ローバは一日にしてならず

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ローバは一日にしてならず…パートⅣ

2014-07-11 09:03:53 | 老後
自分史から抜粋 お読みくださる方にお願い、ローバの根源 に遡ってからどうぞ

産めよ殖やせよの時代に自分でも子供を4人産み育て
留守になるときは、近所のおばさんを頼み、次男が生まれるころからは
お手伝いのおばさんを住み込みでお願いした。 昭和15年からお米が配給制度となり
田舎とはいえ自分たちの食糧さえ手に入れるのが困難になってきた。 お手伝いさんに辞めてもらった。
末の子のお産の後は5日目からお産に歩く忙しさで、子供たちが学校に行くようになって
主人が局の宿直で留守の時など、お産の迎えに来た方に「私が支度をしている間に加美の
おばさんをお願いしてきてください」と声掛け出かけると、おばさんは子供たちに朝食を
たべさせて学校に出してくれた。 これも有難いことでした。

戦争の影は平和な村にも押し寄せ農家の次男三男は早々に、また跡取りや戸主にも赤紙が届くようになって
役場では毎週のように出征兵士の壮行会が開かれるようになり、幸か不幸か主人は目が悪かったので兵役は逃れた。
彼にとってはそれがまた重荷のようでもあった。
局長代理として近代化されていく業務や組織に向き合っていたようです。
この頃村に電話が敷かれはじめ、当初は郵便局が接続や交換業務を代行していた。
昼間は職員が交換手を務めていましたが、宿直の時などは主人が電話交換の作業をしていた。
戦時中は国の政策もあって、産婆などは優先的に電話が引けた。 局が1番、役場が2番
私のところがS.局の3番でしたが、産気には電話のない家が多く、昼夜を分かたずご主人が迎えにくる。

戦時中の物資不足は深刻でした。 妊娠したと解ると、妊娠証明書いて役場に届けます。
すると、役場から衛生綿(脱脂綿)を500gほどと消毒液など、又日本産婆会から消毒薬の配給が有りましたが
絶対量の不足は闇物資で埋め合わせなければなりません。
だいたい予定日前には産家を訪れ、お産に使えそうなボロをありったけ出してもらって鍋や釜で煮て
消毒してお産に備えたものです。
一番困ったのは灯火管制でした、昼間のお産であれば何ともないのですが、お産は時を選びません。
月のない夜道を産家に急ぐ最中に空襲警報が鳴って灯火管制になると、村から一斉に明かりが消えます。
空襲警報発令中ですので懐中電灯や提灯も使うわけにはいきません。 そうかといってお産は待ってくれません
漆黒の闇の中四つん這いになり、地面のデコボコを頼りに手探りで道を探すようなことも何度かありました。

また産家に居ても灯火管制になると困りました。 テレビなどでは良く電灯の傘に黒布を被せる場面が登場しますが
お産では一部分の明かりというわけにもいかず、部屋は明るくしたまま、その灯りが外に漏れないように気を使いました。
さらに戦争がはげしくなると、今度はたびたび停電になるようになり、ろうそくは必需品でした。
なかには途中で停電、ろうそくの用意もなくアカシ(松の根)を燃やして夜中のお産を済ませたこともありました。
疲れて一眠り、明るくなって起きだしてやれやれと周りの人の顔を見ると目の周りやおでこに煤が付いて、みんな
ポンポコタヌキみたいに真っ黒になっていて大笑いしたこともありました。

私(kokoro)が物心ついた頃に覚えていることは、母が出かけ時、提灯にろうそくが無く、兄がそっと見つけてきて
マッチをするが、なかなか点かない、ろうそくの芯をピンセットで起こしてつけていた記憶

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