意思による楽観のための読書日記

逝きし世の面影 渡辺京二 *****

小説ではなく歴史評論を読んで感動を覚えるというのは何と素晴らしいことだろう、これはそういう本である。幕末から明治前半にかけて日本を訪れた外国人からみた当時の日本文化、庶民や侍たちの日常を紹介し、産業革命を終えて東洋の小国に通商を持ちかけてきた外国人が日本の風俗や文化をどうとらえたかを解説している。引用しているのは次のような外国人たちの日記や報告書である。
明治6年に来日し38年間日本を観察した日本研究家 チェンバレン
明治21年に来日した宣教師で近代登山開拓者 ウエストン
安政3年に領事として来日したハリスとその通訳ヒュースケン
初代駐日英国公使オールコック
慶応3年35日間の日本見聞録をまとめた21歳のフランス人ボーボワール
一人で東北旅行をした英国人女性イザベラバード
安政5年通商条約締結のために来日したエルギン卿使節団のオズボーンとオリファント
明治9年来日し東大医学部の基礎を築いたベルツ
大森貝塚を発見したモース
このほかにも多くの外国人が残した書物から証言を引き出している。

今は失われてしまって二度と戻ってこない文化、と著者はいうが、さらにそれらは明治20年代にはすでに失われていたとも紹介している。著者はいくつかの視点から当時の日本描写を紹介する。概ね章立てにあわせて紹介してみよう。

1. 陽気な人々
日本は専制国家であり人民は収奪され苦しんでいる、と聞いて来日した外国人たちが口をそろえていうのが庶民の幸福そうな顔、健康な体、遊び回る子供たち、冗談を言いながら仕事をする職人、大笑いする母親たち、控えめでかわいい笑顔の少女たちの姿であった。江戸時代の農民は天領と大名領では年貢比率が違い、大名領が厳しく生活レベルが違ったはずなのだがその差は明確にはわからず人々は家を清潔に保ち、村や町内の絆を保って幸せそうに暮らしていた。当時の日本人たちは初めてみる外国人に異様な興味を示し、他の国の中国やマレーシアであったようにおどおどすることなく素直に興味を示したという。興味は洋服、ボタン、履き物、帽子、ベルトなどでボタンを特にほしがったという。

2. 簡素と豊かさ
生活は豊かではなかったが、それが不潔や犯罪にはつながらず、泥棒がいない、大声で怒鳴りあう男たちもまれ、家々で鍵をかけているところはみたことがないと言っている。生活は決して贅沢はなく暮らしは質素、農業の方法は原始的に見えるが、使われている道具には工夫がみられ、放牧する土地が不足しているためほとんど牛馬は使われず、人力で耕作が行われている。人々の懸命の勤労により人口を十分に養うだけの農業生産力があると思われる。地域によっては貧富の差があるが、豊かな村では米、麦、綿、トウモロコシ、煙草、藍、麻、豆類、茄子、くるみ、胡瓜、柿、瓜、杏、柘榴が生育されている。年貢は江戸のはじめに測量された検知に従い決められており、それ以降の250年で生産性は50-100%も向上しているため、農民には相当の収穫分があったと思われている。

3. 親和と礼節
天然痘の後遺症である痘瘡が顔に表れている人が多い。また皮膚病、眼病を患う人が多いのは衛生状態の向上と治療法が知られていないためと観察された。そして売春の公然化により性病に罹患している人が都会では3分の一にものぼるのではないかと推察される。しかしである、こうした盲人やハンセン病などの病人は社会の中でそこそこの施しを受け生きていけたのだ。観察者によるとそれは物価の安さと、人々の思いやりと優しさだという。また、家の表は開け放たれ、家の中で行水する娘、子供に授乳する母、それらが通りから丸見えなのであり、異国人が表から見ていようと気にもしないのだ。近所のつきあいは行き来が激しく、鍵がかかっていないため子供たちはお互いに家や通りを縦横無尽に走り回って、母親や娘たちも近所同士のつきあいをしている。近所の絆が強く、開放性の強い絆の強い社会であるという見立てである。これが争いが少ない社会、礼節と親和が両立する社会を形成する根本であるという分析がされる。

4. 雑多と充溢
外国人からみた日本人の日常は、まるでお芝居の一幕を見るようで、とても現実のものとは思われない小道具や舞台装置であふれている。人力車で通る街角で見た道具売り、行商人、子守をする子供、金魚売り、靴治し、羅宇屋、飾り立てた箱を持った理髪屋などが小道具と舞台装置に見えたのだ。道には盲目の按摩や子供たち、放し飼いの犬などが道を歩いていて馬車や人力車がぶつかりそうになるが、馬丁や車夫はいちいちそれらを避け、道の端に寄せて通るのだ。

5. 労働と肉体
日本人は労働を苦役とは考えず、必要な労働を終えるとそれで一日は終わりとばかりに仕舞いにかかる。そこには効率や成果に対する報酬という概念はなく、時間あたりの賃金、という概念もない。一日に必要な糧が得られればそれでよしという姿勢であり、主人に使われて嫌々働くということではないようだ。農民が勤勉であること、職人が凝り性であることは否定しない、しかしそこには資本家と労働者という対立は存在しない、という観察である。日本には鉄道が通るまでは「分」という時間単位はなく、日中と夜間を日の長さに比例して変化する大まかに区分した時間の概念しかなかった。労働者はすばらしい肉体をしているが、支配階級の侍たちの体は細く弱々しい肉体しか持っていないと見られた。また、日本人男性がほとんど醜い容貌だったのに対し、女性はおしなべて可愛く美しいと観察された。

6. 自由と身分
一般庶民は自由度が高く、身分が高くなるほど儀式やしきたりにとらわれており日常生活の自由度がなかった。町衆の独立は尊重され、町衆同士の争いに侍が関与することは避けられた。また上流階級のものたちの生活と中流、下流の生活レベルは大きな差はなく、上流の侍たちも質素な暮らしをしていた。下流中流の民たちはそれぞれの生活に満足して皆幸福そうだった。こんなに一般人民が幸福そうな顔をしている国は欧州にもアジアにもなかった、というのが各国訪問者おしなべての感想であった。職人や商人の仕事は細分化されていた。畳、障子、大工、とび、簪、髪結い、理髪、帯、装飾品などの商売が細分化されてそれぞれ成り立つことにより多くの人々の生活を成立させている。これは飛び抜けて大儲けする商人が少なく、人々が相応の収入で満足していることと物価の安さによる。

7. 裸体と性
人々は町では銭湯を使ったがどこも混浴であり、何の不都合も生じていなかった。また、行水や川での水浴びを外国人が通る道ばたでも平気で行う娘や女性たちに何度も出くわし、外国人の方がどぎまぎしていた。道を歩く外国人が珍しい時には銭湯に入っていた男も女も真っ裸のまま表に飛び出してきて外国人を見物するため、外国人からみるととんでもない眺めとなった。素っ裸の人垣の中を通ることになったのである。夏の労働者はふんどし一つ、日本人は裸にこだわらなかったが、西洋人が着るような胸や肩が露出した舞踏会用の服を着せると恥ずかしがった。彼らは、女性が人目を引く目的で露出させることに恥ずかしさを覚えていたのであり、日常生活での裸体の露出にはまったく恥ずかしさを感じないようであった。売春は公然と行われ政府もそれを認めていた。街道沿いの宿にはすべて飯盛り女、つまり売春婦がおり、人々はお茶でも飲むように売春婦を買った。そのため性病は成人の間に蔓延していた。売春婦はその多くが病気になり25歳の年季明けを待たずして死んだが、そうした売春婦も年季明けを迎えると普通の結婚をした。人々も売春婦だったことを理由に受け入れを拒むようなことはなく、芸者としてのしつけがしっかりとなされた社会人として受け入れいていた。

8. 女の位相
娘は結婚するまではとても大切に育てられ幸せな子供時代を送る。しかし、結婚すると嫁ぎ先の姑、夫に仕え、生活は一変するのだ。このように女性の立場は建前上は男の下にあった。しかし、実態としては家庭の経済を握るのは女性がしっかりしている場合には妻であり、多くの家庭では女性の方がしっかりしていたため、女性の家庭での力は夫より強かった。子供が成人すると女は姑となり安逸な生活に入る。新妻時代の苦労は姑となったときの安穏な生活で回復されるかのようである。女性に限らず中流以下の人々も比較的自由に旅行を楽しんでいるようだが、上流階級である侍階級の女性の方が外出の機会は限られていた。

9. 子供の楽園
子供は大変大事に育てられていた。どの家庭でも子供たちは自由に遊ばされていて、親が子供を叩いたり、大声でしかりつけたりはしない。さらに大人たちは大人の時間である食事や観劇、お寺参りなどへも必ず子供たちを連れて行くため、子供たちは大人の振るまい方を生活の中で身につけていく。子供たちは自由に育つ中でも大人の社会のしきたりや我慢、忍耐を学び、社交辞令を覚えたのだ。そして、12-3歳になれば立派に親の代理を務めることができるようになる。

10. 風景
農家は貧しくても生活に清掃されていて気持ちがいい。さらに裏山や木立などが家を取り囲み、さながら自然のなかに生活があるように見える。街道沿いの茶店は必ずすばらしい景色の場所にあり、日本人が景色を眺めて自然を楽しむすべを知っていることを物語る。自然の美しさを鑑賞する目は誰かに教わったわけではなく、日本人が生まれながらに持っている能力であるとも思える。四季ごとに咲く花や草木、秋には紅葉、雪景色など、一部の芸術家だけではなくすべての日本人がそれを楽しんでいる。人間は自然の一部であることをあるがままに受け入れているのだ。ヨーロッパの一般民衆が果たして景色の美しさを愛でるだろうか。欧州の農民たちの話題といえば明日の収穫であり今日の夕食である。

11. 信仰と祭り
日本人の武士階級に信仰のことを聞くと、「無信仰」と答える。日本人の知識階級は寺の僧侶に尊敬を払っているとは思えない。一般庶民も同様であるが、しかし道ばたの地蔵や村の神社で手を合わせているのはほとんどが下流階級の女性である。男や上流階級の人たちはお参りをしないようだ。祭りは日本人にとっては店が建ち並ぶ市であり娯楽である。お伊勢参りや善光寺参りは行楽旅行であり、決して宗教的な巡礼などの行いではなさそうである。日本人は神道と仏教の違いには無神経であり、さらにはキリスト教さえ簡単に受け入れるのには驚いている。キリスト教の布教にきた神父が寺の一角を借りて布教をしたいという申し出に、寺の僧侶はこれを受け入れ、場所を少し広げたいというと、そこにあった仏像などを倉庫にしまって場所を作ってくれたのだ。どこの国に異教徒に場所を貸してくれる宗教家がいるだろうか、これが宣教師たちの素朴な疑問であった。僧侶に限らず、日本人が外国からの訪問者に気持ちよく過ごしてもらおうと心を配っていたこと、外国人にも大いに感じられていた。

このような日本人の文化はすでに失われているという。筆者はこのような時代が日本にあったことを150年前の外国人の目から見た日本描写を通して我々に伝えてくれている。しかし、いまでもこれらの一部は残っている。気がつくのは次のような点だ。
ー宗教的儀式やしきたりは年中行事であり楽しみの一部でもある。お祭りやお寺参りは今でも残っている。
ー正月、七草がゆ、桃/端午の節句、お盆、七五三などは日本人に染みついた年中行事であり、それらの宗教的背景を意識することはない。
ー子供たちは比較的自由に育つ。
ー田舎には近所つきあいが残っている。
ー清潔好きであり、礼儀正しい。
ー年寄りを大切にする。
ー自然の美しさを鑑賞する心を持つ。
ー田舎には里山が残る。
沖縄には多くの古き良き日本文化が残っている気がする。しかし、こうした美しい日本文化は文明開花、殖産興業、富国強兵のかけ声とともに日本中で薄れていった。さらに太平洋戦争の敗戦で跡形もなくなったと思うものも多い。しかし、今でも残るいい部分、日本らしい思いやり、優しさ、長幼の序、四季折々の良きしきたりなど、なんとしても残したいと思う。すばらしい本を読んだ気がする。
逝きし世の面影 (平凡社ライブラリー)

読書日記 ブログランキングへ

↓↓↓2008年1月から読んだ本について書いています。

名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「読書」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事