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「タイムバール」少年探偵団の時代

元少年探偵団、現ダメ社長が「記憶と夢」を語ります。

人類滅亡の掟

2008年01月28日 | Weblog
またぞろ流行の兆しです。「人類の滅亡」です。今度の「予定日」は2012年です。超高度な文明を誇った古代マヤ暦が2012年12月22日で終わっていることが根拠だそうです。「よく見つけてくるよな」と感心しますが、35年前にも「ノストラダムスの大予言」が一世を風靡しました。こちらの終末予定日は1999年の「7の月」でしたが著者の五島おじさんの勝手な解釈なので当然何事も起こらず(横柄な女占い師よりはハイカラでしたが)、それより生活に密着した2000年問題の方が深刻で、飛行機が落ちる、新幹線が転覆する、原子力発電所が壊れる・・・なんて大騒ぎでしたが、終わってみれば何事もなくみんな気が抜けました。たぶん人類発生の直後から、こんな話は繰り返されてきた筈で、キリストやモハメッドなんかはその「偉大な勝ち組」とも言えます。こんな本を売りまくって大儲けした作者は「小さな勝ち組」です。何故我々は嘘と知りつつ嵌ってしまうのでしょうか。


1.地球汚染や核問題や天変地変への潜在的恐怖があるから・・・これはまともすぎる説明で面白くありません。2.暇な人間への刺激剤・・・これもまともです。単なるSF映画の客です。3.貧困や不幸のどん底にいる人間が富や幸せを手にしている人間と一緒に滅びる快感に浸る・・・この辺から面白くなります。確かに高いところから落ちるのと、始めから谷底にいる人間とではダメージが大違いです。世界的には「谷底」側が全体の9割を占めているので「革命」なんてエネルギーを使わなくても、隕石が衝突して「みんな一緒に死ぬのさ」なんて事態はハイカラに言えば「救い」、判りやすく言えば「ザマー見ろ」です。4.我々のDNAの奥深くに「滅亡=リセット」のプログラムが仕組まれている・・・これは老少年探偵団の前頭葉を刺激します。2.と似ていますが「もしかしたら」と思わせるのが肝です。

と言うのは「地球温暖化」なんて騒いでいますが過去の地球では平均気温50度とか地表の全てが氷河に覆われた事が何度もあって、その都度生命は思い切った方法で生き延びてきた・・・NHK番組の解説の様ですが、実体は地球の片隅や奥深くに追いやられていた生命が天変地変(条件変化)のおかげで「陽の目」を見たに過ぎないのですが、「強くて、態度の大きな生命」が一瞬の内に滅亡して「弱くて、間の悪い生命」が躍進する可能性がある・・・何かとても崇高な話のようにも、かなりキナ臭い話のようにも聞こえます。誰が言い出すのか楽しみです。

理解の掟

2008年01月25日 | Weblog
「判った子!手を上げて!」「は~ぃ!」と教室の全員が手を上げます。勿論、本当に「理解」している子は僅かです。先生も判っていて「赤チン少年」の一人を指します。指されたガキが気まずそうにイガグリ頭を掻くのと同時に教室は笑いに包まれます。昭和20年代の小学校の風景です。当時のガキにとって「判ったかどうか」は問題ではなく、「手を上げて!」と言われると反射的に手を上げるのは「アメリカ兵や外人観光客に手を振ると何か呉れる」その習慣が身についているからです。もう一つ、ガキにはしたたかな計算があります。手を上げることで、たとえちゃんと判らなくても「判ろうとしたんだぞ」とアピールできるからです。こんな昔話を持ち出すのは最近の「理解」の有り様がズレているからです。

ある会社役員が「最近の社員は頭が悪い・・・何度言っても判らない・・・」とこぼすので、「判らないんじゃなくて、判ろうとしないんだよ」「なんで?」・・・こんな役員がいる会社は余程儲かっているか、お先真っ暗な会社です。日本は世界的にも珍しく知能程度が揃っている国です。その日本で「判らない」と言えば「能力」の問題ではなく「意欲」の問題であるのは明らかで、そんな事は相手の態度・顔色ですぐ判ります。一流の営業マンとテキ屋と詐欺師はその道のプロです。何故ここに「学者」や「専門家」が入らないのかと言えば彼らは一段高いところから難解な言葉を散りばめてモノを言うからです。余程素朴な人でもない限り「凄いな~」なんて感心せず、大抵の人は内心では「何を偉そうに・・・」と反感を持つのが関の山で、この段階で「理解」へのスイッチを切られています。

この辺になると落語界きっての理論家、故林家彦六(正蔵)の理解のさせ方は名人です。今の木久扇(木久蔵)師匠が弟子だった頃、えらく怒られたことがあるそうです。噺の中に「納豆」が出てくる場面で「マメを腐らせて納豆をつくるんだ・・・」は「理論的」ではないと言うのです。「発酵と腐敗の違いくらい勉強したらどうなんでエ」と厳格な彦六師匠。「エッ~!どう違うんです?」「だから菌が人様に良く働けば発酵、悪さをすれば腐敗なんだよ」ここで引き下がらないのが木久扇師匠です。「成る程!でも師匠!この間ドロドロで食えなくなった納豆を見ましたが、あれはどうゆう理屈なんです?」彦六師匠は慌てません。「バカヤロー!それはお前らが早く食わネエからだよ!」・・・意思の疎通に悩んでいる会社は落語を聞いて「人間」の勉強をしたらどうでしょうか・・・。

女の道

2008年01月23日 | Weblog
静謐な風景にうっとりしていた「空想少年」もニュースを見る時は「偏屈じじい」に逆戻りです。偽装でミソをつけた船場吉兆の再開に新社長として出てきたばあさんです。どう見ても偽造を支持した張本人の顔です。聞けば創業者の娘だとか。前々から感じていたことですが女を敵に回すのが怖くて言えなかったことが、このばあさんを見て力を貰いました。それは「女が権力を握ると何故かくも醜悪になるのか」です。

偽装ばあさんの前は、暑苦しい顔と下品な物言いと横柄な態度で一世を風靡したインチキ占い師のばあさんです。これもヤクザの女房だったことがバレてテレビからは姿を消すようですが、同じ横柄でも某事務官の女房の方が若さと育ちで「おねだり妻」なんて愛称を貰うだけましです。更にその前は顔も態度も旦那そっくりな某野球監督夫人でこちらは脱税で懲役2年(執行猶予4年)を食らってしまいましたが、運悪く近所に住んでいてたまに焼肉店で顔を見ますが醜悪さは更に磨きがかかっています。昔では「何故だ!」なんて言いながら失脚した某百貨店の社長の愛人が「女帝」にまで上り詰めて醜悪さをバラ撒きました。若い頃は控えめな美人だったのに・・・女には魔物が住んでいるのでしょうか。

毒を食らわば皿まで・・・もっと言うと男の人生は「足し算」、女の人生は「引き算」のような気がしてなりません。どんな悪党でも男の場合はじいさんになるとそれなりの「味わい」が出るものです。無法松のような荒くれもゴマ塩頭を撫でる頃になると枯れた風格さえ感じます。殺人犯でも最後は「聖人」になるのは男です。一方、女の場合は「瀬戸内寂聴」のような例外もありますが、概ね、容姿・美貌だけでなく恥や慎み、潤い、感性、知能・・・全て悉く消えてゆく・・・そのくせ男より長生きする・・・なんて勿論ウソです。言い方を変えましょう。女は美しいものを「最初」に与えられて、男は「最後」に与えられる・・・これでどうでしょうか。

写真福音書

2008年01月22日 | Weblog
「これこれ!この風景だ!」行ったこともないのに懐かしさがこみ上げてくる風景ほど細胞を潤すものはありません。NHK「世界ふれあい街歩き」と言うテレビ番組は、一人の旅人の視線で見知らぬ街を彷徨いながら地元の人と触れ合うことで土地の匂いまで感じさせます。日本語の呟きが煩わしく耳につきますが、実際には同国人が話かけるので相手の対応は自然です。で、前回は大好きなイタリアはシチリー島の「ラグーサ」と言う山の斜面に佇む古都です。例によって駅を降りた旅人(カメラ)が街を彷徨うのですが、ある風景が展開した時「おおっ!」と感じる間もなく少年時代のあの懐かしさに浸ります。一旦この異次元の官能に浸ると観光旅行なんかバカバカしくてやる気がしません。「見ないと損だぞ!」なんて同級生に話したら、「あんたは若い頃から世界のあちこちに行ったから、そんないい気なことが言えるのさ」なんて思いがけない「抵抗」です。別に人様の金で行っている訳ではありませんが、同世代でも風景に何の関心もない奴がいることを知って元少年探偵団の脳は活性化します。

同じ街に住んで同じ小学校にいた「奴」との違いは何かと考えてピンときました。家庭環境です。昭和20年代の戦後復興期の家庭は「温もり」なんてものとは無縁でどちらかと言えば「基地」に近い存在です。官史家庭だった「奴」と違って、土建屋だった我家では最盛期には人がいっぱい住んでいて、これに犬6匹、猫1匹、鶏10羽以上、九官鳥1匹がいてうるさい事この上なく、更に部長(実体は土方頭)には「坊っちゃん!何してんだ?」と耐えず行動を監視され、夜は宴会の騒音、朝は「遊ぼ~!」なんてヒヨコ(3~4歳児)の来襲です。このヒヨコには我々の悪事を知っている女級長の弟もいるのでないがしろには出来ません。こうゆう環境にいる少年の憧れはハイカラに言えば「孤独」、判りやすく言えば「監視団からの逃亡」です。こんな哀れな少年を神様が見捨てる筈がなく、決定的な「福音書」を与えてくれました。

親父の趣味なのか我家には色々な本や雑誌があって、この中に「世界画報」と言う写真雑誌の綴りがありました。何気なく頁をめくっていた少年の目は釘付けになります。見たこともない異国の街角には何故か人影もなく、空気は澄んで、たなびく雲もどこか怪しく、少年はこの異次元風景にうっとりします。こんな風景が雑誌のあちこちにあって散りばめられています。それからと言うものはむしろ周りがうるさいほど「夢の風景」の酸素濃度は高まり、いずれその風景の中を風のように漂う自分を夢見たものです。今でも似たような風景に遭遇するとたちまち空想少年の昔に戻り、そして願わくば死ぬ時もこんな琥珀の官能に浸りながら死にたい、なんて夢想します。

古紙の掟

2008年01月18日 | Weblog
それにしてもマスコミは面妖です。社長の辞任劇にまで発展した古紙配合率偽装です。「古紙を混ぜていた」なら判りますが「古紙を混ぜていなかった」のが何故問題なのか・・・普通の人間なら「古米」や「古着」から連想して「古」と名がつくものはロクでもないと考えます。それを混ぜないのがけしからん、と言うのは「再生紙は地球にやさしい」なんて嘘八百のスローガンを振り回す政府と、何にでも「偽装」と聞くとすぐ目くじらを立てる消費者に迎合しているからです。印刷品質が極端に悪く、再生コストも高くつく「古紙」を正義に仕立てたそのマスコミ自身は自社の新聞紙にどれだけ古紙が混ざっているか公表しません。

こんなことを知っているのは、昔ある県の知事選キャンペーンを一手に引き受けたことがあるからです。「この選挙は金をかけてませんよ」とアピールするために、世の中から消えつつある「ザラ紙」を使えとの党の指示です。印刷会社はびっくりします。只でさえ品薄なのに1回で40万部もの大量印刷を毎週やるなんて間に合う筈がありません。印刷も最悪です。結果、倍以上の費用をかけた挙句、単に金をケチったと受け取られて落選です。そんな地域性と時代性を読みきれなかった党のドジです。

実体を見ないでイメージだけに振り回されていると「地球にやさしい車」なんて詭弁的なCMに疑問を持ちません。「ガソリン税をなくして生活に潤いを」なんて矛盾に満ちたスローガンも耳に心地よく響きます。「ガソリン税をなくしたら道路が出来なくなる」なんて反論する与党も同罪です。利権に群がるために車が通らないよう地方高速道を作りたがる図式は変わりません。ロクでもない役人や団体を切って、利権の巣窟を一掃すれば減税どころか国家予算は半分以下になる筈なのに、この最も重大な疑惑を追及しないマスコミは更に悪質です。

それほど我々大衆は愚かで救いがたいと見られているなら、この辺で想像を絶する逆襲に出るべきです。主役は勿論、老い先短い「じいさん」です。一斉に病院へ通うのを止めて、博打、高級料亭、大名旅行・・・有り金はたいて行く先々で散々迷惑をかけて野垂れ死にします。こんな事態を政府もマスコミは想定していないので「老人の孤独死」とも呼べず、かと言って「ビクビクしながら短い余生を送るより華やかな自爆を」なんて推奨する訳にもいかず・・・さあ、どうする?


パックの陰謀

2008年01月16日 | Weblog
いつの間にか世の中から消えたものが元気少年に必須の「赤チン色」、肥溜めの「メタンウンコの臭い」、剥きだしの工場から響く「ガチャガチャ音」なんてブログに書いていると注意力が高まるのか他人の妙な行動に気づきます。まずは街の「スーパー」。おばさんが並んでいるパック野菜を手当たり次第に「選定」しています。農家の人でない証拠に散々いじり回した挙句、最初に手に取ったパックをカゴにいれました。当たり前の話で、生鮮三品と言われる野菜、魚、肉はスーパーでも専門業者が扱っているほど経験が必要で素人がパッと見て即座に判断できるようなドジはやりません。どれを選んでも差がないようにパックされています。だから「賢い消費者」はさっさと商品をカゴに入れて次に進みます。この客の滞留時間を縮めるのがスーパーの狙いですが、それでもいじり回すおばさんはたぶん「昔のクセ」に違いありません。

パック商品なんてない昭和の昔は食品を選ぶときは見て、触って、嗅いで判断したものです。当然、うるさい客としたたかな業者とのガチンコ勝負があった訳で、漁師(遠洋漁業)の女房が「魚」を買うときなんか、「若乃花vs栃錦」のような名勝負が見られたものです。こうした街の風物詩が消えたのはパッケージのせいです。臭いだけでなく、触覚まで拒絶して勝負を「表示」に絞ることで昨今の偽装表示の素地を作りました。こうして経験と感覚による客の識別能力を奪った余波はとんでもないところに飛び火しています。

ある時、本屋で雑誌を買おうとして客の面白い「挙動」を目撃しました。弱そうな若い兄ちゃんが雑誌を選っているいるのです。元少年探偵団のクセで雑誌にクジでもついているのかと「観察」していると、どうも違うようです。レジで事情を聞くと「最近のお客さんは人が触ったものを嫌がるんですよ」「・・・!」たかが雑誌です。まるでペストやコレラが蔓延しているかのようだ、とバカにしていたら、最近のネットニュースで「ロンドン大学のブルームフィールド教授は、握手する相手がそれまで何に触れていたのか分からない、と指摘。握手によってインフルエンザウイルスやメチシリン耐性黄色ブドウ球菌などの感染が広がる可能性がある・・・」なんて報道されるとまんざら神経質なんて言えません。

「よし!自分も心を入れ替えて防衛策だ!」なんて本を買うときも上から何冊目かを抜き出していましたが、何にしろガキ時代は猛毒のボーキサイト置場なんかで真っ赤になって遊んでいた習性は如何ともしがたく、結局4~5回目くらいで止めました。「拒絶反応」なんて言葉はなく、触って憶える時代です。自然と判断力と耐久力が身についた訳です。こう考えると近頃の事件の大半は「見る」「聞く」「嗅ぐ」「触る」「舐める」の感覚記憶の蓄積がなくなっていることに原因があるに違いない・・・なんて専門家は言っているのかしらん。

臭いの時代

2008年01月11日 | Weblog
世の中には思ったことをすぐ言わないと気が済まない奴がいます。かっての少年探偵団の一員からの「昔は臭いも凄かった・・・」なんてメールです。ブログのテーマが街から失われた「色」「音」とくれば次ぎは「臭い」に決まっているのに相変わらずの野暮天です。こんな奴が某大手化学メーカーの役員なんて悪い冗談ですが、考えようによっては、あの死ぬほど臭い焼酎工場のすぐ傍に住んでいたからこそ「復讐心」に燃えて消臭剤や遮断材を作る道に進んだのかも知れません。

確かに「嗅覚」は最も原始的な記憶要素です。何かのハズミに懐かしい匂いを嗅いだとき「おおっ!この匂いは確かあの日あの時の・・・」なんて失われた記憶が蘇る様はナンビア砂漠のワジ(水無川)に何年に一度の雨水が流れ込むような官能があります。ガキの頃、海岸や工場跡地でうっとりしている「犬」や「猫」を見たことがありますが、奴等なりの「感慨」に耽っていたのかも知れません。尤も昭和20年代の街の臭いは決して気持ちのいいものではありません。まず「肥溜め」と「ドブ」と「煙」が暮らしの基本臭で、これにボーキサイトやパルプや魚などの独自の地域臭いが加わって「清水の臭い」になります。今でも富士、吉原を通ると新幹線でもあのオナラのようなパルプ臭がしますが、当時の清水、特に工場だらけの港町はその10倍も臭かったのです。

ところが夕方になると臭いは消えてどこからか「風呂上りの匂い」とか風に運ばれてくる「沈丁花の匂い」がして子供をうっとりさせます。何しろ川を挟んで小学校の目の前に「遊郭」が連なっています。たぶん匂いの元はここだった筈です。そのうち三味線の音なんか聞こえてくると「浦島太郎」が行った「竜宮城」とはここに違いない・・・早く大人になって「竜宮城」に乗り込もう、なんて少年探偵団は誓ったものです。この竜宮城は野暮な婦人代議士のせいで、その後消滅の憂き目に遭いますが、嫌な臭いと気持ちいい匂いが入り混じった街は子供の想像と感覚を磨いたことだけは間違いありません。


音の時代

2008年01月09日 | Weblog
近所の薬屋のおじさんによると、赤チンが薬屋から消える遥か以前に元気な「赤チン少年」の姿は消えています。全身に赤チンを塗るほどの「遊び」も「遊び場」も消えたからで、それは子供の活躍度を示す「色」という客観的な「物差し」が消えたと言うことです。「そう言えば赤トンボも見なくなった・・・」傍にいた老人客も口を挟みます。都市化や地球環境の話まで発展すると面倒なので店を出ると「プッ!」と大きなオナラの音がします。振り返ると自動車がいます。本来クラクションは大きな音で相手に警戒感を迫るもので、昔なら「どかないと死んでも知らねえぞ!」という迫力がありました。最近はハイカラなのかマナーなのか、恐る恐る音を出します。電車の中でも携帯電話の音を切るよう迫ります。まるで音を出すのが犯罪のような世の中です。どうやら「色」だけでなく街の特性を示す「音」も世の中から消えているようです。

昔の街にはその剥き出しの作業場や工場から独自の音を響かせていたものです。小学生にもなれば音を聞くだけで何を作っているのか見当がつきます。これを「騒音」と感じないのは、煙突からもくもくと湧き出る煙は「産業の息吹き」なんていばっていた戦後復興期のエネルギーです。我々がガキ時代の清水にも大きなアルミ工場やら製材工場、造船所、焼酎工場などが沢山あって近くに行くとむせ返るような「臭い」や「機械音」が迫って空想の余地はありません。特に「音」は遠くからかすかに聞こえるのが「想像力」を刺激します。その点、小学校の位置はちょうどよく、教室にいても港から響く「ヒューン、ヒューン」と空を切り裂くような汽笛や「ボッー」と長引く汽笛の音は子供を気持ちよくさせます。汽笛の鳴らしかたには独自の決まりがあり、また同じ大型船でも微妙な違いがあって港の動きや大型船の入港が判ります。

「これはギリシャの貨客船かも知れない」・・・そしてまだ見たこともない白い家々が連なる地中海の港町からやってくる白い船体と青い煙突を空想します。勿論、放課後の行動は港探検に決定です。そんな空想に浸る「赤点少年」に先生のビンタや黒板消しが飛んこないのは「本」を読むことよりもっと大切な「何か」の価値を先生は知っていたに違いない・・・なんて浪漫を感じながら後年の同窓会で確認すると年老いた先生は静かに答えます。「少なくとも、空想している時のおまいらは静かだったからな・・・」。


色の時代

2008年01月02日 | Weblog
NHKの紅白歌合戦も見ない、近所の寺の除夜の鐘も聞こえない、気がついたら年を越していた・・・何か物足りないと思っていたら「正月の東京で老人7人が餅を喉に詰まらせて病院へ。うち一人が死亡」と言うニュースです。これです。本人にはお気の毒ですが、台風の時に外の様子を見に行って用水路に流される年寄りが「秋の風物詩」であるのと同様、やはり餅を喉に詰まらせてこその正月です。獅子舞の赤い顔、門松の緑・・・正月には常にない色に溢れていました。こんな話から最近の世の有り様が判りにくいのは「色」がないからではないか、と飛躍するのが老少年探偵団です。

我々ガキ時代の昭和25年から30年にかけての元気な子供には常に「赤」がついて回ります。以前のブログに書いたように身体のあちこちに生傷が絶えない「赤チン少年」は仲間うちでは大いばりですが、学校の勉強は常に「赤点」です。当時は答案用紙いっぱいに「0」と書かれています。これは普通に「0」と書くとその前に4とか5を書き足して「改ざん」するガキがいるからです。こんなことが出来たのは×を●で塗りつぶすからです。先生も生徒も同じ赤鉛筆を持っています。それでも「改ざん」は多少とも勉強に関心も持つ親に対しての話で、尋常小学校しか出ていない親の関心は「成績より生活」と言う時代です。こんな「いい親」を持つ子供の答案用紙は紙飛行機になって飛んで消えます。

更に「赤」は続きます。イチゴです。「イチゴが赤いから」と連想するのは今の子供です。結論から言うとイチゴの盗み食いを大人に見つかって引っ叩かれて顔中血だらけになることです。これも果物をめったに口に出来なかった当時の食料事情の反映ですが、無事イチゴを食べても、見つかり殴られて自分がイチゴになっても「赤」には変わりありません。要するにどちらに転んでも「赤い子」は元気の証だった訳です。だから「赤狩り」なんて言葉を聞いた時はてっきり元気な子専門の「人さらい」かと怯えたものです。近頃の子供に感動が薄れているのは身体を通した「色の体験」がないからに違いありません・・・なんて支離滅裂なブログで今年も明けました。