意思による楽観のための読書日記

イザベラバードの日本紀行(上) *****

1878年の明治維新直後の日本東北から蝦夷の地を47歳の英国人女性が日本人通訳一人を連れて旅行した旅行記である。一言で言うと「感動した」。

英国大使パークスが横浜にいる頃、船で横浜に上陸したバードは、東京で日本に滞在する欧米諸国の外交官や技師達そして日本人の政治家達と出会った。アーネスト・サトウとは会っているようだが、ミットフォードと会ったという記述はない。事前にスタディはしてきたのだろうが、その時の日本が置かれた明治維新直後の位置づけを認識、大都会東京での文明開化と殖産興業の動きを実感した。そして日光から東北への陸路での旅に出たのである。日光では「金谷」という主人の家に宿泊する。後に日光金谷ホテルをたてることになる人物に違いない。そこでは日光東照宮や華厳の滝など「日光に行かずして結構というなかれ」という言葉を体験する。ここから先の旅は外国人には初めての旅程であり、ほとんど旅情報がない中での6ー8月の行程であった。バードは率直な語り口で、日光以降の日本における田舎の農村の貧しさを描く。「男性はふんどし一つ、女性は腰に巻いた布きれだけであり、上半身裸である。田んぼや畑には雑草がなく、見事に手入れされているが、おしなべて農民達の暮らしは極めて貧しい。皮膚病や痘瘡にかかっている人が多く、清潔という公衆衛生概念がないために感染症に罹患している者も多い。しかし、子供は常に大切にされ、貧富の差なく読み書きの教育が施されている。人々は平気でウソをつくが、親切で素朴な人たちである。仏教は廃れ、古来の神道を人々が信じているわけではない、信仰は実質的にはない。しかし誰もがお守りを身につけているのは事実であり、迷信やお化け、祟りの存在をまじめに信じている。

日本民家にいる蚤、虻、蚊、その他人を刺す虫についての記述も多い。普通の宿屋ではさすがになかったようではあるが、町を外れた宿場町では、畳の端から蚤が何百匹も飛び出てきた、と書いている。粕壁では井戸の水に当たって具合を悪くした話があったが、その後、英国領事婦人が同じ粕壁の井戸水に当たって亡くなった、との解説もある。やはり、明治維新後でも田舎での公衆衛生概念は低レベルであり、眼病や皮膚病を患う特に子供たちが、虫刺されの後を手で掻くことで傷口から化膿して手に負えない状況になっている、という記述もある。民間レベルの衛生知識欠如であるが、読み書きそろばんは教えても、こうした常識を教えていなかったのだ。

バードは、客観的な観察眼で不衛生さや不気味な習慣を解説しながらも、日本の純朴で心正しい、しかし不信心さらに自らに問うている。わが主である救世主キリストは全世界の民のために救済を施すのではないのかと。こうした純真無垢で単純素朴なやさしい心を持った人々が徳と不徳を気づかぬうちになしていること、神の右手はこの地の異教徒には及ばないのか、と。バードがこうした決して楽しいばかりとは言えず、相当つらい目にまであって旅行を続けるモティべーションはどこから来ているのであろうか。東京、京都、大阪、長崎あたりを見て富士山や箱根、日光くらいを観光して帰れば、大変な日本通になって帰れたであろうに、東北の日本人でさえも行かないような会津や越後、奥羽の山中の村や町に宿泊した理由は何なのであろうか。上巻は蝦夷の地を踏むところで終わっている。
イザベラ・バードの日本紀行 (上) (講談社学術文庫 1871)
イザベラ・バードの日本紀行 (下) (講談社学術文庫 1872)

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