないことが、多い。

だから、結果的に、
自分を高める知恵にはならず、
かえって、今の自分への執着(しゅうちゃく)を増し、
迷(まよ)いと苦しみを、深めるだけに、
終わってしまう。

だから、
「死ねば無に帰する」という考えも、
「不滅の霊魂が残る」という考えも、
生きる支え(ささえ)にはならず、
むしろ、『死』をめぐる迷(まよ)いを、
深める結果になってしまう。

これでは、なんにもならない!
死に対する考え方は、
生きることを、より輝(かがや)かせ、
より充実(じゅうじつ)したものにするものでなければ、
何の意味もない!

すなわち、
死の苦しみを、乗り越(こ)えることができる、
『生死観(しょうじかん)』でなければ、
人間の生命を、解放することは、
できない!!!


結論から言ってしまうと、
この死の苦しみを、
乗り越えることのできる法則(ほうそく)!
生命解放の法則が、
『南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)』
なんです。

むずかしいと思いますが、
南無妙法蓮華経は、略(りゃく)して、
『妙法(みょうほう)』と、いいます。

その「妙(みょう)は死」、
「法(ほう)は生」を、
表(あらわ)しています。
妙法そのものが、
南無妙法蓮華経そのものが、
生と死の二法をつかさどる、
法則そのものだと、言うのです。

言い換(か)えれば、
生も死も、永遠の法則(ほうそく)であり、
この生と死の繰り返(くりかえ)しを、もたらしている、
永遠の法則が、
『南無妙法蓮華経』だと、
言うことだと思う。

生と死は、あらがうことのできない、
「宇宙のリズム」だと、いうことです。

無数の生命の生死、
あらゆる現象の起滅(きめつ)、
さまざまな次元(じげん)に起こる
因果(いんが)の法則、

その宇宙全体の調和と躍動(やくどう)が、
宇宙のリズムであり、
その宇宙のリズムが、
『南無妙法蓮華経』という、法則なんです。

だから、この南無妙法蓮華経の法則から、
のがれられる生命は、
ひとつも、一人も、いない!
ということです。


南無妙法蓮華経は、生の法則でもあり、
死の法則でも、あります。

生も死も、
南無妙法蓮華経という法則の上に、
なりたっている!ということです。

だから、ぶっちゃけて言ってしまえば、
死の苦しみを乗り越えていくためにも、
また、生きていくうえで、
自分の生命を、完全に解放し、
幸せに生きていくためにも、
この『南無妙法蓮華経』の法と共(とも)に、
生きるしか、ない!!ということです。

単純に言えば、
南無妙法蓮華経を、となえて生きる以外、
生死の苦しみを、解(と)き放(はな)ち、
最高に歓喜した生き方をする方法は、
ない!!と、いうことです。


仏法(ぶっぽう)では、
『生も歓喜(かんき)、死も歓喜』と、言います。

生を、最高に歓喜させ、
素晴らしいものにするために、
『死』は、存在し、
『死』が、最高に歓喜した、
素晴らしいものになったとき、
『生』は、最高に輝き、
充実(じゅうじつ)したものになる。


いわば、『死』は、
『生の断絶(だんぜつ)』ではなく、
『生の完成』となっていく。

そうなったとき、
死は、より深く、より新しい生への、
素晴らしい旅立ちとなっていく!!!


それが、仏法(ぶっぽう)の生死観です。


・・・・・・・・・・・・・こころ(タイムマシンによろしく)・・・・・・・・・・・・・

仏法では、「永遠の生命」を、説いています。
といっても、それは、
自分の霊魂が、不滅であるということでは、
ありません!
死んで霊魂が残るというのなら、
自分の経験や思い出、
自分の中にあるすべての思念(しねん)が、
そのまま、継続(けいぞく)することになります。
けれど、そうではない。
生命は永遠であるけれど、
死んでまた、生まれてくるといっても、
死んだ時の、自分であるという証(あかし)である、
自分の中のすべての思念は、
いったん、パッと消えて無くなってしまっている。

けれど、その核(かく)となるもの、
生命の本源的なものは、けっして、
消えていないで、残っている。
すなわち、それが、
その人の幸せを、つかさどる、
幸せのエネルギー、『福運(ふくうん)』と、
逆に、不幸を、つかさどるエネルギーと言える、
『宿業(しゅくごう)』です。
(宿業とは、不幸にならざるえないような、
 "宿命(しゅくめい)"のようなものです)

この『福運』と『宿業』は、
そのまま、
その人の生命の核(かく)に、残っていて、
その人の人生と生命に、
決定的な、大きな影響(えいきょう)を、
与(あた)えていく。

その、『福運』を、
つかさどる法則が、
『南無妙法蓮華経』であり、
逆に、『宿業』を、
つかさどる法則も、
『南無妙法蓮華経』だと、
言えます。

だから、
自分に福運を、つけるためには、
絶対に、南無妙法蓮華経が、必要になっていき、
逆に、宿業を、打ち破(やぶ)るためにも、
必ず、南無妙法蓮華経が、
必要となっていく。

これが、南無妙法蓮華経という法則であり、
エネルギーです。


さきほども言ったように、
『南無妙法蓮華経』は、
生の法則でもあり、死の法則でもあります。
そして、
死に対しても、生に対しても、
決定的な役割(やくわり)を、持っているのが、
南無妙法蓮華経なんです。

すなわち、
この南無妙法蓮華経を、はなれて、
本当の幸福、
最高に輝き、素晴らしい価値(かち)を持った、
真実の『大いなる生死』を生きる方法は、
ない!ということです。

この、南無妙法蓮華経と共に、
生きてゆく「生死」のことを、
『妙法蓮華経の生死』と、いいます。

そして、この、
『妙法蓮華経の生死』以外に、
死の苦しみを乗り越え、
自分の生命を解放し、
本当の意味での生きがい!
本当の意味での幸せ!
本当の意味での生きる価値!
本当の意味での「死の意味」を、
つかむ方法はなく、
また、これ以上に幸せで、
素晴らしい生き方もない。


映画「ゲド戦記」の中で、
少女テルーが、
「命を大切にしないやつなんて、
 大嫌いだ!」
と、叫(さけ)びますが、
死を恐れ、逃避(とうひ)して、
現実の生を、ないがしろにしたり、
どうせ死ぬんだからと、
自分の生を、粗末(そまつ)に、あつかう生き方は、
間違っているし、不幸です。

そうではなく、
生きて生きて生き抜(ぬ)いて、
生命の価値を感じながら、
本当に輝(かがや)いて生きる生き方、

それが、
南無妙法蓮華経を、となえて生きる、
創価学会(そうかがっかい)の生き方であり、
その生き方が、そのまま、
最高の死へと、結実(けつじつ)していく。



生と死を考えるのは、
難しいようでもあり、自分の人生には、
あまり、関係ないようにも、思えてきます。

けれど、この生死の法則である、
「南無妙法蓮華経」は、
そういうことではない・・!

この生死の、生命の法則である、
南無妙法蓮華経をとなえる仏法(ぶっぽう)を、
実践(じっせん)していくことによって、
本源的(ほんげんてき)な、根本のものが解決していくので、
また、自分の中から、
本源的な根本の力(ちから)が復活(ふっかつ)し、
湧(わ)き上がってくるがゆえに、
悩みを解決していけ、
自分の夢や希望も、
かなえていけるようになっていくんです。

その、究極(きゅうきょく)の、
根本的な力が、
『南無妙法蓮華経』
だということです・・・!!!

すなわち、
南無妙法蓮華経をとなえる生き方は、
その人に、
最高の幸せを、もたらす!
ということです。


今日は、確かに、むずかしい話しをしたので、
納得(なっとく)いかないかもしれませんが、
もし、本当に納得したかったら、
単純な言い方をすれば、
『本当の幸せ』を、つかみたかったならば、
創価学会に入って、
ご本尊(ほんぞん)に、南無妙法蓮華経を、
となえぬく以外ない!ということだけは、
断言(だんげん)しておきたいと思います・・・・・。


・・・・・・・・・・・・・こころ(タイムマシンによろしく)・・・・・・・・・・・・・

タイムマシンによろしく161

2014-07-10 09:23:54 | 世界
松下幸之助といえば、
知らない人は、いないほどの大実業家です。

極貧(ごくひん)の環境から一代にして巨大企業、
「松下電気」を、築(きず)き上げ、
(今の、パナソニックです。)
「経営の神様」と称(しょう)され、
経済界に多くの影響を与えつづけた人物です。

けれど、その松下幸之助が、
創価学会(そうかがっかい)のインターナショナル会長である、
池田大作先生を、心の底から尊敬し、
心酔(しんすい)していたことは、
あまり、知られていないようです。

松下幸之助は、池田先生よりも、
20歳も、年上でしたが、
池田先生を、求めて、
創価学会本部や、聖教新聞社に、
おもむいたり、
また、ハワイで行われた、
創価学会インターナショナルの総会などにも、
老齢を押して、
池田先生を、求めるために、
参加している。

松下幸之助は、言っていた。

「この乱(みだ)れた日本を救い、
世界の平和と繁栄(はんえい)を築いていく人は、
池田先生の外に、ありません!」


あるとき、
松下幸之助は、
自分の茶室に、池田先生を、招(まね)くことにした。

松下幸之助は、
「池田先生に、この廊下(ろうか)を通っていただき、
 この景色を、見てもらう。
 ここに、飾(かざ)りを置き、ここには、花を、
 そして、ここを、通って、ここに向かう・・・」
と、ひとつひとつ、きめ細かく、
部下たちに、指導してまわった。

松下幸之助は、普通は、
そういうことを、しないのだけれど、
池田先生だから、そこまで、気を使った。

松下幸之助は、言った。
「接待と接遇(せつぐう)は、違うのだ!
 大切な人には、
 最大限の気配(きくば)りと誠意を、
 つくすのだ!!」

と。

池田先生は、
松下幸之助にとって、
それほど、大切な人だった。

あるとき、
松下幸之助が、池田先生を求めて、
創価学会の会館に行ったとき、
松下幸之助は、具合が悪くて、
倒(たお)れてしまった。

まわりにいた人たちは、
驚(おどろ)き、心配したが、
池田先生が、
松下幸之助の背中を、さすりながら、
10分くらい、
南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)を、
となえ続けたところ、
松下幸之助は、意識を回復し、
元気を、取り戻(もど)した。

そのとき、
松下幸之助は、池田先生に言った。

「ありがとうございます。
 先生は、わたしの恩人(おんじん)だから、
 これからは、池田先生のことを、
 『おとうさん』と、呼ばせてください!」

松下幸之助は、池田先生よりも、
20才も年上だから、
池田先生は、当然、
それを、断(ことわ)ったけれど、
松下幸之助は、なかなか、がんとして、
きかない!
2、30分、池田先生と、
問答になり、
結局、池田先生も、松下幸之助も、
どちらも、おたがいに、
『おとうさん』と呼び合うことで、
話しが、ついたそうです。(笑・・・)


松下幸之助が、
老齢を、押して、
ハワイの創価学会インターナショナルの総会に、
行ったとき、
松下幸之助は、
池田先生に、言った。

「先生!
 日本は、池田先生のことを、
 あまりにも、知らなすぎる!!!!」

それは、松下幸之助が、
池田先生を、求め、尊敬し、愛する、
心からの叫(さけ)びだと、思う。

そして、それは、
その通りだと思う。


『日本人は、
 池田先生のことを、
 あまりにも、知らなすぎる!!』


・・・・・・・・・・・・・こころ(タイムマシンによろしく)・・・・・・・・・・・・・

一流は、一流を知る。

松下幸之助を、一流だと、
認(みと)めない人は、いないだろう。
一流どころか、みんな、
超一流だと、すべての人が、
認めるだろう。

その超一流である、
松下幸之助が、心から、
尊敬し、心酔(しんすい)した人物である、
池田先生は、
超一流の中の、超一流だと、
言えると思う。

池田先生には、
そういう、超一流の文化人、
政治家、科学者、芸術家、学者の友人が、
世界に、たくさん、たくさん、いる。
そして、その超一流の人物たちも、
池田先生に対する思いは、
松下幸之助と、変わらないと思う。


それが、
池田大作という人間です。


松下幸之助の話しに戻ると、
松下幸之助が、
政治家の育成を、するための、
有名な「松下政経塾(まつしたせいけいじゅく)」を、
創設(そうせつ)しようとしていた時、
松下幸之助は、
池田先生に、お願いを、した。

「池田先生!
 松下政経塾の総長(そうちょう)になってください!」

池田先生は、
丁重(ていちょう)に、断ったけれど、
それを思うと、
松下政経塾出身の議員が、
票、欲(ほ)しさに、
創価学会を、非難してばかりいるのは、
まったくの、お門違い(おかどちがい)の、
松下幸之助の心を知らない、
「おろかもの!」と言えるかもしれない。


・・・・・・・・・・・・・こころ(タイムマシンによろしく)・・・・・・・・・・・・・

タイムマシンによろしく160

2014-07-01 08:51:09 | 幸せ
創価学会(そうかがっかい)二代会長である、
戸田城聖先生が、
天下を取った徳川家康を通して、
語っていたそうです。

「信長、秀吉、家康の三人の中で、
 果報(かほう・福運の意味)は、
 家康が、一番もっていた。
 この果報ばかりは、人間の力(ちから)では、
 どうしようもない!
 だから、信心しなければ、
 解決されないのである。」


果報(かほう)とは、
結果の報い(むくい)と書くから、
結果が出てくる力、
幸せという無限の宝が、出でくる力と、
言えるかもしれない。

いわゆる、世間一般的に言われる、
『運』です。

これだけは、人間の力では、
どうしようもない!!と、
言っているんです。

仏法(ぶっぽう)では、「幸せになる運」のことを、
『福運(ふくうん)』と、いいますが、
この『福運』!
戸田先生の言葉を、かりれば、
『果報』は、ぼくたちが、
どんなに、あがこうが、どうしようもない!

たとえば、
どんなに才能があっても、
どんなに努力しても、
成功できるとは、かぎらない!
まして、
幸せになれる保証(ほしょう)など、どこにもない!

それが、現実だと思う。
もちろん、努力は、必要だし、
才能も、必要かもしれない。

けれど、にもかかわらず、
不幸になっていく人が、
どれだけ、多いことか・・・・。


実は、
努力や才能を、生かし、
幸せになっていくためには、
決定的なものが、必要となってくる。

それが、『福運(ふくうん)』です。

戸田先生は、
この『福運』だけは、
創価学会が、実践(じっせん)している、
南無妙法蓮華経の仏法(ぶっぽう)の信仰と、
仏法の実践活動でしか、
つけることは、できない!!!
と、言っている。


福運・・・・!

福運が、なくなった人ほど、
みじめなものは、ない!
どんなに栄華(えいが)を、きわめていても、
福運が、なくなったら、
必ず、没落(ぼつらく)していき、
不幸になっていく。

これは、才能とか、努力とか、
そういうことでは、どうしようもないことです。

普通、世間一般の人たちは、
調子(ちょうし)のいい時は、
当然、いい気持ちになり、
世の中は、自分たちのために、
回っているように思ったりする。

けれど、ひとたび、
さまざまなことが、
自分の思うようにいかなくなると、
急に、アタフタし、
おびえ、どうしようもなく、
途方(とほう)にくれたりする。


わからないのだ・・・・!
どうしたらいいのか!!


ようするに、福運を、つける方法、
福運を回復する方法を、知らないんです。
まったく、見当(けんとう)すらつかないでいる。

だから、絶望したり、
自己逃避(じことうひ)したり、
自殺したりするしかなくなる。

ところが、創価学会の人たちは、違(ちが)う。
たとえ、どんなピンチにあったとしても、
福運のつけ方を、知っている。
ようするに、
自分の宿命(しゅくめい)を転換(てんかん)し、
福運をつける方法を、
明確に、わかっている。

それが、
『南無妙法蓮華経を、となえる!』
ということであり、
仏法(ぶっぽう)の実践活動である、
創価学会の活動です。


はっきり言って、
これしかないです!!


『福運』を、つける方法は、
ご本尊(ほんぞん)に、真剣に、
南無妙法蓮華経を、となえ、
真剣に、創価学会の活動を、するしか、
ありません!!

ほかの、どんなことをしても、
無理です・・・・。


ゆえに、
ご本尊に、
南無妙法蓮華経を、となえる実践と、
仏法の実践活動である、
創価学会の活動ほど、
価値(かち)のあることは、
絶対に、ありえない・・・・!


・・・・・・・・・・・・・こころ(タイムマシンによろしく)・・・・・・・・・・・・・

幸せの元(もと)って、
なんだと思いますか?

幸せの元(もと)
幸せを、つくっているもの・・?

それが、『福運(ふくうん)』です。
だから、単純に、
福運が、たくさん、ある人が、
幸せになるわけです。

じゃあ、
その福運の元(もと)は、
何だと思いますか?
福運を、作る、大元(おおもと)のエネルギー。

それが、
『南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)』
です。

だから、南無妙法蓮華経を、
たくさん、たくさん、となえている人は、
福運の元(もと)が、いっぱいいっぱい、
自分の生命に、たまってくる。

こんどは、その福運の元を、
『現実に外に出てくる福運』
すなわち、
現実に、悩みを解決したり、
夢を、かなえたり、
願いを、かなえたり、
現実に自分の人生を、幸せにしていく、
『本物の福運』にするために、
仏法の実践活動である、
創価学会の活動を、していきます。

そうすると、
自分の中に、たまった福運の元は、
自分の生命の中から、大きく開花して、
夢が、かなったり、
悩みが、解決したり、
自分の人生は、大きく、幸せへと、
転換(てんかん)していきます。

自分の中の福運が、
『本物の福運』となった時、
自分の人生は、希望の方向へ、
夢の方向へ、幸せの方向へと、
大きく、変革(へんかく)されていくわけです。

すなわち、
世間一般的に言う、
「運のいい人」「幸せな人」と、
なっていきます。

その『福運』を、単(たん)なる、
行き当たりばったりや、
成(な)り行きまかせではなく、
自分の力(ちから)で、つかみ、
勝ち取っていけるのが、
南無妙法蓮華経を、となえる仏法であり、
仏法の原理(げんり)を基本とした、
創価学会の活動です。


だから、創価学会は、明るい!
笑いが、たえない!

なぜなら、世界中のどこの国でも、
南無妙法蓮華経を、となえる
仏法(ぶっぽう)の実践と、
創価学会の活動によって、
福運を、たくさん、たくさん、ため、
自分の人生に、福運の結実(けつじつ)である、
『幸せ』を、
夢や希望とともに、
どこまでも、
開花させていけるからです・・!


・・・・・・・・・・・・・こころ(タイムマシンによろしく)・・・・・・・・・・・・・