意思による楽観のための読書日記

空海の風景(上) 司馬遼太郎 ****

空海の一代記である。讃岐佐伯氏の嫡男であった空海は讃岐の地、真野池(まんのうち)に育った。15歳で奈良に学を得に旅立ち、学問を学ぶ。18歳の時に書いたのが「三教指帰」、道教、儒教、仏教を架空の登場人物に語らせ、自らは仮名乞児となり、仏教の優位性を説く。19歳で大学をやめて四国遍歴をする。奈良から阿波を通り、峻険な海沿いの浦を渉りながら室戸岬までたどり着く。ここで、洞窟に入り、天の明星が光り輝き、そのまま自分の口に入る、という啓示を受けたという。ここからの7年間は消息不明である。

そして、30歳を前にして一般の僧の立場で遣唐使の一員となり、四隻の舟で唐を目指す。第一船に空海と遣唐使の代表だった藤原葛野麻呂、橘逸勢も同船している。最澄は第二船に乗っていたという。途中時化にあって方角を見失い、第一船は今で言う福建省あたりに漂着したという。第二船は別の場所に漂着、三、四船は難破したらしい。当地での扱いは正式な国史としての扱いを受けなかった。難破寸前の船でたどり着いたため、食うや食わず、身なりも海賊とも見まがうばかり、葛野麻呂が如何に説明しても、唐の当地での責任者には倭国国史であると認められなかった。そこで葛野麻呂は空海に一筆書を請うた。空海が書いた文章を見た役人はその文章の完成度の高さと内容の高度さに驚愕した。あわてて唐の都長安に使いを出し、彼らが倭国からの正式な国史であることを確認、賓客としてのもてなしに豹変したという。葛野麻呂や橘逸勢らの空海を見る目は一変した。

長安についた空海は街の様々な場所、そこにいる異教徒や異教の寺を見て歩いたという。マニ教、ソロアスター教、景教などである。そしてそこで僧恵果と出会う。

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