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Aspies and ADHDes

AspieとADHDの特性があり、テキトーな医師が診断しました。(自分では、第4の発達障害ではないかと思っています)

現行の教育制度によって、才能をつぶされている人たちがいる

2017-01-29 | 発達障害
福岡には、福岡らしい言葉がある。

「せからしか」「しゃーしか」「こまごつゆわん」である。

この文化は、人を支配する側にとって大変都合のいいものである。

福岡は特にひどいが、日本じたいがそうである。外国人が、日本で理不尽な目に遭った時に普通に意見を言ったり訴えたりするのはよく聞く。例えば敷金の返金額が不透明だしおかしいから少額訴訟をサクッとしてとり返したり、喫茶店でほとんど氷のコーラや珈琲を出された時に苦情を言ったりである。確かに正味ほとんど氷の飲み物は、詐欺に近いと感じる。頼んでいないのに高額な水代を請求したりである。

「日本人には、理不尽なことをされても、それに対して異議を唱えるのは子供じみている、大人げない」という
価値観があるとカレル ヴァン・ウォルフレンが昔書いている。これはその通りである。
理不尽な扱いに異を唱えるのはイケてない、大人のやることじゃない という自動的なカッコつけ、見栄っ張りである。だからそれにつけこむ商売人はニンマリだ。私は居酒屋には行かない。お通しというシステムが嫌いだからだ。頼んでいないしょうもない小鉢に600円も出したくない。

エジソンは、一方的な課程を押し付けられる集団教育制度において、「せからしか」「しゃーしか」「こまごつばかり」の生徒であり先生に嫌われた。
元教師であった母親がトマス・エジソンを「頭が悪い」と言う先生に抗議に行った。そして、自分で教えることにした。そして「どうして?」としつこく探求するエジソンに科学のことを詳しく書いた本を買い与え、実験室も与え、このことが大きな影響を及ぼした。エジソンは幸運である。当時なら今よりもっと、先生というのは権威であったが、元教員の母親はそこまで先生を権威と思っていなく、担任に抗議に行った。「トマスのどこが頭が悪いのか」と。福岡によくいる母親のように、「こんばかが、先生にご迷惑かけて、すんません。」とはならない母親だった。また、エジソンの理科に対する探究心は、発明という分野で、社会の振り子にマッチした。またエジソンには、商売に対する興味とセンスも育む機会があった。

エジソンは、発達障害児に、希望の光を当てる存在として取りざたされる。モーツァルトとかイチローとかジョブズとか。でも忘れてはならないのが、それよりもっと多くの発達障害児は、現行の教育制度によって、才能を埋もれさせられているということだと思う。

疑問をもつことや、本当に自分で考えることは、要求されていない。実際は、こまごついわん人間の育成である。その子の探究心が、社会の振り子にマッチすれば「成功」することがあっても、そうでなければ、落伍者として生き続けることになるかもしれない。

道徳の授業なども、求められる答えは決まっている。空気を読めという感じで、本当に自分で考える時間ではない。私はこの手のことをさせられる時、困ってしまう。とても少ない情報の中で、その行為についてカンタンに語れないからだ。精神科でやる人格テストでも思った。これだけの情報で、何も言えない…

人柱の話とかを、まだ美談にして子供に伝える人がいる。「断ればその村で家族が生きていけなくなる、村八分」の話なのに。これを美談にする語りべの人は、考えがその時代のまま進歩していないという生き証人である。

エジソンの話だが、少年時に耳が聴こえなくなったが、本人は「雑音が聴こえなくていい」と言ったそうだ。
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間がない福岡人

2017-01-29 | 福岡が合わない
最近、福岡人に対する不快感ばかり書いている。

そうすることで、一種の処理となっている。

福岡人への不快感に共感する人も身近にいて、その人と話していて、「まさに」と思ったので記録しておく。


私が前から思っていたのは、福岡人(の多数派)には間がない ということだ。

私は、間がない人とは友達になれない。

前記事(「嘘(欺瞞)がデフォルト な福岡では、澄んだ目を持つ者は馬鹿者と位置づけられる」http://blog.goo.ne.jp/tigerlily0804/e/e63cbc6566a647b37fef28c7c47e5134)に書いた内容であるが

間がないとは、ある行為をとるかとらないかの前に選択という行為が存在するということを知らない

ということ
である。友人が当を得て、「ものさしが1つしかないからだ」と言った。

福岡人(の多数派)は、瞬間反射的に動き、それが絶対の最適な行為だと思い込んでいて、そうしない人を

「劣った者」「ばか者」と位置づけてくる
のである。


そういう、知性のない勘違いしゃしゃり女が福岡にはたくさんいる。そう、女に多いのである。

私もそういう瞬間自動反射型のしゃしゃり女から、何度も、上から目線で否定されてきたタイプである。

例えば、男の人にふつうに質問したり、こちらの情報を正確に伝えようとすると

しゃしゃり女が「コラコラ(失笑)」とか「だから(失笑)」などと言って、自動的に遮断し潰してくることは多々あった。

本当に、うざい、勘違いしゃしゃり女である。

相手が勘違い威張り男でない場合、「君こそ余計なお世話だ」という感じで私の話にふつうに対応する。
(実際、福岡には勘違い威張り男が多いのだけど…)

間がない福岡人の中にいると、呼吸がしにくく窒息感がある。

逆に、間がある人=色んなものさしの存在を知っている人、選択という行為を知っている人

と話すのはとても快適だ。
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福岡のマナーの悪さに神経が擦り減ってきた。

2017-01-25 | 福岡が合わない
国内各地に住んできましたが、福岡の民度の低さは明らかです。また、私に対しては同性の女性がひどいです。以下は、福岡の都心部での出来事です。(長文になりました)


(例1)
今日、サザン通りの狭めの歩道を歩いていると、向こうから人数の多い対向者たち(他人同士)が道を占めて歩いて来る。すれ違う時にはお互いに避け合って行きたいと不安ながら思った。男性たちは普通に避けてくれた。その中で、女子高生が狭い歩道の真ん中を歩き続け、私側に、肘をわざわざ「く」の字に立ててすれ違ってきた。福岡では、女性がバッグをわざわざ人のいる所に向けて自分の縄張りを広げるということをよくするが、その女子高生は何も持っていないのに私の側に肘を「く」の字に立ててきた。

(例2-1
駅などですれ違う時、太い柱やキオスクなどの障害物がある時に、対向者が止まらないといけなくなる歩き方をする。相手の歩行スペースを無意識で考えることをしない。

(例2-2)
二列乗車の際 ○○ | ↗| 横で並んで乗ろうとしている人の前を鋭角に通って行く。バッグや紙袋等をその人側に持ち、武器にしてその人に行かせないようにする。これも例外なく女性。

(例3)
20代後半~30代前半ぐらいの女性群が、8人ぐらい横に道いっぱいに広がって自信満々で歩いてきて、対向者に対して誰ひとり避ける気配がなく、歩道からはじき出された。これは昭和通で多々ある。

(例4)
人通りの多い歩道や交差点で、自転車が勢いをつけて暴走してくる。歩行者が止まらないと轢かれる。

(例5)

横断歩道を、→ ↑と二回渡らないといけない人達が、ショートカットするために斜め横断↗をするだけならまだ許せるが、横断歩道内を直進している人に向かって斜めにすごい勢いで歩いてきて、その人を止まらせて自分が斜めにいく。複数勢になると、ますます勢いに乗ってやる。これはいい歳したサラリーマンが平気でやる。女性も多い。せめて、直進者を遮らない場所(横断歩道の端っこ)から↗に行くとか考えないのだろうか。なぜ、横断歩道の左端から右に↗斜め横断するのか。こういう横着なやつに限って胸を張って猛進してくる。私の経験上、やたらと胸を張って歩く奴はうざい奴が多い。お前中心に回ってねーからw

(例5-2)
理不尽な行為や違反行為も、数の勢いがバッグにあると、ものすごい勢いでやって、本来なんら落ち度のない人を威圧で負かし迷惑をかける。あるいは、どちらも本来対等である場面において、対向者が1人や少数であり、自分側が多数であると、多勢を利用してまるで相手方に落ち度があるかのように威圧をして空気で脅してくる。これには、頭がもやもやして頭痛がします。

(例6)

横断歩道が余裕の青で、私は用事で急いでいて走って渡っていると、歩道脇から車が私に対して逆にアクセルを踏んできて、轢かれたくないので譲ったら前を通って行った。車が待っているのにゆっくり歩くのは歩行者優先といえ思いやりがないけれど、点滅もしていない青の歩道を走って渡って、アクセルを踏まれたのはびっくりした。


この他にもキリがない程、福岡人のマナーの悪さを経験する日々で、福岡での交通に、神経を擦り減らしています。これが普通と思っている福岡の方は理解できないと思います。自分も同類にならないと、瞬間的につけ入られ食い物にされますが、やはり、尊敬できない人と同じに身を堕すのはいやなので、どうやったらこんな中で身を立てることができるだろうと思っています。今用事で週5で行っている市内ですが、福岡人の民度の低さが凝縮されて表れる市内には、寄りつきたくありません。博多駅もひどいから絶対に寄りつきたくないし、人でごった返す祭りや週末のショッピングモールなどもです。

外国短期滞在の経験もあり、日本全体の民度は低いと思いますが、福岡の酷さは明らかに、有意差があります。
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欠けている要素を補うことが、実際はものを言う

2017-01-21 | 日記
パーソナルカラー診断というのがある。人を構成する要素から、春 夏 秋 冬タイプに大別し、それに似合う色を紹介し、より魅力的に見せようというものである。

私は春タイプとなった。肌はイエロー系の色白で、艶とコシのある真っ黒な髪で、目は透明がかった茶色で、異常に若く見え(AspieやADHDの特性)、やわらかいやさしい雰囲気だ(同性=女に攻撃されやすいなめられやすい)。オレンジ色の口紅がしっくり馴染む。春タイプで間違いなかろう。

春タイプに似合うとされる色…フレッシュでみずみずしい、明るく透明感のある色、パステルカラー、派手な色

「苦手な色は青みの強い色、濃く暗い色、くすんだ濁った色。顔色がくすんで不健康に見えがちなので、避けた方がよいでしょう。」だって。

店員がうざいので店で服を買うことはないが、昔店で買っていた時は、店員に上記のような色の服が似合うとよく言われた。オレンジとか明るい緑とか、水色とかサーモンピンクとか。ピュアでフレッシュな感じということだ。それも、確かに言える。だけど最近思うのは、私の場合、自分にすんなり似合うもの、要素にぴったり合うものを身につけるだけではだめで、欠けている要素を補うことが、実際にはとても重要だということだ。

これは、その人をつくる主な要素を生年月日から分類する占い師が言っていたことでもある。
その人曰く、水の要素を強くもつ人で火が欠けている人は、火の要素を補うことが大事だと。
(この分類占いの信ぴょう性はわからないが、補うことの重要性には同意だ)

落ち着きのない多動性のADHDは、落ち着く場所、祭壇のような碇のような不動の拠り所が特に必要なのだ。
常に流動する環境に置かれることは、常に内部で流動しているADHDにとっては最も不適切な状況だと思う。籠り感が必要。レストランや喫茶店も、オープンタイプの開放的なインテリアはとても苦手で、籠り感のあるインテリアが好きだ。びっくりドンキーのインテリアはとても好きだ。また、公共の席で集中して聴講したりしないといけない時は、途中まで脱いだコートを腰回りに包めて、巣のような籠り感を作り、集中する工夫をしている。

話が逸れたが、険がなくて子供っぽく見られてなめられやすい私のようなタイプだと、それを補う要素を取り入れることで、随分と当たりは変わってくる。人の弱みにつけ込んで格好の攻撃対象としてくる人たち(いがみ女)が多い民度の低い社会においては、やさしそう、ソフトな雰囲気の女性は、欠けているものを補うことが重要である。もし、そうでない民度の高い社会においては、そんなことはしなくていいのだが。

以前、バイト先で女達に陰湿なモラハラ攻撃をされていた時。ある日、母に「お守り」と言って貸してもらった、まあまあ大きいダイヤモンドのネックレス(60万で買ったそうだ)をして行った時の、モラハラ女達の反応は今でも覚えている。心の動きが浅ましく見て取れた。
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集団教育じたいが暴力的

2017-01-21 | 社会・教育のこと
日本は、どうして教育への予算をこんなにもケチるのだろうか。
上辺だけの綺麗事ばかり言うけれど、教育を軽んじているのは明白である。
本音は、こうだろう。一部のエリートが育てばいい。あとの多数は、ぶっちゃけ頭の良さは要らない。
ていうか、なくていい。エリートに支配される労働者になればいい。

非定型発達者は、一般的な集団教育では困難が多い。

当事者としては、やはり非定型発達者は、マンツーマンが望ましいと思う。
エジソンは公教育に全く馴染めず、教師に「頭が悪い生徒」と言われ、元教師の母が家で教えた。

非定型発達者は間違いなく、教え方や教育環境の適 不適で、著しく結果が分かれるタイプである。
だからその子に合った教育をすれば、その子は理解するし、時には抜きんでて深い理解をする。

私は、集団授業の場合、ほとんどの学習対象において、最初は抜きんでてできない劣等児である。最初から「これ、私いけるぞ!できるぞ!」と思ったのは英語だけで(なぜか英語だけは最初からスイスイ理解できた。)、それ以外はとても躓きの多い理解の遅いタイプである。でも、最後までそうかというとそうでもなく、苦難と自助努力の果てに、理解できるようになる。しばしば、周りの人よりも深い理解、解像度の高い理解ができていることもある。そして、一旦理解したら、その後は能力を発揮することも多い。

このメカニズムを少し探ってみた。

まず、非定型の特性の1つ、「スルーできない脳」が大きな要因である。「あれ?」という疑問、納得できないことを先生が言った時や何かの拍子に出くわした時、そのままスルーして先生の話を聞き続けることができない。だから一瞬で進行についていけなくなる。

また、教科書のここを見てという指示に、瞬時についていくことが困難である。たくさんの文字や解説図が載ったページの中から、指定された部分をすぐに見つけるのが困難で、人より遅い。(カクテルパーティ効果が効きにくい特性)

そして言い間違いの多い先生というのは非定型にとって最悪である。ある程度テキトーに先生の話を流している人達はそれをスルーできるが、非定型は先生の言い間違いの言葉に振り回されて、進行についていけなくなる。例えば、先生が教科書のある部分を読んでそこに注目しないといけない時に、「リバース」を「リバー」と読むなど、読み方が間違っていると、非定型はいくら探してもその言葉riverがないから当該文章を見つけることができない。(ものを見る解像度が高い脳)


本来、とても正確に物事を捉えて、緻密に進める性分の非定型でも、一方的な授業進行について行くというそもそも暴力的な状況では、同時進行でしないといけない手元の作業(書き取りや、その通りに作るなど)において小さな間違いなどが頻発する。それでその人を、不注意、雑、正確さがないと決めつけるのは誤りである。その人は今、無理な状況に置かれているから小さな間違いが頻出しているだけで、性分としてはとても正確で緻密であることは多々ある。

一方的な指示進行のもとで、その通りにやれという同時進行が不得手なだけなのだ。

私も幼少期から、先生が一方的に進行するのについて行きながら、かつ手元でその通りに作業を行うという同時進行がとても不得手であった。例えばあじさいとかえるの折り紙を作るなど。では、私は手先が不器用かというとそうとも言えない。自分で絵を描いたり何かを作ったりするのはできるからだ。私が児童期に描いた絵は、度々表彰され公に展示されたし、ピアノもコンクールのアマチュア部門で優勝した。(マンツーマン指導がよかったのかも)みんなは授業についていけるのに、いつも躓きついていけない理解の悪い私は、頭が悪いかというとそうとも言えない。英語だけはいつも1番で、私の質問に英語の先生は答えることができなかった。

不適切な方法でやらされると、著しくできないというのが的確な表現だと思う。逆に、適切な環境下では、能力を発揮するのである。このことは、すべての人に言えるのだろうが、非定型は、その影響が大きく出るということだ。天才、偉人と言われる人に発達障害の特徴がある人が多々いる一方、刑務所にも多々いる。

学習を理解することができないとは、教え方がその子に不適切だということだ。
私は、大人になって受けた講座でも、いつも通り、理解が悪い劣等者であった。(そしていつも通り、苦難と自助努力の果てに理解できるようになったのだが。)先生の教え方が、私には不適切だったのだ。言い間違いもすごく多い先生であった。私は、ある内容がどうしても理解できなくて、「もしかしてこういうことですか?」と、至ってシンプルな図に描いて先生に聞いたところ、その通りだと言った。その図は、○を5つ、↑を2つ描いただけである。

はっきりと言えることは、非定型者は、集団教育では困難が多い。
学習は、マンツーマンが望ましい。そして、その指導者は、生徒を観察して適切な方法で教えることができる賢者でないと務まらない。
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日本社会のロンパリ具合は節操がない

2017-01-08 | 社会・教育のこと
この日記には、本音を書いていて、ここのところはほとんど社会に対する怒りばかり書いている。

ロンパリが半端ない日本社会。ロンパリとは、自己矛盾の意味である。

それは教育現場や職場で顕著にみられる。

教室内の空気を支配する力をもつ立場にいる者(指導者)が、1つの強い価値観を生徒たちに押し付けると、生徒たちの中で、必ず立場の優劣が起こってきて(それは基本的に人間が簡単に心理操作され勘違いするばか、愚衆であるからだ)いじめが起こる。例えば、私が2つ前の記事で書いたような、型にはまった礼儀をクラス全体が揃うまで大声で訓練させる熱血指導者が場を支配する場合もそうだし、「どうして?」って質問をすることを悪いこと、空気読まない利口でないこととしてみなす保育士や先生のクラスでは、質問をする生徒が劣位者としての立場に置かれるし、押し付けられた型ができない人や、考えに賛成しいのでしない人も劣位に置かれる。

人を排除している犯人たちが、「みんな仲良く」「明るい教室」「いじめをなくそう」「不登校児を教室に」「ひきこもりを社会に」とか言ってる。自分のロンパリに気づいているのか。

その社会人学校の熱血指導員との個別面談の時に、「このクラスはどうか。雰囲気のいいクラスと思うか」と聞いてきた。その質問はみんなにしているのか聞くと、そうだと言った。私は、「自分の近くの一角は仲良くいい感じでやっているが、それ以外の人達とは話したことがなく、クラスの雰囲気がいいかはわからない」と言った。
本音は、こうだ。あなたが体育会系の価値観を押し付けて強制してくるせいで、クラスの雰囲気は最悪だ。
「起立!きょうつけ!礼! よろしくお願いします!! 1,2,3で 頭上げる。着席! 揃っていない 美しくない もう一回 起立!きょうつけ… … …(繰り返す) 揃ってきた もう一回」
この押し付け教育のせいで、クラス内に1つの価値基準ができて、それに優秀に見合うようにみんなやって、それに見合わない人を劣位者とみなし安易にいじめに走る雰囲気が一部ある。
私は、みんなが揃って同じ動きをするのを美しいと思わない ばかみたいと思う

すると、その体育会系のキャリアコンサルタントは、「みんな雰囲気がいいと言っているんですよ」と言った。「あ、そうなんですか。」雰囲気がいいと言えという強迫的な感じであった。その男性は、クラスの雰囲気がいいという評価を多大に期待しているらしい。私はこのクラスの雰囲気はいいどころか、最悪だと感じている。「私は、雰囲気がいいクラスというものを他で経験したことがある。」と言っておいた。

私が雰囲気がいいと思うクラスは

個人の考えやスタンスを尊重する空気があり、いかなる価値観も、その場を支配していないので立場に強弱
や優劣が生じないクラスである。そのようなクラスにおいては、圧迫感や窒息感がなくリラックスした温かい空気がある。誰も、1つの価値基準に見合うことに必死にならなくていいのでいじめも起こりにくい。
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自分と共鳴する振り子に乗る

2017-01-08 | 社会・教育のこと
「成功者」について、その人の努力とか人となりとかを美談にする話はあふれている。

でも、そんなのはまやかしだ。

人が「成功」するかしないかは、努力や勉強や人となりや実力なんかじゃない。
振り子に合致するかどうかだ。振り子はたくさんあるから、その中で、自分に合致する振り子に乗るかどうかだ。

例えば東京だと銀座、新橋、白金、広尾、渋谷、駒場、下北沢、本郷、上野、神保町、高円寺 などその街ごとに、そこで覇権をもつ価値観みたいなのがある。その土地の雰囲気みたいなの。そういうのが東京ではわりとはっきりと出ている。(それもどうかと思うのだが…すぐに、空気を笠に調子に乗る人々)

私は接客業であるが、喫茶店が大好きでよく行って、ここで自分が働けるかをイメージしてみる。
あるお店では、絶対ここで働きたくないしもし働いてもいいことないと感じたり、あるお店ではバイト募集の貼り紙していて、私応募したらすぐ受かるしここでだときっととてもいいだろう と感じたりする。それは、そこに流れている振り子に自分の要素が合うかどうかだ。

芸能人などは、大きな振り子の寵児となる人たちが「成功」する。

「引き算メイク」でその人の美しさを表現する優秀なメイクのプロがいたが、売れなかった。だって、彼のやっていることは、余計なものは要らないってことで、巨大な振り子たちの目的に合わないから。私も化粧はたまにする。若い頃シャドウやライナーなど色々な化粧品を買ってより美しくなろうとした結果、辿り着いた答えがある。私の場合の話であるが、ある一定ラインを越えたら、元よりも悪くなる。そしてその損益分岐ラインは意外と早い段階でくる。私の場合、ベースの肌化粧はしないより少しはした方がきれい→唇に美容液リップをした方がしないよりきれい(口紅ではなく美容液リップがきれい)→マスカラは私は少しした方がきれいと思うがしなくてもいい。べっぴんさんやでと言われたのはすべて、マスカラをしていない時である
以上で、損益分岐ラインに達する。これを超えたら、より悪くなる。シャドウもチークも、ライナーも、買ってはみたが、これらをすると元より悪くなる。そういうことを、例の引き算メイクの人はして大変その効果は優れていたのに、メディアからは消えている。

人類の資源にとって画期的な発明をした科学者も、殺された。新しいエネルギーを世界に広げようとしたベンチャー企業がつぶされた。人類にとって、画期的なことを発見したって巨大な振り子がそれを気に入らなかったら抹殺される。逆に、人となりが最悪で頭も悪くて無能でも、巨大な振り子にとって都合がよければそいつは「成功」する。

私は、自分の要素と共鳴する振り子になら、歓んで乗る。
それはきっと、今は小さな振り子だけど。



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1つの価値観で支配するクラスでは、必ず立場の優劣が起こってくる

2017-01-07 | 社会・教育のこと
「起立!きょうつけ!礼!着席!」

しかも、たまに来る、「キャリアコンサルタント」の男性の熱血指導で、
礼! (大きな声で)よろしくお願いします!! 1、2、3で顔上げる というばかみたいなやり方を押し付けられていた。「揃っていない 美しくない」と言って何回も練習させられ「揃ってきた」などと言っていた。そのばかみたいな大声訓練以降、毎回の授業開始時・終了時にはそれをクラスのみんなが実行した。私は起立と礼と着席にはしぶしぶ従ってきたが、それ以外のことはやらなかった。そもそも他の生徒の人に「起立!きょうつけ!(←まま)礼!着席!」と言われる道理がないのは前述の通りであるから、大変いやいややっていた。

私の通路挟んで隣の女性は、そんな私が、できないのではなくてしない という選択をしていることがわからず、毎回自分が「社会人としての美しい礼儀」を完璧にできる「良識人」であることを横目でアピールしながらあてつけてきて、この上なく鬱陶しかった。
日直で号令をかけさせられる時には、私は授業終了時には「着席」とは言わなかった。これは現実に即しても、論理に照らしても、全く意味のない号令であるからだ。日直が「着席」と言っても、トイレに行ったりジュースを買いに行ったり、昼休みで外に食べに行ったりして着席しない人が半分ぐらいであった。そう、わざわざその前に一旦着席をしたりしないだろう。だから私は不要な「着席」を言わなかった。すると、その隣の「常識」アピール女が、率先してわざと立ったままで戸惑ってみせて、「号令もかけられない」私を失笑してきた。
ばかにしているつもりのようで、ばかとしか言いようがない。号令をかけられないと、授業が終わっても、その場に立ったままでい続けるのか。

私以外にも、不要な「着席」を言わない日直はいたが、その女性は私にやたらとあてつけ、嫌がらせをしてきて、攻撃材料となることはすかさず利用する人であった。
自分の考えで行動を選択していることも、その人には思いが及ばす自動的に「できていない」劣等者と位置づけられた。この女性には、自分の選択というものが行動の前に存在するということが、想像できないらしく、みんながやることをしない=できない人 と見なす人であった。


一つの強い価値観が支配する教室では、立場の優劣が出来てくる。優劣と自動的に位置づける人達がばか者であることは自明のことであるが、この現象は必ず起きてくる。私のように、その強い価値観の通りに行動しない者が、劣った者とみなされる。一方的に一つの価値観を押し付けてくる指導者は、その弊害を自覚するべきだ。そんなことをしている一方で、いじめのない明るいクラスをとかロンパったことを言わないで欲しい。

考え方やスタンスの多様性を尊重する空気が教室内である場合(それは知性と教養ある指導者のいる教室である)、この安易な優劣の位置づけは起こらない。

職場でもそうで、一つの強い価値観が支配する職場では、安易な優劣意識が起こってくる。再三言うが、それをもつ者が、すぐにその場の強い価値観にまかれ、たやすく心理操作され勘違いするばか者である。でも、現実はそれが現象として必ず起こる。
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礼を強制する日本社会は、まさに礼儀を欠いている

2017-01-07 | 社会・教育のこと
ここでは、本音を書いている。
私は日本という国が嫌い。

礼儀の強制は、保育園、小学校、中学校、高校、ひいては公共職業訓練などの社会人学校、さらに会社で行われてる。

「起立!気を付け!礼!着席!」と日直の生徒に言わせる。野蛮な国、日本。

先生への敬意や感謝は、人それぞれがもったりもたなかったりするもので、制度によって強制されるものではない。授業開始終了のけじめと言うが、それにこの礼の強制をあてがう必然性はない。けじめが欲しいなら、音などでつけたらいい。木槌とかで。飼い馴らされて来た人たちが、「起立!きょうつけ!礼!着席!」がないとけじめがつかない思うほどに髄まで飼い馴らされ続けているのであって、けじめがつかないのはあなたがでしょうと思う。調子が狂うと言うが、今までやってたのを変える時に多少の戸惑いが生じるのは当然で、別のやり方が定着してきたら、それが調子となる。

先生を尊敬することや感謝することはある。でもその気持ちの表現を、誰にも強制されたくないし、そんなことをしていい道理はない。号令により、一つの型を強制することは、明らかに人の領域を侵害している。また、日直である生徒が他の同じ立場のクラスメイトたちに、号令をかけて型を強制するのもおかしい。他の生徒に指示される道理はない。
【号令】
1. 《名・ス自》支配者や指揮者が、統率する者に命令・指図(さしず)をすること。
2. 《名》指揮者が、一定の型に従って発する、ある動作をさせるための言葉。

おかしなことが当たり前にまかり通る野蛮な国、日本。

また、礼儀の大切さを説いてこのやり方を押し付けてくる人達こそが、一番礼儀を欠いている人達だ。礼儀の型を強制してくる人達は、人の、尊敬や感謝の気持ちに対して、それこそ無礼をはたらいている。そんなことをしなくても、私は尊敬する相手はするし、感謝もする。私の表現でやる。そしてそれは相手には伝わるものだ。型を押し付けて礼儀の大切さを説く人達は、本当には、人の礼儀や感謝の気持ちを信じていないし尊重もしていない。虚礼を押し付けてくる人達こそが、礼儀を行っていない。これが、私の一番不快なことだ。人に礼儀を説教する前に、自分の礼儀を見直したらどうなんだ。
forceによって人を動かそうとしてくる人たちは、人間への不信、軽視が前提にある。
私は、尊敬や感謝は自分でできる。それは自分で決めることであり、人に押し付けられることではない。
ましてや、なぜクラスメイトから「起立!きょうつけ!礼!着席!」と指令されないといけないのか。

私は大人になって少しの期間通った社会人の通う学校で、自分がされて嫌なことだから、号令はかけたくない と言った。この行為は、私の考えに反することで、最も私に不向きで、不似合な行為で、苦痛で仕方がない。
すると学校運営責任者が話を聞いてくれて、私は自分の考えを言った。人に命令をしたくないしされたくもないとも言った。失礼だから。するとその責任者は、命令とは、私がそう認識しているだけだと言った。「命令じゃないんですか。」「…号令をかけられた人達に選択肢はあるんですか。」「…じゃあ、私は従うのは遠慮しときます。」と言うと、それはだめとのことで。自滅してた。令って、命令だから。相手には判断や選択の余地はない。それなのに、私の認識の問題だとは、詭弁そのものだ。

結局、1日の講座の始まりと終わり時にだけ起立・礼とし、それ以外は座礼となった。1日10回分の無駄な起立・着席が省けるようになった。私は、そもそも人に礼儀を強制すること、それも同じ生徒が他の生徒に命令することはおかしいと思うが、従来よりマシになったので、いやいや号令をかけた。責任者は「抜本的に変えると、他の生徒さんが「起立をすべきだ!」と主張する可能性があるから」と言った。それなら、その人に言えばいいのに。礼儀を人に強制するそのことが、礼を踏みにじっているから、やめようって。
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