意思による楽観のための読書日記

空海の風景(下) 司馬遼太郎 ****

司馬遼太郎は空海を次のようにいっている。「空海以前にも空海以降にも日本に思想家、仏家は多いが、日本におけるその生きた時代の日本的条件における人物であり、空海だけが人類的普遍的時代を超越した存在である。空海の存在は、この国の社会と歴史の中で、よほど珍奇なものであったことがわかる」と。空海は「朝廷も天皇も所詮は日本という小さな国の中での存在であり、空海が会得した人類共通の原理の前には王も民もなく、天竺にいようが、長安にうが真理は一つであると。遣唐使のメンバーとして長安に滞在し、当地随一の僧である恵果から密教の秘伝と曼陀羅を授かってきた。恵果には1000人を超える弟子がすでにいたのだが、その弟子たちよりも空海に密教の奥義を恵果は伝えることにしたというのだ。恵果は空海に奥義を伝えた後に死んでる。死を前にして日本からきた天才僧空海を見いだし、その天才に感激して急いで密教の秘伝を伝えたという。恵果の師は西域からきた不空であり、仏教という宗教は非常に国際感覚あふれる伝道をしていることが分かる。恵果にとってみれば、この教えを日本にいる人々に伝えてほしい、よろしく頼むということだったのかもしれないが、それにしても空海の能力は高く買われたものである。

空海の風景、というタイトルである。中身は人物伝のような小説でもあり、書き物や歴史書が限られた時代の人物が対象であるので、筆者の作り出した部分も多いのだろう。空海がみたかもしれない風景を、生まれた場所である讃岐から、修行で歩いた室戸岬、高野山、京都の高雄山寺などを筆者も巡り歩いて見た。空海には空白の時代が多く、その空白の時にはどこにいて何を考えていたのか、それを筆者は想像して書いている。遣唐使から帰国して、筑紫野に1年以上とどまり、すぐには京都に戻らなかった、それはなぜか。空海は先に帰っていた最澄の天台密教が時の天皇に高く評価されるのを伝え聞いて、それは本物ではないと思ったのだろうという。しかし、今すぐに京都に行くことをしていない。時間をかけて、自分が持ち帰った真言密教こそが本物でることが、最澄にはわかるはず、と持ち帰った経文の目録を朝廷には送って反応を見ていたのだという。実際、後に空海が京都高雄山寺入った際には、最澄は空海に経文を借りて写経をしている。最澄こそが空海が持ち帰った真言密教の価値を知っていたのだ。数年のあいだ、最澄は空海と手紙のやりとりをし、空海からの教えを請うたという。空海はしかし、数年後最澄に縁切りを意味する手紙を書く。写経、経文を読んでも密教を学ぶことはできない、という理由からである。

空海は、東大寺別当に若くして任ぜられ、東寺の建立、綜芸種智院の設立をしている。最後は高野山で死ぬのだが、帰国後に残した建築物、曼陀羅、著作物、そして仏教を日本の統治の仕組みに取り込んだことは偉大な事業であったという。空海の見た風景を、その後の日本人で見たものはいなかった、という気がする。
空海の風景〈下〉 (中公文庫)
空海の風景〈上〉 (中公文庫)
『空海の風景』を旅する (中公文庫)

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