タイムマシンによろしく!!

明日は、タイムマシンがなくても、やってくるから・・。

タイムマシンによろしく149

2014-03-06 08:47:03 | ドラマ
以前、ビデオで、
「野ブタを、プロデュース」
というドラマを見た話しを、しました。

この物語は、
不器用で、いじめられっ子の
女子高校生(ノブタ)を、
二人の男子高校生、
修二と彰(あきら)が、
人気者に、変えていこうと、
奮闘(ふんとう)する物語です。

このドラマの最終回で、
修二が、引越しで、転校することに、なる。
親は、修二に、
残りたいのなら、
オマエだけ、残ってもいい!
と言う。

けれど、母親は、
仕事で海外に行っていて、
ほとんど、家に帰らないし、
弟のことが、気がかりで、
修二は、転校することを、決意する。

その話しを、聞いて、
修二と一緒に、ノブタを、プロデュースしようと、
がんばっていた彰(あきら)は、言う。

「なんで、もっと、自分のこと、
 大事に、しないの?」

修二は、言う。
「だれかのためにって、いうのはさ・・!
 自分を大事にしないって、ことなのかな?」

「オレは、ノブタのために、
 一生懸命(いっしょうけんめい)、やっている時が、
 いちばん、自分らしかったなって、思うんだ!」

「オマエも、そうじゃない?」

「ノブタだってさ、だれかを喜ばそうと
 している時が、いちばん、
 いきいき、していないか・・・?」


だれかのために一生懸命になっている時が、
いちばん、自分らしい・・・・!

逆説のようで、ここには、
真実が、ふくまれている・・!!

人間とは、もっと言うと、
生命とは、そういうふうに、
できているんだ!と、思う。

だから、だれかを、喜ばそうとしている時が、
いちばん!いきいき、してくる・・!

生き生きしてくるとは、
生命が、輝(かがや)いてくると、いうことです。
人のために、一生懸命、やっていると、
人が、輝くのではなく、
自分の生命が、輝いてくる・・・!。

人のために、一生懸命、やることによって、
本来、自分自身の中に内在(ないざい)している、
『生命の輝き』が、復活(ふっかつ)し、
輝き出してくる・・!

それは、
生命が持っている、
本源的(ほんげんてき)な喜び、
本源的な幸せ、
本源的な使命に、目覚(めざ)め、
生命が、本来、持っている輝きを、
取り戻(もど)し、
開花させていく瞬間なのかも、しれない。


実は、ここに、
仏法(ぶっぽう)で説く、
『宿命転換(しゅくめいてんかん)』の法則が、
ある!

宿命転換とは、
自分のさまざまな宿命、
自分の存在そのものが、持っている、
苦しみとか、悲しみとか、
運命とか、境遇(きょうぐう)など、
自分の生きていることそのものを形成している、
どうにもならない生命のゆがみや癖(くせ)など、
そして、それによって人生に引き起こる、
さまざまな出来事や、
そのことによって、 できあがってくる、
その人の環境や境遇(きょうぐう)、
その人が背負(せお)ってしまった人生を、
自分の生命の根本から変革(へんかく)することによって、
自分自身も、世界も幸せにしていくと、
いうことです。

その仏法(ぶっぽう)で説く、
宿命転換の法則(ほうそく)とは、

『人のために、一生懸命になる!
 人を幸せにしよう!と、一生懸命、
 行動することによって、
 自分の人生が、開けてくる!
 人を幸せにすることによって、
 自分の宿命が、転換(てんかん)され、
 幸せになっていく。
 人生が、大きく開けてくる!』

と、いうことです。

ただし、問題がある!!!
創価学会初代会長の牧口常三郎先生が、
言っているんですが、
人それぞれが、持っている、
『宿命(しゅくめい)』とは、そんなに、
生(なま)やさしいものでは、ない・・・!

これは、ある程度、
人生を、経験していくと、わかると思う。

だから、いくら、
人のために、一生懸命、行動しても、
小善(しょうぜん)といって、
小さな良い行動、小さな善を、行ったとしても、
宿命を、打ち破り、変えることは、
できない。

また、中善(ちゅうぜん)といい、
中ぐらいの良い行動、中ぐらいの善を、
行(おこな)ったとしても、
やっぱり、宿命を変え、
幸せになることは、できない!!

宿命は、それほど、
生やさしく、ない!からです。

これら、小善、中善とは、
普通、人間として生きていれば、
社会のモラルや、人との関わりの中で、
行(おこな)うことができ、
ごく、当たり前の人間としての、
善意ある行動です。

これらの人間としての、
善意ある行動は、確かに、
素晴らしい行動であり、
大いに、たたえられるべきですが、
残念ながら、それらの、
人のために、行動する、
人の幸せのために、行動する、
「小善」「中善」では、
まだ、「宿命転換」するには、
足(た)りない!

はっきり言えば、
それでは、宿命転換は、できないんです・・!!

では、
どうしたら、宿命転換が、できるのか?

それには、
『大善(だいぜん)』を、行うしかない!!!
大善とは、大きな善、
すなわち、人を幸せにするための、
最も価値(かち)のある大きな行動と、
いうことです。

この大善を、行わないかぎり、
宿命転換は、できない!ということです。

たとえば、
自分に立ちはだかる、
大きな悩みが、ある。
人生に、ふりかかる大きな壁(かべ)がある。
夢を、かなえるために、
どうしても超(こ)えなければならないものが、ある。
しかし、どうしても、超えられない。

それらの、どうしても超えられないような壁を、
越えるためには、
大善を、行うしか、ない!!!
ということです。


では?
その『大善』とは、
どういう行動か??


実は、その、
大善の行動が、
創価学会が、実践(じっせん)している、
『仏法(ぶっぽう)の信仰』であり、
現実的な仏法の実践である、
『創価学会の活動』です。

残念ながら、
この創価学会が、実践している、
ご本尊(ほんぞん)に、南無妙法蓮華経を、
となえる仏法の信仰と、
仏法の実践である、
創価学会(そうかがっかい)の活動でしか、
『宿命転換』は、できません!!!!


・・・・・・・・・・・・・こころ(タイムマシンによろしく)・・・・・・・・・・・・・

それほど、
仏法(ぶっぽう)とは、すごい!ということですが、
その仏法の真髄(しんずい)が、
南無妙法蓮華経であり、
つまるところ、南無妙法蓮華経が、
『仏法』だということができます。


その仏法の真髄(しんずい)である、
南無妙法蓮華経とは、どういうものかというと、
全宇宙の法則であり、
大宇宙を変革するエネルギーのようなものです。

人のために、一生懸命、やっていると、
自分の生命が、輝いてくる。
その、生命を、輝(かがや)かす、
本源的なものが、
南無妙法蓮華経だと、思います。

すなわち、
南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)は、
生命に幸せを、もたらす、
もっとも深く、もっとも大きく、
もっとも強いエネルギーのようなものです。

だから、
南無妙法蓮華経は、
自分にとっても、
まわりの人々や世界にとっても、
最高にして、最大の幸せを、もたらすもの、
すなわち、『最大の善を、もたらす元(もと)』
と、言えるかも、しれません。

だから、
自分にとっても、人々にとっても、
最大の幸せを、もたらす南無妙法蓮華経を、
日々、となえることによって、
その最大の善(ぜん)が、
自分の中から、もらたされていく。


南無妙法蓮華経は、
『最大の善を、もたらす元(もと)』
『最大の善をもたらすエネルギー』
だから、
その南無妙法蓮華経を、
自分で、となえることによって、
自分自身の生命から、
幸せと善の波動(はどう)が起こり、
その幸せと善の波動を、
世界に発信していくことができる。

それは、南無妙法蓮華経を、となえることによって、
自分の生命を、本源的に、
最高に輝かせる!ことになる。

それと同時に、その仏法の、
現実的、具体的(ぐたいてき)な実践である、
創価学会の活動を行っていくことによって、
自分の中にもたらされた、
『最大の善をもたらすエネルギー』、
『幸せの善の波動』は、
人々と、世界に、
伝(つた)わり、
広まっていくことになります。

だから、その仏法の実践である、
創価学会の活動は、
もっとも価値(かち)のある、
人々を、本源的に幸せにできる、
『最大の善』、『大善』に、
つながっていきます。


少々、理屈(りくつ)っぽくなりましたが、
創価学会のひとたちは、
南無妙法蓮華経を、となえる仏法の信仰と、
仏法の実践である、
創価学会の活動を、
日々、行っているから、
病気や、経済的な悩み、
また、その他あらゆる悩みを、乗り越え、
困難(こんなん)に思える、さまざまな壁を乗り越えて、
夢を、かなえ、
幸せになっていけるんだと、思います。

理屈よりも、
『悩みや困難を、乗り越えることが、できた!』
さまざまな壁を、打ち破(やぶ)り、
『夢を、かなえることが、できた!』という、
現実の結果が、もたらされるから、
創価学会の人たちは、
この仏法の信仰を、やっているわけです。


そして、この南無妙法蓮華経の仏法が、
世界192ヶ国に広がり、
あらゆる国で、
人々が幸せになっていけた結果を見れば、
この南無妙法蓮華経の仏法と、
創価学会の活動が、
文字通り(もじどおり)、
大善の行動であり、
宿命転換ができる、唯一無二(ゆいいつむに)の、
行動だと、言えるはずです・・・・。


・・・・・・・・・・・・・こころ(タイムマシンによろしく)・・・・・・・・・・・・・

タイムマシンによろしく147

2014-02-05 09:30:42 | ドラマ
先日、ビデオで、
「野ブタを、プロデュース」
というドラマを見た話しを、しました。

この物語は、
不器用で、いじめられっ子の
女子高校生(ノブタ)を、
二人の男子高校生が、
人気者に、変えていこうと、
奮闘(ふんとう)する物語です。

その中で、
ノブタ(信子)と、ノブタを、
プロデュースしようとしている、
仲(なか)のいい二人の男子高校生に、
少女特有の嫉妬心(しっとしん)のようなものからか、
いつも、影(かげ)で、
ひどいことを、しつづける、
少女が、登場する。

最後、彼女は、
ノブタたちにも、敗(やぶ)れ、
自分自身にも、敗れることになる。

そして、彼女は、
窓(まど)から、空を見上げながら、
そのとき、一緒にいてくれた、
女性教師に、たずねる。

「先生は、とりかえしのつかない場所に、
 行ったことは、ありますか?」

先生は、答える。
「うん・・ あるわね。」

彼女は、聞く。
「一人で、戻(もど)ってきたんですか?」

先生は、言う。
「うん~~う!・・、友だちだね・・!」

彼女は、言う。
「そうですか・・・」

先生は、言う。
「友だちが、連れ戻(もど)してくれた・・・」

その後、ノブタをプロデュースしていた、
主人公・修二の心の言葉が、続く。


「人を、助けられるのは、
 人だけかもしれない・・」


・・・・・・・・・・・


「人を、助けられるのは、
 人だけかも、しれない・・」

人間なら、だれでも、そうかもしれないが、
創価学会(そうかがっかい)に入っていると、
この言葉が、身(み)にしみる・・!

あの人が、いなかったら、
あの時、助けてくれなかったら、
今の自分は、無いかもしれない。

創価学会の中にいると、
そういうことが、たくさん、あるからです!

創価学会の人たちは、
けっして、人を、見捨てない!
どんなことが、あっても、
あったかい心で、見守っていてくれる・・!
(もっとも、創価学会利用の悪意の行動や、
 犯罪に対しては、別ですが・・)

そして、その人が、
もっとも辛(つら)いとき、もっとも苦しい時、
ある意味、その人にとっては、
最悪の事態のときや、
ある意味、すべての人から、
見放(みはな)されたような、
もっとも惨(みじ)めな時にも、
創価学会の人たちは、
手を差(さ)し伸(の)べてくれる。

そして、
一緒に、進んでいってくれる・・!


そういうとき、
創価学会の人たちの、
本当の心の大きさを、感じる・・・。


・・・・・・・・・・・・・こころ(タイムマシンによろしく)・・・・・・・・・・・・・

なぜ?、
創価学会の人たちは、
それが、できるのか?

それは、
どんな人でも、
すべての人のなかに、
仏性(ぶっしょう)があることを、
わかっているからです!

仏性(ぶっしょう)とは、
人間の中にある、
強くて、あったかくて、やさしい、
最高に素晴らしい、
善意の生命(せいめい/こころ)のようなもので、
この『仏性(ぶっしょう)』という、
最高に素晴らしい「善意(ぜんい)の生命」があるから、
人は、幸せになっていけるんですが、
その『仏性』が、
すべての人の中にあることを、
創価学会の人たちは、
自分の体験と、自分の生命、心(こころ)で、
わかっているからです。

すべての人間に、
仏性があるということは、
すべての人間が、
幸せになれる!ということです。

その人らしく、
その人の個性を、いかして、
その人だけの使命(しめい)を、はたしながら、
必ず、幸せになっていけることを、
わかっているからです・・・!!

だから、
どんなことがあっても、
決して、見捨てない!!!

「この人には、この人だけの使命が、
 あるんだ!!!」

と、いつも、
大きな、あたたかい心で、
励(はげ)ましてくれ、見守っていてくれる・・・!

そして、必ず、
その人は、
この創価学会の仏法(ぶっぽう)の信仰によって、
蘇生(そせい)し、幸せになっていく・・!!

なぜならば、
創価学会が実践(じっせん)している、
南無妙法蓮華経の仏法(ぶっぽう)は、
「南無妙法蓮華経を、となえる」ことによって、
最高の善性、『仏性』を、
すべての人から、だれでも、
開花させる法則(ほうそく)だからです・・・!

それは、理屈(りくつ)ではなく、
自分自身が、
南無妙法蓮華経を、となえることによって、
自分の生命で、感じ、
自分の人生の、幸せという結果によって、
体験し、
確信を、持っているからです。

だから、
創価学会の人は、
けっして、人を、見捨てない。
たとえ、どん底(ぞこ)にあったとしても、
その人の蘇生(そせい)を、信じている。


最後に、
池田先生(創価学会インターナショナル会長)の、
メッセージを、紹介して、
終わりにしようと、思います。


『たとえ、

 すべての人が、

 見捨てたとしても、

 私だけは、

 決して、

 見捨てはしない・・・!』


・・・・・・・・・・・・・こころ(タイムマシンによろしく)・・・・・・・・・・・・・

タイムマシンによろしく146

2014-01-26 12:31:03 | ドラマ
このまえ、ビデオで、
まえに途中までしか見てなかった、
「野ブタを、プロデュース」
というドラマを見ました。

この物語は、
不器用(ぶきよう)で、いじめられっ子の
女子高校生(ノブタ)を、
二人の男子高校生が、
人気者に、変えていこうと、
奮闘(ふんとう)する物語ですが、
その中で、ノブタ(信子)を、
プロデュースしよう!としている、
修二が、辛(つら)いことがあって、
落ち込んでいた。

そんな時、いじめられっ子、
ノブタが、言う。
「だれでも、さみしいのは、やだよね!」

修二は、言う。
「そうか。オマエ、だれよりも、
 さみしいの、知ってんだよな・・・!」

ノブタは、言う。
「うん!できれば、
 ひとり残らず、幸せになってほしい!!!」

修二は、言う。
「やあ? それは、無理(むり)だろ・・・」

ノブタの純(じゅん)な心と言葉は、
こころに、残るけれど、
修二が、言った、
「やあ? それは、無理だろ・・・」
という言葉も、
わかる気がする。

ようするに、幸せというものは、
ごく、かぎられた、特別な人だけに、
与(あた)えられるもので、
すべての人が、幸せになれるわけでは、ない!
というのが、
世間一般的な、考えかたなのかもしれない。



次元(じげん)はまったく違うけれど、750年以上も前に、
ノブタと同じことを、言っていた人間がいる。


『この世から、不幸をなくしたい!
 未来にわたる、全民衆を、幸せにしたい!!』


それが、日蓮大聖人(にちれんだいしょうにん)です。

ドラマ「野ブタを、プロデュース」の、
ノブタ(信子)も、純(じゅん)だけれでも、
日蓮大聖人は、純どころの騒(さわ)ぎでは、ない!
本気なのだ!
ノブタが、言っていた、
「うん!できれば、
 ひとり残らず、幸せになってほしい!!!」
ということを、本気で実現しようとし、
あらゆる迫害(はくがい)に、遭(あ)いながら
本気で、全民衆を、幸せにしようと、した!

そして、現実に、
それを、可能にする、
哲学(てつがく)と法則(ほうそく)を、残された!!!!

それが、日蓮大聖人が、
全民衆のために残された、
『南無妙法蓮華経の仏法(ぶっぽう)』です。

ようするに、
この南無妙法蓮華経の仏法(ぶっぽう)を、
真剣に実践(じっせん)したならば、
どんな人でも、ひとりも残らず、
必ず、確実に、幸せになれる!!!と、
いうことです。


その南無妙法蓮華経の仏法を、
唯一(ゆいいつ)、正しく実践することができたのが、
創価学会(そうかがっかい)ですが、
その、創価学会二代会長の、
戸田城聖先生も、言っている。

『この世から、病人と貧乏人を、なくしたい!
 この世から、不幸の二文字を、無くしたい!』

日蓮大聖人と、比(くら)べることは、
できないけれど、
戸田先生も、本気も本気、
真剣なのだ。

そして、現実に、
病人、貧乏人、悩める民衆を、
ことごとく、蘇生(そせい)させ、
幸せにしてきたのが、
創価学会の歴史です。


・・・・・・・・・・・・・こころ(タイムマシンによろしく)・・・・・・・・・・・・・

昔、創価学会は、
「病人と貧乏人の集まりだ!」と、
バカにされた!

戸田先生は、言われた。

『病人と貧乏人を、救うのが、
 宗教の役目では、ないか!!』

そう、本気で言って、
本当に、病人と貧乏人ばかりの創価学会の人たちを、
『ご本尊(ほんぞん)に、
 南無妙法蓮華経を、となえる、
 仏法(ぶっぽう)の信仰』によって、
健康にし、裕福(ゆうふく)にして、
幸せにしきってきたのが、
創価学会です。

そして、今の、
世界中が、賞賛(しょうさん)する、
素晴らしすぎる、創価学会が、きずかれている!


それは、そのまま、
ノブタが、言った、
「うん!できれば、
 ひとり残らず、幸せになってほしい!!!」
という言葉が、不可能ではなく、
現実に、可能であることを、
証明している!


だから、
「やあ? それは、無理だろ・・・」
と、修二が、言ったとき、
もし日蓮大聖人だったら、
もし戸田先生(創価学会二代会長)だったら、
きっと、言うに違(ちが)いないでしょう・・。


『無理ではない!
 この南無妙法蓮華経の仏法は、
 日蓮大聖人が残された、
 ご本尊(ほんぞん)への、信仰は、
 どんな人でも、
 ひとりも残らず、
 必ず、
 幸せになっていける・・・!!!』


・・・・・・・・・・・・・こころ(タイムマシンによろしく)・・・・・・・・・・・・・

タイムマシンによろしく138

2013-11-08 08:06:24 | ドラマ
まえに
瀬戸内寂聴の伝記ドラマを、
やっていたのを見たことがありました。
その中で、
瀬戸内寂聴が、言ったことば、
「出家(しゅっけ)とは生きながら死ぬこと」
と、出ていた。

その言葉を聞いて、イヤになってしまって、
途中でドラマを見るのを、
やめてしまった記憶があります・・・。

詳(くわ)しいわけではありませんが、
瀬戸内寂聴は、素晴らしい、
優秀な女性だとは、思います。
けれど、
「出家とは生きながら死ぬこと」・・・
これが、日本人の、一般的な、
仏教に対する考えかただと思ってしまいました。

生きながら死んで、どうしろ?というんだ!
世間一般的に、仏教とは、
煩悩(ぼんのう)を、消滅(しょうめつ)させるとか、
無(む)になるとか、
そんなアホらしいものが、
仏教だと思っている。

煩悩(ぼんのう)を消し去って、どうなるという?
無になって、どうなるという?
だいたい、人間である以上、
そんなことは、できませんが、
それが、できたというのなら、
その人は、キチガイであり、
また、人間とは、言えないでしょう。

ところが、そういうものが、
仏教だと、世間一般に、思い込(こ)まされている。
ほんとうは、
そんな、くだらないものは、
仏法(ぶっぽう)ではない!!!

本当は、仏法(ぶっぽう)とは、
煩悩(ぼんのう)を、燃やして燃やして、
その情熱の力によって、
生きて生きて生き抜いて、
幸せを、つかむ法則(ほうそく)です。

それが、仏法です。
無になって、どうする?
何にも無くなって、生きていけるのか?
また、自分を幸せにし、
人々を、幸せにできるのか?

そんな、ごまかしに、だまされては、
いけない!
そんなものは、仏教ではなく、
単なる、人を、ごまかし、たぶらかす、
金儲(かねもう)けのためだけの、
邪宗教(じゃしゅうきょう)です。
はっきりと、そう言って、
間違いない!!!

本当の仏法(ぶっぽう)とは、
人間の中にある煩悩を否定するものでは、ない。
その煩悩を、否定したら、
人間そのものを、否定することに、
なるからです!
そうではなくて、

煩悩(ぼんのう)の火を、利用して、
人間性を、より良い方向に、
より幸せになる方向に、開花させていくものです!

それが、本当の仏法です。

生きながら、死ぬなんて、
とんでもない!!!
生きるのが、楽しくて楽しくて、しょうがない!
何をやるのにも、
幸せで、幸せで、しょうがない!

そうなるために、本当の仏法は、ある!


その本当の仏法(ぶっぽう)、
生きるのが、幸せで幸せで、しょうがない!
生きることの可能性を、
無限に開花させゆく仏法が、
創価学会が、実践(じっせん)している、
南無妙法蓮華経の仏法です。


・・・・・・・・・・・・・こころ(タイムマシンによろしく)・・・・・・・・・・・・・

南無妙法蓮華経を、となえていくと、
自分の煩悩(ぼんのう)が、
幸せになるために、
うまく、コントロールして、
使えるようになってくる。
煩悩というガソリンが、
災害を呼ぶ危険なものではなく、
幸せを生むための、
素晴らしいエネルギーに、変わっていく!

さまざまな願い、夢、祈り、
それらを、すべて、ぶつけて、
南無妙法蓮華経を、となえていくと、
それらが、昇華(しょうか)され、
自分も周(まわ)りの人々も、世界も、
幸せにするエネルギーに、変わっていく!!

すなわち、それは、
現実に夢や希望を実現する結果を生み出し、
さまざまな悩みや苦難(くなん)を、
解決し、乗り越(こ)える結果となり、
自分の人生と未来に、
幸せが、
大きく開けてくる!と、いうことです。


それが、
南無妙法蓮華経を、となえるスゴサです。


だから、何よりも、結果を重(おも)んじる、
海外の人々にも、
また、個々人の日常生活を大切にし、
明るいのが大好きな、
楽観的(らっかんてき)な人々にも、
南無妙法蓮華経の仏法は、
大いに、受け入れられ、
創価学会は、世界192ヶ国に広がっている。


それは、現実に幸せになる!からです。
夢や希望をつかむ、
真実の力(ちから)となる!からです。
日々の日常生活が、
楽しく、輝(かがや)いて、
幸せと歓喜(かんき)が、
人生を満(み)たしていくからです。



ほんとうの仏法(ぶっぽう)は、
人間の中にあるものを、
なにも否定しない、
欲望も情念(じょうねん)も、すべてを、
太陽のように燃やして、明るく、
楽しく、幸せに生きることができ、
しかも、自分だけでなく、
周(まわ)りの人たちも、世界も、
現実に、幸せにしていける!!!

それが、できるのが、
創価学会(そうかがっかい)であり、
南無妙法蓮華経をとなえる、
仏法の信仰です。


そこには、
人間を、太陽のように、
輝(かがや)かせる力(ちから)がある。
どんな困難も、乗り越えて、
人間に勝利の凱歌(がいか)を、
高らかに歌わせる、
力(ちから)が、ある・・・・・!


・・・・・・・・・・・・・こころ(タイムマシンによろしく)・・・・・・・・・・・・・

タイムマシンによろしく106

2012-11-21 09:22:10 | ドラマ
まえに、ビデオで、
「がんばって、いきまっしょい!」
というドラマを、見ました。

このドラマは、
高校生の女子ボート部の物語なんだけれど、
その主人公の女の子が、
海辺で、ブタのぬいぐるみを、
拾(ひろ)うシーンがあった。
かわいいので、部室に持っていき、
「ブタ神様!」と呼んで、
部室に、祭る(まつる)ことに、する!

そして、それ以来、
部室に来ると、
ブタ神様に、手を合わせて、
「ブタ神様、ブタ神様、
 どうぞ、試合で、勝たせてください!」
と、祈(いの)る。

とっても、かわいいし、
おもしろい発想だとは、思うけれで、
これは、日本人の宗教観を、
如実(にょじつ)に、あらわしていると思った。

べつに、祈る対象は、なんだっていい。
パンパンって、手を合わせて、
祈れば、気分が出る!
おそらく、一般的な日本人の宗教観なんて、
こんなものだろうと思う。

パンパンって、手を合わせて、
その場の雰囲気(ふんいき)に、浸(ひた)れれば、
それで、いい!
おそらく、レジャーとまったく同じ考えで、
手を、合わせている。
単なる遊び、それが、
日本人の宗教観・・・。

けれど、ここに、危険が潜(ひそ)む。
ここに、不幸を生む、きっかけがある。

手を合わせる、
祈る、という行為は、
宗教の基本的要素(ようそ)であり、
根源的な役目と機能(きのう)を、はたしている。
だから、手を合わせる、祈るという行為には、
おのずから、重要な意味が、生まれてしまう!

手を合わせる、祈るとは、
宗教の観点(かんてん)から見ると、
祈っている対象(たいしょう)、手を合わせている対象に対し、
『あなた様に、命を、ささげます!』
『あなた様に、私の人生を、ささげます!』
という、意味が、もたらされる。

だから、実際に、手を合わせ、祈ると、
無意識(むいしき)のうちにも、
自分の生命は、祈っている対象に反応(はんのう)し、
「祈っている対象に、命をささげ、人生を、
ささげます!」と言っているのと、
同じ結果を、生む。
すなわち、祈っている対象が、
自分の生命に投影(とうえい)され、
祈り、手を合わせている対象に、
自分の生命と人生が、支配(しはい)される結果と、なる。

だから、宗教とは、ある意味、恐(こわ)い!!
たとえば、ブタのぬいぐるみを、神さまだと、
祭(まつ)り、そのブタのぬいぐるみに、
手を合わせ、祈ると、
自分の生命に、
ブタのぬいぐるみが、投影(とうえい)され、
自分の生命は、ブタのようになってしまう。
また、捨てられボロボロになった、
ブタのぬいぐるみのように、
自分の人生も、人から捨てられた、
ボロボロなものに、なってしまう。

すぐには、それは、わからないかもしれないが、
祈った時から、生命の上では、
その現象(げんしょう)は、起こっており、
長い年月の上では、
必ず、そういう結果となっていく。

それが、宗教です。
だから、気をつけなくては、いけない!
間違(まちが)ったものに、手を合わせ、
祈りを、ささげては、いけない!
間違ったものに、祈りを、ささげれば、
自分の生命に、間違ったものが、投影され、
『間違い』、すなわち、『不幸』という結果が、
自分の人生に、あらわれてきてしまう。

たとえば、お客を集めるためだけの、
間違いだと、わかりきった、
観光宗教や、神社信仰、
お金を、取ることしか考えていないような、
葬式仏教(そうしきぶっきょう)も、すべて、
間違った宗教です。

すなわち、
それらの観光宗教や、神社信仰、
葬式仏教に、どんなに真心を込(こ)めて、
真剣に祈ってみたところで、
逆に、真剣に祈れば祈るほど、
どんどん、不幸になっていくということです。
間違った宗教に祈ったという結果として、
自分の人生に、
さまざまな形で、
不幸が、出現(しゅつげん)してきてしまうと、
いうことです・・・。

もちろん、付き合いも、礼儀(れいぎ)も、
儀式(ぎしき)もあるだろうから、
人間として、礼儀は、
わきまえなくてはいけない!

けれど、個人的に、
積極的に、そういう間違った宗教に、
かかわってはいけない!!
間違った対象に、手を合わせ、祈ってはいけない!

これが、生命の次元(じげん)から言える、
最低限の、
不幸を、招(まね)かない方法です。


・・・・・・・・・・・・・こころ(タイムマシンによろしく)・・・・・・・・・・・・・

さっきも話しましたが、
手を合わせ、祈るという行為(こうい)は、
生命の上では、
祈る対象に、命をささげることになり、
人生を、ささげることに、なっていく。
だとしてら、逆に
人間として最高に素晴らしいもの、
人間として最高に、尊(とうと)いもの、
人間に最高の勝利と幸せを、
ものらすものが、祈る対象であるとしたら、
その最高の祈る対象に祈りを、ささげれば、
その最高に素晴らしく、最高に尊く、
人間に最高の勝利と幸せを、もたらす対象は、
自分の生命に、投影(とうえい)され、
自分の人生も、最高に素晴らしく尊(とおと)くなり、
最高の勝利と幸せを、生み出す結果となる。

これは、当然の、あたりまえの結果です。

このことを、徹底的に、究極まで、完璧(かんぺき)に、
解明(かいめい)して、日蓮大聖人が、
未来の全民衆のために、残されたのが、
南無妙法蓮華経の『ご本尊(ごほんぞん)』です。
(ご本尊とは、仏(ほとけ)の生命そのものを、
 あらわしたものであり、自分の生命そのものを、
 あらわしたものでもあり、
 その必ず幸せになっていける仏(ほとけ)の生命が、
 自分自身の中にあることを、
 あらわしたものが、ご本尊(ほんぞん)です。)

そして、その、日蓮大聖人の『ご本尊』を、
純粋に継承(けいしょう)し、日蓮大聖人の、
南無妙法蓮華経の仏法を、
真直(まっす)ぐに
実践しているのが、創価学会です。

だから、人間として、最高に尊いもの、
人間として、最高に素晴らしいもの、
人間に真実の勝利と幸せを、もたらす対象である、
日蓮大聖人の『ご本尊』に、
祈りを、ささげるとき、
『ご本尊』の生命は、おのずから、
自分自身の生命に、投影(とうえい)され、
その結果として、
最高の勝利と幸せを、もたらすことなる。

それは、宗教の理論(りろん)から言えば、
当然の、わかりきった結果であると、
断言(だんげん)することが、できる!

だから、創価学会の人たちは、
どんな人でも、
その『ご本尊』に、南無妙法蓮華経を、となえる、
仏法(ぶっぽう)の信仰によって、
自分自身の生命の、
最高の、素晴らしい可能性を、開花させながら、
悩みや困難(こんなん)を、乗り越(こ)え、
希望を、かなえながら、
幸せを、勝ち取っていけるんです。

その結果として、創価学会は、
世界192ヶ国に広がり、
世界中の人々に、
幸せと勝利の笑顔を、
もたらしている・・・。


・・・・・・・・・・・・・こころ(タイムマシンによろしく)・・・・・・・・・・・・・