テレビ放送開始は昭和28年2月1日です。この時のテレビ受像機の値段は「家」よりも高く、個人が買える代物ではありませんでした。子供の頃に「街頭テレビ」で力道山の空手チョップに興奮した記憶のある年配者は多い筈です。昭和29年5月24日にはボクシングの白井義男・エスピノサ戦のテレビ中継を見ようと東京・中野駅前丸井2階家具売場に60人が詰めかけ、第3ラウンド開始直後に床が抜け重軽傷27人を出しています。数年してテレビは車並みの値段になりましたが、まだまだ貴重品です。町内では4軒隣の市長の家が最初で、我が家が2番目でした。「先を越された」親父は秘かに心に期すものがあったようです。
当時のテレビ受像機は4本の足があって、豪華な垂れ幕で覆われ、放送開始時間が近づくと「除幕式」が常でした。司祭のようにゴブラン織りの垂れ幕を厳かに捲くると、集まった近所のガキ共の目はキラキラと輝き、ズボンのベルトを締めなおす子もいました。放送開始(確か5時半頃)の20~30分も前からあの縞の放射模様(テストパターン)を眺めていたものです。終りは確か夜9時頃だったような気がしますが、未練たらしく最後の「君が代」まで見たものです。この世代に「愛国者」が多いのもそのせいかも知れません。こうしてテレビは瞬く間に全国に普及し、数年後にはテレビがあるだけでは威張れなくなりました。親父にとってはここからが「勝負」でした。
ある日、学校から戻ると親父が珍しく機嫌がいいので何だろうと思う間もなく、「おいっ!テレビが”カラー”になったぞ!」「・・・!」すぐにテレビ受像機を見ると怪しげな半透明の板がぶら下がっています。そろそろ放送が始まる時間です。「おいっ!」親父が偉そうに社員(土方)に指図すると丸いブラウン管が光り始めます。「おおっ!」一斉に声が上がります。本当に色がついています。何故か「3色」です。上が青、真ん中が黄色、下が赤だったと思います。「これであいつに勝った!」と親父は満足そうです。あいつとはテレビ設置で先をこされた市長のことです。早速、近所のガキを呼びにいきました。みな歓声をあげました。こうしてテレビに「色をつける装置」は瞬く間に広がりました。しかし装置の天下は半年も持ちませんでした。やがて誰かが「本当」のカラーテレビのカタログを手に入れてきたからです。この時点でようやく、我々は「色つけ装置」が単なる3色のプラスチック板だったことに気がつきました。
ここから先の説明は不要ですね。みんな憑物が落ちたように「3色板」をテレビから取り外しました。カラーテレビの普及はかなり後になってからですが、会館とかデパートでは「実物」を確認できたからです。そのインチキ板が前衛芸術の素材として復活していたとは・・・大きな色つきのアクリ板を通して、色んな角度から作品をみるのが「キネティック・アート」だそうです。半世紀もすると「怪しげなもの」が「偉く」なると言う事実は、今「偉いもの」もやがて「怪しいもの」になるかも知れないと言うことです。げに浮世とは恐ろしいものです。