タイムマシンによろしく!!

明日は、タイムマシンがなくても、やってくるから・・。

タイムマシンによろしく99

2012-10-02 09:14:37 | 映画
このまえ、
下弦の月(ラスト・クォーター)という映画を、
見ました。

この映画は、
矢沢あいの同名の漫画(まんが)「下弦の月」を、
映画化したものです。


19年まえ、
ロンドンで暮(く)らしていた
ミュージシャン、アダムは、
恋人、上条(かみじょう)さやか、
と愛し合う。

けれど、
アダムの恋人、上条さやかは、
19歳の若さで、
不治(ふじ)の病に倒(たお)れ、


「きっと生(う)まれ変わってくる」


という言葉を残(のこ)して、
死んでいく。


その言葉を、信じることもできず、
アダムは、絶望(ぜつぼう)して、
自殺(じさつ)する!


そして、アダムの霊(れい)は、
暗黒の闇(やみ)の世界に、
永遠に、さまよい続ける。


死んだ上条さやかは、

「きっと生まれ変わってくる」

と言った言葉どおり、
『望月美月(もちづき みづき )』として、
生まれ変わってくる!


しかし、アダムに会えることは、なかった。


なぜなら、
自殺した人間は、
生まれ変わることは、できず、
永遠(えいえん)に暗黒(あんこく)の闇の世界で、
苦しみつづけるという
設定(せってい)だからです。


19年に一度だけ、同じ形(かたち)の月が、
同じ月日に現れるという。


それが、
「下弦の月」(ラストクウォーター)という、
設定です。


そして、「下弦の月」が現れた時、
奇跡(きせき)を、おこせる!


ということに、なっている。


アダムは、暗黒の世界で、
ひたすら、
その下弦の月を待(ま)ち続ける。

そして、アダムの恋人、上条さやかが、
この世を去(さ)った時と、
同じ月(下弦の月)が、
また、19年後に、現(あらわ)れる。

そして、
その19年に一度しか現れない
「下弦の月」(ラストクウォーター)の奇跡で、
アダムは、
上条さやかの生まれ変わり、
望月美月に、
会うことができる。


しかし、それは、
望月美月を、暗黒の死の世界に、
導(みちび)くことになってしまう!


下弦の月が消え去ろうとするとき、
望月美月は、
事故に、遭(あ)い、
生死(せいし)を、さまよう。


肉体は、植物人間状態で、
かろうじて、生きているものの、
その霊は、幽霊(ゆうれい)として、
アダムと、めぐり合い、
アダムを愛した、
謎(なぞ)の館(やかた)で、さまようことになる。


だが、やがて、
望月美月の霊魂(れいこん)は、
現実の生きている、
さまざまな人たち(愛する人たち)の助けを得(え)て、
アダムとの別れを、決意し、
アダムも、また、微笑(ほほえ)んで、
それを、認(みと)め、
見送っていく。


望月美月は、
自分の肉体に戻り、
蘇生(そせい)して、
現実の愛(あい)すべき人たちと、
生きていくという、
だいたい、そんな感じのストーリーです。


この映画では、
よく言われる、
人間には、前世(ぜんせ)とか来世(らいせ)があり、
人間の生命は、永遠に生まれ変わって、
自己という生命(せいめい)は、
形は変わっても、
永遠に生き続けるということが、
前提(ぜんてい)として、
ストーリーが、展開されている。


このことを、認めないと話しが、
成(な)り立たなくなっている。


また、自殺してしまった絶望の霊(生命)を、
いかにして、安らがせ、
苦しみから、解(と)き放(はな)つことができるか?

ということが、
キーワードと、なっている。


こういう話しに興味(きょうみ)がない人には、
なんの利益(りえき)もないと思うけれど、
自分の亡(な)くなった家族や親族、友達、
そんな、今は、この世界に、
いなくなってしまった霊(生命)に対して、
たとえば、
悲しい死、苦しい死を
迎(むか)えた人であったならば、
その死んだ霊魂(生命)に対して、

「どうか、安(やす)らかであってほしい!」

「幸せで、あってほしい!」

「成仏(じょうぶつ)していてほしい!」

と、
願う人も、少なくないと思う。


そのために、
お墓参(はかまい)りをし、
さまざまな宗教(しゅうきょう)、信仰(しんこう)によって、
亡くなった人たちを、とむらったりする。


けれど、それらが、
すべて正しいわけでは、ない!


間違(まちが)った信仰、間違った宗教は、
亡くなっていった生命を、
逆に、
地獄(じごく)に落としてしまう結果になるからです。


そこに、大きな落(お)とし穴(あな)があり、
ほとんどの人が、
宗教の正邪(せいじゃ)に対する認識に、
欠如(けつじょ)している。


たとえば、葬式仏教(そうしきぶっきょう)・・・

葬式(そうしき)に呼んでくださいと、
言わんばかりですが、
この葬式仏教は、はっきり言って、
完全に間違った、デタラメな宗教です。

いくら高いお金を払(はら)って、
お経(きょう)を読んでもらったところで、
亡くなった人も、自分たちも、
地獄に落とし、
不幸に引(ひ)きずり込(こ)む結果にしかなりません。


神社信仰(じんじゃしんこう)にしても、
同じです。

デタラメの間違った宗教ですから、
どんなに、真心(まごころ)を込(こ)めて、
祈(いの)ってみたことろで、
自分も亡くなった人も、不幸にし、
実際、自分の人生に、
さまざまな形(かたち)で、
不幸という結果(けっか)が、出てきてしまいます。


ひどいことを言うと、
言うかもしれませんが、
それは、本当(ほんとう)のことであり、
本当のことを言わないほうが、
もっと、ひどいと思います。



最初のテーマに戻(もど)りますが、
それでは、
亡くなった人たち、
悲(かな)しい死、苦しい死を迎(むか)えてしまった生命を、
たとえば、
自殺してしまった霊(生命)であったとしても、
その霊(生命)を、
安らかに、幸せに、
歓喜(かんき)の生命に変えることは、
できるのだろうか?


答えは、『できる!!』です・・・。


それが、創価学会(そうかがっかい)が実践する、
『南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)』
の仏法(ぶっぽう)なんです。

『南無妙法蓮華経を、となえる』ことを
原点(げんてん)とした、
創価学会の活動なんです。


その『南無妙法蓮華経』というのは、
全宇宙(ぜんうちゅう)を幸せに変換(へんかん)する、
生命の法則(ほうそく)なんです。

だから、南無妙法蓮華経を、となえると、
その生命が、
死んでいる生命(休んでいる生命)であろうと、
生きている生命(活動してる生命)であろうと、
生命そのものを、
幸せに変換することが、できる!


それが、
南無妙法蓮華経の音声(おんじょう)であり、
創価学会が実践(じっせん)している、
「南無妙法蓮華経の仏法」です。


・・・・・・・・・・・・・こころ(タイムマシンによろしく)・・・・・・・・・・・・・


南無妙法蓮華経の音律(おんりつ)は、
全宇宙に、とどく!という。


たとえ、自分の家族や親族、友達が、
地獄の底で、あえいでいたとしても、
南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)は、
地獄の底までも、とどき、
その人を、亡(な)くなった霊(生命)を、
救(すく)い出し、歓喜の(幸せの)生命に、
変えることが、できる!


それが、
『南無妙法蓮華経を、となえる』ことの、
無限(むげん)の力(ちから)の、
ひとつだという。


だから、
亡くなった人たち、
悲しい死、苦(くる)しい死を迎えてしまった生命、
自殺してしまった霊(生命)、
絶望の内に、死んでいった生命であったとしても、
その霊(生命)を、
本当に救い、
安らかに、幸せに、
成仏(じょうぶつ)させてあげたい!
と思ったら、
創価学会が、実践している、
南無妙法蓮華経の仏法(ぶっぽう)を実践し、
ご本尊(ほんぞん)に、
南無妙法蓮華経を、となえぬく以外に、
方法はない!と断言しても、
言い過(す)ぎではありません。


これ以上の追善回向(ついぜんえこう)は、
絶対に、ありえないからです!・・・・。


だから、前世とか来世とか、
永遠の生命の存在(そんざい)を、信じ、
死んでいった霊(生命)が、存在すると、
信(しん)じている人たち、
そうでなくても、
亡くなった家族や友人を、心から思い、
その亡くなった霊(生命)に対して、
こころから、
安らかであってほしい! 幸せであってほしい!
と願(ねが)う人たちにとっても、
『南無妙法蓮華経を、となえる』ということは、
最高最大に、価値(かち)のある、
無上の、究極(きゅうきょく)の、
行動となります・・・・・!


・・・・・・・・・・・・・こころ(タイムマシンによろしく)・・・・・・・・・・・・・


タイムマシンによろしく91

2012-08-25 14:00:41 | 映画
先日、
近ごろは、積極的(せっきょくてき)に
涙(なみだ)を流す男性が
増えているという話しを、したんですが、
ある種(しゅ)のストレス発散(はっさん)と
生活の活力になるということで、
みんなで、一緒(いっしょ)に、
涙を流そうというサークルがあって、
みんなで、涙の出る映画を見て、
一緒に、泣いていた!
という話しをしました。


その「一緒に泣(な)こうサークル」で、
その時、たまたま見ていたのが、
『いま、会いにゆきます』
という映画でした・・。


ぼくも、以前、
見たことがありましたが、
確(たし)かに、泣ける、
いい映画でした。



澪(みお)は、二十歳のときに、
横断歩道で、
車と接触(せっしょく)して倒(たお)れてしまう。


車に突(つ)き飛ばされたショックで、
澪(みお)は、
なぜか9年後の未来に
タイムスリップしてしまう。


そして、タイムスリップした世界で、
澪(みお)、自身は、
記憶を、失ってしまっていたが、
澪の夫、巧(たくみ)と、
自分の息子、佑司(ゆうじ)に、
再開する。
(20歳の時点では、
子供もいないし、結婚も、していない)


そして、そのタイムスリップした、
9年後の世界では、
自分は、すでに、

「一年前に、死んでいた」

ことを、
知ってしまう。


雨の季節(きせつ)に、
澪は、タイムスリップして、
自分が死んだあとの世界にやってきて、
6週間後の、
雨の季節の終わりとともに、
また、タイムスリップして、
20歳の、もとの世界に、
もどっていく。


目覚(めざ)めると病院だった。

タイムスリップして、
6週間の奇蹟(きせき)の後、
澪が20歳の現実の世界にもどると、
澪は、未来の夫のもとに、
会(あ)いに行くことを、
決意する!


さきほど話した、
タイムスリップによって、
自分が28歳で死ぬことを知っていた澪は、
その後、
夫と息子のために、
一冊(いっさつ)の絵本(えほん)を、
書き上げる。

その絵本には、
自分が死んでから、一年後の雨の季節に、
二十歳の澪が、やってきて、
雨の季節の終わりとともに、
帰っていくことが、
描(えが)かれている。


未来を、
子供と夫の幸せのために、
伝(つた)えておきたかったからだ!


また、タイムスリップした時の話しに
戻(もど)りますが、
タイムスリップして、
自分が死んでから
一年後の世界にやってきた澪は、
自分の日記から、

自分が、死んでしまったこと、

そして、自分は、
雨の季節の終わりとともに、
もとの世界に帰っていくことを、

知ってしまう。


そのため、
かぎられた6週間のあいだに、
子供と夫のために、
さまざまな手を、打っていく。

炊事(すいじ)、洗濯(せんたく)、家事(かじ)が、
へたくそな夫のために、
子供に、炊事、洗濯、家事を、
一生懸命(いっしょうけんめい)、教えこむ。

また、バースデーケーキを
今後12年分予約(よやく)して、
子どもが18歳になるまで、
毎年、届(とど)くようにした。


そして、雨の季節の終わりと共に、
澪は、帰っていく・・・・・。


・・・・・・・・・・・・・こころ(タイムマシンによろしく)・・・・・・・・・・・・・


自分が、いなくなった未来のために、
手を打(う)っていく。


それは、未来が、見えているから、
できるのかも、しれない。


けれど、
それと同じようなことをした、
人間が、いる。

スケールは、まったく違(ちが)うけれど、
それが、釈尊(しゃくそん)です。

釈迦(しゃか)ともブッダとも、
呼ばれています。


釈尊は、自分が死んでから、
二千年後の世界のために、

『法華経(ほけきょう)』

を、残(のこ)す。

まるで、澪が、
自分が死んだ未来のために、
絵本を、書き上げたように・・。


釈尊は、自分が死んでから、
二千年後の、
未来の、すべての民衆を、
幸せにしたいがために、
法華経(ほけきょう)に残しておく!


自分が死んでから、
二千年後の世界では、
自分(釈尊)の教えは、すべて、
力(ちから)を、失(うしな)い、
釈尊の仏教は、かえって、
人々を、まどわし、苦しめ、不幸にする、
元凶(げんきょう)になってしまう。

だから、二千年後の世界では、
わたし(釈尊)の仏教は、
すべて、捨てなさい!と、
メッセージを送る。


その釈尊が、
捨てなさいと言っている仏教、
人々を苦しめ、不幸にする
元凶(げんきょう)となってしまう仏教が、
現代、日本に、はびこっている、
観光仏教や葬式仏教(そうしきぶっきょう)です・・。


だから、それらの仏教に
効力(こうりょく)があるわけがなく、
逆(ぎゃく)に、
人々を不幸にする、
大きな原因(げんいん)になってしまいます。

また、神社信仰(じんじゃしんこう)にしても同じで、
人々を不幸にする原因にしかなりません。


では、どうしたらいいのか・・・。


さらに、釈尊のメッセージは続きます。

私(釈尊)が死んでから、
二千年後・・、

そのときに、
私(釈尊)の師匠(ししょう)が、
今の日本がある場所に出現して、
全民衆を、救い幸せにすることができる、
真実(しんじつ)の仏法(ぶっぽう)を、
広げていくだろう。
と・・!


それが、
釈尊の法華経に、たくされた、
メッセージだと、
言えます。


そして、釈尊の死後、
二千年後の世界に出現した、
釈尊の師匠というのが、
日蓮大聖人(にちれんだいしょうにん)です。


そして、
釈尊の死後、二千年後の未来、
全民衆を救(すく)い、幸せにすることができる、
真実の仏法(ぶっぽう)というのが、

『南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)』

です。


この南無妙法蓮華経は、
釈尊を、仏(ほとけ)にした、
釈尊を、
『われ、仏なり!』
と悟(さと)らさせた法(ほう)です!

また、その法を、
釈尊に教えた師匠が、
日蓮大聖人ということに、
なります。


一般的な時間の概念(がいねん)から考えると、
理解しがたいかもしれませんが、
仏法で説く、
永遠(えいえん)の生命観(せいめいかん)から見るならば、
これは、決して、
間違(まちが)ったことでは、
ありません!!

それは、あたかも、
映画「いま、会いにゆきます」で、
澪が描いた絵本が、
決して、間違いではなかったように、
未来の、すべての民衆のために、
残されている・・・・・・・・・!


そして、
全民衆に、幸せを、もたらす、
真実の法(ほう)であり、力(ちから)である、
『南無妙法蓮華経』を、
真に受(う)け継(つ)ぎ、
世界に広めているのが、
創価学会(そうかがっかい)であることも、
言っておきたいと思います・・・・・。


・・・・・・・・・・・・・こころ(タイムマシンによろしく)・・・・・・・・・・・・・


タイムマシンによろしく83

2012-06-19 09:15:20 | 映画
●映画「コンスタンティン」を見て・その3●

先日から、
映画「コンスタンティン」の話しを
しているんですが、
この映画の中で、
コンスタンティンは、
過去に、
自殺未遂(じさつみすい)の経験があり、
2分間だけ、死んだ体験を
持っていることになっている。

映画の設定(せってい)では、
死ぬと、2分間だけ、
時間が止まり、
時間が止まった空間(くうかん)の中を、
動くことができるという
設定になっている。

そして、映画の最後の、
絶対絶命の瞬間(しゅんかん)に、
コンスタンティンは、
死ぬと、2分間だけ、
「時間が止まる」という現象(げんしょう)を
利用して、
最後の勝負に出る。

すなわち、
自分の命を、絶(た)ってしまう。

そして、魔王(まおう)を呼び出し、
時間が止まった、2分間を利用して、
一発逆転(いっぱつぎゃくてん)の勝利を、
つかむ!


時間が止(と)まった空間で動けるというのは、
「ジョジョの奇妙な冒険」という
マンガにも、あった・・。

スタンドという、
自分の分身(ぶんしん)のようなエネルギー体を、
あやつって戦うんだけれど、
そのスタンドの能力(のうりょく)に、
時間を、何秒か、止めて、
その空間の中で
動けるという能力があり、
その止まった時間を利用して、
すべてを、
やっつけてしまうという話しだ。

時間が、止まっているんだから、
相手は、動けない。

その中で、自分だけ、動ければ、
あきらかに、
相手を、たたきのめし、
勝利できるという寸法(すんぽう)です。

おもしろい話しでしたが、
知らない人には、
まったく、わからないですよね・・。


ひとつ、言えることは、
もし、時間を、止めることが、できたら、
そして、その中を、
自分だけ、動くことが、できたら、
どんな絶体絶命(ぜったいぜつめい)のピンチも、
逆転できる。

どんな逆境(ぎゃっきょう)も、
勝利に変えてしまうことが、
できる。


そんなことが、できたら、
当然(とうぜん)、スゴイですけどね・・・。


当然のことだけれど、
実際には、時間を止めることは、
できない。

少々、飛躍(ひやく)した考え方をすると、
時間を止めることに、
もっとも、近いもの、
時間を止めた中で動けるのに、
もっとも近いものは、

『一瞬(いっしゅん)』

という時間でしょう・・。


それは、そうだ。
時間的に考えれば、
0秒に、いちばん近いのは、
1秒とか、0.1秒とかいう、
一瞬の時間だからです。

仏法(ぶっぽう)では、
この一瞬の時間、
もっと言うと、一瞬の心、
一瞬の一念(いちねん)に、
実は、
大きな大きな力(ちから)がある!
と説く。


それが、
『一念三千(いちねんさんぜん)』
という、法則(ほうそく)です。


一念(いちねん)とは、一瞬の心です。
その一瞬の心の違いによって、
三千の違(ちが)う世界が、
できあがるという法則です。

すなわち、
一瞬ともいえる『心』を、
変革(へんかく)することによって、
その一瞬の一念によって、
人生が、世界が、
大きく変わっていくと
いうことになります。


前に、
創価学会(そうかがっかい)の先輩から、

「宿命転換(しゅくめいてんかん)は、
一瞬で、できるんだ。」

という話しを、聞いたことがある。

※宿命転換とは、
自分の持っている運命や宿命を、
変革することによって、
人生を、幸せの方向に、
大きく、切り開いていくことを、
言います。


きっと、それが、
『一瞬の心(一念)』の力(ちから)なんだと思う。


実は、いちばん、力がないようで、
『一瞬の心(こころ)』ほど、
すごい!力を秘(ひ)めたものは、
ないのかもしれない。

たとえば、なにかの事故や災難(さいなん)に、
おそわれた時も、
生き残(のこ)るのは、
「生きるんだ!」という一念(こころ)が、
強い人間であると言われている。

当然、
何かを成(な)し遂(と)げた人は、
強い強い一念を持っている。

一念(いちねん)が、
未来を作り、
環境を作り、
世界を創(つく)る。


これが、生命(せいめい)の、
一念三千の法則だと思う。


この最も短い、
究極(きゅうきょく)の一念から、
無限のパワーを引き出し、
無限のエネルギーを生み出すのが、

『南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)』

だと思う。


なぜ?
『南無妙法蓮華経を、となえるか』
というと、
自分の心(一念)から、
無限のパワーと知恵を、
生み出すためでもあると、
言えます。

南無妙法蓮華経の力は、無限大だから、
それだけではないけれど、
それが、
一念三千の究極(きゅうきょく)の法(ほう)、
『南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)』
だと思う。

だから、事故や、災難があった時に、
突発的(とっぱつてき)に、
南無妙法蓮華経を、となえたら、
九死(きゅうし)に一生を得(え)たという例も、
あるようです。

すなわち、
南無妙法蓮華経を、となえると、
映画コンスタンティンに、なぞらえて話すならば、
時間を止めて、その中を、動き回るように、
(少々、大げさですが・・・)
一念(こころ)に込(こ)められた、
生命のエネルギーと知恵を、
無限に引(ひ)き出して、
危機を回避(かいひ)したり、
大勝利を、もたらしたりすることが、
究極的(きゅうきょくてき)には、
できる可能性が、
出てくるんだと思う。


人間の『一念の力』を説明するために、
映画コンスタンティンの、
時間を止めた中を動ける話しを、
利用(りよう)しましたが、
それくらい大きな価値(かち)と、
無限の勝利と幸せを、もららすエネルギーが、
人間の一念(いちねん/こころ)には、
ある!ということを、
伝(つた)えたかったんです・・。


そして、
人間のこころから、
それだけの無限(むげん)のエネルギーを引き出す力が、
南無妙法蓮華経には、あり、
だから、南無妙法蓮華経を、となえていくと、
幸せになっていけるんだと思います・・。


・・・・・・・・・・・・・こころ(タイムマシンによろしく)・・・・・・・・・・・・・

いくら、心の力(ちから)、
一念の力が、スゴイと言っても、
一念から、無限の力を引き出して、
活用(かつよう)するなんてことは、
普通は、とても、
できた話しでは、ない。

そう言うまえに、
自分の心に、
振(ふ)り回されてしまうことのほうが、
多いと思う。

だから、さまざまなセミナーで、
心の持ち方の大切さを話しても、
理屈(りくつ)では、わかっても、
ほとんど、
活用(かつよう)できないということのほうが、
多いと思う。


ところが、
『南無妙法蓮華経』は、違う!


どんな環境(かんきょう)の、
どんか人間であっても、
南無妙法蓮華経は、

「ただ、その人が、となえれば、いい!!」

理屈を、つべこべ、言うのではなく、
ともかく、現実に、
『南無妙法蓮華経を、となえる!』

そうすることによって、
パッと、
心(一念)が、変わっていく。

どんな人でも、同じです!

南無妙法蓮華経が、
一念(こころ)を、変革する、
無限の力(ちから)であるがゆえに、
ともかく、
南無妙法蓮華経を、となえるだけで、
心が、一念が、変わっていく!

それは、
南無妙法蓮華経を、となるえることによって、
人生が、世界が、
変わっていくと、いうことです。

そして、南無妙法蓮華経を、
毎日、毎年、どんどん、たくさん、
となえ続けることによって、
その人の人生は、
勝利へ、幸せへと、
どんどん、変わっていく!


南無妙法蓮華経は、
理屈では、わからなくても、
現実の人間を、変えてくれる!
現実の人間を、幸せに、できる!


創価学会は、
南無妙法蓮華経の仏法(ぶっぽう)を、
世界に、広めることによって、
理屈でなく、
一念三千の、すごい法則を、
現実の人間の手に、
取り戻(もど)してくれたんだと思う。


映画コンスタンティンに、たとえるならば、
おおげさですが、
一念(一瞬のこころ)という、
まるで、時間を止めた空間の中で、
動けるような、
最高最強の力を、
南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)は、
現実の人間に、
つかませてくれるんだと思う。


それが、
創価学会が、広まり続け、
この南無妙法蓮華経をとなえる
仏法(ぶっぽう)の信仰(しんこう)によって、
ひとりひとりが、自分の人生を
勝利していける理由の、
ひとつではないかと、
思う・・・・・。


・・・・・・・・・・・・・こころ(タイムマシンによろしく)・・・・・・・・・・・・・


タイムマシンによろしく82

2012-06-15 09:21:05 | 映画
●映画「コンスタンティン」を見て・その2●

先日、
映画「コンスタンティン」を
見た話しをしたんだけれど、
この映画の後半で、
コンスタンティンは、
女性を、救(すく)うために、
命を落とす。

その時、
魔王(まおう)が、あらわれ、
コンスタンティンは、
地獄(じこく)へ、連れて行かれそうになる。

しかし、
コンスタンティンは、
女性を救おうとして命を落としたという、
自己犠牲(じこぎせい)の精神を
働かせたということで、
魔王が、どんなにコンスタンティンを
地獄に連れて行こうとしても、
連(つ)れて行けず、
天国へと、のぼっていく。

それを見た魔王は、怒(いか)り、

「そんなことは、絶対に、させない!」

と、
コンスタンティンの肺ガンを治(なお)し、
コンスタンティンを、
生き返(かえ)らしてしまう。


なんと、魔王が、
コンスタンティンの命を、
救った形になったわけです。

映画らしい、おもしろい展開(てんかい)だと思った。


それで思い出したけれど、
日蓮大聖人(にちれんだいしょうにん)の
御書に、
梵音声御書(ぼんのんじょうごしょ)という
御書があります。

※御書(ごしょ)とは、日蓮大聖人が書かれた、
論文や手紙を、すべて集めたものです。
そのひとつひとつの論文や手紙に、
内容に合った名前が付(つ)いています。

その梵音声御書(ぼんのんじょうごしょ)の中には、

「どんな国の人々も、
その国の王に、従(したが)わなければ、
生きていけない。

これが、人間の定(さだ)めだ!」

という話しが出てくる。


それは、確かに当然(とうぜん)だと思う。


なぜなら、
その国の規則(きそく)に背(そむ)いたら、
生活できなくなるし、
結局(けっきょく)、
生きていけないからだ。


けれど、
いまいち、腑(ふ)に落ちない!


なぜかというと、
日蓮大聖人の、
南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)の
仏法(ぶっぽう)は、
あらゆる民衆のための、
庶民(しょみん)のための、
全世界のひとりひとりの人間を救うための、
生命の法則(ほうそく)のはずだからです。

それなのに、
その国の王(おう)に従(したが)わなければ、
生きていけないなんて、
確かにそうかもしれないけど、
それでは、
ひどい言い方をすれば、
民衆は、王の奴隷(どれい)みたいな
存在(そんざい)に感じてしまうからです。


けれど、この梵音声御書を、
読み進めていくと、
そうではないことが、わかってくる。


確かに、その国にいる以上、
その国の王、あるいはその国の法律(ほうりつ)、
規則(きそく)にそむくことはできない。

そのことわりを利用して、
日蓮大聖人は、

『仏法も、それと同じなんだよ!』

ということを、
わからせようとしている!!


単純に言うと、
仏法(ぶっぽう)とは、生命の法則であり、
宇宙の法則なんです。

どんな生命(せいめい)も、
生命の法則、宇宙の法則には、
さからうことは、できない。

これは、わかると思う。

まず、すぐ上にあげた話しの内容を
認(みと)めるとします。

するとこんどは、
この「生命の法則」「宇宙の法則」を、
絶対に逆(さか)らうことのできない力(ちから)であり、
最高、最上(さいじょう)の法則という意味で、
『生命の王』と、とらえてみる。

すると、
「宇宙の法則」である、
『生命の王』に、
逆(さか)らうことのできる生命は、
ないことになります。


どんな生命も、
あるいは、どんな魔民(まみん)も、
悪魔や、悪鬼(あっき)や鬼神(きじん)であっても、
生命の法則の上での『王』に、
従(したが)わないわけには、いかない!


なぜなら、
どんな悪魔や、悪鬼、魔人であろうと、
その生命の法則の上での『王』に
したがわなかったら、
自分が、朽(く)ち果(は)て、
滅(ほろ)んでしまうからです。


問題は、宇宙の法則の上での『王』
生命の法則の上での『王』とは、
何か?
ということだと思う。


その生命の法則の上での『王』、
どんな悪鬼や、魔物(まもの)、鬼神でさえも、
したがわざるえない、
生命の法則の『王』が、
実は、
創価学会(そうかがっかい)の人たちが、
日々、となえている、
『南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)』
なんです!

だから、どんな悪い、
悪魔や、魔物、鬼神でさえも、
どうしても!
従(したが)わなければならないのが、
『南無妙法蓮華経』なんです。

この『南無妙法蓮華経』に従わなかったら、
悪鬼や、魔物であろうとも、
自分が、朽(く)ち果て、
死んでしまうからです。


では、ぼくたちが、
生命の上での『王』になるには、
どうしたら、いいのか?


それは、『南無妙法蓮華経』が、
生命の法則の『王』なのだから、
ぼくたちは、

『南無妙法蓮華経を、となえれば、いい!!』

ぼくたちが、
南無妙法蓮華経を、となえた時から、
ぼくたちは『生命の王』になる!

だから、ぼくたちが、
南無妙法蓮華経を、となえると、
どんな悪魔や、鬼神であっても、
その人を、
助け、守(まも)るしか、なくなる!

なぜなら、悪魔や鬼神であっても、
生命の王に従わなかったら、
自分が、滅(ほろ)ぼされてしまうからだ。


現実的な話しをすると、
ぼくたちが、
真剣に、南無妙法蓮華経を、
となえていくと、
自分の周(まわ)りの、
敵(てき)であったり、悪人であっても、
その人に、
危害(きがい)を加えることが、
できなくなってくる。

逆(ぎゃく)に、
なぜだか、
敵や、悪人であっても、
南無妙法蓮華経をとなえている、その人を、
助(たす)ける存在に、なってしまう。

まるで、コンスタンティンを、
魔王が助けたように、
なぜだか、
南無妙法蓮華経を、となえれば、となえるほど、
悪人や、敵であっても、
自分の周(まわ)りの人たちが、
自分を、助ける働きを、してくれる!


南無妙法蓮華経を、となえると、
生命の位(くらい)では、
その人は、王となる!


だから、不思議(ふしぎ)にも、
周りのひとたちは、どうしても、
その人に、従い、
助けざるえなくなってくる!


これが、南無妙法蓮華経をとなえる人の、
『生命の位』だと思う。


また、不思議だけれど、
ほんとうに、
そうなってくる!!


・・・・・・・・・・・・・こころ(タイムマシンによろしく)・・・・・・・・・・・・・

よく、創価学会では、
南無妙法蓮華経を、となえることを、
「ライオンが、ほえる」ことに譬(たと)える。

ライオンは、
百獣(ひゃくじゅう)の王(おう)と言われるように、
王者のイメージがあり、
「野生動物の王」のイメージと、
「生命の王」、「宇宙の王」、
「人生の王」、「幸せの王」、
「勝利の王」というイメージを、
重(かさ)ね合わせているわけです。

伝(つた)えたいイメージとしては、
どんな獣(けもの)も、
ひとたび、ライオンがほえたなら、
恐(おそ)れおののく。

あるいは、
どんな獣(けだもの)も、
ライオンが、ほえたならば、
百獣(ひゃくじゅう)の王であるライオンに、
したがわざるえなくなる。

ということだと思います。

その威力(いりょく)は、
あらゆるものを一変(いっぺん)させ、
あらゆるものを、
従(したが)えさせることができる。


それが、

「南無妙法蓮華経を、となえる」

ということであり、
「ライオンがほえる」ことに譬(たと)えられる、
『南無妙法蓮華経』です。

すなわち、
南無妙法蓮華経を、となえた時から、
何かに、従(したが)わされている、
従順(じゅうじゅん)な存在から、
自分が、すべてを変えていく、
王に変わり、
主体(しゅたい)と、なっていく!


ここに、南無妙法蓮華経の、
すごい変革(へんかく)のエネルギーが、
あると思う。


環境(かんきょう)に左右されている自分から、
環境を変える自分に!

運命に、振(ふ)り回されている自分から、
運命を、切り開く自分に!

悩みに、振り回されている自分から、
悩みを、打ち破(やぶ)る自分に!

こうなったら、いいのに、という、
はなかい願望(がんぼう)から、
絶対に、こうしてみせる!という、
強い意志(いし)に!


自分が、
自分の人生における『王』になれるのが、
創価学会が実践(じっせん)している、
南無妙法蓮華経の仏法の信仰(しんこう)であり、
それが、南無妙法蓮華経を、
となえるということだと、思う。


そして、
王者のごとく、悩みを解決でき、
王者のごとく、困難(こんなん)を乗り越(こ)え、
王者のごとく、夢や希望をかなえて、
人生の勝利者となり、
幸せを、つかむことが、できる!


・・・・・・・・・・・・・こころ(タイムマシンによろしく)・・・・・・・・・・・・・


タイムマシンによろしく81

2012-06-10 12:23:20 | 映画
このまえ、
「コンスタンティン」という映画を、
見ました。

なかなか、楽しめる映画でした。

コンスタンティンは、
天国と地獄(じごく)の使者を
見分ける能力を持って生まれ、
普通、見えないものが、
見えてしまうという設定(せってい)です。

その特殊(とくしゅ)な能力のために、
自殺未遂(じさつみすい)により、
2分間だけ、死んで、
また、生き返ったという経験があり、
「自殺を、犯(おか)した」ということで、
彼は、地獄行きが、
決まっているそうだ。

おまけに、ヘビースモーカーで、
肺(はい)ガンの末期(まっき)、
もって、一年という、
設定になっている。


おもしろいと思ったのは、
コンスタンティンは、
いわゆる、
世界を救うために戦うんだみたいな、
救世主的(きゅうせいしゅてき)な人間では、ない。

癖(くせ)の、せりふが、

「くそったれ!」

という、
自己中心的な男だ。

その自己中男が、
自己中だからこそ、
地獄に行くのは、いやだ。

肺ガンも、なんとか治(なお)して、
生き延(の)びたい!

そのために、自分の能力を駆使(くし)して、
悪魔どもを退治し、
天使に、取り入って、
天国行きと、延命(えんめい)を、
アピールしている!

という設定です。


だから、自己中心的に、
自分のために、
一生懸命(いっしょうけんめい)、
戦っているんだけれど、
それは、結局(けっきょく)、
世界を救うという結果に
つながっていく。

そして、コンスタンティンは、
肺ガンも、治り、
地獄行きも、
逃(のが)れたようだ。


この設定が、なぜ?
おもしろいかと、いうと、
これは、
創価学会(そうかがっかい)が実践している
仏法(ぶっぽう)の、
『宿命転換(しゅくめいてんかん)』の法則に、
似ているからです。


生まれた時から創価学会員の人は、
別(べつ)として、
だいたい、
創価学会に入る時は、
自分に、
大きな悩みを抱(かか)えている場合が多い。

人を救(すく)おうとか、
世界を平和にしよう!
なんて、
まず、考えていないと思う。

コンスタンティンのように、
癌(がん)の末期であったり、
大変な借金を抱(かか)えていたり、
家族に、大きなトラブルが、あったりして、
もう、藁(わら)をも、つかむつもりで、
創価学会に入会し、
人のためではなく、
自分のために、
自分の悩みを解決するために、
真剣に、ご本尊(ほんぞん)に、
南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)を、
となえ、
創価学会の活動を実践(じっせん)している。

別に、人のために、
やっているのではないのだけれど、
南無妙法蓮華経の仏法(ぶっぽう)は、
一人の人間を、
必ず幸福にしきることができると同時に、
周(まわ)りの人々や世界を、
幸福にする。

あるいは、
世界に平和と幸せを築(きず)く、
究極(きゅうきょく)にして
最高の法則(ほうそく)であり、力(ちから)なので、
知らず知らずにでも、
南無妙法蓮華経の仏法を実践していくと、
それは、結局、
人を救い、
人を幸せにする結果となり、
世界を、幸せにすることに、
つながっていく!


自分のために、一生懸命になることが、
世界を、幸せにすることと、
まったく、矛盾(むじゅん)しない!

自分のために、一生懸命、
活動すれば、するほど、
じつは、世界を、幸せにし、
人を、幸せにすることに、
つながっている。


自分と、周(まわ)りの人々、
自分と世界が、
まったく、矛盾(むじゅん)せず、
真剣に
南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)を、
となえれば、となえるほど、
創価学会の活動を、すれば、するほど、
自分の周りの人たちは、
幸せになり、
世界も、幸せになっていく。


そして、結果として、
冗談ではなく、
コンスタンティンのように、
癌(がん)が、治ったり、
借金苦を、克服(こくふく)できたり、
家庭不和が、解決したり、
自分の、さまざまな悩みが解決し、
夢や、願いが、かなっていく!!


別に、映画の世界ではなく、
ほんとうに、そうなっていくのが、
南無妙法蓮華経の仏法(ぶっぽう)であり、
仏法で説く、
『宿命転換』の法則(ほうそく)だと思う。


だから、南無妙法蓮華経を、となえ、
真面目に、創価学会の活動をやっていると、
自分の欲望(願望)と、世界の幸せが、
反比例(はんぴれい)することなく、
同じように調和(ちょうわ)しながら、
大きくなっていける!

欲望や希望が、大きい分、
そのまま、ご本尊(ほんぞん)に、
真剣に、南無妙法蓮華経を、となえていくと、
それは、そのまま、
世界や、まわりの人々を、
幸せにする結果となり、
人々を、幸せにした分、
自分の願いも、大きく、かなっていく!


だから、
創価学会の仏法の信仰(しんこう)は、
現実の、欲望・うずまく人間を、
絶対に否定(ひてい)しない!


その、すべての人間を、受け入れ、
すべての人間が、
なんの矛盾も、抵抗(ていこう)もなく、
幸せになっていける!!


不思議(ふしぎ)といえば、不思議。

スゴイといえば、スゴイと思う。


・・・・・・・・・・・・・こころ(タイムマシンによろしく)・・・・・・・・・・・・・

少し補足(ほそく)させていただくと、
もともと、世界を平和にしたい!とか、
人々のために、尽(つ)くしたい!という人は、
別に、それでいいです!
(そのほうが、いいに決まっている!)

そういう気持ちで、
南無妙法蓮華経を、となえ、
創価学会の活動をしていけば、
もっともっと、その人は、
素晴らしくなるし、
世界も、周りの人々も、
幸せになっていく。

ほんとうは、そういう人こそ、
南無妙法蓮華経の仏法のスゴサを、
実感(じっかん)できるはずです!!!


けれど、やっぱり、
最初から、そういう人は、
なかなか、いないと、思う。

普通は、コンスタンティンのように、
自分が、大切だ。

それが、現実の人間だと思う。

自分が、大切だからこそ、
真剣に、南無妙法蓮華経を、となえ、
一生懸命、創価学会の活動をしていく。

ところが、南無妙法蓮華経の仏法は、
世界を幸せにし、
人々を幸せにする、
最強の法則であるがゆえに、
自分のために、やっていても、
自然(しぜん)のうちに、
世界と、まわりの人々を、
幸せにしていってしまう。


ヘンな言い方だけれど、
南無妙法蓮華経の仏法は、
おそろしい!くらい合理的(ごうりてき)な、
素晴らしい法則であり、
一切(いっさい)の矛盾がない、
スゴイ!力(ちから)だと、
思う。


だからこそ、
すべての人が、実践できる!

世界中の人が、満足できる!

また、実際に、192ヶ国に広かる、
世界中の創価学会員が、
満足と幸せを、
実感していると思う。


自分と世界、
自分と人との間に、
一切(いっさい)の矛盾をつくらず、
おたがいが、強く結(むす)びつき、
おたがいが、世界が、
自分と同じように幸せになっていけるのが、
創価学会が実践している、
南無妙法蓮華経の仏法(ぶっぽう)だと思う・・・・・。


・・・・・・・・・・・・・こころ(タイムマシンによろしく)・・・・・・・・・・・・・