そして、30歳を前にして一般の僧の立場で遣唐使の一員となり、四隻の舟で唐を目指す。第一船に空海と遣唐使の代表だった藤原葛野麻呂、橘逸勢も同船している。最澄は第二船に乗っていたという。途中時化にあって方角を見失い、第一船は今で言う福建省あたりに漂着したという。第二船は別の場所に漂着、三、四船は難破したらしい。当地での扱いは正式な国史としての扱いを受けなかった。難破寸前の船でたどり着いたため、食うや食わず、身なりも海賊とも見まがうばかり、葛野麻呂が如何に説明しても、唐の当地での責任者には倭国国史であると認められなかった。そこで葛野麻呂は空海に一筆書を請うた。空海が書いた文章を見た役人はその文章の完成度の高さと内容の高度さに驚愕した。あわてて唐の都長安に使いを出し、彼らが倭国からの正式な国史であることを確認、賓客としてのもてなしに豹変したという。葛野麻呂や橘逸勢らの空海を見る目は一変した。
長安についた空海は街の様々な場所、そこにいる異教徒や異教の寺を見て歩いたという。マニ教、ソロアスター教、景教などである。そしてそこで僧恵果と出会う。
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