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Tesyuke‘s diary

行く川の流は絶えずして・・・
日々忘れ去っていくことどもを書き留めて思い出といたしましょう。

湖東の美しい仏様

2010-04-07 01:23:07 | Weblog
桜の季節に椿を見に行った話など・・っと思うのだがちょっと書きとめておきたいと思うことが!

三月上旬藪椿が美しいと、滋賀の湖東三山・西明寺へ行った。何度か行っているのにはじめてきたような気分。こんなところがあったかしら・・などと思いながら・・石段を登る。
山門から見ればまっすぐに急な石段が続いているように見えるが、実際は一段一段が低くとても歩きやすい。

石段を離れて庭園に入るが、椿はどこを眺めても一向に眼にはいらない。落ち椿に気がついて見上げると、おやおや椿の木々の中を歩いていたのだ。ほんとにひっそりと、静かに、自己主張せず咲いている。豪華な椿の花がもてはやされる中、こんな気持ちの良い椿の花はまたとない感じ。

本堂に見覚えあり・・鄙にはまれなというと失礼だが、立派な建物。三重塔も立派。
本堂では3月8日から秘仏の虎薬師を特別に御開帳(寅年なので)。ラッキー。
本堂内陣の事務所にいるおじさんが説明をしてくれる。開口一番、《この建物は鎌倉時代初期建立で滋賀県内で、国宝認定第一号です!もちろん三重塔も国宝です!》と、厳かに宣言!なるほどなるほど、そうでしょうそうでしょう・・

おじさんは愛情をこめて語ってくれる。説明してもらわなければ、するっと一周、はい終わりで済んでしまうのだが・・。この本堂は飛騨の匠が、釘を1本も使用しないで建てたものとか。その飛騨の匠の子孫がこの地に残り技を伝え、日光東照宮造営のときには招聘されて行ったんです、と。本堂には数多くの仏様がまつられていて、間近で見ることができる。
おじさんが、懐中電灯で照らしながら説明してくれる。

正面の須弥壇には本尊薬師如来(秘仏)と日光・月光菩薩、十二神将、四天王が所狭しと並んでおられる。裏に回るとここにも、価値ある仏のオンパレード。
隅に置かれた厨子の中に阿弥陀三尊がおられる。普通ならちょっとのぞいて美しい仏様と思って終わり。のところ、おじさんが懐中電灯で照らしてくれながら、秘密めいた話し振り・・《よう見てくださいや。薄暗がりではこんなお顔です。光当てると顔つき変わるでしょう。懐中電灯当てて皆さんに説明しているうちにこの変化発見しましてん!》

tesyuke大感激!薄暗がりの半眼の美しい仏様の顔をAとする。光に照らされるときりっとした表情になって、これをB。光を消すとAに戻るところがA´となる。眼の錯覚なのだろうが元の表情より一層やさしげに見えるのだ。特に脇侍の表情が童子が母を見上げるような感じでふんわりやさしさにあふれて見える。どうやら能面と同じ理屈のようだ。
おじさん曰く、この仏さん見て泣いた人がいました、と。そんなら約一名付け加えておいてくださいな。

昔・昔なら、前に座って拝んでいる人には(今のわれわれとは違って信心深い)ゆらめく蝋燭の炎に仏の顔が幾重にも違って見えたことだろう。自分の心象を移して、やさしくも怖くも見えたに違いない。
仏像をこんな風に見たことがなかったので、おじさんありがとう・・と、そんな心境。
おじさんによれば、この仏は鎌倉時代の快慶の作と言われていて、源頼朝にゆかりがあるとか。おじさんの二度目の説明時にもう一度ついて行ってながめた。懐中電灯持参で、又会いに行きたいと思う、そんな仏様。

地蔵院は花盛り

2010-03-23 23:21:49 | Weblog
今日は一日雨!
昨日の天気がうそのよう。山城・井手町の地蔵禅院へ昨日しだれ桜を見に行って正解だった。
無常の雨で今週末まで持たないかもしれない。

昨日の朝、庭を見ていて白蓮がたった3つしか花をつけていないのに気がついた。びっくり・・どうしたんだろう!?栄養不良?
と、同時に天の声が・・《木蓮の咲くころが、見ごろ、満開どっせ!》と。天の声?イエイエ、単に昨年地蔵禅院の住職に聞いただけのこと・・。しだれ桜!だ。

で、思い立って、地蔵禅院へ!!
イヤーーー、春爛漫。花盛り。有名なしだれ桜(樹齢280年)も丁度満開。花桃の紅が華やか。
菜の花。雪柳。沈丁花。椿。水仙。木瓜。連翹。花にら。タグつきの植えたばかりの小さな夏みかんの木に実がひとつなっていた。

取り澄ました庭園でなく、郊外の農家の庭先みたいな感じ。
高台にあるので、ながめは抜群。花盛りの木々から木津川まで一幅の絵はすばらしいの一言!
これを見ながらお弁当を広げている家族連れもいて、もう最高の贅沢。

いつも車で駐車場へ直行なので、村里のほうから登ってくることがない。が、JRの玉水駅から来る人が階段を登ってくるのに気がついた。地蔵禅院の横に玉津岡神社があって、美しい石段の参詣道が村から続いている。その石段を下った所から、上を眺めると、又違った春の景色。

毎年桜を写しに来るという人が、ちょっと花つきがわるいですわーー。昔はもっと豊かな花のつき具合だったという。そういえばしだれた枝の先の方は花をつけていないのもある。
お寺の善意で無料のお花見。桜保護のための寄付金箱が置かれていたが、そこに近寄る人が少なそうなのはちょっと残念。

写真:肝心のしだれ桜ではなく花桃

アール・ヌーヴォーのポスター芸術展

2010-03-19 21:35:07 | Weblog
京都駅・伊勢丹・えきミュージアム。
えきミュージアムに寄りたいばかりに、途中下車。

美術史には詳しくないけれど、世紀末(もちろん19世紀!)・・アール・ヌーヴォー・・と条件反射して思い出す、クリムト、ミュシャ、エゴン・シーレなどtesyukeの好きな画家の物が見られると言うことで行ってきた。
まさに、特徴ある彼らの絵をポスターとして見ることができた。
ポスターといってもリトグラフ(石版画)なので、今の時代のポスターとは趣がちがう。

これらの展示が、チェコの二つの美術館から来ているとかで、びっくり。
世紀末にはパリ・ロンドンそしてドイツ語圏に加え東欧もポスターに深くかかわっていたのだとか。

ミュシャが世に出るきっかけを作った、大女優サラ・ベルナールの公演ポスターの大部がずらりと並んでいるのは圧巻だった。
あのロートレックも、彼だ!と言う雰囲気のポスターを描いている。

ながめていて、日本の浮世絵の影響が・・・と、思われる部分が多々あった。
構図もそうだし、北斎の《神奈川沖浪裏の富士》に描かれた波・・と、一緒やんと言うのもあった・・

竹下夢二の手書きのポスターを見たのを思い出した。文字も人の顔も、何もかもが手書きの時代があったのだーーーーさすれば、この世紀末のポスターは、画期的。
リトグラフは大量に印刷(1000枚単位でも)でき、大きなサイズ、多彩な色彩効果が得られる。まさに19世紀末に花開いたアール・ヌーヴォーのポスター芸術。

イザベラ・バードの旅の世界〈写真展)

2010-03-17 23:26:11 | Weblog
これは絶対見に行こう!っと思っていた。
と言うのも、このイザベラ・バードのことは小耳に挟んでいて、(すごい女性〉がいたのねと、とっても興味を持っていた。あの、エゾ地一周のランドーの本にも名前が出ているように、明治初期に北海道に旅し、『日本奥地紀行』という本を著した、ビクトリアンレデイ。 150cm位の身長の小柄な人ながら、22歳から70歳までの半世紀、南米と南極を除いた全大陸に足跡を残している、史上屈指の旅行家!

京大総合博物館で、1月13日から3月28日まで。
ツイン・タイム・トラベル『イザベラ・バードの旅の世界』
京大教授の金坂清則(地理学者)さんがイザベラ・バードの旅の世界をたどり、20年かけて撮影した写真とバードの写真・銅版画・記述とを対比して展示いる。1世紀を隔てた風景を並べて展示することで、その『持続と変化』を理解し面白く思ってほしいというのがコンセプト。
『ツイン・タイム・トラベル』とは「過去の旅行記を下敷きに現代の旅を重ね合わせ、同時に二つの旅を味わう」という新しい旅の形を称して先生が命名されたとか。

なるほど二枚の写真を見てキャプションとして掲げられたバードの描写を読むと、単なる旅行写真の枠を超えて100年を同時に感じられ面白いものだった。それにもまして、会場に流されていた、この企画の意図を語られた先生のビデオが一番興味をそそるものであった。
 実際にバードの旅の現場に赴いて、写真を検証して日本語訳の間違い(そのままストレートに訳しているということで、バードが聞き間違えたり間違って記していたりしている)を何ヶ所か見つけた話などもあった。tesyuke自身が、実際にツイン・タイム・トラベルを実感する写真もあり、興味は尽きない。

京大総合博物館の常設展示もおすすめ!
今年の1月、秋田県・田沢湖に強酸性の水の導入で絶滅した魚がいた話を聞いた。半信半疑だったが・・実にその魚の標本がここにあった。『絶滅種クニマスの9個体の標本』。全世界に17個体しか残っていないのだとか!

the ハプスブルグ展

2010-03-13 21:18:51 | Weblog
京都国立博物館のハプスブルグ展も早いもので明日で終了。
いつでも行けると思っていて最後にばたばたといつも通りのパターーン。
見ごたえありました。----何といっても、肖像画の数々が圧巻。
ハプスブルグ家といえばマリア・テレジアと条件反射するtesyuke。彼女の前にも後ろにも力のある王様が一杯。おまけにスペイン国王にまで枝分かれして、そんなハプスブルグ家にゆかりの絵画や工芸品120点が展観。

600年もヨーロッパに力を振るったハプスブルグ家も最初から権力を持っていたわけでなく・・
1273年に神聖ローマ帝国の皇帝(ドイツ国)に推挙されたのがすべてのはじまり。
神聖ローマ帝国を構成している国々の中で、強国はけん制しあい、毒にも薬にもならない弱小の国をほんのお飾りの帽子とした。それがハプスブルグ! 
ところがところが、だんだん力をつけてきて、ついにはヨーロッパを牛耳るようになる。近代になれば、オーストリア・ハンガリー二重帝国の名のもとにハンガリー王国の国王もかねた。
丁度この頃明治時代の日本と国交を樹立した。今年で締結140年目。その記念の展覧会なのだ。

第一室は、明治天皇からオーストリア・ハンガリー二重帝国皇帝への、贈り物--画帳と蒔絵の飾りだな--の初めての展示。里帰りした品々は大事に保管されてきておリ、まあたらしく100年余の年月を感じさせないものだった。
ハプスブルグ家が収集した、イタリア・ドイツ・オランダ・スペインと美術史に名を残す画家達の絵画や甲冑などの展示が続く。

そして大きな部屋にはいると、人々がひとつの肖像画の前にたむろしている。人の身長分だけ絵が隠れてしまって、最初は上半身しか見えなかった。“エリザベート”だ。美しい! 人の輪が崩れない。前列に行く・・。丈高く、ほっそりとした美しい女性。
ミュージカルや宝塚歌劇で、日本の若い(若くなくても)女性を席巻した、《エリザベート》の肖像画!オーストリアよりハンガリーにいることを好み、ハンガリー語を習得し、ハンガリーの人々に愛されたと言う王妃。

ここは、肖像画を集めた部屋で、彼女の夫のオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世 の肖像も。
中でもびっくりしたのは、あのマリア・テレジアの11歳のときの肖像画。美しく利発なすばらしい少女が画布の中にいた。信じられないぐらい細いウエスト!彼女は後に16人の子供を持つゴッド・マザー!
スペインのマルガリータ王女やフェリペ皇太子の肖像画(ベラスケス画)もあったが、後に夭折していたり、許婚に送るものであったりと、飾り立てられ、小さな大人然としているのがなんとも言えずけなげ。

堪能して、建物の外に出ると、おお・・・、エリザベートの等身大パネルが立っている!
しかーーーーし、誰も一緒に写真をとらない。やめとくのが無難と言うものでしょう。
おお・・勇敢な若い女性がならびました・・

写真 エリザベートのパネルと考える人。一緒に写そうとしたので、パネルがひしゃげた。

A・S・ランドー著  エゾ地一周ひとり旅・・思い出のアイヌ・カントリー

2010-03-12 00:21:18 | Weblog
去年、北海道十勝の帯広百年記念館に行った。そこでは十勝開拓に尽力した人達の資料が展示されている。その中でもっとも感銘を受けたのが、晩成社(十勝開拓のための結社)の一員だった渡辺勝とその妻カネの話。A・S・ランドーと言うイギリス青年が、北海道一周の冒険旅行中に出会ったこの夫婦のことを描いた一節が、展示されていた。1893年ロンドンで出版された本、≪エゾ地一周ひとり旅("Alone with the hairy Ainu. Or, 3,800 miles on a pack saddle in Yezo and a cruise to the Kurile Islands")≫の中の一節。

以来、この本が読みたくて図書館・本屋へと足を運んだが見つからなかった。それで、アマゾンでかろうじて一冊出品されていたのを手に入れた。定価の2倍弱! 訳者の戸田祐子さんは、ささやかな興味から始まったつたない訳がバックアップしてくれる人を得て刊行の運びとなったと記している。1985年だから四半世紀も前に出版されている。
訳者あとがきによると、大英帝国の25才の若き冒険家ランドーは、1890年6月に函館を出発し海岸線に沿って、北海道を完全に一周、千島等にも足を伸ばす全行程146日間の旅だったらしい。添付の地図を見るとほんとに海岸線に沿ってぐるっと一周しているので恐れ入る。

ランドーは自分以外の外国人の北海道旅行記なんかほんの入り口のところで終わっている、それに比べれば・・・と自慢をしているが、確かに彼は誰も真似のできないような旅をしている。
《私の旅支度は簡単なものだった。二つの大きな日本製のバスケットの中に、油絵用の小さな木製の画板を300枚、油絵具と絵筆をごっそり。1ダースほどの小さな写生帳、日記帳一冊、短靴3足、シャツ3枚と同じ数の毛の靴下、ピストル一挺と弾薬100発を詰め込んだ。・・・食糧の用意もなく、テントも携帯していなかった。》そして最後には、着の身着のままの哀れな自分の姿をも活写している。

訳者もあとがきで、《明治期、北海道を旅した外国人は数多いが、皆、官の保護と便宜を得て、案内人や通訳を伴い、時にはコックまで同行させての旅であった。ランドーの場合は違っていた。頼るべき権威は何もなく、自ら旅の途中で覚えた片言のアイヌ語と日本語を操り、当時困窮を極めた生活を送っていたアイヌの人に食べ物と一夜の宿を乞い、一種独特の親密な交際を結びながら旅を続けたのである。》と、語っている。

当時、駅の制度があったのが驚きで、ランドーは馬を順次借り換えながら進んで行っている。彼とほぼ同じルートをtesyukeも車で旅行しているので、描写されている種々のことどもに100年たってもうなずけるところがあって興味が尽きない。黎明の北海道で外人の耳に響いてカタカナで表されている地名の一つ一つが今もそのように呼ばれている。
ガイドブックのない旅を、そんなに的をはずさない理解度で描写しているのもたいしたものだと思う。昨年の北海道旅行で行った、襟裳から根室など、記憶も新たな分、なるほどなるほどなるほど・・と、彼の描く100年前の状態にたやすく思いを馳せることができた。又、今2010年の北海道に至るまでの道のりの長さも感じることができた。

最後にランドーは、札幌に戻ってくる。
札幌観光の目玉‘北海道庁や豊平館’は今では家家の中に埋もれている。が、まっ平らな開けたばかりの町に、ぽこっ、ぽこっと立っているそれらを想像すると、北海道の黎明期!と感無量の気持ちになる。
しかしランドーは言う。『札幌は私が見て回ったエゾ地の中では最も文明化した場所である。しかしここは美しくも無ければ、物珍しいものもなく、さらに未開の地のように興味を惹かれることもない。未開社会はーもしそれに馴れさえすればー文明生活よりはるかに魅力あふれており、文明の低俗な模倣と比べればなおさらである。』

いかなご!

2010-03-06 12:20:19 | Weblog
昨日は友達からの宅急便到着。≪いかなごの釘煮≫でーーーす。
毎年送ってくれるので、これが来ると春到来!!です。

前日に明日は在宅?と、確認の電話。24時間もたたないうちに届くとは早い・はやい・・
これが、おいしいんです。新鮮ないかなごを港で買って、その日のうちに釘煮にして、即出荷(?)。
出来立てのおいしいこと、おいしいこと!量が多いので、日にちがたつとともに味が変わってくる(落ちてくる)のがよくわかる。で、小分けにして冷凍庫に入れる。

昨年は、いかなごの収穫がちょっと減ったとかで、購入時に一人当たりの数量制限があった、と聞いた。が、今年はどうだったんだろうか。いかなごの釘煮も有名になって、このあたりのスーパーでも釘煮用が出回っている。需要が増えるとともに乱獲にならないようにしないと・・・

所変わればでびっくりしたこと。宅配業者がいかなご送付用の箱を無料でくれるのだとか。本場の皆さん家庭の味を親戚縁者に送るのが、年毎の習慣みたい。業者がお客の囲い込みでパック用箱を用意するようだ。
いかなごを煮ないと春が来ないなんて、なんて、良い習慣でしょう!(貰う人には)

今年も、寂聴さん

2010-03-04 17:27:05 | Weblog
昨日は、ひな祭り。3月3日。
三十三間堂では名前にちなみ『三』の重なる桃の節句に春桃会(しゅんとうえ)と言う法会が行われる。
昨年は何も知らずに誘われるままに行ったが、今年は行きたいという友達と一緒に。今年は立場変わって、tesyukeが付け刃の説明などを・・

とにかくお目当ては、瀬戸内寂聴さんの法話。開始30分前に着く。寂聴さんの立たれる場所に面した石畳の前にはすでに大勢の人が座っていて、丁度その後ろに立つことに。寂聴さんの姿はばっちり見える位置。ラッキー。天気は良いが吹流しが真横になびいて、すごく風がきつく、寒い。昨年はみぞれ交じりの雨の中だったから、これぐらい・・なんのその。

一時半。板戸が開いて、お出まし。
寂聴さんお元気ですね!! 5月で88歳とか。その存在だけでこちらも元気が出ます!!
立ったままで、1時間の話。驚きます。
出家するときのこもごもした話などからスタート。師である今東光さんには何にも教えてもらわなかったけれど、『一人を慎みなさい』とだけ言われたとか。“これだけは皆さん覚えて帰ってくださいね!!一人のときであっても、周りに人がいるときであっても同じように行動することです”と。

ダライ・ラマに会ったとき、苦労しておられたさなかか、頭にはげができてたナーーンて、ことやら、チベットのラサで、黄色い僧衣を着ていたらえらいお坊様に間違われ群集に取り囲まれこわかった話など・・興味の尽きないエピソード満載。が、広げた話を上手に本流に戻していかれる、この頭のシャープさ!
88歳だなんて! さすが!!スーパー・媼!と、声をかけたいぐらい。

その後、三十三間堂内を見学。ご本尊は今お留守だったが、千体の千手観音像前には国宝の
風神・雷神と二十八部衆などがおかれ、すべてがすばらしい。堂内最南端に立つと、線香の煙がもやのように立ち昇って、北端の仏像はかき消えている有様。

冬(?)の永平寺

2010-03-02 22:07:24 | Weblog
友達の誘いで永平寺までのバス旅行。
永平寺は何回も行っているが、冬に行くのは初めて。団体さんで行くのも初めて。雪が残っているのを期待して・・・

今日は東日本は寒くなり西日本はあったかいらしい。福井はいったいどっちやねんと言いつつバスの集合場所、京都駅八条口へ。7時集合。日の出を見る頃に起きるのは久しいし・・
いつも見慣れている京都駅も早朝とて異次元。通勤客はちらほら、でも観光客がもう活動を始めている。女子トイレでは若い女性達が顔を洗ってお化粧中。夜行バスだろうか。

名神高速・北陸自動車道を経由して、(途中一ヵ所立ち寄ったので)永平寺に着いたのは昼前。
永平寺のたたずまいはいつも変わらないのだけれど・・・雪が残っていて(雪がここまで解けて)・・雪の中で眠っていたものが春に向けて胎動し始めた感が!・・たとえるなら、目覚めの永平寺!良かった。残るは真冬の永平寺・いつか来たいものだ。

今回の発見は、白山水なるもの。廊下の一隅に取り込み口の部屋があって、白山からの霊水が流れ込んでいた。開山・道元禅師にお供えする水なんだとか。黒光りする桟の隙間からのぞいてみたら、清らかな水が生き物のように暗闇の中に光っていた。
暦の上では完全に春だが、永平寺は、まだ冬用意のままなので廊下にはビニールシートが張り巡らされている。で、外があんまり見えない。700年以上の伝統の中で、昔はどうしていたんだろう。ふきっさらしだったんだろうな・・などと思う。極寒の中で、今よりずっと大変な冬だったんだろう!永平寺で修行なさっているお坊さん方に改めて敬意を!!

ビニールシートの切れ間やガラス窓からのぞくと、石灯籠・石碑の一つ一つが木枠で雪囲されている。冬に向けての支度も大変な労力の要ることだ・・・そしてちらちら、庭に若い修行僧の姿が見える。白い手ぬぐいで頭を覆い、真っ黒い作務衣姿。どうやら全山春へのチェンジアップ開始みたい。折れた木の枝を集めたり、冬に痛んだものを点検整備中。友達が、‘坊主頭が危険やから、手ぬぐいかぶってはるんやろか?’‘そやね・・確かに一理ある!(笑)’全山に散らばっている黒い軍団。あたかも働きアリのように見えた!(お坊様たち・・失礼・・すみません)

法堂前の石畳で、おやおや作務衣姿が何かしているような?
近寄れば、障子の張替え中!真っ白い障子紙が美しい。高低差の激しい永平寺のてっぺんにある法堂にいるので、下に仏殿が見下ろされる。屋根に残った雪の白さが又美しい。修行僧には直接カメラを向けないでくださいと、注意を聞いていたのに、作務衣姿にお坊さんだと言うことを忘れ思わず写真を撮ってしまった。雪の屋根を写したらたまたま人間が写ったということで・・・

障子を貼っている若い修行僧に、友達は声をかける。‘今、涅槃絵図など掛けておられますか?’なーーーんて、通ぶった質問! 2月末までだったとか。またまた‘雪が最後に降ったのはいつですか?’2月上旬ごろだったとか。うるさいおばちゃんでごめんなさい。きょろきょろしているもので、なんだか取り残されたみたい。ワーー、置いて行かれると、あわてる。山門のカラフルな四天王、‘ちょっと見るぐらいいいでしょう?’‘あかんあかん’瓦志納をしたかったが、‘だめだめ’嵐のような勢いで門外へ!バスへ!団体はこういうところがかないませーーーん。

もう一ヶ所立ち寄ったのは、≪越前竹人形の里≫。hus.が興味が無いのでいつもスルーされていたので、やっと来ましたという感じ。友達は何度か来たことがあるので、たいしたこと無いよと、さめていた。が、おやおやずいぶん良くなっている・・・・と言いつつ、笹茶などを飲み(無料)、竹のソフトクリーム食べようよと、がぜん元気。
小さいものから大きいものまで、竹人形よくできていて、まーー、こんなに込み入ったことができるのね!と、驚きつつ鑑賞。年月とともに色が変わってまた違った趣がでてくるのだろう。

何軒かのお定まりのお店めぐりをして、夜の8時に京都着。京都タワーがこんなになつかしいなんて!
‘俳句の種落ちてた?’と、友達に聞けば‘忙しすぎて、拾えなかった。’御同感!!

本場のアイリッシュパブ

2010-02-12 23:26:26 | Weblog
アイリッシュパブがちょっと気になるtesyuke。と言うのも、本場のパブを堪能した(もとい、堪能させられた)経験があるので・・・!
ケルトの独特の文化が好きで、アイルランドには長年行きたいと思っていた。実現したのは2004年の夏。ケルト文化はさておいて、パブとギネスの国!と、るんるんだったのはhus.。行く前からすでに彼のイメージは固まっていて・・・≪パブで名産のギネスを飲みながらタバコをくゆらす!≫

ダブリンの街を歩けば、いやでもパブにぶつかる。で、到着するやいなや出かけたのが、
なんたってここ・・彼の長年の夢・あの有名なパブ街・テンプル・バー界隈(Temple Bar Area)。
ダブリンの中心部を流れるリフィー川の南に、川に平行して沢山のパブが集まっている一角。
パブに関しては主役はhus.。tesyukeの記憶は薄いのだが最初に行ったのがとっても有名なその名もザ・テンプル・バー。その後、いくつかはしごをして・・・

何軒目かで、おもむろにタバコを取り出したhus.。なーんということ・屋内禁煙ですと!
2004年3月アイルランドでは禁煙法成立! わずか4ヶ月前とは、ついてない。ヨーロッパで一番早くこの法律を成立させていたなんて。
かわいそうに、彼は屋外に出て吸わねばならない。(もっともタバコは免税店でしこたま買いこんでいるが・・こちらで買えば目の玉が飛び出る!)
見れば、パブの中庭に大勢のスモーカーがたむろしタバコを吸っている。まるで、煙突・・
忘れられない光景!
しかし、スモーカーって奴は同病相哀れむと言うのか、なんだか直ぐ仲良くなるもので・・ポケットに手を突っ込みながらも和気アイアイと談笑している不思議な種族!

ダブリンで車を借りて北上、アイルランドでぐるっと一周の旅の話は又いつか・・・として・・・北アイルランド・ロンドンデリー。古都の城壁内の旧市街を歩いていて・デリーで一番古いパブ!なんて看板に引かれてとあるパブに入った。
パブは大体夕刻ぐらいまでは食事を給しているが、夜に入るとお酒のみ・・。ここではパブの主がいろいろ飲み方のレクチャーをしてくれて、tesyukeのためには、女性にはこれがと、ベイリーズの飲み方を教えてくれた・・

ワーー・5パイント!

2010-02-09 22:14:52 | Weblog
日曜日に、アイリッシュ・パブへ・・
友達の知り合いがアイルランドの楽器を弾いていて、ライブをするので来てあげて・・で、6人が集合。
場所は京都駅八条口の≪MAN IN THE MOON≫。いつの間にこんなところにアイリッシュ・パブが? 去年の秋です!って。
tesyukeの知っているアイリッシュパブ ≪The Hill of Tara≫に比べればとってもちっちゃい。間口が4メートル位、奥に長くカウンター席とテーブル席が一列にが並んでいていっぱいいっぱい。
二人の男性が、中央のテーブル席に陣取って、楽器をとっかえひっかえ演奏。
もちろんフィドル(バイオリン)にイリアン.パイプスと言うバグパイプの仲間そして・・ほかにもいろいろ。喧騒の中BGM、でも終われば拍手。

もちろんパブだから飲み物食べ物はカウンターで注文して現金払い。ブルーベリー酒とフィッシュ&チップスを頼む。低いテーブル席からカウンターを眺めていた友達が、ワーー見て見て!!外国人二人がおーーーきな、グラスでビールを飲んでいる!飲んでる!!眼が釘付け。

話を聞けばアメリカのアトランタからの二人連れ。このグラスはビール(一人はギネス)が5パイントはいっているんだとか。ホーー、2.8 リットルですか!一升瓶1.5本分ですよ・・(うーーい)
制限時間内に飲めれば無料とかでなく、飲み干せたら写真を壁に貼ってもらえるんだとか。今まで女性は一人が完遂。
見る方も、どこまで飲まはったと楽しみつつ気にかけて、ついには厚かましくも写真写してもいいですか?・・いいよ・いいよ・・。さらに厚かましさもエスカレート。ちょっとグラス借りてもいいですか?・・いいよ・いいよ・・優勝杯みたいに抱きかかえて写真写しまくり。西大寺の大茶盛見たいにまわしながら飲むのはどう?と、年相応な感想が・・

普通の体格の人たちなのに、滞ることなく飲み続け・・フィニッシュ!!
お、おそるべし。2杯目を注文。さすが、ペースは落ちてるね・・
バンドも終了。tesyuke達も家路に。彼らはまだスツールの上。うーん、飲みきれるかな?

1980年代・・こんなことも・・

2010-02-06 13:59:40 | Weblog
この間リバプール出身のイギリス人に会った。リバプールと聞いて日本の青年は皆一様にサッカーチームと叫んだ。さびしいことに誰もビートルズを一番に思い出さない。ああ、隔世の感あり!
リバプールといえば1995年にhus.と車でイギリスを旅行中、近辺を通りかかったことがある。そのとき会ったおばあさんに、ビートルズの出身地ですねと言うと、実にいやーな顔をされたことを思い出す。この年代の人にとっては‘よくわからん若造’で歓迎すべきものではなかったのかな?と、少々びっくりした記憶。

なんにつけても、二律背反。
1980年代に我が家に来たイギリス青年。それぞれパンとカレーを作ってくれた。お坊ちゃんと移民のインド系イギリス人。あの、サッチャー首相の全盛期。
パンの方はサッチャーに心酔していたし、支持していると明言。カレーの方は、最悪とはき捨てるように言った。全世界でもてはやされていたサッチャー首相、アイアンレデイ。そのときもびっくりしたのを覚えている。社会的な立場が違うととらえ方が違うんだ! 同じイギリス人なのに・・・と。当たり前のことながらふーーーーーん、と・・・眼からうろこ。

そう言えば、奈良公園で萱葺き屋根の茶店を見て、サッチャー首相の苗字は‘屋根を葺く’という意味の動詞から来ているとお坊ちゃんが教えてくれたっけ。
首相のご先祖はひょっとして屋根葺き職人(サッチャー)だったのかも・・
同じ頃の出来事で、忘れようにも忘れられないのがある。名づけて橿原神宮事件。
インド系イギリス青年の帰国がせまった頃‘今日は送別会なので、帰るのが遅くなります。’と、会社へ。
夕食はいらないので、のんびり・・hus.も帰宅し・・そろそろ帰ってくるかな・・・
電話があれば迎えに行ってやらねば・・・

しかし、最終のバスの時刻はとうに過ぎ・・・・でも、帰ってこない。電話もかかってこない・・・
11時を過ぎ、12時近く・・何かあったのか・・と、心配で心配で・・・が、どうすることもできない!
1時過ぎてもなしのつぶて・・・不吉な予感! 事故? 事件? 
と、そのとき、鳴りました電話!
間髪をいれず取り上げたhus.が・・・叫んだ!!
≪か・か・かしはらじんぐう?(語尾があがる)≫
今もあの語調は忘れられない。実に、アンビリーバボー・オーラ全開。
とんでもない所から、電話をかけて来て・・何が起こったのやら。

青年は近鉄京都駅から帰ってくる。どうやら、乗る電車を間違えたらしい。彼は、学生だけど20歳を越えているので飲酒可。楽しく飲んで、したたか酔っ払って・・・ふらふらと特急に乗ってしまった・・・・寝込んだまま、着いたところが、京都府を越え、奈良県!
終点の橿原神宮前駅で車掌さんに揺り起こされて、ここはどこ?彼もびっくり、車掌もびっくり?
これはこれは・・日本語のわからない彼とどんな会話があったのか、特急料金払ったのかどうか?そんなことは聞かなかったけれど・・
深夜、えらい遠くに彼がいると言うのは事実。もーーおーー。

ほっとくわけにも行かないので、hus.は今から迎えに行くという。
こんなときに、心がせいて事故でもおきると大変!あわててtesyukeも乗り込んで深夜の国道を橿原神宮へむかう。2,30分で着く距離でない。結構長距離。こんな時間帯に車に乗るのは空前絶後。到着。深夜の駅構内をうろつくのも空前絶後。橿原神宮前駅結構広くて、大きな屋根がかぶさった構内は、真っ暗。こわいぐらい。どこにいるのやら。名前を呼んで端から探していく。むっくり・・黒い影が身を起こした。どうやらベンチで寝ていたらしい。

訳がわからない状態の青年を車に乗せて、帰宅。ポストにはもう朝刊が入っていた。

なれないところでパン作り 番外 パンでなく・・

2010-02-02 22:10:41 | Weblog
ボストンでカレーパンを作ったことを思い出し・・ついでにと言うか、我が家でカレーを作った青年を思い出した!昔むかしの話。

例の不法滞在の英国青年と前後して、インド人青年も我が家に顔を出した。移民として渡英した両親のもとにロンドンで生まれたので、彼はイギリス人。hus.とはセクションが違うので、車に乗せていけない。
で、彼は電車で会社に行った。早く帰ってこられると通訳のいない状態でtesyukeはヒエー-お手上げ状態。通訳が帰ってくるまで、しょうがないから、ヒンドゥー語を教えてもらったりしたものだ。≪ハロー≫は≪ナマステ≫といったたぐい・・

記憶のかなたの話だが・・彼の家族名の意味するところは≪剣≫。で、カーストの二番目クシャトリア(王族とか武士とか)の家柄なのだと・・ちょっと誇らしげだった。とにかく黒髪のどっしりした体格の正真正銘のインド青年で、メイドインインディアの原色のシャツがとってもよく似合っていた。・・それで・・何度か泣かされたんだ・・・。一緒に洗濯したばっかりに白い衣服が薄ピンク・・薄いブルー・・に・・・

日本の夏が大変だったのか・・生まれつきなのか・・とっても水を飲む人だった。思わず笑ったことは、日本語がしゃべれないのにこれだけ言えた。 ≪水くださーい≫。必要にせまられると覚えるんやなーー! レストランに行っても、必ず一番にこれを言う。

そんな彼が、‘正真正銘のインドカレー’を作ってくれた。
まずは、彼のリストアップしたスパイスを調達しないといけない。これが大変。2010年ならたいていのものが手に入る。が、当時はなかなか。あっちこっち探したがどうしても1点手に入らなかった。
では、お昼にインドカレー頂かせてもらいましょ・・とて、休日の午前手に入らなかったものは無しのまま、調理スタート。
tesyukeの出る幕無し。(彼もレシピを書いてくれたが・・いまだ出番なし。)
ちゃんとできるかナーー?と、心配しながら作っていたかもしれないーーと、今は思いやることができるが・・。まだ?まだ?まだ?と、ちらっちらっと、のぞきに行ったものだ。

えん・えん・えん。えん・えん・・・と、時間はたち・・・
おやつですよーーーと、言う頃に出来上がり。待ちくたびれて、空腹のきわみ。欠食児童並みの家族に給せられた・・・
う・うまーーー(お腹すいてるとは言え)おいしかったよぉぉぉぉぉぉーー   
あっというまに完食!(いかんせん量が少なかった・・あれだけ待ってこんだけ?)
彼いわく『いつも作るのは彼女と二人分。ちょっと作る量間違えた----!』 なんと!

なれないところでパン作り ①

2010-01-27 23:46:26 | Weblog
不法滞在の後、帰国したイギリス青年。お坊ちゃんのくせに、日本の若者が着そうも無い(捨てるような)よれよれのTシャツを着ていて、tesyukeは洗濯しながら、なんじゃこりゃヒエーー。
彼に聞いたところによると、カンフー用のルーズな衣類を着ていて、挙動不審者と疑われ飛行機搭乗のさい特別に尋問された事があったとか。(以後はきちんとした服装で搭乗するようになったが・・)

当時、tesyukeはとある主婦の団体の会員になったばかりで、パン・お菓子作りの研修中。
まいにちまいにち必死で勉強していた日々。で、我が家に来た学生は特典として、パン・お菓子食べ放題!と、ある日彼は僕がパン焼いてあげると、言い出した。
hus.が・・・tinがいるって言ってるで・・tinってなに?。・・・とにかく大阪ガスショップへ連れて行って、tinを手に入れた。ふーーん、1,5斤の食パン型をtinって言うのか・・と、2個ゲット。
彼の注文はそれだけ・・

で、とある夜に・・
それではお手並み拝見! 
ほんとに緻密な頭脳の持ち主で、作りながら書いてくれた絵入りレシピの美しいこと。オーブン温度も華氏をセ氏にときっちり計算。
tesyukeは、パン作りのすべての道具を持っているわけで、生地をこねるときには、『・・ハイハイ、こね板使って・・』『・・・い・ら・な・い。テーブルで十分』と、ごもっとも。パン生地切り分けるときには、『・・ハイハイ、スケッパー使って・・』『・・・い・ら・な・い。包丁で十分』と、ごもっとも。眼からうろこの思いだった。たいそうに器具なんか持たなくても、十分パンは焼けるんです!! 教える時には、そんなラフなことは言ってられないけれど、彼の実践は雨粒が地面にしみこむようにtesyukeの心にしっかり沁みこんだ。
特別なものは、なんにもいらない!

パン生地発酵中はテレビを見ていて、ころあいを見てどたどたと、台所に飛び込んでくる。
彼がなぜパンが焼けるのか、そこのところは聞き逃したが、家族のパンは時々自分が焼いていると19歳の若者は言った。イギリスでは自宅でパンを焼くのが普通なのと問えば、多くの家は買っていると。
そんなこんなで、夜も更けて・・
家族はみんな寝静まり・・・起きているのは二人だけ・・
おーついに、無事完了・・・ハイタッチをして祝食パンやきあがり。そのときのパンのおいしかったこと。

で、翌年のこと。
hus.が帰宅して言ったもんだ。『彼が、フラワーを持ってきたといっているが・・・意味が良くわからん。何のことやろか?』当時、フラワーといえば花のことしか我が家の辞書には無かった!
またまた日本に来た彼は、ロンドンから自宅で使っている小麦粉(フラワー)を運んできたのだ。
その粉で焼いてくれた食パンはほんとにおいしかった。小麦粉に多分ライ麦粉(もっとほかのものも)そしてひき割りにした細かいコーンや胡桃も混ざっていた。八方手を尽くしてその粉を手に入れようとしたが、未だにお目にかかっていない。忘れられない味!

写真:使い込んだ1.5斤用食パン型

伊丹空港・・思い出す・・ことなど

2010-01-23 22:48:40 | Weblog
1月4日の伊丹空港はいつも以上に混雑、四半世紀も昔のにぎわいを思い出した。
秋田空港上空大荒れで、着陸できなければ≪大阪国際空港≫へ戻ってくることもあるとのアナウンス。オーー、まだ国際がつくの?昔は、名実ともに大阪国際空港だった。全日空と日航のブースが各々国際線と国内線のターミナルだった。よく見送りに来たことがあるなーーーーと、思い出す。

1980年代、我が家にはよく欧米の学生がやってきた。hus.の会社が単位互換制度のもと日本に来る交換学生を、受け入れていた。が、昔のこととて外国人を近しいものに思い、受け入れたいと思う人は少なかった。それならば、まあまあうちにいらっしゃいと言うことで彼らが時々遊びに来ていたわけ。
tesyukeも『連れて来てやってもかまへんか?』と、hus.に聞かれて、『いややけどしゃーないなー』と、崖から飛び降りるような気持ちでゴーサインを出した経過がある。

中でも、最初にやってきたイギリス青年とは、一番ふれあいも深かった。日本が大好きになって、ビザが切れる最終日に出国すると言う。それが、なんと12月31日!
新年の日本を見られないってかわいそうだなーーと、tesyukeはわざわざ一日早く着物を着て(着物姿を見せてあげようと思って)社員寮に彼をピックアップ。家族みんなで、伊丹空港に送って行った。

出国する人で空港はにぎわっていて、外国人も多くいた。そんな中、何人もの外国人が声をかけてきた!
すいません・・写真をとらせてください・・はい、いいですよ・・
出国間際に、日本の着物着ている人見っつけたーーーシチュエーション。
いまもどこかの国で、≪日本で・・民族衣装を着た女性≫なーーんてキャプションつきのtesyukeの写真がアルバムに収まっているに違いない!

それはさておき・・・大変なことが。
さよならーーと、別れたつもりの青年。彼をつれて帰る羽目になったのだ!
ロンドン出身の彼、アメリカ在の叔父さんを尋ねてアメリカ経由でイギリスへ帰るところだった。ところが、彼はアメリカ入国にビザは不必要と聞いていたらしい。とにかくビザは必要で、取得しないことには出国できない。出国拒否。ビザを取るには・・・な・なんと正月休みが明け、領事館が開くのを待たねばならない。わーー・不法滞在!!なんたること・・

えっ明日。1月1日は出かけるところがあるので、彼を家に連れて帰るわけには行かない・・・。
寮に戻り、管理人さんにお願いする。2日に迎えに来るからねと、だーーれもいない建物に一人残して帰宅。
で、2日。迎えに。管理人さん曰く『お節が口に合わず食べない。お餅もだめ。しょうがないのでホットケーキ焼いて食べさせました』2010年ならば問題ないのだが、当時はコンビになんてマイナー。お正月はまだまだ静かな世界だった。
彼を連れて、北野天満宮へ初詣。参道でお好み焼きをがつがつと・・・・飢えていたんだね・・

領事館で、ビザを発行してもらうまで我が家にいたのだが・・
薄着にグレートグランドマザー(ひいお婆ちゃん)が編んでくれたという毛糸(多分赤ちゃん用のおくるみ?)を肩にかけて寒いといていた姿を思い出す。1980年代、日本の家は今よりずっと寒かった。今おもえば、かわいそうなことをしたなーー、寒かったんだろうなと思うが。
親に電話しなくて良いのといっても、絶対ロンドンに電話はかけなかった。

そんなこんなで、もう一度仕切りなおして伊丹空港へ送っていった。気のぬけたビールのような感じで、さ・よ・な・ら!!