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ローバは一日にしてならず

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生き方を自問自答しながらこれから楽しく

ローバは一日にしてならず パートⅤ

2014-07-11 13:00:08 | 老後
終戦の知らせ

長引く戦争に竹槍や防火のバケツリレーなどの教練や動員も頻繁になり
表向きは勝利を疑わないものの「この戦争はどうなるのか」といった不安が
ささやかれていた時でした。 もし万が一、日本が負けるようなことにでもなったら
「殺される前に唐笠のダムへ飛び込まねばならない・・・」と半ば本気で話していた。
20年の8月、その日もお勝手で昼の支度をしながら、といってもご飯が食べられる
わけでもなく毎度毎度のサツマイモでも蒸かしながら、ラジオを聞いていたのだろうと
思います。 いよいよ正午になり、天皇の声に接したのは初めてでした。
ラジオの状態も良好とは言えず何を言っているのか判然とせず、かろうじて「どうやら
戦争は終ったらしい」負けたようだと解った時、無いよりもこれでお産の時電灯が
気兼ねなく使えると思った、うれしいというものでした。

周囲に支えられて

当時の家庭分娩と産婆としての私の行動を大まかに記します。

お産に頼まれると、前もって産家を訪ねてボロの煮沸や、下準備の指導を家族と一緒に
準備して、これこれの状態になったら呼びに来てくれるよう言い置いて戻る。
お産が迫ると家の人が呼びに来たり、電話をくれるので出かけます、中には着いたら
生まれて居たり、ぎゃくになかなかうまれず、遠方の方などはとまりがけになることも
少なくありません。

ある日曜日、朝から産後訪問で何軒もまわって、夕方帰宅すると、長女が綿入れの着物を
血だらけにして遊んでいます、水を飲みに行って転んだ拍子に、割れた茶碗のかけらで
口元を怪我したらしい、父親もたまたま休みで畑仕事、子守りは長男に委ねられていた。
S.医者に連れて行き縫ってもらって事なきを得ましたが、男の子3人の次にやっと生まれた
女の子だったので、長女の事をことのほかかわいがっていた父親に長男がこっぴどく怒られ
私が帰った時、長男はいたたまれず、本家に逃げ込んでいたということもありました。
留守番がいると思って、出歩いていた時に起きたことなので、長男にも、長女にも気の毒な思いをさせたと今でも心に残っています。




ローバは一日にしてならず…パートⅣ

2014-07-11 09:03:53 | 老後
自分史から抜粋 お読みくださる方にお願い、ローバの根源 に遡ってからどうぞ

産めよ殖やせよの時代に自分でも子供を4人産み育て
留守になるときは、近所のおばさんを頼み、次男が生まれるころからは
お手伝いのおばさんを住み込みでお願いした。 昭和15年からお米が配給制度となり
田舎とはいえ自分たちの食糧さえ手に入れるのが困難になってきた。 お手伝いさんに辞めてもらった。
末の子のお産の後は5日目からお産に歩く忙しさで、子供たちが学校に行くようになって
主人が局の宿直で留守の時など、お産の迎えに来た方に「私が支度をしている間に加美の
おばさんをお願いしてきてください」と声掛け出かけると、おばさんは子供たちに朝食を
たべさせて学校に出してくれた。 これも有難いことでした。

戦争の影は平和な村にも押し寄せ農家の次男三男は早々に、また跡取りや戸主にも赤紙が届くようになって
役場では毎週のように出征兵士の壮行会が開かれるようになり、幸か不幸か主人は目が悪かったので兵役は逃れた。
彼にとってはそれがまた重荷のようでもあった。
局長代理として近代化されていく業務や組織に向き合っていたようです。
この頃村に電話が敷かれはじめ、当初は郵便局が接続や交換業務を代行していた。
昼間は職員が交換手を務めていましたが、宿直の時などは主人が電話交換の作業をしていた。
戦時中は国の政策もあって、産婆などは優先的に電話が引けた。 局が1番、役場が2番
私のところがS.局の3番でしたが、産気には電話のない家が多く、昼夜を分かたずご主人が迎えにくる。

戦時中の物資不足は深刻でした。 妊娠したと解ると、妊娠証明書いて役場に届けます。
すると、役場から衛生綿(脱脂綿)を500gほどと消毒液など、又日本産婆会から消毒薬の配給が有りましたが
絶対量の不足は闇物資で埋め合わせなければなりません。
だいたい予定日前には産家を訪れ、お産に使えそうなボロをありったけ出してもらって鍋や釜で煮て
消毒してお産に備えたものです。
一番困ったのは灯火管制でした、昼間のお産であれば何ともないのですが、お産は時を選びません。
月のない夜道を産家に急ぐ最中に空襲警報が鳴って灯火管制になると、村から一斉に明かりが消えます。
空襲警報発令中ですので懐中電灯や提灯も使うわけにはいきません。 そうかといってお産は待ってくれません
漆黒の闇の中四つん這いになり、地面のデコボコを頼りに手探りで道を探すようなことも何度かありました。

また産家に居ても灯火管制になると困りました。 テレビなどでは良く電灯の傘に黒布を被せる場面が登場しますが
お産では一部分の明かりというわけにもいかず、部屋は明るくしたまま、その灯りが外に漏れないように気を使いました。
さらに戦争がはげしくなると、今度はたびたび停電になるようになり、ろうそくは必需品でした。
なかには途中で停電、ろうそくの用意もなくアカシ(松の根)を燃やして夜中のお産を済ませたこともありました。
疲れて一眠り、明るくなって起きだしてやれやれと周りの人の顔を見ると目の周りやおでこに煤が付いて、みんな
ポンポコタヌキみたいに真っ黒になっていて大笑いしたこともありました。

私(kokoro)が物心ついた頃に覚えていることは、母が出かけ時、提灯にろうそくが無く、兄がそっと見つけてきて
マッチをするが、なかなか点かない、ろうそくの芯をピンセットで起こしてつけていた記憶

ローバは一日にしてならず…パートⅢ

2014-07-10 09:51:41 | 老後
母の生きてきた道を自分史から続きます(抜粋)

結婚・産婆開業

東京でお産の器具を購入、確か70円と記憶している。
昭和12年4月20日結婚式は飯田市で、披露宴を自宅で行う。
新婚旅行は天竜峡、新居での生活が始まった。
その頃、風呂が無く、外に桶を置いて、竹のササが落ちてきたとも
その内にタイルで作ったのが珍しく、近所の方々が入りにも来た。

自分のつわりが始まったが、お産に呼ばれれば、自分のつわりがどうのと
言っておれない。 初めて行った家の名前、と順追って記載有り。

お産一件5円くらいが相場だった中には3円という家庭もあった。
当時米一斗(約15㎏)は楽に買えたような記憶あり。
時代は「産めよ、殖やせよ」の時、忙しくなった。
道路はデコボコ、外灯もない山道や田圃道でもなるべく近道を選び
産婦の待つ家へ急ぐ、足には自信が有った、自分のお産もまじかになっていたが
それでも何とか熟した。
自分の陣痛が始まり産婆をお願いしてあったが、他家へ行って留守、近くの学校の先生の奥さんが
産婆の資格を持っているという話を聞き、急遽お願いした。
午後9時10分長男誕生(700匁…約2700g)
ところが3日目から産褥熱で39℃、近くの医者が注射をしてくれても下がらず
飯田からT.産婦人科医をお願いして、兄からの輸血を受けてようやく平熱に戻った。
その往診治療費が記述支払いが大変で何方かに立て替えてもらったとか。





体のバランス

2014-07-03 17:25:51 | 老後







ハスの花が咲き始めたかな?
雨が降れば・・・と思えば、日本列島、50年ぶりの雨量が記録されたともニュースが流れる。

ハスの写真を撮りに行って、昨年までは何ともなく土手が歩けたのに
カメラを持って、三脚、足が交互に出ない! ふらつきバランスの乱れを感じた。
池にはまらずに帰宅した。

最近血圧が乱高下している。

会合から帰っても目まいがして、天井が回りだした!
このままだと・・・時間がなくて夕飯前でいったからかな?
血圧177/95・しばらくして144/81・・・寝るよりほかない
階段もこれじゃ登れない。

母の自分史を書き込み始めて70年前を書き込み疲れた。
少しお休みします。

ローバは・・・2

2014-07-02 09:23:18 | 老後

昭和9年

兄弟が別れ別れになっていたのを、探し当てて、18年ぶりに遭えた。

翌10年(21歳)
兄の結婚を機に、田舎に帰り、叔父の家に泊まった事、祝言が終わっても
G.の寺に居た、兄がしきりにとどまることを奨め、I.産婆さんへ断りの手紙も書いてくれた。
母方の祖母を連れてきていたが1か月余りで、叔母の家に送り届け、何処かで職をとお願いしておいた。
在原町のK.産婆さんに紹介され4月から働くこととなった。
そこのご主人(名前も記入あり)以前は魚河岸に勤めていた、家では珍しい魚を仕入れ食べさせてくれた
月にお産は10件くらいあって、一つのお産の費用が10円から12円、入所する人もいた。
ご主人が丸の内の東京会館に勤めるようになって、残り物のウナギ、デニッシュなど珍しいものを持ち帰り食べた記憶もある
昭和11年2月26日世を騒がせた陸軍の皇道派に属する青年将校たちのクーデターの時、出勤して行ったはずの
ご主人が「大事だ!」と帰って来たことを印象深く覚えて居る。

兄嫁の臨月で呼び戻されたが、お見合いの準備も進められていて相手は25歳、
自分も適齢期とお見合いの様子も細かく記述有ります。 良く覚えていたものだ

夕方寺に帰ると初めての産婆の仕事兄嫁の子を・・・準備も進めて夜中750匁(約2,700g)
翌朝無事に男の子が生まれたことを知らせるべく郵便局まで行って、兄嫁の実家の郵便局に
取次、言伝を依頼したが、見舞いに来た時持ってきた着物が、女の子用の物
居合わせた皆がびっくり、原因を辿ると、「今まで女だったで、また女ずら」と言伝をしたとか
このころは電話などは少なく取次が多かった。

次兄が、休みの日には東京案内を兼ねての祭りなどに連れて行ってくれた
日蓮宗大本山池上本門寺万灯供養に誘ってくれた日の事、祭りから帰ると
K.先生の陣痛が始まり、女の子が生まれた。

k.先生がお産して12日目、初産の依頼が有り先生の代わりに、行くように言われ全てを任された。
はじめてのお産であった、 自然に生まれてやれやれと思っていたがお腹の割には赤ん坊が小さい
もしかして双子ではないか・・・と思うより先に足がガタガタ震えだした、初めて任されたお産が
双生児とは。 
産後一週間くらいは毎日母親の様子を見に、赤ん坊の沐浴にも通いました、なかなか臍落が無く
帰って先生に言うと、「それは、臍落と同じに死亡するかも」と言います、なんだか淋しい気がします
二週間ほどで取れたのですが、それでも無事に育つか心配でした、一年ほど過ぎて近所まで行くことが
あったのでちょっと気になって寄ってみたら、二人ともかわいくなって、障子につかまって伝い歩きをしていた、
下二段はぼろぼろになった障子を見ながら、あ~良かったな~と胸をなでおろした。

産婆の仕事でなくても乳房の手入れや、搾乳などはいつの間にか、先生に負けないほど上手になっていて
先生よりお弟子さんをよこしてくれと言う産婦も現れた。 いろいろ経験談kが書かれている中に
お産の迷信などいろいろ面白い話が掛かれている・・・。
あれこれ縁談が持ち上がり田舎に帰らなくても東京で結婚してと見合い相手の話を持って来てくれた。
田舎からは、分家で、勤め人だし、家も建ててくれる・・・と条件を出され、助産婦がいなくなる
ということで、「それならば・・・」と答えたものの、何度か手紙のやり取りはして
半年もそのままで、あちこちから催促が有り、結婚することになった。
昭和11年3月暇をもらって田舎に帰る。