Aspies and ADHDes

AspieとADHDの特性があり、テキトーな医師が診断しました。(自分では、第4の発達障害ではないかと思っています)

アスペやADHDは接客に向いている という側面

2016-11-21 | 発達障害
この記事も3回目である。

テキトーな担当医が私に「接客業は向いていない」と、使い回しの定型文を言ったが信じない。

なぜならば、向いてたからだ。私は、接客をしてきてどの現場でも客に好かれていた。
男も女も、老いも若きも、子供も、外国人も、客はおしなべて私を好いて信頼を寄せていた。
そのことが、当たり前じゃないと知ったのは、他の店員への反応を密かに観察した時に、私への反応と全然違ったからだ。私はAspie 兼 ADHDであるが、接客業に向いている。

男性が私を好くのは、異性であるからというのがあるが、女性も私を好くのである。ある中年女性客が、同僚女店員に対して揉めていた。その同僚女はいつも私を虐めているくせに、飲料担当は私だからという無理くりの屁理屈で私を呼んで投げてきた。私は、もめている客の相手が全く苦痛でないし、対応する自信があるので構わないのだが。その中年女性客は、出てきた私の姿を見ると急に大人しくなってしおらしくなって私に彼女の要求を伝えた。その要求は、誰でもできるすこぶるたやすいことだったので、その場で「はい」とその通りにした。

もめている客の対応に自信がある私であるが、この時のその女性客の大人しくなりようは、大変印象的であった。私の姿をみた瞬間に、急に大人しくなったからである。この時、私は自分には人を落ち着かせる特殊能力があるようだと思った。他にも、いつも来る若い女性客がいて、その感じの悪い攻撃的な挙動に不快を感じていたのだが、ウーウーと神経が張りつめて目がギンギンになっている動物の姿とだぶり、そのことに気づいただけで、彼女は私に対して大人しくなったのである。私は彼女に何もしていない。ただ、ウーってなってる動物にだぶらせて見ただけで、彼女は気持ちが落ち着いたようだった。

たしかに、彼女たちのように店員その他に対して気持ちが張りつめるのも無理はない。日本には、低級な店員その他がたくさんいるからだ。客のことなどどうでもよくて、自分の能力アピール、優位性、自己保身にしか興味がなくて、客の言うことには実際関心がないという人達の方が多いではないか。私も自分が客の時によく思うし、同僚も9割がそうだ。客の質問に答えられないだけなのに、的をはぐらかして関係のないことばかり言って、対応しているふりをして騙して濁して丸め込もうとする店員。私はそんな人と話すと頭がもやもやする。低劣な店員だと、客を服装や髪形で品定めしたり粗探しをしたり、客は悪くないのに悪者にして自己優位アピールをしたり。そんな同僚いっぱいいた。

また私が満足する店員その他は、私と同じAspie性をもつ人である。彼らは丸め込みをしない。相手の言うことをつぶさに聞いて、それに的を射て対応しようとする人であり、明確に説明する人である。説明をするには自分が理解していないといけない。自分が理解してなくて説明できないから、客を丸め込みねじふせる店員が多い。
また、もし自分の知識では説明ができなくても、誠実に対応することはできる。調べたり、人に聞いたり。こういうことを、多くの店員はしない。そこに、自分の優位性、保身という大変くだらない考えが介入するからである。つまり、客のことより自分の社内での優位性確保が重要なのだ。

私はこういう人達と仕事をするのは本当に嫌である。
「ちょっと調べたら、工夫したら、いくらでも対応できることなのに、なぜ相手を黙らせようとするの?」 その答えは、自分が周りの同僚たちに対して面目を保ちたいという実にくだらないメンツであった。

私はIQも高くないし何を聞かれても即座に答えられる店員ではなかったが、客に好かれたのは、誠実に対応していたからである。誠実さよりもしょうもないメンツが優先する人達とは仕事をしたくない。

私は接客に向いている。そして私のようなAspie 、ADHDの人も向いている。

ただし、同僚の9割方が、しょうもないメンツで動くのだから、そのような人達と、全く違うスタンスで仕事をするのはとても困難である。というのも、彼女たちが僻みで攻撃し続けるからである。
だから、私のような人達は、そのような同僚に足を引っ張られなくていい環境で接客をすべきである。
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不思議なようこおばさん

2016-11-10 | 福岡が合わない
近所に、ようこさんという女性がいる。50過ぎなのだが、おばさんとは言い難い、おねえさんだ。

顔かたち、体の姿はきれいで、地味な恰好をしているけれど、清潔な雰囲気を漂わす、おねえさん。ぶっちゃけ、モナリザにすごく似ている。

彼女は謎の人。

福岡では、容姿がよくてその清楚な雰囲気では、徹底的に潰されるのだ。女によってである。
福岡の女の強烈な僻みは、特筆すべき特徴であろうと思う。
福岡では特に、容姿のいい女性は、他の女達の安心する存在に成り下がらないことには、生きていけないぐらいに女による攻撃、排除がすさまじいのだ。つまり、下品なことを言ったり、彼女たちの発想と同調したりして、低俗な感じを出すことだ。そうしなかったら、福岡の女たちが徹底的に叩き潰しにくる。福岡では、品位を保つ女性が女によってすごい勢いで攻撃される。気に入らないならほっとけばいいのにわざわざ攻撃してくるのが、マグマのような僻みの感情に突き動かされる女達である。

だけど、このようこさんは、そんな風に自分を堕すことができないのだ。彼女の心は清潔すぎて、周りの下衆女たちを安心させる「親しみやすい」行動をすることができない。私と一緒で仲間*^^*
いつも、きれいで清楚な品位を漂わす、50過ぎてもおねえさんのようこさん。

彼女はどうやって生きているのか、謎。

その風情で、女が女を徹底的に叩き潰しにくる福岡の荒波の中で、どうやって生きているのか。
女の僻み攻撃を散々うけてきたのは、見ているだけでも伝わってくる。彼女は福岡の女が嫌いなはずである。

また、東京ではようこさんは男性にとてもモテるはずだ。でも、福岡では彼女のような女性へのニーズはほとんどない。福岡の男はレベルが低く、自分の世話を甲斐甲斐しく焼いてくれる女でないと対象外となる。また女に頼っているため、この荒き福岡で上手に渡って行ける根性にまみれた女(=福岡の土壌強化女)でないと、頼りなくてニーズがない。東京だったら、ようこさんはたくさんの男性に見初められるに違いない。
福岡では、いい女ほど売れないという現象がある。私はその多数の例の目撃者。

私はようこさんが好き。味方である。ようこさんは、私のことを、他と同じ僻み女かもしれないと警戒しているかもしれないけど、仲間であり、親しくなりたいと思っている。
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振り子に乗っかるだけなら、同じことだ

2016-11-10 | 社会・教育のこと
イクメンが振り子になると、今まで育児を母親に全面的にさせて当たり前のようにしていた人達が、急にイクメンアピールし出す。福岡のイクメン気取り男からは特にしらじらしいものを感じる。

こういう例はあまたあり、ただ今そっちの風が吹いてるからそれに乗ってるだけの風見鶏である。

そういう風が吹いてないなら、別の風に乗っかるくせに。

本当に、クソダセーったらない。

「そういう時代だったから」

だから何?そういう時代でも、自分で考えて行動する奴はいるんだよ。何でも時代に決められる、思考停止の野蛮人。こういう人は、東京では顕著に感じられた。浅ましく飛びつき、乗っかり、渡り歩いて行く、節操のない猿人。男も女も。いい歳した人も。こういう猿人たちが日本の9割だから、支配者たちはチョロイだろう。

それで、別の振り子を作った人がいる。世の中の主流へのアンチテーゼとして、別の振り子を。その人たちはすごい人達。でも、それに飛びつき群がり乗っかるだけの人達は、別の場では180°変わる。自分1人では闘って来なかったし闘う気もないくせに。根無し草のサーファーたちが振り子に乗っかり次々に渡りスライドして行く。新しい振り子を作った人達は、それに飛びつき群がってくるカッコだけの人達と自分たちとの違いを知っているはずだ。それでも自分たちの新しい振り子が勢いつくのなら、よしとするだろう。でも、本当は彼らのことを仲間とは思っていないだろう。言えば、利用しているだろう。
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楽しい時の感触をしっかりとつかまえて

2016-11-10 | うつ病とその回復
私はうつ症状が強くあり、悪いことに注意が行く。

うつになるだけの、経験をしてきた。そんな醜悪な社会=日本にいるのは、たしかだ。

でも嫌なことをしてくる人達、生きづらい社会を強化している人達に対する洞察が決して外れていなくても、たまに降ってくる、いいことに対してしっかりと感触をつかまえるべきだ。

それが、低劣な奴らから潰されない ということだ。もし、たまに降ってくるいいことよりも、嫌なことにばかり注意が向けられるのなら、それは嫌なことをしてくる、低劣な人達に人生を乗っ取られている 状態である。

軽蔑する人達によって、自分の大切な注意・時間・エネルギーが奪われる とは悔しいことだろう。

だから、いいことへの注意を手離さないようにしたい。

これは、自分に言い聞かせながら書いている。

とても楽しい経験をした時の感触を、しっかりとつかまえて、できればそれを自分で呼び寄せられるのが目標。(私はモラハラに遭っていた時にこれを努めていた。するとモラハラ女達は、それを強力な嫉妬心で潰しにかかってきた。彼女たちは、躍起になってターゲットの心の中の灯を消そうとしてくる。)

私の仲間たちにも、言いたい。こんな醜いくだらない社会の中で、怒るのはまとも。周りの愚衆に踏み潰されるのもまとも、嫌なことばかりなのはまとも。
岡本太郎も言った。この日本で、幸せだなんて言うのは愚鈍な感性の人だけだと。

でも、それでも、楽しい時の感触をしっかりとつかまえるべきだ。次にまた来たらわかるように。そして、嫌なことで心の中が覆われている時でも、自分でその感触を呼び起こせるようになるために。

うんざりなんて、してて当たり前。絶望なんて、してて当たり前。諦めるのは簡単だ。簡単過ぎてつまらない。 ってハイロウズが「1人で大人 1人で子供」という曲で歌っている。
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嘘(欺瞞)がデフォルト な福岡では、澄んだ目を持つ者は馬鹿者と位置づけられる

2016-11-10 | 福岡が合わない
昨日、東京から帰って、久しぶりに感じた「これだ」という福岡の媚び文化。

私は、説明よりも先に身体症状が先に現れる。後頭部の鈍痛、窒息感である。

この権力者に媚び媚びの文化は、平成生まれの若い世代にも脈々と受け継がれている。

嘘(欺瞞とも言い換えられる)がデフォルトな福岡では、本当のことがはっきりと見える人は排除され、不当に損をし、生きづらい土地となっている。そしてその欺瞞合戦、茶番合戦に盲目的に乗ってそれを担ぎ上げ強化する猿芝居の団員にならないと、頭が悪い人、劣った者として位置づけられる。

豚がミネルバの神に説法するのはショーペンハウエルの時代も今も同じ。

嘘の塗り固めに参加しない人を、頭が悪い、劣った者と即位置づける、福岡の9割の人達がなぜそうできるのか。その嘘の塗り固めという現象があることは承知でも、そこに参加するかしないかは自分で決めるという 選択 の行為が存在するということを知らないからだ。そこが彼らの獣性の所以である。
欺瞞合戦の存在は知っていても、それに参加するかしないかは、自分で決めることである。そこで、参加しない人が、それを選んでいるとは考えないのが彼ら福岡人の9割である。彼らは、その現象に加担するかしないかを選択するということを知らない。だから、欺瞞合戦の共犯者にならず別の選択をする人を頭が悪い、劣った者と即位置づけることができるのだ。劣った者が、劣っていない者を馬鹿扱いするのは昔も今も同じ。

教養がないとはこのことである。


東京から帰って昨日に久しぶりに感じた、今なお脈々と受け継がれる福岡の盲目的な媚び文化に唖然とし(唖然とするのがAspieかADHDの特性だ。私は、この欺瞞がデフォルトの文化を、大人として一種諦観をもって眺めることができないから、毎回唖然としてしまうのだ。私が年齢よりも異常に若く見えるのは、私が学習しないからだと思っている)

そして、私が昔から感じていた、福岡人の相というのがある。嘘がデフォルト、嘘で本当のことをねじ伏せ丸め込み生きている人の相だ。

透明感のなさ。

張り付いた顔。元気モン!でも暗い。瑞々しさがない。どんづまりの、窒息感のある、ぶっとい直線をマジックで引いたような硬直した相。鉛のように鈍重で、軽やかさがない、凝り固まった相。

これが、嘘がデフォルトの福岡人に共通する相である。脳の使い方が、人の相を決めると感じている。

女の人の化粧も、武装や自己防衛が前面に出た、能面のような鋭利な化粧。表情も、目つきも険しく鋭い。武装と自己防衛が先にくる、福岡の人達。そんなに化粧と服装こしらえて街に出ても(そういうのが田舎猿っぽい)、ビリビリと電気のような緊張感を発して(そういうのが田舎猿っぽい)自己防衛しているのなら、異性との出会いもないだろうに。もっとさ、やさしい魅力的な顔してないと、なんのためにこしらえたのか、わからない。
※私は田舎の住民であり、田舎に満足して住む人のことを蔑視していない。ただ、必死で都会人きどりをして猿芝居をしている者に対して田舎猿というのである。

私が好きな人達は、これと反対の相をもつ。東京の特殊な場所に集まってきた人たちの相、真理を追究する人たちの相、科学者の相、子供の相、自分の感性を譲り渡さない人が共通してもつ相。

透明感。やわらかさ。やさしさ。みずみずしさ。
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福岡の都会も、田舎も民度は大して変わらない

2016-11-09 | 福岡が合わない
福岡の都会の人が、福岡の田舎のことを見下して冷笑したりする。
「西鉄大牟田線に乗ってる人って、変な人多くないですか~?」となぜか上から目線で私に行って来た同僚女。(http://blog.goo.ne.jp/tigerlily0804/e/3de0cf32ee0d16053a5d4bba8eff1951)馬鹿にしてるつもりっぽい。でも、福岡は都会も田舎も大して変わらない。

それに、福岡の都心部のエリートきどりやインテリきどり、有能きどりほど、

猛烈な福岡臭を放っている。要注意:医者、弁護士、検察官、裁判官、会社の上役、管理職

福岡臭…権威主義、男尊女卑、勘違い、狭い思考、上下関係に敏感にして浅ましく利用する、強烈な僻み、教養がない、論理で動かない、猛烈な感情


福岡の人々が嫌いなのは変わりない。
でも、東京が魅力あるかというとそうでもない。でも私がいた特殊な場所に集まってくる人々は、本当に魅力があった。

東京で高い家賃を払って得られるミクロ的な差異よりも、もっと大きな変化に入りたい。

それを福岡でやろうというのだ。福岡に点在している、仲間たちと出会って、福岡なのに全然違う空間を作りたい。

私が今日感じた(前記事http://blog.goo.ne.jp/tigerlily0804/e/bbe215f1411a13c42d017bd89e394a71)、福岡で今でもとうとうと流れている、くだらない文化とは違う、福岡なのに全然違う空間を作りたい。

そこには、上下関係も、権威主義も、有能アピールもなく、もっと自由でリラックスして、やさしくて、思慮深い空気がある。

ここは、よくいる福岡人は立ち入り禁止。福岡がなじめない、自由を愛する人たちが集まり、語り合い慰め合い、潰されないようにする所。

そんな場所があれば、同類の人たちが集まってくるかなぁ。
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福岡の媚び文化に合わせない人は、普通にしているだけで不当に損をする 

2016-11-09 | 福岡が合わない
ミクロ的に見れば色々と差異のある東京と福岡の人々の特徴だが、その差異が全て東京>福岡 という訳でもなく東京には福岡とは違った酷さがあり、またマクロ的に見れば同じ日本の構造下にある両者は大して変わらないという感想に至り、それならもっと大きな変化を求めて、福岡でお金を貯めた方がいいと考え地元福岡に帰ってきたことは先に述べた通りである。

東京から福岡に帰って、もう感じた、福岡の媚び文化。それは東京とは異質なものである。私はこれが昔から合わなかったのだと痛感した。

福岡では、上下意識がものすごく強く、非常に権威主義であることは先の記事で確認していただきたい。

勝手に下だと位置づけた人間が、普通に対等に話すと激怒する と書いた。http://blog.goo.ne.jp/tigerlily0804/e/b95963b16826851e03f9284c4b65065d

福岡には媚び文化が発達していて、下位に位置づけられる者が上位に位置づけられる者に対して、ものすごい媚をする。

その強力な媚び能力は、私には大変不潔に感じられる。

だから、たまたまその構図において上位にいる人間が調子に乗るという現象があまた見られる。

両者は共犯関係にあり、媚び媚び軍団は偉そうな勘違いする輩に拍車をかける。

そして、普通にする人が不当に損をする、適切に評価されないという構図が至る所である。

例えば、媚び媚び軍団のはびこりにより勘違いした者に、普通に対等に話した場合、

その偉ぶり勘違い人間は、この言葉の内容に注意が行かず、言葉尻に強烈に反応する。

媚びがデフォルトの福岡人の中では、対等がデフォルトの人間はとても生きづらく、不当に損をする。

もし素晴らしい内容のことを言っていても、その言葉尻などに激しく反応されて内容が届かないのである。

東京>福岡 という考えは誤りであるが

福岡のこの媚び文化は、特筆すべき特徴である。


媚び媚び軍団とも、調子にのった勘違い軍団とも関わらずに

福岡で生きていく方法を考えている。
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第4の発達障害

2016-11-05 | 発達障害
ある医師(すごく適当だし全然信頼していない)は、「中度のアスペルガー。Adhdも入ってる。」と診断した。

確かに私はこれらの特性を濃く呈している。それは母親も言ってる。

でも、私はこれらの発達障害に、後天的になったのではないかと考えている。

家庭や地域などの発達環境が、当人の資質に対して著しく合わない、または相応しくない場合、それによる大きな精神的負担を伴う不協和音的な経験の連続により、後天的に脳の発達障害を呈する(第4の発達障害)とは、既に明らかになってきていることだ。私はこれじゃないかと思う。


私は、自分の育った地域の精神的な土壌が、全く合っていなかった。日本の中でも福岡は特に合っていなかった。(でも札幌よりははるかにまし)

また育った家庭環境も、大人になってわかることだが、とても酷な状況であった。

おおまかに言うと、親のあり方、考え方が福岡ひいては日本の主流とは違っていて(言ってみれば、格が違い過ぎる)、現実の状況(狡猾な修羅のふきだまり)に降りた対応がされなかったため、私は荒き世の中で踏み散らかされ続け、守ってもらえず大変困惑したというものである。ていうか、今でも。優れて品位のある言葉は、それと全く相いれない劣悪な環境下で生きざるを得ない人(そしてその次元の高い言葉を言う人が手に入れたような本当の強さを手にしていない人)に言う場合、上滑りの「綺麗ごと」としてその本人をさらに苦しませるだけのように思う。親は、自分の道のりを通って、その強さを手に入れた。自分でそれを手に入れないと、人にいくら言われても、修羅のふきだまりの中では、上滑りで空回りの綺麗ごととなる。

私はこう思っている。善なる親に愛された子よりも悪なる親に愛された子の方が、しっかりと適切に守られ心理基盤が安定する。これは、今いる日本の社会がとてもレベルが低いからであり、そのような社会においてのみ真実となる。このような社会においては、善なるけどそっち(悪)も場合によってはいける親でないと、子どもを守れない。君が笑ってくれるなら、僕は悪にでもなる…
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人を幸せにしない国、日本 その中で楽しい瞬間を集めていこう

2016-11-04 | うつ病とその回復
私は今まで、理不尽なことを、しやすいと動物的に判断した相手にしてくる野蛮な人たち(体感では日本の人口の9割以上)に我慢できずに、途中から反撃してきた。それは、モラハラ、パワハラの知識や法律を勉強したり、客観的事実を日付と時間付きで記録したり、陰湿な嫌がらせにその場で毅然として反撃しようとしたり(私にはできない。彼女達は無意識のレベルで非常に陰湿なことを自然にやってのけるのだから、私がいくら息巻いてそのおかしさに対抗しようとしても、太刀打ちできない。彼女たちは理性で動いていない。僻みなどの強烈な感情で動いている。陰湿さのキャリアが違い過ぎて、太刀打ちできない。これはマリー・イルゴイエンヌも書いている。私が必死で対抗しようとしているその不慣れな様を、向こうは余裕の笑みで見ていた。)ありのままだと攻撃され食い物にされ潰されるのだから、必死で武装しようとしてきた。

この努力は、この哀しい日本において、必要に駆られたものであり、意味がある。

自分を守るために必要な対抗手段。そうしないと、潰される。だから私はその手段を磨いてきた。

でも、とても疲れてしまった。

いつまで、これをし続ければいいのだろう。

日本の民度が低いのは、日本の構造自体が卑しい考えによるものだから。

メディアの報道の仕方を見ても、その異臭は漂ってくるだろう。この劣悪な精神構造の中でも人格を保つ人はいるけれど、それは3%ぐらいで、あとの多数派は、動物みたいに反射的に動かされる人ばかり。また、ごく少数派の人たちも、仲間同士で闘えたらいいのだけど、私みたいに個人で闘うのは、精神的にとても苦しい。

すごく頑張ってきたけど、この辺でもうお終いにしたい。私が闘っているのは、自分の力では大きすぎる振り子相手なのだから。

精神がまいってしまうのは必然だと思う。

そして、その振り子の伝播因子となって自動的に手先となっている愚衆と関わらなくていい場所に行きたい。

私たちを守る法律や考え方を、歴史の中で先人たちが命懸けで築いてくれた。思想犯として拷問死した人たち。低劣な人達に、高潔な思想の人が殺される。でも、その恩恵を受ける民衆は、その人達の高い精神とは程遠い人間ばかりで、浅ましく卑しい考えの人たちが主流である。節操なく損得で反射的に立ち回って、利用できるものを利用し特権にあぐらをかく人達ばかりである。そして、自分の立場の安泰のために標的にした人物を精神が壊れるまで攻撃して平気な人ばかりではないだろうか。自分が立ち回らないと、すごい勢いで食い物にされるので、立ち回らない私はいつもこの役回りを押し付けられる。だから社会の裏が見えやすい。


でも、自分と同類の人や外国の人や教養の深い人や芸術家と触れ合った時に、日本ではあまり感じることのできない自由でとても楽しい気持ちになることを忘れていない。そういう時は、水を得た魚のようになって喜ぶ。そこには、日本の至る所に渦巻いている、次元の低い承認欲求、優位合戦、有能アピール、足引っ張りなどはなく、透明で、シャボン玉のように七色に光る、クリアでやさしく穏やかな空気が漂っている。こういうのを感じた時は、しっかりとその感触をつかまえるべきだ。それが今度来た時にそれとわかるように。またそういう人達とは、不思議なことに、言葉をそんなに交わさなくても、波長というので通い合う。(そしてそういうのを持ちえない、負の波長で通じ合う卑しい考えの人たちは、これを激しい嫉妬心で邪魔しようとする。踏み台役のはずの人間が本当の歓びを感じていると僻みをたぎらす)

それは、つい最近島村楽器で体験した。

店内で、高校か大学生ぐらいの少年たちがエレクトロニックドラムコーナーで遊んでいた。私はその側の多機能電子ピアノを触りに行った。そして内蔵曲からルパン3世を選んで流し、メロディを弾いて遊んだ。するとその少年たちが、軽快なドラムでそれに合わせて叩きだした。向こうからはコンガが聴こえてきた。少年の一味である。とても上手で、非常にCoolなジャムセッションとなった。とても楽しく自由な気持ちになった。

そこでは、日本至る所で渦巻いている負の波長とは反対の、えもいわれぬ楽しい波長があった。
ドラムの少年が振り向いて私の顔を見たが、私は不器用で目を合わせて微笑むなどできなかったが、下を向いて弾きながら楽しい顔をして見せた。

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久しぶりの更新 

2016-11-03 | 日記
私のブログを楽しみに読んでくれる人がいると知った。

私は東京生活に終止符を打ち、先日地元福岡に帰って来た。福岡あるいは日本で苦しんでいる人たちと気持ちを共有したいと思う。
2回目の東京生活を15ヶ月でお終いにし、地元に戻ってきた。その理由を以下に列挙する。

・人口過密な東京での生活(特に電車、駅、エスカレーター、改札が辛い)が苦痛で、神経がすり減ってきた。

・カクテルパーティー効果が弱いAspieの私にとって、東京は最も不適切な住環境であると考えた。私は地元の土地柄はどうしても好きじゃないが、住環境は好きだった。自然(川、山、田んぼ、濃い緑)広大な敷地、広い通路、少ない通行人。

・インターネットが発達した現在、人口過密な東京にひしめき合って住むメリットが感じられない。どんなコアな書物だって、ピンポイントですぐ帰る。インターネットによって田舎の住民が受ける恩恵は大きい。

・1回目の東京生活で非常に幸運な出会いや経験をしたせいで、認知バイアスがかかっていた。つまり東京=居心地いい所 福岡=修羅の国って。東京の中でも、Aspieの私に奇跡的に適した特殊な環境にいたのであり(そこに隠れAspie仲間が利用者としてたくさん来るのは、肌でわかった!だって私ととても波長が合うんだもの。通じるものがある。)、そこ以外の東京には用がなかった。その特殊な場所の中にまた入って喜んでいたのもつかの間、私が入った組織は(特殊な場所そのものの組織とは違う、全く別の物)もはや腐敗しており、かつてのようなものではなかった。ただ、その特殊な場所に全国から集まってくる人達は今でも大好きである。Aspie仲間がたくさんいたし、Aspieでなくても、彼らは地元やほとんどの共同体において絶対的少数派となるので、孤独な生き方をしてきて私と共通点があり、互いに波長が合い、好きという基本姿勢があったので色々な献身が自然な原動力でできた。またこれができない同僚たちからは僻みによる足の引っ張りがすごかった。彼女たちは上辺で必死に有能、絆アピールをしているだけで、私のような動機がないのだから、その必死の努力は空しく宙をかすめていく。そのことが更に彼女たちの僻みに火をつけ強烈な嫌がらせを受け続けた。

また、1回目の東京生活では、自分の特性とニッチにはまった幸運なスポットで働いていたことやそこで互いに理解し合える友達に恵まれたことにより、当時だって今回となんら変わりないその他の東京の状況が自分に侵入してこない=問題にならない程、選択的注意 (selective attention) が機能して保たれていたということだろう。本来私はこの機能が非常に弱いのだから、それほど幸運が強力だったということだ。また前回は京王線沿線に住み、今回は中央線沿線に住んだことが、神経をすり減らした大きな要因でもある。

・私は、その特殊な場所に集まってきた利用者たちが好きなのであって、東京が好きなんじゃない。東京は福岡よりも民度が高い とは誤りであった。
そりゃー福岡は修羅の国というのは間違っていない。でも、東京だって、格好つけるのがうまいけど、だいたい同じ。日本の同じ構造の中にいるのだから。私の慕う仲間たちは、みんなそう言って私に釘を挿したものだ。また、前にも書いたが、福岡ではお目にかからないタイプの、薄らセコイ考え(次元が低く、バレバレ)やいい歳してメディアに踊らされて浮ついた、含蓄のかけらもない人たち(ペラペラ)、狭い思考の中で勘違いして有能ぶっている人たち(頭痛がする)が多い。

そして、私は日本が好きじゃないんだという考えに達した。(←笑わないで、聞いて欲しいのだけど)ミクロ的に見ると福岡と東京では違うが、マクロ的に見るとだいたい同じ。それなら、東京で高い家賃を払ってミクロ的な差異の中で生きるより、もっと大きな変化を求めてその家賃分のお金を地元で貯める方がいいと考えた。


福岡の県民性が合わない私であるが、そのミクロ的な差異において、福岡の方が次元が低いとも限らない。全国の地方から来た人たちがしのぎを削って狭い思考の中で有能アピール合戦をしている東京。福岡よりも知性や教養、品位において上かというと、衆愚という意味では大して変わらない。東京では、たまたまその場に居合わせた人達によってつくられる、「場の空気」による攻撃・排除というのを感じる場面があった。例えば電車の中で、子連れママに対してとか。いじめの空気である。とてもびっくりして、うわぁって思った。そのママは、何も悪くないのだがやはり周りに気を遣う、すると周りは調子に乗ってその罪悪感みたいなのに漬け込んで弱い者いじめの空気をつくる。なんて野蛮な首都なんだろうと思った。東京が福岡よりも知性において上かというと決してそうではないと思った。


・また、私が好きな人たちはその特殊な場所に全国から集まってきたが、そこに集まってこない人達が全国に、福岡にも、点在している。だから、インターネットという恩恵を使って、その人たちと出会うことはできる。

・東京の部屋が気に入らない。私は自分が育った田舎の家を、とても気に入っている。玄関は快適に広く、居室空間とは独立した空間となっている、バスとトイレには窓がある、廊下がある、立地がいい、日当たりがいい、眺めがひらけていていい、静かetc)
東京の部屋は、2回も物件旅行をして選んだものだが、やはり気に入らない部分が多々あった。(2Kの間取りが玄関から筒抜けのような長方形なのがいやだった。またバス・トイレは別という絶対条件はクリアしているが、料理をする空間とバスとトイレが同じ空間というのがどうしてもいやであった。)田舎の家で快適に育った私は、この部屋が気に入っていなかった。それですごく探した結果、今の部屋って東京では、家賃の割にすごくいいんだっていう結論に至るだけで、私の出せる賃料の範囲内では、東京で私の好きな賃貸物件には巡り合えないと思った。

住空間を自分好みに創っていくのが大好きで、地元に帰れば空き家などがただ同然で手に入ることがあるかもしれない。そこを自分の好きに作り変えていくことを想像したらワクワクした。ベニシアさんみたいに。そういう幸運な可能性は、田舎では十分考えられることだが、東京では郡部とかじゃないと、まずないだろう。なんでも金、ビジネスに換算しないと話にならないのが東京である。

もし、1回目の東京生活のような、幸運が重なった状況にあれば、住む部屋や、東京の臭くてゴミゴミひしめき合った街や殺伐とした電車のことなど問題じゃなかったのかもしれない。私の注意はそんな所には向かわず、毎日歓びの中にいたと思う。電車の中ですごく嫌なことがあっても全然気にならない程。でも、今回は幸運な状況になかったので、そういうことが激しく問題となった。また幸運な出会いを待つ気力もなくなった。

・友達は少ないが、私の友達は本当の友達だけだ。うわべだけの付き合いなど、できないから。福岡にいる友達が東京にいる私に度々電話をかけてきて、泣いて「帰って来て」と言った。私が田舎に帰った時は、必ず会いに来て「帰って来て欲しい」と言う。私たちは同じ気持ちを共有している。東京で仲間を探さなくても、地元に仲間がいるからこの人達を大切に関係を続けて行こうと思った。

このような気持ちで、私は2度目の東京生活を終わりにして田舎に帰った。
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