タイムマシンによろしく!!

明日は、タイムマシンがなくても、やってくるから・・。

タイムマシンによろしく162

2014-07-24 09:16:38 | アニメ
このまえ、ビデオで
「ゲド戦記」という、
アニメ映画を、見ました。

この中で、
死を恐(おそ)れ、永遠の命を求めて、
暗黒の世界に身を投(とう)じてしまった、
クモ(人の名前)という魔法使い(まほうつかい)が、
登場します。

どういうことかというと、
クモは、死を恐れるがゆえに、
現実の世界で、
精一杯(せいいっぱい)、生きることを拒否(きょひ)し、
暗黒の(悪魔の)魔法を使って、
人間としてというより、
化け物(ばけもの/おばけ)として、
永遠に生きようとしていきます。

しかし、悪の魔法使い、クモの野望も、
魔法使いの賢人(けんじん)「ゲド」と、
この映画では、
永遠の生命の象徴(しょうちょう)として描かれている、
龍(りゅう)の化身(けしん)である、
少女「テルー」によって、
打ち砕(くだ)かれ、
クモは、滅(ほろ)び去(さ)っていきます。


生と死、
よく、アニメなのでは、
このテーマが、わかりやすく、
とりあげられているけれど、
これほど、難(むずか)しく、
これほど、重要なテーマは、
確かに、ないと思います。

しかし、死とは、
生きるという感覚を、失(うしな)わないかぎり、
体験することは、当然、
できないので、
それを、理解することは、
不可能に近いかもしれない。

いったい、生と死を、
どうやって、とらえたらいいのか?
こんなこと、人は、
正直、考えたくないかもしれませんが、
あえて、少し、考えていきたいと思います。

池田先生(創価学会インターナショナル会長)が、
この生と死について、
日蓮大聖人(にちれんだいしょうにん)の御書の中にある、
(御書(ごしょ)とは、日蓮大聖人が書かれた、
 論文や手紙を、すべて集めたものです)
『生死一大事血脈抄』の講義(こうぎ)の中で、
説明されています。

死の、とらえ方は、
一般的に、二つあるそうです。

ひとつは、
死ねば、無(む)に帰(き)するという考え。

もうひとつは、
死んでも、不滅の霊魂(れいこん)が、
続くという考え方です。

けれど、
釈尊(しゃくそん/しゃか/ブッタ)は、
死とは、その、どちらでもない!と、
言っています。

ここに、仏法(ぶっぽう)の不思議と、
真髄(しんずい)が、
あるような気がします。

まず、
死ねば、無に帰するという考えでは、
死への恐怖や、死に縛(しば)られた不安から、
永久に解放(かいほう)されることは、
ありません。

次に、自分の霊魂(れいこん)は、
不滅(ふめつ)であるという考えは、
往々(おうおう)にして、
「今の自分が、そのままで、
 不滅でありたい!」という、
安易な欲望の表現に過(す)ぎないことが、多い。

だから、結果的に、
自分を高める知恵にはならず、
かえって、今の自分への執着(しゅうちゃく)を増し、
迷(まよ)いと苦しみを、深めるだけに、
終わってしまう。

だから、
「死ねば無に帰する」という考えも、
「不滅の霊魂が残る」という考えも、
生きる支え(ささえ)にはならず、
むしろ、『死』をめぐる迷(まよ)いを、
深める結果になってしまう。

これでは、なんにもならない!
死に対する考え方は、
生きることを、より輝(かがや)かせ、
より充実(じゅうじつ)したものにするものでなければ、
何の意味もない!

すなわち、
死の苦しみを、乗り越(こ)えることができる、
『生死観(しょうじかん)』でなければ、
人間の生命を、解放することは、
できない!!!


結論から言ってしまうと、
この死の苦しみを、
乗り越えることのできる法則(ほうそく)!
生命解放の法則が、
『南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)』
なんです。

むずかしいと思いますが、
南無妙法蓮華経は、略(りゃく)して、
『妙法(みょうほう)』と、いいます。

その「妙(みょう)は死」、
「法(ほう)は生」を、
表(あらわ)しています。
妙法そのものが、
南無妙法蓮華経そのものが、
生と死の二法をつかさどる、
法則そのものだと、言うのです。

言い換(か)えれば、
生も死も、永遠の法則(ほうそく)であり、
この生と死の繰り返(くりかえ)しを、もたらしている、
永遠の法則が、
『南無妙法蓮華経』だと、
言うことだと思う。

生と死は、あらがうことのできない、
「宇宙のリズム」だと、いうことです。

無数の生命の生死、
あらゆる現象の起滅(きめつ)、
さまざまな次元(じげん)に起こる
因果(いんが)の法則、

その宇宙全体の調和と躍動(やくどう)が、
宇宙のリズムであり、
その宇宙のリズムが、
『南無妙法蓮華経』という、法則なんです。

だから、この南無妙法蓮華経の法則から、
のがれられる生命は、
ひとつも、一人も、いない!
ということです。


南無妙法蓮華経は、生の法則でもあり、
死の法則でも、あります。

生も死も、
南無妙法蓮華経という法則の上に、
なりたっている!ということです。

だから、ぶっちゃけて言ってしまえば、
死の苦しみを乗り越えていくためにも、
また、生きていくうえで、
自分の生命を、完全に解放し、
幸せに生きていくためにも、
この『南無妙法蓮華経』の法と共(とも)に、
生きるしか、ない!!ということです。

単純に言えば、
南無妙法蓮華経を、となえて生きる以外、
生死の苦しみを、解(と)き放(はな)ち、
最高に歓喜した生き方をする方法は、
ない!!と、いうことです。


仏法(ぶっぽう)では、
『生も歓喜(かんき)、死も歓喜』と、言います。

生を、最高に歓喜させ、
素晴らしいものにするために、
『死』は、存在し、
『死』が、最高に歓喜した、
素晴らしいものになったとき、
『生』は、最高に輝き、
充実(じゅうじつ)したものになる。


いわば、『死』は、
『生の断絶(だんぜつ)』ではなく、
『生の完成』となっていく。

そうなったとき、
死は、より深く、より新しい生への、
素晴らしい旅立ちとなっていく!!!


それが、仏法(ぶっぽう)の生死観です。


・・・・・・・・・・・・・こころ(タイムマシンによろしく)・・・・・・・・・・・・・

仏法では、「永遠の生命」を、説いています。
といっても、それは、
自分の霊魂が、不滅であるということでは、
ありません!
死んで霊魂が残るというのなら、
自分の経験や思い出、
自分の中にあるすべての思念(しねん)が、
そのまま、継続(けいぞく)することになります。
けれど、そうではない。
生命は永遠であるけれど、
死んでまた、生まれてくるといっても、
死んだ時の、自分であるという証(あかし)である、
自分の中のすべての思念は、
いったん、パッと消えて無くなってしまっている。

けれど、その核(かく)となるもの、
生命の本源的なものは、けっして、
消えていないで、残っている。
すなわち、それが、
その人の幸せを、つかさどる、
幸せのエネルギー、『福運(ふくうん)』と、
逆に、不幸を、つかさどるエネルギーと言える、
『宿業(しゅくごう)』です。
(宿業とは、不幸にならざるえないような、
 "宿命(しゅくめい)"のようなものです)

この『福運』と『宿業』は、
そのまま、
その人の生命の核(かく)に、残っていて、
その人の人生と生命に、
決定的な、大きな影響(えいきょう)を、
与(あた)えていく。

その、『福運』を、
つかさどる法則が、
『南無妙法蓮華経』であり、
逆に、『宿業』を、
つかさどる法則も、
『南無妙法蓮華経』だと、
言えます。

だから、
自分に福運を、つけるためには、
絶対に、南無妙法蓮華経が、必要になっていき、
逆に、宿業を、打ち破(やぶ)るためにも、
必ず、南無妙法蓮華経が、
必要となっていく。

これが、南無妙法蓮華経という法則であり、
エネルギーです。


さきほども言ったように、
『南無妙法蓮華経』は、
生の法則でもあり、死の法則でもあります。
そして、
死に対しても、生に対しても、
決定的な役割(やくわり)を、持っているのが、
南無妙法蓮華経なんです。

すなわち、
この南無妙法蓮華経を、はなれて、
本当の幸福、
最高に輝き、素晴らしい価値(かち)を持った、
真実の『大いなる生死』を生きる方法は、
ない!ということです。

この、南無妙法蓮華経と共に、
生きてゆく「生死」のことを、
『妙法蓮華経の生死』と、いいます。

そして、この、
『妙法蓮華経の生死』以外に、
死の苦しみを乗り越え、
自分の生命を解放し、
本当の意味での生きがい!
本当の意味での幸せ!
本当の意味での生きる価値!
本当の意味での「死の意味」を、
つかむ方法はなく、
また、これ以上に幸せで、
素晴らしい生き方もない。


映画「ゲド戦記」の中で、
少女テルーが、
「命を大切にしないやつなんて、
 大嫌いだ!」
と、叫(さけ)びますが、
死を恐れ、逃避(とうひ)して、
現実の生を、ないがしろにしたり、
どうせ死ぬんだからと、
自分の生を、粗末(そまつ)に、あつかう生き方は、
間違っているし、不幸です。

そうではなく、
生きて生きて生き抜(ぬ)いて、
生命の価値を感じながら、
本当に輝(かがや)いて生きる生き方、

それが、
南無妙法蓮華経を、となえて生きる、
創価学会(そうかがっかい)の生き方であり、
その生き方が、そのまま、
最高の死へと、結実(けつじつ)していく。



生と死を考えるのは、
難しいようでもあり、自分の人生には、
あまり、関係ないようにも、思えてきます。

けれど、この生死の法則である、
「南無妙法蓮華経」は、
そういうことではない・・!

この生死の、生命の法則である、
南無妙法蓮華経をとなえる仏法(ぶっぽう)を、
実践(じっせん)していくことによって、
本源的(ほんげんてき)な、根本のものが解決していくので、
また、自分の中から、
本源的な根本の力(ちから)が復活(ふっかつ)し、
湧(わ)き上がってくるがゆえに、
悩みを解決していけ、
自分の夢や希望も、
かなえていけるようになっていくんです。

その、究極(きゅうきょく)の、
根本的な力が、
『南無妙法蓮華経』
だということです・・・!!!

すなわち、
南無妙法蓮華経をとなえる生き方は、
その人に、
最高の幸せを、もたらす!
ということです。


今日は、確かに、むずかしい話しをしたので、
納得(なっとく)いかないかもしれませんが、
もし、本当に納得したかったら、
単純な言い方をすれば、
『本当の幸せ』を、つかみたかったならば、
創価学会に入って、
ご本尊(ほんぞん)に、南無妙法蓮華経を、
となえぬく以外ない!ということだけは、
断言(だんげん)しておきたいと思います・・・・・。


・・・・・・・・・・・・・こころ(タイムマシンによろしく)・・・・・・・・・・・・・

タイムマシンによろしく145

2014-01-17 09:27:33 | アニメ
先日、
アニメ『火の鳥・異形編 』を
見た話しを、しましたが、
こんどは、『火の鳥・太陽編』を、
みました。

『太陽編』は、
アニメ・火の鳥の中でも、
いちばん、いいかげんな内容でしたが、
最後に、ちょっと、
ピンときた話しが、ありました。

この話しは、
大友皇子の軍勢(ぐんぜい)に、
へんな超常的な力(いわゆる、超能力)を、
使う仏法者?たちが、味方し、
大海人皇子の軍勢には、古くからの神々が、
味方につき、
ようするに、
仏法(ぶっぽう)の力を使う軍勢と、神々の力を使う軍勢が、
戦うという図式の、
へんてこな内容でした。

結局、この『火の鳥・太陽編』では、
神々の軍勢が、勝利するんですが、
最後のところで、
古くから、村を守っていた神々が、
「私たちは、この村を、去(さ)ります!」
と言います。

なぜ、そうするかと、いうと、

「この里(さと)の人たちには、
 もう、神々への信仰の思いが、
 なくなってしまった!
 だから、もう、この里には、いられない!」

そう言って、
神々は、どこか、遠くに去っていきます。


この話しに、似ている話しで、
仏法(ぶっぽう)には、
『神天上(かみてんじょう)の法門(ほうもん)』
という法則(ほうそく)が、説かれています。

仏法(ぶっぽう)でいう、神々は、
法華経(ほけきょう)の行者を、
守るという契約(けいやく)を、しています。
法華経とは、
すべての人に、最高の幸せを、
もたらす、幸せの根本法則のようなものです。

幸せの根本法則であり、かつ、エネルギーが、
法華経(ほけきょう)ということで、
たとえて言うなら、法華経は、
すべての人を、幸せにすることのできる、
生命における、『幸せの元(もと)』
『幸せになるための、根本原料』
のようなものです。

自動車は、ガソリンなどの燃料がなかったら、
動かないし、
動物は、食べ物がないと生きていけない。

それと同じように、幸せになるためには、
『幸せの元(もと)』、
『幸せになるための、根本原料』が、
必要になってくると、いうことです。

だから、幸不幸から考えれば、
生命というのは、
その『幸せの元(もと)』『幸せの原料』を、
どれだけ、たくさん、とり、
どれたけ、たくさん、食べるか?で、
幸せになれるか、なれないかが、
決まると、言えます。

その『幸せの元(もと)』
『幸せになるための、根本原料』が、
『法華経(ほけきょう)』なんですが、
ということは・・・
『幸せの元(もと)』
『幸せになるための、根本原料』を、
たくさん、とり、食べるということは、
『法華経』を、
どれだけ、たくさん実践(じっせん)したか?
どれだけ、真剣に実践したか?
ということに、なってきます。

だから、『法華経』を、
真剣に、たくさん、実践していくことが、
『幸せの元(もと)』
『幸せになるための、根本原料』を、
たくさん、とり、食べることになります。

そして、神々は、
その『幸せの元(もと)』、
『幸せの原料』を、人々が食べたあとの、
「残りかす」・・
ようするに、幸せに、ただよう匂い(におい)、
幸せに、まとわりつく香り(かおり)を、
食べて、生きていると、されています。

だから当然、神々は、
幸せの原料、幸せの元(もと)が、
たくさん、あるところに、
集まってくるわけです。

これは、なんとなく、
わかると思います。
人間だって、幸せの人の周(まわ)りには、
人が、たくさん、集まってきますが、
不幸の人の周りからは、
どんどん、人が、去(さ)っていきます。

これと、同じ原理(げんり)です。

神々は、
法華経(ほけきょう)の行者を、守ると、
契約(けいやく)を立てているわけだし、
だいいち、神々の好物である、
『幸せの元(もと)』『幸せの原料』から出る、
香(かお)りや、匂い(におい)は、
法華経を実践する人から、できてくるので、
『幸せの元(もと)』『幸せの原料』から出る、
香りや、匂い(におい)を、
食べたいので、神々は、
法華経を実践している人がいる、
その土地、その場所に、
居座(いすわ)っていると、
いうわけです。

ところが、人々が、
法華経に違背(いはい)して、
でたらめな宗教に走ったり、
法華経自体を、捨て去っているために、
神々は、法華経の行者を守るという、
契約を、守ることも、できず、
好物の『幸せの元(もと)』『幸せの原料』を、
食べることが、できないので、
愛想(あいそ)が、つきて、
とうとう、その土地を、
離(はな)れ、天上界に、帰ってしまうという、
話しです。


これが、仏法で説かれる、
『神天上(かみてんじょう)の法門』です。


・・・・・・・・・・・・・こころ(タイムマシンによろしく)・・・・・・・・・・・・・

今、日本に、はびこっている、
神社、仏閣(ぶっかく)は、すべて、
真実の法華経(ほけきょう)とは、かけ離れた、
でたらめなことを、やっています。

ようするに、金儲け(もうけ)しか、
考えていないし、
教義(きょうぎ)なんて、デタラメで、
無いに等しいというか、
無いより、まだ悪い、
かってに、教義を、ねじまげて、
金儲けに、利用しているだけです。

だから、神々は、愛想(あいそ)が、つきて、
天上に、去(さ)ってしまっていますから、
いくら、神社、仏閣(ぶっかく)を、立てたところで、
そこに、神々など、いません!

じゃあ、神々が去った、
空(から)になった神社、仏閣に、
何が?いるかと、いうと、
神々が去ってしまって、空(あ)き家になっているので、
「これは、ちょうどいい!」
と、悪鬼、魔神、化け物、ゲテモノが、
住み着くことに、なります。

だから、神社、仏閣だと思って、
手を合わせたり、
願い事を、したところで、
それは、悪鬼や魔神、化け物、ゲテモノに、
祈りを、ささげることになり、
そういう、化け物、ゲテモノに、
祈りを、ささげるということは、
化け物、ゲテモノに、命をささげる結果になり、
自分の生命に、悪魔や化け物が投影(とうえい)され、
あたかも、化け物、ゲテモノが、
自分の生命に乗り移(うつ)るような形になっていく。

そうなれば、当然(とうぜん)、
さまざまな形で、
その人の人生に、
不幸が出現してきます。


これが、宗教における、
不幸になる原理(げんり)です。


だから、正月などに、
神社や仏閣(ぶっかく)に行きますが、
人々は新年なので良い事があるように、
神社や仏閣に、行きますが、
はっきり言えば、
それらの神社や仏閣の中身(なかみ)は、
神や仏(ほとけ)とは逆(ぎゃく)の、
悪鬼(あっき)や化け物(ばけもの)のたぐいですから、
そのような化け物、ゲテモノに、
祈りをささげに行くことになります。

悪鬼や化け物に祈りをささげていけば、
自分の生命と人生は、
それら悪鬼や化け物のような、
悪(あ)しきもの、間違(まちが)ったものに、
なっていきます。

自分の生命が、悪(あ)しきもの、
間違ったものになっていったならば、
当然、さまざまな形で、
不幸がもたらされることになります。


だから、正月などに、
神社や仏閣(ぶっかく)に行くのは、
いいことどころか、
新年早々、不幸になる原因(げんいん)を、
作りに行っているに過(す)ぎません・・。

実際、真剣に祈れば祈るほど、
不幸になっていきます。


ひどいことを言っているようですが、
本当のことだから、しょうがありません。
間違った宗教に祈るということは、
自分の生命と人生を、
不幸にしてしまうんです。
神社だから、仏閣だから、
神聖(しんせい)なのではないか・・
と考えるのは、間違えで、
本当は、逆に、
神社や仏閣などの間違った宗教が、
不幸の根源(こんげん)には、あります・・。


これが、本当のところです。


そのことに、早く早く、気づいてほしい・・・。



それとは、逆に、
さきほどの
『神天上(かみてんじょう)の法門』から、
考えるならば、
神々は、法華経(ほけきょう)の行者を守る、
契約(けいやく)を、結(むす)んでいるわけだし、
ようするに、自分が、
法華経の行者になれば、
神々は、その人を、守るために、
天上から、戻(もど)ってくるわけです。


その重要な『法華経(ほけきょう)』ですが・・・、
法華経といっても、
その時代時代によって、
その表現の仕方が、違います。

そして、今の時代の法華経とは、
実は、
『南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)』
の七文字なんです!

この『南無妙法蓮華経』の七文字が、
法華経なんです。

だから、この『南無妙法蓮華経』の七文字が、
生命における、
『幸せの元(もと)』『幸せの原料』に、
なるわけです。
そして、神々は、
その『幸せの元』『幸せの原料』を、
食べた、残りかす、(香り(かおり)とか、匂い(におい))
を、食べて生きているわけなので、
ぼくたちが、その『幸せの原料』を、
たくさん、たくさん、
食べれば食べるほど、
神々が、自分の周(まわ)りに、集まってくるわけです。
神々が、自分の周りに、集まってくるので、
当然、その自分は、
幸せになっていくわけです!!!

その『幸せの元』『幸せの原料』を、
食べるということが、
実は、『南無妙法蓮華経を、となえる!』
と、いうことです。

だから、南無妙法蓮華経を、となえれば、となえるほど、
『幸せの原料』を、たくさん、食べることになり、
当然、幸せの、残りかす、
幸せの香りや匂(にお)いが、たくさん、でるので、
神々は、大いに喜び、
どんどん、集まってくるわけです。

そして、神々が、集まれば、集まるほど、
当然、自分は、守られ、
幸せになっていきます。


それが、
創価学会(そうかがっかい)が、実践している、
『南無妙法蓮華経を、となえる!』
という、生命を『幸せ』に変革していく、
仏法(ぶっぽう)の実践(じっせん)です。
だから、神々は、神社、仏閣にいるのでは、なく、
『南無妙法蓮華経を、となえる人』のもとに、
いるんです。
『南無妙法蓮華経を、たくさん、
 となえる人』のもとに、
神々は、たくさん、集まってくるわけです。

しかも、南無妙法蓮華経の法華経(ほけきょう)を、
現実に正しく実践しているのは、
創価学会だけなので、
『創価学会の中で、
 南無妙法蓮華経の仏法(ぶっぽう)を、
 実践している人』のもとに、
神々は、集まってくることに、なります。
だから、創価学会の人たちは、
幸せになっていけるわけです。


この話しは、
具体的に、人間のような形をした、
神々が、いるという説明ではなくて、
『幸せになるための、生命の原理』を、
わかりやすく、説明したものです。

そして、実際に、そのとおりになります!!!!


それは、
幸福と勝利の姿(すがた)を通(とお)して、
世界192ヶ国の、
創価学会の人たちが、証明しています・・・!


・・・・・・・・・・・・・こころ(タイムマシンによろしく)・・・・・・・・・・・・・

タイムマシンによろしく144

2014-01-07 09:27:47 | アニメ
このまえ、
ビデオで、
アニメ『火の鳥・異形編(いけいへん) 』を、見ました。

戦国時代、女性でありながら、
男として、育てられた、
左近介(さこんのすけ)は、
そんな父を、ずっと憎(にく)んでいた。

非道(ひどう)のかぎりを、つくした父は、
重い病気にかかり、死にかけていた。

そんな中、
800年も生きているという噂(うわさ)がある、
八百比丘尼(やおびくに)を、
家来(けらい)が、左近介の父のもとに、つれてくる。

八百比丘尼(やおびくに)は、
その父の病(やまい)を、治(なお)すことができる!と、
断言する。

自分が、女性に戻(もど)るためには、
父に死んでもらわなければならない。
そう考えた左近介は、
八百比丘尼を、殺すために、
山奥の寺に、でかける。
そして、左近介は、八百比丘尼を、斬(き)ろうとする。

すると、八百比丘尼は、
「待っておりました。わかっております」
と言う。
そして、左近介に、斬られ、殺される。

左近介は、山を降(お)りようとするが、
何度、城に戻る道を行っても、
もといたところ、山寺に、戻ってしまう。
そして、自分が、不思議な時空(じくう)のはざまに、
閉じ込(こ)められてしまったことを、知る。
その空間は、なんと、自分が生まれる前の、
現実の時間より、30年も前の過去の空間だった。

その山寺には、
さまざまな、傷(きず)ついた人々、病気の人々が、
やってきた。
この山寺に、
『火の鳥』の光り輝(かがや)く羽(はね)があり、
その羽で、さわられると、
どんな病(やまい)も傷も、
治(なお)ってしまうからだ。

左近介は、閉(と)じ込められた空間の中で、
外の世界に、出ることは、できない!
ならば、ともかく、
今、ここで、できることを、しよう!と、
自分が八百比丘尼の代わりに、
『火の鳥』の羽を使って、
来る人、来る人の病(やまい)や傷を、
つきることなく、治しつづける。

そのうち、人間だけでなく、
異次元(いじげん)の化け物、怪物たちも、
病気や、傷を、治してもらいに、やってくる!
左近介は、ためらうことなく、
火の鳥の羽で、怪物たちの傷を、
治(なお)し続ける。

そして、十数年たったのち、
里(さと)から来た人間に、
その土地の領主に、世継(よつ)ぎが、
生まれ、名前が、
「左近介」であることを、告(つ)げられる。

そして、自分が殺したのは、
まさしく、自分自身だったことに、
気づき、18年後、
自分自身を、左近介が、
殺しにくることを、理解する。

そのとき、
左近介の前に、
火の鳥が、出現し、
左近介に、告(つ)げる。
「あなたは、人を殺した!
 その罪(つみ)によって、未来永劫(えいごう)に、
 人に、殺され続けるのです。」

「そして、その罪を、消すために、
 不幸な人々、または、異次元の不幸な化け物たちを、
 火の鳥の羽で、永遠に救(すく)い続けなければならない!
 そして、あなたの罪が消えた時に、
 あなたは、
 この閉ざされた異空間(いくうかん)から、
 でることが、できる」

と・・・・・。

この物語の結末(けつまつ)では、
左近介が、外の世界に出ることが、
できたのかは、あかされていない。
けれど、やはり、外の世界に出られたことを、
願いたいのが、心情(しんじょう)だろう・・。


人を殺した罪によって、
殺されても、殺されても、
永遠に、人に、殺され続ける。

生命は永遠であり、
いわゆる、前世とか来世があり、
生まれては死に、また生まれては、死んでいくという、
生命の輪廻(りんね)を、永遠に繰(く)り返すという、
仏教観から、きているストーリーだと
思うけれど、そうだとしたら、
あまりにも、残酷(ざんこく)である!

けれど、そう考えたとき・・、
今の自分を見るとき、
今の自分の苦しみや、
辛(つら)い境遇(きょうぐう)、
あるいは、今の自分の姿は、
過去のさまざまな悪行によって、
きているのではないか?と、
思うことは、できないだろうか・・・?

自分は、ほんとうは、
過去世(かこせ)に、とんでもない、
人殺しを、してきたかもしれない?と、
思ったことは、ないだろうか?

だから、いまの、苦しみや境遇、
自分の望みたくない姿が、あると、
考えたことは、ないだろうか?

現在の自分の境遇、生(お)い立ち、環境(かんきょう)、
さまざまな運命、宿命(しゅくめい)、
それらのものが、すべて、
はるか昔からの過去世の、
さまざまな人殺しなどの悪行から、
きていると、考えたなら、
なんとなく、納得(なっとく)がいくと、
思うことは、できないだろうか?

そう考えた時、
たしかに、すべての人が、
平等でなく、すべて違(ちが)った境遇と運命を持ち、
差別(さべつ)のある世界に、存在していることが、
なんとなく、理解できるのでは、
ないだろうか?


このアニメ『火の鳥・異形編 』では、
左近介は、人を殺した罪を、消すためには、
死んでは生まれ、また、死んでは生まれながら、
永遠に人を、救い続けなければならないと、
されている。
これは、小乗(しょうじょう)仏教の、
「歴劫修行(りゃっこうしゅぎょう)」の、
考え方だと、思うけれど、
これだと、人は、
生まれて死ぬという、ひとつの一生、
今の一生の中では、救われることはなく、
生まれては死に、死んでは生まれるという繰り返しを、
永遠に繰(く)り返し、その中で、
永遠に人を救う修行をしていかないかぎり、
罪は、消えず、救われることは、ないことになる。

それは、すなわち、自分が、今、
生きている間に、罪が消えることは、ないので、
決して、『幸せには、なれない!』ことになってしまう。

そんなんだったら、仏教なんて、くだらないし、
なんの役(やく)にもたたない。
ただ、抹香臭い(まっこうくさい)だけだから、
やらないほうがいい!
ということになってくる。

だから、それらの仏教は、
どんどん、形骸化(けいがいか)して、
たんなる、おすがり宗教や観光宗教、
葬式仏教(そうしきぶっきょう)になるしかなかった。

また、神社信仰にしても同じだけれど、
それらは、
間違った、デタラメの産物(さんぶつ)なので、
役にたたないどころか、
不幸になる原因になってしまう。

間違ったデタラメの宗教に祈るということは、
その間違ったデタラメの宗教に、
自分の生命と人生をゆだね、
ささげていくことになります。

間違ったデタラメの宗教に、
自分の生命と人生をゆだねていけば、
当然(とうぜん)の結果として、
自分の生命と人生は、
デタラメの間違ったものになっていきます。
そして、自分の生命と人生が、
間違ったデタラメのものになっていったなら、
その結果として、
さまざまな不幸が、
もたらされることになります。

それが、日本に、一般的に充満(じゅうまん)している、
葬式仏教(そうしきぶっきょう)や観光宗教、
神社信仰などです。


少し、横道にそれてしまったけれど、
生まれては死に、死んでは生まれるという繰り返しの中、
永遠のように長い修行をしていかないかぎり、
罪は、消えず、救われることは、ないとしたら、
そんなもの、人はやろうとは思わないし、
興味(きょうみ)を持たない。

ところが・・、
本当の仏法(ぶっぽう)は、違う!
創価学会が実践している、
南無妙法蓮華経の仏法(ぶっぽう)は、
違うんです!!

死んでは生まれ、生まれては死ぬという、
無限の繰り返しを、しないかぎり、
救われないなんて、
そんな、現実味がなく、くだらないものだったら、
創価学会(そうかがっかい)の人たちは、
ひとりも、この仏法を、信じないし、
実践(じっせん)したりは、しません・・!


本当の仏法(ぶっぽう)は、そうではない!!!


今、生きている、この一生のうちで、
必ず、罪が消え、必ず、幸せになれる!

単純(たんじゅん)に言えば、
『やったら、必ず、結果が出る!!』
ということです。


それが、
創価学会の人たちが、となえている
『南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)』
であり、
祈り、信じる対象(たいしょう)である、
『ご本尊(ほんぞん)』です。


・・・・・・・・・・・・・こころ(タイムマシンによろしく)・・・・・・・・・・・・・

南無妙法蓮華経は、よく、
太陽に、たとえられる。

太陽が、上がったならば、
小さな影(かげ)など、たちどころに、消えてしまう。
南無妙法蓮華経を、となえることからしたら、
自分の過去世の罪など、「小さな影」に、
すぎない!ということです!

南無妙法蓮華経を、となえることは、
自分の生命に、太陽を昇(のぼ)らせることに、
等しい!
太陽が、昇ったならば、
その生命の上では、不幸という影は消え、
幸せという歓喜(かんき)の光が、輝(かがや)いてくる!
それは、すなわち、
『必ず幸せになれる』ということです。

また、実際に、
そうなっていくのが、
創価学会が、実践している、
南無妙法蓮華経の仏法(ぶっぽう)です!

だから、悩みを解決していけるし、
夢や希望をかなえていける。
どんな苦難(くなん)も乗り越えて、
幸せと勝利をつかんでいける。


それは、そのまま、
世界192ヶ国に広がる、
創価学会の人たちの、
幸せという結果として、
現実に、花開いている・・・・・・!!


・・・・・・・・・・・・・こころ(タイムマシンによろしく)・・・・・・・・・・・・・

タイムマシンによろしく139

2013-11-20 08:59:51 | アニメ
昔、暇なときに、
「クロノクルセイド」というアニメを、
見たことがあります。

悪魔退治(あくまたいじ)を専門に扱(あつか)う
マグダラ修道会という、
キリスト教のシスター、ロゼットが、
なぜか、悪魔のクロノと組んで、
活躍(かつやく)する物語でした。

あんまり、おもしろくありませんでしたが、
暇だったので、最後まで見ました・・。
内容は、なんというか・・メチャメチャな感じでしたが、
最終回だけは、良かったと思いました。

この物語は、
ロゼットの破天荒(はてんこう)な活躍と、
ロゼットの、人を思う純粋な行動と、
やさしさが、魅力(みりょく)のようです。
ロゼットは、悪魔クロノから、
力を借(か)りるために、
契約(けいやく)を結びます。
その契約の結果、
ロゼットは、悪魔クロノが力(ちから)を使うごとに、
命が削(けず)られ、
悪魔クロノが、力を出せば出すほど、
ロゼットの寿命(じゅみょう)が
縮(ちぢ)まっていくという、
ストーリー展開で、
最後、ロゼットは、寿命が無くなり、
若くして、悪魔クロノと一緒に、
死んでいきます。


詳(くわ)しい話しは、さておき、
このアニメは、
ロゼットが、キリスト教のシスターだということで、
どうしても、キリスト教色が、
強かったと思います。

おもしろいのは、
神の立場に立つシスターが、
悪魔を仲間とし、悪魔と協力する点です。
キリスト教の教義(きょうぎ)から考えれば、
神が悪魔と手を結(むす)ぶことも、、
悪魔が神と協力することも、ありえないと思いますが、
このアニメの中の登場人物が言うには、
悪魔クロノを助け、仲間とする、
ロゼットは、
地獄(じごく)行きとなるそうです。

最終的に、この物語では、
ロゼットの修道会の上司(じょうし)である、
シスターケイトが、
ロゼットと悪魔クロノの生き様を見て、
キリスト教を捨てることを、
決断します。

また、天使として登場する、
牧師レミントンも、
混沌(こんとん)とした世界の中で、
神と悪魔の偽善(ぎぜん)的宗教観に、
絶望して、無力のまま、路頭(ろとう)に迷(まよ)い、
地に倒れていきます。

このアニメの作者の意図(いと)としては、
キリスト教は、人間を救うことは、できない!
人間が、本当に人間らしく
生きようとしたならば、
キリスト教を、捨てるしかない・・・!
あたかも、
そう、言いたかったかのように見えます。

生命の最小単位である自分の生命の中でさえ、
神的なものと、悪魔的なものが、
どちらも、存在している。
まして、神的存在と、悪魔的存在が、
ごっちゃまぜに、混在(こんざい)する、
この現実の世界で、キリスト教の信仰を、
つらぬこうとしたならば、
その人は、偽善者(ぎぜんしゃ)に、
ならざるをえないかもしれない・・。


その中で、
もっとも、人間らしく描かれているのが、
ロゼットです。
ロゼットは、自分の思うがままに行動する。
キリスト教では、
けっして受け入れられるはずのない、
悪魔を助け、仲間として、愛していく。
自分の真心、やさしさ、人間性だけを信じ、
ありのままの、つくろわない、
ピュアな心で、行動していきます。

作者が、伝(つた)えたかったことは、
この、まったく、つくろわない、
ありのままの人間性なのかも、しれない。


・・・・・・・・・・・・・こころ(タイムマシンによろしく)・・・・・・・・・・・・・

仏法(ぶっぽう)には、
無作(むさ)という言葉が、あります。
無作(むさ)とは、
「つくろわず、はたらかさず、ありのまま」
という意味です。
この、つくろわない、はたらかさない、
ありのままの人間性を、開花させるのが、
実は、創価学会が、実践(じっせん)している、
南無妙法蓮華経の仏法(ぶっぽう)です。

南無妙法蓮華経を、となえていると、
その、つくろわない、ありのままの人間性が、
開花していきます。
南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)は、
もっとも人間らしい心、
もっとも人間らしい行動、
その人間としての、もっとも人間らしい最高の行動を、
なんの飾り(かざり)もなく、
なんの抵抗(ていこう)もなく、ありのままに、
働かせるエネルギーのようなものです。

だから、
南無妙法蓮華経を、となえていくと、
最高の人間性が、開花していく。

それは、
さまざまな悩みを解決し、
宿命(しゅくめい)を打ち破(やぶ)り、
夢や希望をかなえていく、
大きな大きな力(ちから)となっていきます。


また、おもしろいことに、
南無妙法蓮華経を、となえると、
どんな鬼神(きじん)や悪魔も、
南無妙法蓮華経を、となえる人に、
危害(きがい)を加えることは、できなくなり、
悪魔や鬼神であっても、
南無妙法蓮華経を、となえる人を、
助け、守る存在(そんざい)になります。

南無妙法蓮華経は、
全宇宙の生命を、つかさどる、
絶対的な法則(ほうそく)であるがゆえに、
どんな鬼神や、悪魔であっても、
この南無妙法蓮華経の法則に、
したがわないわけには、
いかなくなるからです。

だから、悪魔や鬼神は、
南無妙法蓮華経を、とえなる人に、
逆(さか)らうことは、できず、
どうしても、南無妙法蓮華経を、となえる人を、
助け、守るしか、なくなります。

だから、南無妙法蓮華経を、となえていくと、
あらゆる神々が、鬼神や悪魔であっても、
その人を、守り助ける存在になります。

キリスト教のような矛盾(むじゅん)は、
一切(いっさい)なく、
現実における、あらゆる存在が、
なんの矛盾もなく、自分を助け、
自分を守る、プラスの存在として、
働いてくれる。

これが、南無妙法蓮華経を、となえるスゴサだと思う!!


問題は、現実です。
現実の人生を、どうやって、切り開いていくか?
現実の自分を、どうやって、変えていくか?
現実の世界を、どうやって、変えていくか?
現実の自分を、どうやって、幸せにし、
夢を、かなえていくか?

その現実に、真っ向から挑戦し、
現実のすべてを、プラスに変え、
現実の自分を、幸せに変え、希望を、つかみ、
あらゆる現実の中で、
勝利していける法則!


そのあらゆる現実を、
幸せに変えていく、
法則であり力(ちから)が、
創価学会の、
南無妙法蓮華経を、となえる、
仏法(ぶっぽう)だと、いうことです・・・!


・・・・・・・・・・・・・こころ(タイムマシンによろしく)・・・・・・・・・・・・・

タイムマシンによろしく131

2013-09-07 10:30:36 | アニメ
先日、
「魔法使いに大切なこと」という、
アニメを見た話しを、しました。

そのアニメの中で、
魔法士(まほうし)の資格を、とるために、
東京に研修に来ている、
主人公の夢(ユメ)が、
いろいろな体験をするなかで、
壁(かべ)に、ぶち当たります。

それは、
どんなに、素晴らしい魔法を、
かけたとしても、
その人の心を、変えることは、できない!
ということです。

魔法士の研修生、ユメは、
商店街から、魔法の依頼(いらい)を受け、
いたずらで、キズや落書きを、
されてしまったガラスを、
魔法を使って、きれいに、
元(もと)どうりに、直(なお)します。

けれど、また、すぐ、
商店街のガラスには、
いたずらや、キズが、つけられる。

商店街の依頼者は、
お金を出して、
魔法(まほう)を、つかってもらい、
ガラスを、元どうりにしてもらったんだけど、
元どうりにしたところで、
いたずらは、おさまらず、
いつまでたっても、いたちごっこで、
根本的な解決策(かいけつさく)には、ならなかった。

なぜだろうか?

それは、やはり人間の心が、
変わっていないからです・・。

ユメは、
おばあさんの依頼者から、
古くなった家を、
一日でいいから、
30年前の姿に戻(もど)してくれと、
依頼され、
魔法の依頼者の注文通りの、
素晴らしい魔法を、
使うことができ、
おばあさんの家は、一時期だけ、
昔の姿に戻った。
けれど、かえって、
魔法の依頼者である、おばあさんは、
ショックを受け、
落ち込み、
生きる意欲(いよく)をなくしてしまった。

魔法で、表面的なことは、
変えることは、できたとしても、
やはり、人間の心までは、変えられない。

それで、主人公のユメは、
落ち込(こ)んでしまい、
魔法を使うのを、いやになってしまう。

やがて、ユメは、
「こころを、込(こ)めて、
 ベストを尽(つく)くすしかない!」
と、立ち直っていく。
その「心を込めた」、『心』は、
必ず、伝(つた)わるはずだ!
気持ちは、いつか、必ず伝わり、
世界を、変えていける!
そう、考えたのかもしれない。


・・・・・
実は、これは、本当のことです。

心は、世界を変えていける!
仏法(ぶっぽう)では、
『心こそ、大切なれ』といって、
心を、重要視(じゅうようし)する。
それは、心が、人間の幸・不幸を決める、
最も、重要なものであり、
実は、心には、世界を変える、
最も大きな力(ちから)があり、
根本的には、心が、
環境(かんきょう)や世界を、つくっていると、
言えるからです。

その心を変えることに、
スポットを当て、
心を変えることに、
最大の重点(じゅうてん)を、おかないかぎり、
未来の世界に、
希望は、もたらされないでしょう。

そして、その、
心に最大の焦点(しょうてん)を当て、
心を変えることに、最大の重点を置(お)いて、
現実に、人々の心を、変え!
人々に幸せを、もたらしてきたのが、
創価学会です。

だから、
世界の、未来を危惧(きぐ)する、
一流の有識者たちは、
創価学会の活動を、大絶賛し、
創価学会に、世界の未来を担(にな)う、
最大の希望と期待を、たくしている。


・・・・・・・・・・・・・こころ(タイムマシンによろしく)・・・・・・・・・・・・・

魔法は、現実には、存在(そんざい)しない。
けれど、かりに存在したとしても、
魔法で、人間の心を、
変えることは、できない!

これは、現実の世界でも、
同じだと思う。
どんなにお金が、あろうと、
どんなに権力(けんりょく)が、あろうと、
どんなに科学が、発展しようとも、
どんなすごい武力が、あろうとも、
人間の心を、変えることは、できない!

だから、世界に、
あらゆる不幸が、もたらされていると、
言っていいと思う。


けれど、世界に、
たった一つだけ、
人間の心を、
根本から変える方法が、ある!!!


それが、
『南無妙法蓮華経を、となえる!』
ということです!!


南無妙法蓮華経を、となえると、
本当に、心が、変わっていく!
南無妙法蓮華経は、宇宙を変革(へんかく)する、
根源(こんげん)の力だから、
小宇宙である、人間の生命は、
南無妙法蓮華経を、となえることによって、
スイッチが、入ったかのように、
宇宙の根源の力(ちから)を得て、
急激に変革を開始し始める!

その人の心が、
根源(こんげん)から変わっていけば、
当然、その人の人生も、
大きく、変わっていく!
すなわち、人生に、
大きな幸せを、もたらすことが、できる。
それは、
南無妙法蓮華経を、となえることによって、
自分の生命で、感じることが、できる。


南無妙法蓮華経は、
歓喜(かんき)の中の大歓喜だと、いう。
それは、南無妙法蓮華経が、
人間の生命を、根源から、
幸せに変えている証拠(しょうこ)だと思う。

自分自身の生命自体が、
幸せに変わったんだから、
その人の人生が、幸せにならないわけがない。
また、自分の生命が、
幸せに変革されていけば、
その結果として、
悩みが、解決したり、
努力しだいで、
夢が、かなったりしていく。

それが、一人一人の人生に、
現実に、起こっていく!
だから、創価学会は、スゴイ!
だから、創価学会は、世界のどこでも、
認(みと)められ、広がり続けている。


それは、魔法ではない!
人間が、本来、もっている生命の力だからです!
その力(ちから)を、引き出すことが、

『南無妙法蓮華経を、となえる!』

ということだと思う・・・・・。


・・・・・・・・・・・・・こころ(タイムマシンによろしく)・・・・・・・・・・・・・