意思による楽観のための読書日記

一外交官の見た明治維新(下) アーネスト・サトウ *****

下巻は明治維新を挟んでの数年のこと、日本に滞在していた英国外交官が当時日本を変革していた当事者の日本人達と情報交換し議論した、その内容を率直に書いているので面白い。特に、飾りのない表現、という点がポイントで、太平洋戦争前にはほとんどの部分が黒塗りされた状態だったというのも頷ける。例えば、サトウがハリー・パークス公使と会津、桑名の両大名と会談した模様。

「会津は年の頃32歳くらい、中背で痩せており、カギ鼻の色の浅黒い人物だった。桑名は一見24歳くらい、あばた顔の体の小さい醜い青年だった。」

英国の通訳の若者に日本の大名がなぜこんな風に描写されなくてはならないのか、と戦争中の日本人なら憤慨したことだろう。伊達の殿様が外国諸代表に1864年に都落ちした5名の公卿の一人、沢主水正(モンドノカミ)を紹介する場面。

「沢は悪党面、とまでは言わぬが相当な面構えで、それでいて人を引きつける良いところがあった。1、2年後には外務卿になったときには私たちはこの人物が大好きになった」

つまりけなしているのではなく、思ったことをそのまま書いているだけなのだ。さらに、

「大村丹後守(タンゴノカミ)は虚弱な病身くさい男で、会見中に一言も口をきかず、外国人と話すのを怖がっている様子に見えた。沢の子息で女子のように色白な道楽者らしい青年も一緒だった。」

京都で天皇と接見したときの記述。
「謁見の次第を次のように取り決めた。陛下のおっしゃる言葉を文書にして陛下がまずそれをご覧になる。次いで、それは陛下の手から山階宮に渡され、宮がそれを読み上げて伊藤(博文)に渡す。伊藤がそれを翻訳してハリー卿に渡す。それからハリー卿が通訳の伊藤を通じて口頭で天皇に答辞を述べる」
これは天皇はこれまで皇居内の人々以外とは誰とも話をしたことがなかったためである。10日前に初めて諸大名に謁見した、というタイミングでの謁見をしたということ、なかなか貴重な経験だったであろう。そして謁見を許されたのはハリー卿ではなくミットフォードであり、理由はイギリス本国で宮廷に伺候した経歴があるためであった。

ミットフォードの日記にも記されていたことだが、ハリー卿と一緒に知恩院から皇居(京都御所)に向かう途中、二人の暴漢に襲撃された。この時に命をかけてこれらの英国人達を守ったのが、同行していた薩摩藩士の中井弘蔵、土佐藩士の後藤象二郎であった。こうした事件もあり、この二人は英国外交官達から厚い信頼を寄せられている。後藤象二郎の船中八策は、サトウやパークスらとの議論から知識や情報を得た結果のアウトプットであり、日本の歴史にはあまり表面化して出てこない、こうした外交官達によるガイダンスが相当程度あったのだろうと想像できる。また、サトウは1895年にも来朝、日本語が堪能であり、日本人の考え方や伝統文化にも造詣が深いため、丁度三国干渉の時であり国際情勢の分析や日本へのかずかすのアドバイスをしたと思われる。また、その後の日英同盟締結にも大きな力を発揮したのではないだろうか。

大政奉還後英国政府が正式に天皇を日本国の元首として認めるという儀式の際の天皇とハリー卿などとの記述。
「ハリー卿が進み出て女王陛下の書翰を天皇に捧げた。天皇は恥ずかしがっておずおずしているように見えた。そこで山階宮の手を煩わさなければならなかった。陛下は自分の述べる言葉が思い出せず、左手の人から一言聞いてどうやら最初の一節を発音することができた。すると伊藤は前もって用意しておいた全部の言葉を翻訳したものを読み上げた」
「翌日、祝いの席で長州候は大きい赤ん坊のように振る舞って、私を隣席へ座らせようとして聞かなかった。日本の諸侯はばかだが、わざわざ馬鹿になるように教育されてきたわけだから、責めるのは無理だという気がした。天皇の母方の叔父の子息は、ヨーロッパの猫がみたいとせがみ、また一人の大官は二グロが見たいと言い出したので、私たちはこれらの希望をかなえてやるのに苦労した」
なんとも、これでは真っ黒に塗りつぶされてしまうのも頷ける。

「中井を訪ねると、井上石見というすこぶる愉快な薩摩人がきていた。私はかれとかなり遠慮なしに各方面の人物の品定めをした。東久世は身分はよいがヨーロッパ使節として派遣される最上の代表的人物ではない、伊達か岩倉、それとも肥前の閑痩(カンソー)あたりが適正だと私は考えていた。」ヨーロッパ使節団の人選にまでコメントをしていたことが分かる。

勝海舟からは水戸藩の動き、についてレクチャーを受けている。これは外国人にとって謎であった水戸の政争についてであった。
「水戸の老公斉昭は耳が遠いので社交を嫌い全国を歩き回った。質素倹約の習慣はこの時からである。水戸光圀は古来の京都政治を支持する尊皇論を唱えていた。斉昭は軍隊教練、勤王攘夷、ヨーロッパ科学の導入を進めた。1858年には将軍家定が没したが、水戸老公は自分の第七子に将軍職を継がせたかった。井伊掃部頭(カモンノカミ)がこのころ勢力を持ち、斉昭を隠居させ越前(松平慶永)、土佐(山内容堂)、宇和島(伊達宗城)を隠居させた。水戸藩士が井伊を暗殺した背景である。当時は薩摩と長州が京都の政策に呼応して攘夷の思想を鼓舞していた。水戸の天狗連は両国と結んだが、将軍に軍隊に撃滅された。」
かなりの日本の情報を数多くの日本人達から得ていたことが分かる話である。

岩倉がイギリス公使に対して述べた見解。
「天皇は二千有余年の昔からこの国を統治しているが、将軍はまだ七〇〇年も経ていない制度である。国家の権力は将軍が持ち、一八五三年にペリーが来たときには将軍の権威はまだ安泰であったが、その時天皇は攘夷の政策を表明した。その結果国内に擾乱が生じ、将軍の権力維持ができなくなった。孝明天皇と家茂が没し、徳川慶喜が後継となったが、彼は有能であったので天皇を上に頂く政府が絶対に必要であることをよく理解することができた。その後、天皇の政府は外国人への政策を一変し、条約諸外国との国際関係を築いたのである。商業的な関係だけではなく、ヨーロッパ諸国の文明国同士に存在する関係になることを希望する」

なんとも、ナイーブな表明であるが、英国外交団はこのような日本国の誕生を暖かく見守ったことが良く伝わって来るではないか。サトウは一八六二年に来日、一八六九年に帰国、その後一八七〇年に再来日、一八八三年に帰国、一八九五年には日本駐在公使として来日、一九〇〇年には中国駐在公使、一九〇六年に帰国して余生を過ごしたという。この人物が明治維新の裏側で果たした役割は大きいのではないか。第一級の歴史資料だと思う。
一外交官の見た明治維新 下  岩波文庫 青 425-2
一外交官の見た明治維新〈上〉 (岩波文庫)

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