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Aspies and ADHDes

AspieとADHDの特性があり、テキトーな医師が診断しました。(自分では、第4の発達障害ではないかと思っています)

淀んだ無意識の渦に澄んだ無意識が勝つ

2017-12-14 | 楽しい・ワクワク

意志の力よりも、圧倒的に人を動かすのは無意識である。

私は、最近このことを考える。今までの辛く苦しい経験から、感じ取ったこと。

それは、突き抜けていれば、勝つ ということ。勝つという言葉は好きじゃないから、圧倒すると言おう。

自分の中に、躊躇いや迷い、あるいは自分が好きじゃない人達の言い分 があったら、すごい勢いで漬け込まれ攻撃される。つまり例えば、これはおかしい と思っているのに、そのおかしいことを「常識」だとか「大人の分別」だとか思ってる頭の悪い人達(=自分の敵 互いの首を絞め合う人たち)の言い分 発想 を自分の中に組み入れてはいけない 余地を与えてはならないということである。それがあったら、迷いや明快さの欠如となり、即攻撃される。

自分の発想 に対して、疑ったり 遠慮したり してはいけない。

突き抜けた 迷いない 無意識は、淀んだ無意識の渦に勝つ。

confident:確信している  自信に満ちた

そんな存在になりたい。

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すごく嬉しい出来事

2017-12-10 | ピアノ・音楽・芸術

先日、ピアノがたくさんある所で色んなピアノを弾き比べるという催しがあって、私も行った。

弾いていると、ある老婦人が私のピアノを「とっても素敵なピアノを弾かれるのね」「色んな表情を出せるのね」「来てよかったわ」と言って褒めてくれた。そして私がどんな曲や作曲家が好きなのか等を聞かれ、話した。

こういう嬉しい出来事は、時々ある。ある程度お歳を召した人が、私のピアノを気に入って話しかけてくれる。「聴けてよかった」「続けなさい」と言ってくれる。私のピアノが年配者の心に響くというのではなく、ある程度歳を召して気持ちに余裕のある人か、あるいはきさくに話しかける能力がある人が、私に話しかけるのだと思う。

私は、人の心に響くピアノが弾きたい。やっぱり技術だけじゃないと思う。その人の生き方、感性が大きく物を言うと思う。私のピアノは、私にしか弾けない。誰ひとり、私と同じ 苦しみ 哀しみ 歓び 怒り 傷つき 救い 希望 を辿ってきた人はいない。自分にしか弾けないピアノが弾きたい。

それとも、すでに私は自分のピアノを弾いているのかもしれない。でもまだ確立してない。

私は色んな経験を自分の感性で味わってきたから、つらいものが多かったけど、ピアノ弾きとしてはそれがすべて無駄にならず活かされると思う。活かされるというか、私のピアノの裏付けになるだろうと思う。もうなってるのかもしれない。

聴衆の視線に晒されても、震えあがることなく、その場の振り子に無理に媚びることなく、ピアノと向き合って弾きたい。もし、その場の振り子が「こういうものだ」と期待するものと私から出てくるものが違っていても、恐れずに弾きたい。自分から出てくるものじゃないものを聴かせる方が不誠実である。これは、もう技術論や心理学ではなく生き方への問いだと思う。私の生き方が問われているのだと思う。

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自分がなにやってるかわかってない人達

2017-12-10 | モラハラに遭ってる仲間に

職場でものすごいモラハラが横行している場所にいる時に思ったこと。

その現場のボス(といっても、なんの権限も裁量権もない、ただの平だけど主任的な業務を任されている奴である)が超絶モラハラ男であった。以下、モラ男と呼ぶ。

モラ男は、「弱い」立場の人間にすさまじいモラハラ 虐め パワハラを繰り返していた。

モラ男は、人を操作するいやらしい男であった。いつも凄まじいパワハラをしているくせに、機嫌のいい時にはその相手にフレンドリーにしたり 楽しい職場を演出したりして、人々の心を操ろうとして来る。私には全てお見通しであり、彼の洗脳、操作にかかることはなかった。彼のそういう操作、懐柔(手なずけ)がつくづくいやらしくて反吐が出た。

そして、彼のでっちあげるヒエラルキー 差別 に同調する下衆な奴らが大半で、モラ男と一緒になってその虐め モラハラを担ぎ上げていた。モラハラがコミュニケーションスタイルになっていた。モラハラするな というよりも、モラハラが文化なのであった。だからそういう奴らに「モラハラするな」「パワハラするな」と言うと、そいつらは「何も言えなくなる」のである。だってあらゆる場面でのコミュニケーション型がモラハラなのだから。「何も言えなくなる」と言う奴らは、モラハラでない普通のコミュニケーションをとったことがないのである。

「弱い」「劣っている」と仕立てあげた相手を酷く虐めてくさして自分を上げる 自分の「男らしさ」優位性を誇張するというまことに幼稚で低レベルでバカ丸出しなのに、気づかないからそれをし続けるのである。

その下衆たちを見ていて思ったのが、彼らはバカすぎて、自分がやってることがなんなのか わかっていない 自覚がない ということである。本人たちはカッコつけて自己演出、印象付け 格付けに成功しているつもり でも実際には自分たちの幼稚さ レベルの低さ 醜さ 恥を露呈しているだけなのだ。

教養がなく学がないから 自分たちの行為が丸裸の赤っ恥だということに気づかないまま、得意げにし続けるのである。

この人達は、教養や学を身につけることはないから、延々とこの恥さらしをし続けるのである。

さらに、このことにも触れないといけない。このようなモラ男の行為がまかり通るのは、周りが彼以上にバカだからだということである。彼の操作 洗脳にまんまとひっかかるバカだから、モラ男が絶大な力をもってのさばり続けるのである。もし周りが、彼がなにやってるかわかってたら、彼を軽蔑し、そのやり方に乗らなければいいのである。そいつを「おかしな人」「やばい人」として締め出せばいい。私は彼のいやらしい意図はすべてお見通しであったため、彼には恐れられていた。でも、彼の操作が成功するのは、周りが彼以上にバカだからである。このことは、どうしても無視してはならない事実であろうと思う。

また自分がなにやってるか自覚がない というのは、昔の記事にも書いたけど女もそうだ。媚び諂い 立ち回り 揚げ足取り なすりつけ 自己アピール 足の引っ張り 他人のミスの強調 人を利用する 踏み台にする そういった下劣な行為をしているのに自覚がない女は、見境なく 節操なくそれを繰り返すのである。教養がないと、どんな恥なことも平気でできるのである。自分で気づいてないから。そして、自覚がないどころか、自分のことを すごく常識的で節度のある女だとさえ思ってる。

そのまま死んでくれないかなぁ 

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非定型は教える才能がある

2017-12-10 | 発達障害

「非定型発達者は教えるのが上手い」とは、よく言われている。

私も職場などで仕事を新人さんとかに教えると、「わかりやすい」とよく言われ、なにかあったら私に聞いてこられた。私になら安心して聞ける様子であった。

その共同体の文化、構造の中にどっぷり埋もれることのない非定型なのだから、これは尤もだろうと思う。

教えるのが下手な人というのはこの逆で、その構造の中からしかものを見れない視野の狭い人である。その構造の中でのみ最適化している人は、その構造自体をメタ的に捉えることができず、外部から入って来た人の状態を想像することができず、自分の見え方、自分の尺度でしか説明しないからひどくわかりにくいのである。つまり教えるのが下手な人というのは、教養がない人である。

自分のいる世界、そこでのやり方、そこでの当たり前、といった 内側からしか物を見れない人のことである。私はそういう人と接するのがとても苦手である。そういう人は、自分がバカなくせに相手をバカだという構図にしてくる。

そういう人は、自分のいる狭い枠内での文化、やり方を絶対視していて、その枠内にいない人を「劣っている」「頭が悪い」と位置づけてくるバカである。

非定型は、その中にどっぷり骨まで浸かるということはなく、いつだって他者性を持ち合わせているから、外から入って来た人に、わかるように説明するのが上手いのである。

また、非定型が教えるのが上手い別の理由として、下心がなく純粋にその人にわかること を目的にして教えるからというのがある。自分の先輩面、メンツ、優位性の確保、なめられてはいけない そういうくだらない幼稚で低レベルな劣情がなく、その人にわかることを目的にして教えるから というのも大きい。

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