「タイムバール」少年探偵団の時代

元少年探偵団、現ダメ社長が「記憶と夢」を語ります。

出世した装置

2007年04月30日 | Weblog
先程、何気なくテレビを見ていたら何やら怪しげな現代美術展の様子です。通常、この手の番組はすぐ切り替えるのですが、パリのポンピドー・センターの作品とあったのでしばらく見たのが「運」の尽きでした。あるコーナーに来たときに50年ぶりに「あれ」を見ました。何でも作品を動的に見せる「キネティック・アート」だとか・・・「あれ」がそんな出世しているとは夢にも思いませんでした。今回は史上最もばかばかしい「あの装置」の話です。

テレビ放送開始は昭和28年2月1日です。この時のテレビ受像機の値段は「家」よりも高く、個人が買える代物ではありませんでした。子供の頃に「街頭テレビ」で力道山の空手チョップに興奮した記憶のある年配者は多い筈です。昭和29年5月24日にはボクシングの白井義男・エスピノサ戦のテレビ中継を見ようと東京・中野駅前丸井2階家具売場に60人が詰めかけ、第3ラウンド開始直後に床が抜け重軽傷27人を出しています。数年してテレビは車並みの値段になりましたが、まだまだ貴重品です。町内では4軒隣の市長の家が最初で、我が家が2番目でした。「先を越された」親父は秘かに心に期すものがあったようです。

当時のテレビ受像機は4本の足があって、豪華な垂れ幕で覆われ、放送開始時間が近づくと「除幕式」が常でした。司祭のようにゴブラン織りの垂れ幕を厳かに捲くると、集まった近所のガキ共の目はキラキラと輝き、ズボンのベルトを締めなおす子もいました。放送開始(確か5時半頃)の20~30分も前からあの縞の放射模様(テストパターン)を眺めていたものです。終りは確か夜9時頃だったような気がしますが、未練たらしく最後の「君が代」まで見たものです。この世代に「愛国者」が多いのもそのせいかも知れません。こうしてテレビは瞬く間に全国に普及し、数年後にはテレビがあるだけでは威張れなくなりました。親父にとってはここからが「勝負」でした。

ある日、学校から戻ると親父が珍しく機嫌がいいので何だろうと思う間もなく、「おいっ!テレビが”カラー”になったぞ!」「・・・!」すぐにテレビ受像機を見ると怪しげな半透明の板がぶら下がっています。そろそろ放送が始まる時間です。「おいっ!」親父が偉そうに社員(土方)に指図すると丸いブラウン管が光り始めます。「おおっ!」一斉に声が上がります。本当に色がついています。何故か「3色」です。上が青、真ん中が黄色、下が赤だったと思います。「これであいつに勝った!」と親父は満足そうです。あいつとはテレビ設置で先をこされた市長のことです。早速、近所のガキを呼びにいきました。みな歓声をあげました。こうしてテレビに「色をつける装置」は瞬く間に広がりました。しかし装置の天下は半年も持ちませんでした。やがて誰かが「本当」のカラーテレビのカタログを手に入れてきたからです。この時点でようやく、我々は「色つけ装置」が単なる3色のプラスチック板だったことに気がつきました。

ここから先の説明は不要ですね。みんな憑物が落ちたように「3色板」をテレビから取り外しました。カラーテレビの普及はかなり後になってからですが、会館とかデパートでは「実物」を確認できたからです。そのインチキ板が前衛芸術の素材として復活していたとは・・・大きな色つきのアクリ板を通して、色んな角度から作品をみるのが「キネティック・アート」だそうです。半世紀もすると「怪しげなもの」が「偉く」なると言う事実は、今「偉いもの」もやがて「怪しいもの」になるかも知れないと言うことです。げに浮世とは恐ろしいものです。

見てないもの

2007年04月29日 | Weblog
不思議なことに映画や漫画にひんぱんに出てくるのに未だ見たことのないものがあります。「行水」「マドロス」「立ちションベン」です。60歳以上の仲間に聞いても誰も見たことがありません。最後の「立ちションベン」は男ではなく寅さんに出てくる「粋なネエちゃん」のそれです。いずれも「水」に関係する人間の姿勢ですが、これは何かの符丁か暗号なのでしょうか。この怪しいポーズの真相に迫ってみたいと思います。

まず「行水」、正確には大きなタライに入っている年増女の湯浴みを「節穴」から覗く図です。何ゆえ銭湯(昔の銭湯は安かった)へ行かずにこんな面倒なことをするのでしょうか。まず庭先にタライを出す必然性がありません。身体を洗う(ぬぐう)のなら土間や勝手口で裸になって身体を拭けばいい筈です。お湯の供給もその方が楽です。又、金がかかる板塀があるような家なら内湯がある筈です(明治以降)。そう考えると「行水」は「節穴」があると反射的に覗いてしまう悲しい男の性が生み出した妄想かも知れません。

「マドロス」も怪しい存在です。縞縞のシャツに身を包んで、パイプを燻らせながら船のロープ止め(ビットと言います)に足を乗せ、ギターを弾いているあれです。ガキの頃から港町で暮らしてきましたが、一度も見たことがありません。水兵さんはあんな格好ではありません。外国船員ももっと「地味」で働きやすい格好です。第一、外国船が来るような港にあるビットは巨大で足を乗せられるようなシロモノではありません。またそんな所で時間を潰す船員は皆無です。ギーターなんかすぐ錆びてしまいます。こう考えると「マドロス」も「ポパイや日活映画」に影響された男の憧れの妄想だったのでしょう。

最も荒唐無稽なのは「粋なネエちゃんの立ちションベン」です。寅さん映画の口上でお馴染みですが、我々がガキの頃見たのは「バアさん」の立ちションベンだけです。バアさんが畦道でいきなり尻を絡げた段階で我々は眼を逸らしたものです。もし「四谷赤坂麹町ちゃらちゃら流れるお茶の水」で粋なネエちゃんが立ちションベンをしたら黒山の人だかりになるでしょう。勿論、自分も見に行きます。真相は恐らく遠くで立ちションベンしているバアさんが粋なネエちゃんだったらいいな、と言う男の妄想が、啖呵売のリズムにぴったり合ったのです。

昔から女が美しくみえる状況を「夜目、遠目、傘の内」と言いました。つまり男はよく見えないもの、ありもしないものに憧れるのです。こうした男の妄想が堂々と一人歩きをしている時代は極めで健全な時代です・・・これも男の妄想でしょうか。

北の記憶

2007年04月28日 | Weblog

北といっても核兵器をチラつかせて悪さをする国のことではありません。「駆け落ち」が向かう「方向」の話です。前のブログが童謡「赤い靴」のモデルになった薄幸な女の子の哀しい話でしたが、やはり北海道へ「駆け落ち」した高校の同級生の場合は全く逆でした。

どの学校でも一人や二人の「マドンナ」がいます。我々の頃は遠くから通学する色白で眼の大きなスラリとした容姿が美しい女生徒がいました。同級生ですが年はひとつ上です。運動と進学で知られた高校だったので、年が違う同級生は珍しくありません。そのせいか高校生にもなって「缶けり」をしているような我々運動部のガキ共から見ると、しっとりと落ち着いた彼女は、我々を下の名前で呼び捨てにする他の女性徒共とは別世界の人間でした。その彼女が「駆け落ち」したと聞いたのは卒業から3年経った同窓会でした。みんな嬉しくなりました。小学校の同級生からも駆け落ちをひとり出しています。相手については詳細は不明ですが、それはどうでもいいのです。マドンナが駆け落ち・・・映画そのものです。そんな映画はたいてい悲恋に終わります。苦労の果て、場末の港町の赤暖簾で女給をしながら故郷を偲んで歌うのは八代亜紀の「舟歌」に違いない・・・。彼女が同窓会には欠かせない話題になったことは言うまでもありません。但し後続情報がなく話題は次第に薄らいでいきました。

その「薄幸のマドンナ」の消息が知れたのは更に10年近く経った同窓会でした。情報をもたらしたのは水産関連の同級生です。「○○(マドンナの苗字)の居場所が判った」「・・・!」みんな久々の名前に緊張します。「小樽だ」と沈んだ声が響きます。そうか、小樽で死んだのか・・・男共は往時を偲んでしんみりします。彼は我々の勘違いに気付いて言葉を続けます。「今は水産会社の社長だ!」「・・・!」しんみりは呆然に変わります。何でも旦那の実家が地元の資産家で、事業拡大に伴って彼女も社長として活躍しているとか。駆け落ちでも何でもなかったのです。長い長い沈黙が続きます。かろうじて誰か言った「まあ、・・・よかったな」でみんな夢から醒めました。「可憐な美少女」は「やり手の女社長」になって記憶から消えました。女共は別の意味で不機嫌です。この時の写真がありますが、誰一人笑っていません。勝手に「同情」され、勝手に「嫉妬」された元マドンナこそいい迷惑ですが、案外どこにでもある同窓会の風景かも知れません。

それにしても何ゆえ「駆け落ち=北海道」となるのでしょうか。北海道はその歴史と風土からどこか別世界=新天地のイメージが強く、「内地」では不自然な状況設定も北海道では自然です。何しろ昭和13年1月3日、大女優「岡田嘉子」が演出家の杉本良吉と樺太鉄道の終着駅・敷香から馬そりに乗ってソビエト領に亡命した事件は「愛の逃避行」として一世を風靡した実績があります。北海道を舞台にした小説や映画も、必ずどこか「哀しさ」が漂っています。人間は「無いものねだり」の動物です。地域の活性化に取り組んでいる人には大きなお世話かも知れませんが、下手な設備投資をするより、昔の過酷で哀しい面影こそ企画の肝のような気がしてなりません。


赤い靴の記憶

2007年04月27日 | Weblog
横浜の山下公園、北海道留寿都村、東京の麻布十番、清水の日本平・・・この場所を聞いてピンときた人は相当な「通」です。大正11年(1922)野口雨情作詞・本居長世作曲で発表されて一世を風靡した童謡「赤い靴」の実在のモデル「岩崎きみ」の銅像がある場所です。「きみ」は清水出身の女の子です。この歌は最も替え歌が流行った童謡のひとつで、子供の頃は本当の歌詞を知らないガキがいたほどでした。そんな連中が粛然としたのは今から34年前、北海道新聞に掲載された「きみの妹」の記事がきっかけでした。記者が関係者の故郷、更にアメリカまで行って「裏」を取ってきた根性の記事です。

「岩崎きみ」は明治35年、旧清水市で生まれました。父親は典型的な清水の男で、家庭は崩壊。母親は幼い「きみ」を連れて北海道に渡りそこで知り合った鈴木志郎と再婚し開拓農場で働きます。それが現「北海道留寿都村」です。しかし想像を絶する気象条件と生活苦から、「きみ」は3歳のとき、アメリカ人宣教師チャールス・ヒュエット夫妻に引き取られます。失意の夫婦は明治40年、札幌に引き上げます。父親の鈴木志郎は北鳴新報に職を見つけ、ここで同僚の野口雨情と知り合います。そんな付き合いの中で、野口は母親から「きみは今頃アメリカで幸せに暮らしているでしょう」と聞いて詩にしたのが「赤い靴」です。野口自身も長女を生後7日で亡くしています。ところが「きみ」はアメリカに行かなかったのです。

「きみ」は不治の病といわれた結核に冒されていました。衰弱がひどくアメリカまでの長い船旅は不可能で、ヒュエット夫妻は止むを得ず「きみ」を当時、麻布永坂にあった鳥居坂教会の孤児院に預け帰国しました。「きみ」6歳の時です。病魔と闘いつづけること3年、誰一人見取る人のない木造の建物の2階の片隅で薄幸な9歳の生涯を閉じたのは、明治44年9月15日の夜と記録されています。母親の「かよ」は69歳で死ぬまでこの事実を知らなかったようです。せめてこの二人を生まれ故郷である旧不二見村を見下ろせる日本平で会わせてあげようと、有志が日本中の寄付を集め日本平山頂に母娘の銅像が建てられたのは昭和61年でした。この話を聞いた元ガキ共はみんな粛然と涙し、以降この童謡を歌わなくなりました。

如何なる理由か、自分の国を賤しめることに熱心な一部マスコミや評論家のカサカサの精神にこうした潤いが少しでも残っていれば、甘ったれた「引きこもり」や頭でっかちの「バーチャルガキ」の発生を食い止められるのでは・・・と思う一方、映画「禁じられた遊び」の「ポーレット」、「マッチ売りの少女」、「越後獅子」・・・こうした薄幸な「女の子」は何ゆえ我々の胸を締め付けるのか、未だ記憶の奥底に潜む謎は解けません。

偉いかなぶん

2007年04月26日 | Weblog
名は体を表す、と言いますがラジオも街を表します。昭和20年代の清水では9時と午後の4時と10時には必ずどこかのラジオから「気象通報」が聞こえてきたものです。「南大東島では北北東の風、風力2、天気晴れ、1020ミリバール、26度・・・」と言うあれです。遠洋漁業で食っている港町の「音の風景」です。あの抑揚のない独特な言い方は音楽のように子供をいい気持ちにさせます。特に「ミリバール」はハイカラで「今日の俺は1100ミリバールだ!」「いいなあ!俺なんか950ミリバールだ!」なんてガキの気分の尺度でもありました。それが勝手に「ヘクトパスカル」に変えられて記憶にケチがつきました。そんな単位にこだわるのは「かなぶん」が深く係わっています。

「かなぶん」と言ってもAV女優の金沢文子ではありません。正真正銘の虫の方です。昭和20年代のオモチャがない時代では「かなぶん」は子供にとって、大切な「オモチャ」でした。子供にとってはどの虫を「家来」にしているかは重要です。当時は捕獲難易度から「かなぶん」「クワガタ」「鬼ヤンマ」と進むのが常で、特に日本最大のトンボ「鬼ヤンマ」は当時「B29]と呼んで捕獲の技を競いました。運よく捕まえると町内を回って「お披露目」したくらいで、糸に結ばれた「B29]は戦争に負けた年寄りを喜ばせたものです。その点、「かなぶん」は雑木林にいけば簡単にとれるのでその「地位」は低かったのです。その「かなぶん」が一夜にして「偉く」なったのです。

ことの起こりはメートル法です。メートル法の実施は昭和34年からですが、すでに小学校ではメートルでした。ただ困ったことが起きました。話の前後は忘れましたが、先生が「・・・だから一寸の虫にも五分の魂が・・」と言ったとき誰も理解できません。ガキ共の様子を見てとった先生は説明の要を感じたのでしょう。「3センチの虫にも1.5センチの根性がある!舐めたらいかんぞ!」「・・・」皆どよめきました。3センチの虫といったら「かなぶん」しかいません。「あいつはそんなに偉かったのか!」しかも身体の半分は根性が占めているようです。そう言えば「かなぶん」の妖しく光る緑色もどこか高貴に見えます。ガキ共が「かなぶん」に一目置くようになったのは言うまでもありません。

但し、「かなぶん」には困った性質があります。落ち着かないのです。すぐどこかへ飛んで行ってしまします。しかも、あの独特の飛び方から判るように糸で結んでおくのが結構大変です。糞をされたガキもいます。そんな訳で「かなぶん」の天下は長くは続きませんでしたが、「単位」を身近なもので表現する方法は捨てるべきではありません。地球の経度から割り出したメートル(今では一定時間に光の進む距離からメートルをきめています)より、足の長さから割り出した「尺」とか「フィート」、一人の人間が一年間食える米の量から割り出した「一石」、ちょと古いですが「腕」の長さから割り出す「キュビット」など本来「単位」は身体が元になっていたのに何ゆえ実体のない数字にしたのか面妖です。極限で頼りになるのは己の勘と体力です。身体が単位になっていることの有難味が判るのは天変地変しかないのでしょうか・・・なんて強引なまとめ方で失礼しました。

釣り猫の記憶

2007年04月25日 | Weblog

「荒っぽい」話が続いたので「かわいい」話をします。面白いこと・不思議なことには人による偏りが大きいようです。たまたま「見た」ことで観察力・注意力が磨かれるのかも知れません。従って、宇宙人に遭ったとか、呪縛霊が憑いたと言うような話は信じません。何の検証も推理もないこうした「オカルト話」はまやかしに過ぎません。折角の知的好奇心を台無しにする妖しげな占い師や円盤おじさんは取締りの対象にすべきです。こんな長い前振りが必要なのは、実は小学生の時に「変なものを見た」からです。暗い夜道に出る「あれ」ではありません。真昼の夏の防波堤です。

清水港から少し離れた所に興津港があります。西園寺公望の別荘で有名なあの興津です。今では改修されて広大なコンテナ港になっていますが、昭和30年頃は鄙びた漁港です。この防波堤はガキにとっては格好の遊び場所でした。その日も泳ぎ疲れて、防波堤の上で寝そべっていると、40~50メートル先の岩場に猫がいるのに気付きました。大きな野良猫です。猫も泳ぐのかとじっと「観察」していると、波に背を向けて、ちょうど泳げない子がお尻から水に入るのと似た姿勢をとっています。しかし泳ぐ気配はありません。変な猫だなと思っていたら、突然猫が身をよじったのと同時に魚が打ち上げられたのです。 猫は岩場で飛びはねる魚を銜えると足早に立ち去っていきました。

仲間に声を掛けた時は猫はいません。当然、ガキ共は信じません。しかし、どう見ても猫は自分の尻尾を「ルアー」にして魚を釣ったとしか思えません。家に戻って親父に話しても「また変なものを見たか!」でお終いです。幼稚園の頃、「円盤」を見たと騒いで笑われた「前科」があるからです。しかし今や「立派な小学生」です。知能も少しだけですが向上しています。悔しいので先生に話しましたが「動物は道具を使わない」でお終い。「尻尾」が「道具」かどうか別として目的は同じです。今思えば、現地に行って港の古老にでも聞き取り調査すれば「見た」人がいたハズですが、そこはガキのことで面倒になって記憶からも消えていきました。しかし神は見捨てませんでした。

ハイビジョン放送の楽しみは何と言っても美麗な画面で、古都や自然を満喫できることです。体験があれば記憶が蘇って更に悦楽です。先月でしたか、例によってNHKの自然番組を見ていた時です。場所は「ガラパゴス諸島」、ここに生息する「キツツキフィンチ」と言う鳥が何と小枝の釣り竿で「虫を釣る」のです。しかも片足には「予備」の小枝まで用意しています。この小枝で木の穴の中にいる幼虫を突くと、幼虫が餌と勘違いしてその小枝に噛み付きます。そのまま引き上げると幼虫が「釣られてくる」按配です。記録映像の凄さです。「人間が想像している以上に鳥達は賢いのです」と言うナレーションを聞いたときは思わず「偉い!」と叫びました。記録する人間も偉いがされる鳥はもっと偉いのです。こうして50年ぶりに「釣り猫事件」の「無罪」が確定しましたが、報告すべき親父も先生もいまは黄泉の国です。いずれ「再会」した時に、水戸黄門の印籠よろしく「これが目に入らぬか!」と写真を見せてやるつもりです。


呼ばれた記憶

2007年04月24日 | Weblog
前のブログで昭和20年代の港町で「猛威」を振るった刺青師「雲井龍」の話をしましたが、その後事態は急変しました。朝鮮戦争による特需で国内生産体制が軌道に乗ると清水港は一気に輸出入港へと発展します。町が潤えば警察力も強化され、機械化がすすめば沖仲士や工場労働者の代わりにネクタイを締めた連中が増えます。当然、ヤクザ絡みの派手な喧嘩もめっきり減ります。一番被害を受けたのは「客=ヤクザ」が減った雲井龍でしょう。我々が中学に進んだ頃には、あのハレーに跨った特攻服姿を見ることは稀になりました。

その頃、近所に小川軒と言う繁盛していたパチンコ屋がありました。そのパチンコ屋からいきなりヤクザが飛び出してきたのは真夏の午後です。ヤクザに追われて一般人が逃げるなら話は判りますが、ヤクザが逃げると言うことは、それを追いかける人間がいると言うことです。該当者は一人しかいません。案の定、続けて出てきたのは「雲井龍」でした。彼はゆっくりした足取りで、駅に方に逃げる「逃亡者」に大きな声をかけます。「おいっ!○○!(名前)戻ってこい」「・・・!」

全てはこの一声で決まりました。名前を「特定」された逃亡者は雷に打たれたように固まると、やがてふてくされたように戻ってきました。それから雲井龍と並んで再び店に入っていきました。目撃者は皆声を殺して笑いました。バカ笑いして雲井龍とヤクザに聞こえるのが怖かったからです。ところでなぜパチンコ屋に雲井龍がいたのでしょうか。昔の雲井龍は刺青を彫るスペースがある「客」を「爆発」で識別していましたが(詳しくは前のブログで)、時代が変わって、さすがにこの作戦が無理になると、直接「客の選別」をする必要に迫られたハズです。すると昼間のパチンコ屋はかなりの確率で「客」がいます。エアコンなどない時代です。上半身裸の客も珍しくありません。恐らく雲井龍はそんな客の刺青可能面積を品定めしていたに違いありません。それにしても「名前」を呼ばれて固まったヤクザは滑稽でしたが、僅か半年後には今度は我々が「固まる番」になりました。

改造バイクで3ケツ(3人乗り)していた冬の夕方です。「寒さ」と「重さ」でうまく操縦できません。ふらつきながら通りを曲がったところで後方で「ピーッ!」と笛がなりました。こうゆう時はまずは逃げるに限ります。それがお巡りさんだと気付いたのは振り返ってその服装を見てからです。服装がはっきり見えると言うことは「距離」が詰まっている証拠です。「おいっ!降りろ!」「・・・」「降りろってば!」「・・・」誰も降りません。少しずつ距離が詰まってきます。この「少しずつ」がミソで、「すぐ」追いつかないのは相手が楽しんでいる証です。バイクが砂利置き場に逃げ込んだ直後、追跡者が呼びました。「おいっ!○○ニイ!」それは自分の下の名前でした。とたんに全身から力が抜けました。バイクから飛び降りた後ろの2人は往生際悪く崩れ落ちる砂利山で空しくもがいています。

名前が「特定」されたのはそのお巡りさんも同じ町に住んでいて、ガキの頃から我々を知っていたからです。幸い親に「通報」されることなく、今度はもう少しバイクのギヤー比を工夫するよう「技術指導」されただけで済みました。これには輸出額の三分の一をバイクが占めている貿易港の事情があったからです。今でも下の名前を「呼ばれる」と動きが止まるのはこの時の後遺症かも知れません。名前を「呼ばれなかった」後ろの2人は今は地元の名士?としてある「団体」と「組織」の長になっています。実名を伏せているのは同窓会で戻ったときに「いいこと」があるからです。夏の同窓会が楽しみです。



雲井龍の時代

2007年04月22日 | Weblog
こうも発砲事件が続くとどうしても話しておきたい「怪人」の思い出があります。舞台は昭和20年代の清水港です。清水には三つの「日本一」がありました。日本観光100選、マグロの水揚高、そしてヤクザの数(対人口比)です。これらは密接に関係しています。大勢の観光客、大金を握った漁師、不逞外国人船員、沖仲士、更に金属、造船、製油などの工場労働者・・・。行動は明白、「飲む、打つ、買う」そして「喧嘩」です。ヤクザはこうした「花」に群がる「ミツバチ」です。 近所にヤクザがいて困ると言うのは平和ボケした今の話で、警察が弱体だった当時はヤクザがいないと収拾がつきません。ヤクザより怖いのは漁師です。遥かインド洋やパラオまで、台風や海賊や不慮の事故を乗り越えて遠洋する連中です。労働も半端ではありません。板子一枚下は地獄と言いますが、漁師は甲板の上も地獄です。こうした漁師達や不逞外国船員、気の荒い沖仲士や工員達が同じ夜の街に溢れたらいつ市街戦が勃発してもおかしくありません。そんな事態を心待ちにしている人がいます。度胸と腕っ節の漁師ですら恐れる雲井龍です。最近出土した「恐竜」ではありません。「人間」ですが、実態は恐竜です。

雲井龍は刺青師です。特攻服に逞しい身体を包んで白いマフラーをたなびかせながら、当時では珍しかったハーレーダビットソンに跨って「出動」する姿を見た人もいるハズです。彼は「客=ヤクザ」が一番集まる機会を待っています。「運よく」大勢のヤクザが絡んだ喧嘩が始まると、どうゆう仕組みなのか、警察より早く雲井龍がやってきます。現場は治外法権化している夜の埠頭周辺です。ハーレーが現場に到着するやいなや物凄い爆発音がします。彼がぶっ放すショットガン(ダイナマイトと言う説もあります)の音です。今では信じられない話ですが、事実です。港に積んであるパレットが粉々になります。まずヤクザがクモの子を散らすように逃げます。一拍遅れて漁師や外国船員が逃げます。雲井龍は彼らには興味がありません。漁師は彫りものはしません。外国人は集金が面倒です。狙いはヤクザ、それも閃光と衝撃で一瞬逃げ遅れる間の悪い「駆け出し」のヤクザです。なぜかと言うと、「駆け出し」には刺青のスペースがたっぷり残っており、彼にはバカ高い「彫り代」と長い「製作期間」が待っています。

港湾と言うのは独特の構造で、逃げ道は限られています。運悪く「捕獲」された駆け出しのミツバチがハーレーの後ろに乗せられていくのを2度ばかり見ました。警察が来るのは決まってその後です。「銃刀法違反」どころではありませんが彼が捕まったと言う話は聞いたことがありません。ひとつは「一般の死人」が出ていないこと、ひとつは雲井龍の「出動」で喧嘩が一瞬で消滅するからです。彼は油田の火災を消すニトログリセリンでもあった訳です。東京でも「銀座警察」と呼ばれた著名なヤクザがいましたが、そうゆう時代だったのです。

そんな生態系の頂点に君臨していた雲井龍が死んだのを知ったのは20年近く経ってからです。知り合いの「ミツバチ」から聞いた話では、さすがの雲井龍も寄る年波には勝てず病死だったそうです。天敵が消えたミツバチの表情は穏やかでした。今では当時の「活気」はすっかり消え失せています。最近のニュースで「清水一家」が関西系の暴力団に買収されて地元の観光・商工会が猛反発と知りましたが、「ヤクザ」で食ってきた街が「暴力団」に反発とは泉下の雲井龍が聞いたらどう思うでしょうか・・・。

並びの記憶

2007年04月21日 | Weblog
秋葉原の大手家電店に「並びのイッちゃん」と言う凄腕販売員がいました。30年以上も前の話です。当時の秋葉原は「築地、アメ横、秋葉原」と言われたくらい活気に満ちて客も売り手も一歩も引かないガチンコ勝負の世界でした。商品に難クセをつける客とそれをひとつひとつ論破していく販売員との名勝負は街の風物詩でした。しかしイッちゃんは意表を突いた方法で客を「落とす」のです。

ある客が商品を眺めながら気持ちを高めています。ふと気付くと隣に販売員がいます。販売員は客の存在を無視するかのようにじ~と商品を見入っています。やがて販売員はため息をつくように言います。「コレいいよな~・・・」。この瞬間、客と販売員と言う「対立関係」は消滅して、共に商品の良さを味わう「同志関係」が生まれます。そして穏やかな表情でイッちゃんと「一緒に」注文カウンターに向かいます。イッちゃんに並ばれて「無事」だった客はいません。イッちゃんは客の心理と「合わせ」のタイミングを見切っているのです。自分も35年前にイッちゃんに「並ばれた」一人です。以来、家電は全てこの店で買っています。家電マニアなので累積では凄い金額です。勿論、今は役員になったイッちゃんご指名です。絶対に値切らない、と言うよりその必要はありません。なぜかと言うと「社員価格」だからです。無駄に「並ばれた」訳ではありません。イッちゃんと店の実名が出せない所以です。

この「並び」には遠い記憶があります。ガキ共が悪さをしてビンタを食らう時は当時の慣習で横一列に並らばせられるのですが、ガキの方もしたたかで少しばかり「湾曲」して「隙間」なく並ぶのです。こうするとひっぱ叩きにくく、しかも鳥が翼を広げたような迫力があります。戦国時代の「鶴翼の陣」です。「前に出ろ!」とは軍隊式になるので言いにくい時代です。形勢不利と見た堀田先生は我々を連れて学校のすぐ裏を流れている巴川の土手に一緒に「並んで」座ると言う奇策に出ました。これは新鮮な初体験で、「先生と生徒」の関係から「兄貴分と子分」のような奇妙な一体感に包まれたのでした。以降この「並び」は定番になりましたが、目の前で子供の群れに見つめられる対岸の遊郭はさぞや迷惑だったでしょう。

今日、教育現場で何かと言うと「全校集会」とか「話合い」をしますが、昔の「並び」とは似て非なるものです。「怖いけれどあこがれの先生」に並ばれるからこそ効果がある訳で「つまらない先生」に並ばれてもそれは「迎合」としか映りません。ガキの教育には言葉は不要です。「あんな人になりたい!」と思えば、するなと言っても真似をするし、ついてくるなと言ってもついてきます。つまらない若者が増えているのは、つまらない親が増えているからでしょう・・・なんて自己弁護しながら今日も秋葉原に向かうのでした。




数字の逆襲

2007年04月20日 | Weblog
数字なんか嫌いだ!これが殆どの人でしょう。飛行機事故で死ぬ確率より100倍も可能性が少ない宝くじを買う人や、「たった1日タバコ1箱分ですよ」と言われて高い買い物をする人が跡を絶たないのがその証拠です。自分もイチキュウッパ(¥1、980)に弱い一人です。そんな「善良」な我々をたぶらかす数字好きの割合は50人に1人だと信じています。これには懐かしい根拠があります。

当時(昭和20年代)の小学生は、今のインドやベトナムで「沢山勉強して国の役に立ちたいと思います」なんて答える立派な小学生とは大違いです。食料事情は多少好転していましたが、甘いものも遊び道具もありません。こうした状況下では勉強より「即戦力」、即ち「何かを作れる子」「何かを調達できる子」が偉かったのです。何しろ先生自身(堀田先生、後に静岡サッカーの礎を築いた人です)がその代表で次々と面白い遊びを見つけてくるので、50人のクラスで勉強、特に算数が好きな子はいませんでした。一人の例外を除いて・・・。

それが河合君でした。身体は大きい方ですが動きが鈍いので「いちご作戦」のような重大任務には連れて行けません。なぜ仲間になっているかと言うと、彼が我々の宿題をやってくれるからです。報酬は我々が身体を張って「獲得」したいちごです。言わば「うつぼ」と「エビ」のような「共生関係」であった訳です。しかし「エビ」にはエビの意地があったのか、ある日突然言い出しました。「おまいら、どこから宇宙か知ってるか?」「・・・」

当時「宇宙」とは途方もなく広く、時々火星人が地球の様子を見に来る程度の認識しかありません。自分も幼稚園の頃、円盤を見たことがあるので、宇宙戦争になったら「タコ」には「イカ」で対抗しようとは思っていましたが、どこから「宇宙」なのかなんて考えたこともありません。彼の説明では「空気がなくなって人間が生きられないところ」から宇宙だそうです。ガキのことで数字で答えられないので、ここ(清水)からどこらまで、と考えます。一番「近い」距離で答えたのが「北海道」、一番遠い距離は「アフリカ」でした。全員大外れでした。

彼は誇らしげに正解を告げます。「12キロさ!」「・・・」早速地図で調べると隣の静岡市程度です。そしてこの距離は我々の「いちご作戦」の攻撃目標である久能山への往復距離よりも短いのでした。つまり我々は1週間に1度は宇宙遠征をしていたことになります。いちご作戦の前途に不安を感じていた我々がいきなり「地球戦士」になったのは言うまではありません。しかし、この勇気が仇となって我々の作戦は学校の知るところとなり、貴重ないちごを盗み食いしたガキ共は全員ビンタを食らって「りんご」になった顛末は前のブログに書いた通りです。勿論、「当事者」ではない彼の名前は出しませんでした。(その後、宇宙は上空100キロとの目安ができましたが、それでも東京から直線で伊東温泉までです。)

10年ほど前の同窓会で、某国立大学の理系を出て三菱グループの部長になっていた彼から「あのいちご」のお礼なのか、けっこうな差入れがありました。やはり数字に強かったのです。そう言えば最近の経済事件で逮捕された村上某などを見ると、ガキの頃は喧嘩も弱くその分勉強、特に数字に強くなったであろうことは容易に想像できます。我々はこうした実感のない数字を操る連中に復讐されているのかの知れません。

夜道の掟

2007年04月15日 | Weblog

団塊の世代以上の人なら昔の夜道には格別の記憶があります。当時は街灯もまばらで、しかも途中に切り通しや雑木林があります。トンネルでもあったら最悪。この夜道をどう突破するかは子供にとっては一大事です。選択支は3つしかありません。「泣く」「走る」「歌う」です。「泣く」のは意気地のない子なのでバツ。「走る」と答えるのは恐怖の時間を縮めようとゆう「よい子」の発想ですが、実際には「走っている」うちに「追いかけられている」という錯覚に支配されて恐怖は逆に倍増します。時々夜道を泣きながら走ってくる子を見ましたが例外なく「よい子」でした。よって正解は「歌う」。それも壇上文雄作詞、白木義信作曲の「少年探偵団」でなければなりません。

この歌は暗い夜道を突破する歌に違いなく、まず歌詞が前向きです。「・・・勇気凛々、瑠璃(るり)の色・・・明日をめざす歌声は・・・月夜の空にこだまする・・・」そして一段を声をはりあげて「ぼっ!ぼっ!ぼくらは少年探偵団!」と歌うのです。曲も大きく手を振って元気よく歩くように出来ています。こうして暗い夜道を「突破」すると仲間内で少しだけ「兄貴かぜ」を吹かすことができます。しかし世の中そう甘くはありません。「見た子」に出くわすと事態は一変します。

トンネルの手前の街灯の下で男の子が佇んでいます。知らない子なので、まず「今晩は!」と声を掛けます。これが昔の流儀で素性を確認するためです。彼は黙ったままで、よく見ると震えています。そこはガキのことで震えはすぐに伝染します。「どうした?」と恐る恐る聞きます。彼はトンネルを指差しながらようやく答えます。「みっ、見たんだ!」・・・「みっ、見たって何を?」・・・。ここから先は不要ですね。勇気凛々はあっという間に消滅します。何を見たのかを直ぐに言わないのが話の肝です。

想像力というものは得体が知れないからこそ湧くものです。もし極めて正確にモノを言う人ならどうなるでしょうか。「どうしました?」「はい、左10時の方向から12時方向に、明度35%の不鮮明な白い物体が水平移動したのを確認しました。78%の確率で幽霊かと思います!」なんて言われると「あんた、洗濯物でも飛んでいるのを見たんじゃないんですか?」と言いたくなります。こうゆう「無神経」な人は折角の「恐怖の楽しみ」を台無しにするからです。そんな「無神経・無機的」な人間が跋扈しているのは、この闇の喪失が一因です。子供の想像力と勇気を育む「闇」を奪った電力会社に反省を求める所以です。


イチゴの思ひ出

2007年04月14日 | Weblog

「いちご白書」・・・てっきりいちご農家の統計か何かと思ったら1968年のコロンビア大学の学園闘争を背景にしたS.ハグマン監督の青春映画だとか。なぜ「いちご」なのかと言うと、体制側の象徴である大学理事が「学生達の要求なんぞ、いちごについての談義みたいでとるに足らぬもの」と宣ったことに起因する、との説明です。「甘い」のはいちごではなく、この理事の頭の方・・・本当の「いちご」は怖いのです。

時は昭和27~8年頃、朝鮮戦争特需でようやくいつも腹を空かしている状態から抜け出しつつありました。しかしガキ=餓鬼とはよく言ったもので、腹が満たされると今度は「甘いもの」が欲しくなります。幸い地元特産品のみかん畑が斜面に広がっていて、割りと簡単に盗み食いできるのですが缶詰用みかんは実はそれほど甘くないのです。では何が「憧れ」かと言うと「いちご」です。今日の「あまおう」のような改良品種とは比べようがありませんが、当時はこれが「至高の果物」。ここからが攻防戦です。

駿河湾の久能海岸沿いに当時は全国でも珍しい「石垣いちご」畑が広がっていて、ここがガキ共の攻撃目標です。当然、貴重ないちごですから、警戒厳重です。何度か斥候を出すうち、裏山から回り込むと警戒も薄く、柵も子供の身体なら何とか入れそうな地点を発見、直ちに突入しました。あっけなく成功しましたが、そこはガキです。夢中で頬張っているうち見つかりました。「敵」はものすごい形相で迫ってきます。我々はかねて打ち合わせた通りクモの子を散らすように別方向に逃げる・・・ハズでしたが、必ず間の悪いガキがいるもので、もたついている間に彼は捕まりました。勿論、我々は必死に逃げます。集結地点でしばらく息を潜めていると彼が戻ってきました。足取りはしっかりしていますが、顔は思いっきり殴られて鼻血で真っ赤です。そして恥ずかしそうに言います。「いちごになっちゃった!・・・」これが昔のガキの凄さです。

その後、何度か攻防戦が繰り広げられましたが、やがて小学校の知るところになり全員、思いっきりビンタを食らいました。みんな「りんご」になりました。すると最初に捕まったガキが慰めます。「いちごになるよりいいよ!・・・」。尊敬のまなざしで見られたのは言うまでもありません。流石に「ざくろ」になる子はいませんでしたが、「いちごを食うか、いちごになるか」の攻防は今も甘酸っぱい記憶です。


クジと隕石

2007年04月13日 | Weblog
好奇心を60年も続けていると、そう簡単には驚かなくなります。しかし意外なところに神様はいました。先週駅前の宝くじ売り場で100枚以上買っている人を見ました。浮世離れした光景なので売り場のおばさんに聞いたら珍しいことではなく、しかも「宝くじを当てる方法」と言う本まであります。当然その本を買う人がいる訳ですが、なぜ「本当に当たるなら本なんか出すハズがない」と考えないのでしょうか。宝くじを買う人は決まって「当たった人がいる」「買わなければ当たらない」と言います。「夢を買う」と言うのはウソで本心はかなり期待しています。そんな人達には申し訳ないのですが、ちょっと「確率」の話をさせて下さい。説教臭い話ではありません。思い出話です。

宝くじが当たる確率は発行枚数や払い戻し率などにもよりますが、大体1000万分の1だそうです。ピンと来ません。そこで飛行機事故で死ぬ確率と比べると、飛行機事故死が10万分の1(飛行時間と移動距離での計算)ですから、それより100倍も当たる可能性が低いことになります。面白いですね。この悪質なカラクリに嵌る人が後を絶たないのは「確率」は人間がもっとも理解しにくい概念のひとつだからです。ところが同じ概念でも「運」となるといきなり身近になります。運のいい人、悪い人を見ているからです。そこで思い出すのは史上最も運の悪い人です。

子供の頃、人間が隕石に当たって死ぬ確率はどのくらいかと漠然と考えたことがあります。と言うは山の斜面で小さな「隕石」を拾った経験があるからです。あれは意外に重いのです。とても珍しいことで、病原体が付いているといけないと騙されて学校に取られてしまいました(今でも小学校にあるはずです。堀田先生、石を返して・・・!)。そんな拾うのも珍しいのにまして人に当たるなど宝くじどころではありません。地球の地表面積は約1億5000万平方キロ、一方人間の頭の「直撃危険面積」を直径10センチとすると・・・余り意味がありません。ほぼゼロです。しかし運はそんな数学を打ち砕きます。

1908年6月30日、中央シベリアで2150平方キロの林を破壊した「ツングースカ大爆発」は後に地表から6~8キロ上空で大気圏に突入した質量10万トンの隕石の爆発であることが判りました。幸い人家のない地帯だったので大惨事にはならなかったのですが、どうゆう訳か一人の農夫がその直撃を受けて死にました。(この史上最も運の悪い男の名前を目下、調査中です)。他の例では1911年、エジプトで「間の悪い犬」が隕石の直撃を受けて死んだ事例があります。話をまとめましょう。

つまりめったにないから「運」だと言うことです。3万円もつぎ込んでくじを当てようとする人は善人かも知れませんが賢い人ではありません。その分、勉強するか旅行でもした方が「運」の確率は上がります。では、自分はなぜそんな宝くじ売り場にいたのか?いい質問です。その宝くじ売り場では1万円出すと、おつりは新券で呉れるのです。義理袋には欠かせません。何事にも手数料や待ち時間がかかる昨今、200円で「夢付き」新券と交換して、更に「あの隕石はどうなったのか?」とささやかな感慨に耽る・・・そんな自分は賢いのか単なるアホなのでしょうか。

印籠の力

2007年04月11日 | Weblog
本当は「黄門の記憶」としたかったのですが、音読みすると倒錯の世界を連想するので、印籠にしました。印籠が昔の携帯薬入であることを知らなくても、「これが目に入らぬか!」とかざすと悪人共が恐れ入るミラクルボックスであることは皆知っています。今回は仮面ライダーの先輩にあたるこの妖しい物体についての話です。

水戸黄門は忠臣蔵と並んで時代劇の定番でした。自分が子供の頃はあの月形龍之介が黄門を演じて一世を風靡しました。因みに忠臣蔵の吉良上野介をやらせたら、その憎たらしさで月形龍之介の右に出る者はないと言うのは衆目の一致するところです。従って、月形黄門様が悪人共をやっつけるのは印籠に頼らなくても、あの強面だけで充分だと子供心に納得した訳です。つまり、当時は「印籠」と言う小道具はなく、テレビ時代の1969年のナショナル劇場で初めて登場した。これが話しの肝です。

テレビがある茶の間には年齢、性別、知能の垣根を超えて全ゆる人がいます。全ての人に判りやすく、面白いドラマを作ろうとすると「水戸黄門」はひとつの究極かも知れません。さんざん待たせた挙句、一定時間がくると必ず秘密兵器が炸裂して悪人共をやっつけること力道山の空手チョップや仮面ライダーと同様です。初めから出せば余計な手間がかからないのですが、それでは商売になりません。現実社会で権威に立ち向かう根性のない善人に代わって、助さん角さんが悪人共を「こらしめる」つまりは「正義の暴力」で気が晴れると言う訳です。そろそろ話をまとめる時間です。


要するにテレビの「水戸黄門」は人間を限りなく痴呆化する電波装置だと言うことです。本来無法者であるべき悪人共が権威の象徴である「印籠」に恐れ入る訳がないし、本当の悪人なら「権威を騙る偽者め」と言って3人連れを闇から闇へ葬ってしまうハズです。ありもしないミラクルパワーに頼ろうという短絡的感覚は正に山本夏彦が言う「茶の間の正義」です。あの「印籠パワー」は今は「宣伝」とか「情報」とかに名を変えて正義好きで無防備な茶の間に降り注いでいます。早く目をさましましょうね、地球が太陽に呑み込まれる前に・・・。


よい子の記憶

2007年04月10日 | Weblog
ニュースで面白い話をしていました。いじめや落ちこぼれに関してのある調査結果。何でも子供の頃から「言葉の暴力」を受け続けているとその後の精神の成長に悪影響がでる・・・とか。具体的にどのような「言葉」が暴力なのか具体例がありません。「人権」なんて言葉に騙されて、腫れ物に触るようにガキに接しているとどうなるかは、現実の社会が証明します。我々の子供の頃は「何をしやがった?」と「言葉」が出るのはいい方で、大抵は引っ叩かれてお仕舞いです。時には知らないオジサンから叩かれたりします。たぶん悪いことをしたのでしょう。クラスの三分の一はこんな「悪い子」でした。一方、「よい子」は多くても3~4人です。よい子の条件は先生の言うことをよく聞いて、勉強ができること。こんな不自然な子は少ないので目立ちます。

小学4~5年生頃、「島崎」と言う女の子が級長でした。家は「遊郭」です。まだ売春防止法(遊郭を売春と言うのは自衛隊は人殺しの訓練をしていると言った知事に共通しています)が成立する前です。とても大きな遊郭で、土建屋だった親父が出入りしていたので自然に彼女とは仲良くなりました。「よい子」が「悪い子」と仲良くなる、と言うのが話の肝です。つまり彼女は好きで「よい子」をしている訳ではありません。「家業」を気にしているのです。当時は建設業は「土建屋」、遊郭は「女郎屋」と言う具合に呼ばれていました。「差別」ではありません。儲かる家業への「嫉妬」です。額に汗しても暮らしが楽にならない人へのせめてもの慰めです。

こうした嫉妬を向こうに回して「よい子」を演じているのです。だから「よい子はここで遊ばない」と立看板がある場所では遊べません。我々は「悪い子」だから遊んでいいことになります。遊んではいけない場所ほど面白い場所はないからです。つまり「よい子」はとても窮屈な子供時代を過ごす訳です。その証と言うか星霜を経て彼女は某学校の先生と駆け落ちしたと、人づてに聞いた時はなぜか嬉しくなりました。ようやく「悪い子」の仲間入りが出来た訳です。

したり顔で「世の中はこうあるべき」と言う人は大抵は窮屈な子供時代を過ごした「よい子」です。だから人にも窮屈を強要します。こんな人間が決めた「よい子、いい人」になろうとすると不幸になります。皆さん、騙されないで下さいね。