11日・・《マンマ・ミーア!》を観に行ってきた。
京都駅に京都シアターが出来て劇団四季が常設的に利用している。友達がチケットを取ってくれて最近では《オペラ座の怪人》をこれが最終公演やて・・と、出かけた。
今回はhus.と二人。何年も前から長期にわたって《マンマ・ミーア!》していたけれど、ちょっと食指が動かないなと電車の中釣り広告(ドナとバンド仲間三人の)を見ていたものだ。ブロードウエイと日本とどんなに違うんだろうという楽しみで今回は出かけた。
2009年にブロードウエイのウィンター・ガーデン劇場で、そしてメリル・ストリープ主演の映画。今回で三回目のマンマ・ミーア!ブロードウエイの《マンマ・ミーア!》。今思い出してもわくわく、楽しさがあふれ出す感じだったなぁ。日本版は、どうなんだろう? おっとっとっと、うるさいな。隣の女性達の井戸端会議のひどさ。人のことは言えないけど・・あそこまでぺチャぺチャ、幕が開きかけてもぺチャクチャ。
舞台装置も似たような感じ。何もさして違わないんだけれど・・・やっぱり違う。
何でだろうと考えていたら・・はたと・・舞台も客も優等生なんだと、思い当たった。静かでおとなしい日本の観客に対しウィンターガーデンの客席は、舞台に反応して大いに笑い陽気な雰囲気だった。劇場の空間を客パワーと舞台パワーが一緒に渦巻いていた!
ABBAの同じ曲なのに、歌詞が日本語のせいなのか、普通の日本語と異なるイントネーションのため、直ぐに意味が聴きとれない、そんなところに違和感を感じるのかもしれない。(オペラ座の怪人のときも一緒)
幕間にコーヒーを飲みながら、ニューヨークへ又行きたいね・・と、hus.に一応言ってみる(笑)。
それにしてもABBAのすべての曲がストーリーと見事にシンクロしているのは驚き。初めからこのミュージカルのために書かれたのでは?と思ってしまう。
それでも、最後に全員総出でドナとターニャとロージー三人のショー再現となると客席も揺れ動いて、おお盛り上がり。よかった。
京都駅に京都シアターが出来て劇団四季が常設的に利用している。友達がチケットを取ってくれて最近では《オペラ座の怪人》をこれが最終公演やて・・と、出かけた。
今回はhus.と二人。何年も前から長期にわたって《マンマ・ミーア!》していたけれど、ちょっと食指が動かないなと電車の中釣り広告(ドナとバンド仲間三人の)を見ていたものだ。ブロードウエイと日本とどんなに違うんだろうという楽しみで今回は出かけた。
2009年にブロードウエイのウィンター・ガーデン劇場で、そしてメリル・ストリープ主演の映画。今回で三回目のマンマ・ミーア!ブロードウエイの《マンマ・ミーア!》。今思い出してもわくわく、楽しさがあふれ出す感じだったなぁ。日本版は、どうなんだろう? おっとっとっと、うるさいな。隣の女性達の井戸端会議のひどさ。人のことは言えないけど・・あそこまでぺチャぺチャ、幕が開きかけてもぺチャクチャ。
舞台装置も似たような感じ。何もさして違わないんだけれど・・・やっぱり違う。
何でだろうと考えていたら・・はたと・・舞台も客も優等生なんだと、思い当たった。静かでおとなしい日本の観客に対しウィンターガーデンの客席は、舞台に反応して大いに笑い陽気な雰囲気だった。劇場の空間を客パワーと舞台パワーが一緒に渦巻いていた!
ABBAの同じ曲なのに、歌詞が日本語のせいなのか、普通の日本語と異なるイントネーションのため、直ぐに意味が聴きとれない、そんなところに違和感を感じるのかもしれない。(オペラ座の怪人のときも一緒)
幕間にコーヒーを飲みながら、ニューヨークへ又行きたいね・・と、hus.に一応言ってみる(笑)。
それにしてもABBAのすべての曲がストーリーと見事にシンクロしているのは驚き。初めからこのミュージカルのために書かれたのでは?と思ってしまう。
それでも、最後に全員総出でドナとターニャとロージー三人のショー再現となると客席も揺れ動いて、おお盛り上がり。よかった。
二月四日
龍谷大学エクステンションセンター(REC)設立20周年の記念講演会。於龍谷大学 アバンティ 響都ホール
前学長・上山大峻氏の講演 《金子みすゞに見る仏教のこころ》
みすゞ人気で会場は満員。
上山先生は、20年前に出版された全集で彼女を知ったとか。くしくも学区(出身地)はたまた出身高校(みすゞ時は女学校)も一緒という事でいっそうの親近感を覚えたそうだ。
講演は、彼女の詩14編を選んで、仏教的な見地からの解説を通じ彼女の生を語るといったところ。よほど思い入れが強いのか感極まっての涙声・・・でのスタート。しかし涙には流されずにしっかりと分かりやすい話で、会場はざわめきも無く、ハンカチを使う人もいるほど。みすゞの生地(山口県・長門市仙崎)は篤信の地であり幼い時からの仏教の教えが彼女の詩の中に垣間見えると。
列挙すれば
あの有名な詩《大漁》は仏の目・仏の心で人間と鰯を見ている。他の詩からも、いつも仏さんと一緒だよと、ほとけに寄り添うという意識があり、信仰が倫理となって生きていると。
《さびしい時》という詩。最後の一行“私がさびしい時に、仏さまはさびしいの。”これは、仏様が私と同じところに立って相手の痛みをとってくれるということ。すなわち同体の慈悲と仏教では言います。
《日の光》おてんとさまのお使いが4人。3人までが明るく楽しい使命を、最後の1人は負の使命・影を作ると語る詩で・・“残った一人は寂しそう。「私は影をつくるため、やっぱり一しょにまいります。」”
先生の解釈は仏教の根本・苦しみ(=影)は付きまとう。むしろ影と仲良く・・。みすゞはこういった負の部分までわかっている人。
詩を通じて、みすゞの一生、そして彼女の娘(ふうちゃん)にも言及。みすゞが弟に残した詩集が出版された後、ほかに遺稿はないかと探したところ、もう一冊でてきた。それは幼い娘がたどたどしく発した言葉を書きとめたもので、それを一冊の詩集にしたとか。
そして、その詩集を見たふうちゃんはすでに70才。
何故私を一人残していったのか、何故連れて行ってくれなかったのかと今まで母をうらんでつらい人生を生きてきた。が、幼い自分の言葉を逐一記録してくれた母が、どれだけ自分に向き合ってくれていたのか・・母のほんとうの愛情に思い当たりました。上山先生が会ったふうちゃんは髪の真っ白な80代のおばあちゃん。晩年にいたって知った母の愛。母への感謝の言葉を上記のように先生に語られた。
みすゞの生地といえば山口県長門市。昨年の9月10日に京大総合博物館へ「鯨のお弔い」というレクチャーを聴きにいった。江戸時代人と仏教の係わりについて研究している若い学究の発表で、江戸期の長門国大津郡(山口県長門市)で行なわれていた鯨回向(現在も行われている)の話。現地調査と通浦の向岸寺に残る鯨墓・鯨位牌の銘文と過去帖の調査報告だった。
その折に、講師が金子みすゞの詩《鯨法会》にも触れた。
鯨法会
鯨法会は春のくれ、
海に飛魚とれるころ。
浜のお寺で鳴る鐘が、
ゆれて水面をわたるとき、
村の漁師が羽織り着て、
浜のお寺へいそぐとき、
沖で鯨の子がひとり、
その鳴る鐘をききながら、
死んだ父さま、母さまを、
こいし、こいしと泣いてます。
海のおもてを、鐘の音は、
海のどこまで、ひびくやら。
もっとも、講師の言いたかったのは、彼女の詩『鯨法会』では彼女の鯨(ないしは生き物全般)へのやさしい眼差しが指摘されるが、「一般に浄土宗の鯨回向と浄土真宗の鯨法会とを混同して論じられるのは注意を要す」と。 tesyukeにとってはどちらでもよいのだが・・
そういえば・・tesyukeも何故だか20年前にはみすゞを知っていて、1996年には仙崎を訪ねている。長門の知り合いが《みすゞ記念館(?)》に連れて行ってくれたが、そ・れ・が・・スーパーマーケットの二階だったのだ!! びっくり・・
もちろ通浦の向岸寺に残る鯨墓・鯨位牌も見た。
龍谷大学エクステンションセンター(REC)設立20周年の記念講演会。於龍谷大学 アバンティ 響都ホール
前学長・上山大峻氏の講演 《金子みすゞに見る仏教のこころ》
みすゞ人気で会場は満員。
上山先生は、20年前に出版された全集で彼女を知ったとか。くしくも学区(出身地)はたまた出身高校(みすゞ時は女学校)も一緒という事でいっそうの親近感を覚えたそうだ。
講演は、彼女の詩14編を選んで、仏教的な見地からの解説を通じ彼女の生を語るといったところ。よほど思い入れが強いのか感極まっての涙声・・・でのスタート。しかし涙には流されずにしっかりと分かりやすい話で、会場はざわめきも無く、ハンカチを使う人もいるほど。みすゞの生地(山口県・長門市仙崎)は篤信の地であり幼い時からの仏教の教えが彼女の詩の中に垣間見えると。
列挙すれば
あの有名な詩《大漁》は仏の目・仏の心で人間と鰯を見ている。他の詩からも、いつも仏さんと一緒だよと、ほとけに寄り添うという意識があり、信仰が倫理となって生きていると。
《さびしい時》という詩。最後の一行“私がさびしい時に、仏さまはさびしいの。”これは、仏様が私と同じところに立って相手の痛みをとってくれるということ。すなわち同体の慈悲と仏教では言います。
《日の光》おてんとさまのお使いが4人。3人までが明るく楽しい使命を、最後の1人は負の使命・影を作ると語る詩で・・“残った一人は寂しそう。「私は影をつくるため、やっぱり一しょにまいります。」”
先生の解釈は仏教の根本・苦しみ(=影)は付きまとう。むしろ影と仲良く・・。みすゞはこういった負の部分までわかっている人。
詩を通じて、みすゞの一生、そして彼女の娘(ふうちゃん)にも言及。みすゞが弟に残した詩集が出版された後、ほかに遺稿はないかと探したところ、もう一冊でてきた。それは幼い娘がたどたどしく発した言葉を書きとめたもので、それを一冊の詩集にしたとか。
そして、その詩集を見たふうちゃんはすでに70才。
何故私を一人残していったのか、何故連れて行ってくれなかったのかと今まで母をうらんでつらい人生を生きてきた。が、幼い自分の言葉を逐一記録してくれた母が、どれだけ自分に向き合ってくれていたのか・・母のほんとうの愛情に思い当たりました。上山先生が会ったふうちゃんは髪の真っ白な80代のおばあちゃん。晩年にいたって知った母の愛。母への感謝の言葉を上記のように先生に語られた。
みすゞの生地といえば山口県長門市。昨年の9月10日に京大総合博物館へ「鯨のお弔い」というレクチャーを聴きにいった。江戸時代人と仏教の係わりについて研究している若い学究の発表で、江戸期の長門国大津郡(山口県長門市)で行なわれていた鯨回向(現在も行われている)の話。現地調査と通浦の向岸寺に残る鯨墓・鯨位牌の銘文と過去帖の調査報告だった。
その折に、講師が金子みすゞの詩《鯨法会》にも触れた。
鯨法会
鯨法会は春のくれ、
海に飛魚とれるころ。
浜のお寺で鳴る鐘が、
ゆれて水面をわたるとき、
村の漁師が羽織り着て、
浜のお寺へいそぐとき、
沖で鯨の子がひとり、
その鳴る鐘をききながら、
死んだ父さま、母さまを、
こいし、こいしと泣いてます。
海のおもてを、鐘の音は、
海のどこまで、ひびくやら。
もっとも、講師の言いたかったのは、彼女の詩『鯨法会』では彼女の鯨(ないしは生き物全般)へのやさしい眼差しが指摘されるが、「一般に浄土宗の鯨回向と浄土真宗の鯨法会とを混同して論じられるのは注意を要す」と。 tesyukeにとってはどちらでもよいのだが・・
そういえば・・tesyukeも何故だか20年前にはみすゞを知っていて、1996年には仙崎を訪ねている。長門の知り合いが《みすゞ記念館(?)》に連れて行ってくれたが、そ・れ・が・・スーパーマーケットの二階だったのだ!! びっくり・・
もちろ通浦の向岸寺に残る鯨墓・鯨位牌も見た。
シンシナティを西部の女王都市とたたえた詩人のロングフェロー。
えっ、ロングフェローだってと、tesyukeはびっくり。こんなところで彼の名を聞くとは!
アメリカの詩人なんて・・知っている名前と言えばホイットマン位。
かすかに耳をかすっていたのがロングフェロー。アメリカの独立戦争時の英雄《ポール・リビア》の勇敢な行動を詩にあらわした人として。でも、ただそれだけ。
「ポール・リビアの騎行(Paul Revere's Ride)」
この詩はアメリカ中で最もよく知られている。
・・冒頭部分・・
Listen, my children, and you shall hear お聞きよ子供達。これは聞いとくべきだよ
Of the midnight ride of Paul Revere, ポール・リビアの真夜中の騎行の話だ
On the eighteenth of April, in Seventy-Five; 時は1775年、4月18日の夜
Hardly a man is now alive 今はもうだれも生きてはいないよ
Who remembers that famous day and year その有名な日と年のことを憶えている人は
On the midnight ride of Paul Revere ポール・リビアの真夜中の騎行
2006年の夏を、ボストンのケンブリッジ地区(ハーバード大学の近く)で過ごしていた・・
始めてのボストンで、一人で歩いて遠出はちょと・・・・状態のころ。いつもハーバードの構内を横切って、地下鉄の駅まで歩いて行き、ボストン側の観光地へといっていた。で、毎日ケンブリッジの地図をながめては、一人で動けるように土地勘を養っていた。そんな折地図上の住宅の一角に印が!おっ、国家史跡だって。何々、ロングフェローの旧居?
ハーバード大学と平行して幹線道路(その下が地下鉄?)があり、その道路の反対側に大きな公園(ケンブリッジ・コモン)がある。たまには歩いているその公園とチャールズ川の間が住宅地となっている。そこにロングフェロー邸がある。
ボストンといえばボストン・コモンが有名だが、ケンブリッジ側にも同じような公園でケンブリッジ・コモンがある。聞けば1631年に家畜を放牧したり、市民軍を訓練したり、集会を開いたりするための場所として設けられたものだとか。ボストン・コモンと前後して作られたようだ。ケンブリッジ・コモンで驚くのは、ワシントンの銅像と記念碑があること!
最初、ワシントン! 何故? ボストンと何か関係が?と、思ったのだが・・・・
ここは独立戦争のさなかにワシントンが宿営し、指揮をとったところだとか。これだけでもかなりわくわく。
***ボストンはアメリカの歴史のゆりかご。いずれいろんな見聞を書きたと思っている***
ケンブリッジ・コモンを横切り住宅地の通りを確認しながらロングフェロー邸へ。
ヘンリー・ワーズワース・ロングフェローはアメリカの国民的詩人。(1807年2月27日 - 1882年3月24日)
優秀な学生だった彼は言語学の研究のためヨーロッパへ何度か出向いており、最終的に1836年にアメリカに戻り、ハーバードの教授となる。1837年この家に間借り。1843年に二度目の妻と結婚したとき、妻の父が結婚祝いにこの家を買い取ってロングフェロー夫妻にプレゼント。以来40年をここで過ごす。
人っ子一人もいない静かな住宅地を、地図を片手に・・歩いていると、静かな公園にたどり着いた。あとでその名もロングフェロー公園と知ったのだが・・。その公園の中にはメモリアルスペイスといた場所があり、壁面には人物のレリーフがあり、中心に男の胸像。ははー、この人がロングフェローさんか・・と、いった感じ。この時点で、tesyukeは彼をアメリカの誇る大詩人と思ってもいない。そこから目を転じれば広々した公園のかなた道を隔てて立派なお屋敷が見える。あれが目的地か・・と、急ぎ門前へ。
ロングフェロー国立歴史地区 Longfellow National Historic Site
1759 House Built By Major John Vassal 1759年に建てられ
Headquorters of General George Washington 1775-1776 ワシントン将軍の指令本部
Home of Henry Wadsworth Longfellow 1837-1882 ロングフェローの住居
この家の前で又びっくり。独立戦争中にジョージ・ワシントン将軍が住んでいたのだ!
門はあいているので中に入っていく。が、今日は休館日・・建物の中には入れない・・残念!
家の周りを一周。庭園は自由に散策できる。綺麗に手入れされていて花が色々咲いている。裏庭へ回ると、リンゴの木もあって、小さな実がたくさんなっている。
あらあら、その木に若い女性の顔がのぞいている。こんにちは・・・
ロングフェロー邸の庭の手入れに来ている庭師さんだとかで、この女性も国立公園のレインジャーさんなのかもしれない。
この木は林檎ですか?と聞けば、サワー・アップルですっぱいので食用にはなりません。ジャムなんかにしますとのこと。
日がかげって、あっという間に夕暮れ。早く帰らなくてはとロングフェロー邸をあとに。
往路に輪をかけての恐ろしさ。だーーれも歩いてない。長い塀が続く。日は落ちてうす暗くなってきた。musumeが朝に言っていたことを思い出す。大学の管理部から連絡メールが来てたわ。最近このあたりで事件がおきたので、全学教職員・学生気をつけて下さい、だって。とにかく、地元民には見えないんだから十分気をつけてね!
コツ・コツ・コツ・コツ。あーー、後ろから靴音が。だれやーー。こわーー。
恐る恐る振り返ると、それは仕事を終えて家に帰るあの庭師さん。あーよかった。ハイ!又会いましたね。ちょっと写真取らしてもらってもいいですか?
素朴な感じの良い女性だった。(というより少女のような感じ)
えっ、ロングフェローだってと、tesyukeはびっくり。こんなところで彼の名を聞くとは!
アメリカの詩人なんて・・知っている名前と言えばホイットマン位。
かすかに耳をかすっていたのがロングフェロー。アメリカの独立戦争時の英雄《ポール・リビア》の勇敢な行動を詩にあらわした人として。でも、ただそれだけ。
「ポール・リビアの騎行(Paul Revere's Ride)」
この詩はアメリカ中で最もよく知られている。
・・冒頭部分・・
Listen, my children, and you shall hear お聞きよ子供達。これは聞いとくべきだよ
Of the midnight ride of Paul Revere, ポール・リビアの真夜中の騎行の話だ
On the eighteenth of April, in Seventy-Five; 時は1775年、4月18日の夜
Hardly a man is now alive 今はもうだれも生きてはいないよ
Who remembers that famous day and year その有名な日と年のことを憶えている人は
On the midnight ride of Paul Revere ポール・リビアの真夜中の騎行
2006年の夏を、ボストンのケンブリッジ地区(ハーバード大学の近く)で過ごしていた・・
始めてのボストンで、一人で歩いて遠出はちょと・・・・状態のころ。いつもハーバードの構内を横切って、地下鉄の駅まで歩いて行き、ボストン側の観光地へといっていた。で、毎日ケンブリッジの地図をながめては、一人で動けるように土地勘を養っていた。そんな折地図上の住宅の一角に印が!おっ、国家史跡だって。何々、ロングフェローの旧居?
ハーバード大学と平行して幹線道路(その下が地下鉄?)があり、その道路の反対側に大きな公園(ケンブリッジ・コモン)がある。たまには歩いているその公園とチャールズ川の間が住宅地となっている。そこにロングフェロー邸がある。
ボストンといえばボストン・コモンが有名だが、ケンブリッジ側にも同じような公園でケンブリッジ・コモンがある。聞けば1631年に家畜を放牧したり、市民軍を訓練したり、集会を開いたりするための場所として設けられたものだとか。ボストン・コモンと前後して作られたようだ。ケンブリッジ・コモンで驚くのは、ワシントンの銅像と記念碑があること!
最初、ワシントン! 何故? ボストンと何か関係が?と、思ったのだが・・・・
ここは独立戦争のさなかにワシントンが宿営し、指揮をとったところだとか。これだけでもかなりわくわく。
***ボストンはアメリカの歴史のゆりかご。いずれいろんな見聞を書きたと思っている***
ケンブリッジ・コモンを横切り住宅地の通りを確認しながらロングフェロー邸へ。
ヘンリー・ワーズワース・ロングフェローはアメリカの国民的詩人。(1807年2月27日 - 1882年3月24日)
優秀な学生だった彼は言語学の研究のためヨーロッパへ何度か出向いており、最終的に1836年にアメリカに戻り、ハーバードの教授となる。1837年この家に間借り。1843年に二度目の妻と結婚したとき、妻の父が結婚祝いにこの家を買い取ってロングフェロー夫妻にプレゼント。以来40年をここで過ごす。
人っ子一人もいない静かな住宅地を、地図を片手に・・歩いていると、静かな公園にたどり着いた。あとでその名もロングフェロー公園と知ったのだが・・。その公園の中にはメモリアルスペイスといた場所があり、壁面には人物のレリーフがあり、中心に男の胸像。ははー、この人がロングフェローさんか・・と、いった感じ。この時点で、tesyukeは彼をアメリカの誇る大詩人と思ってもいない。そこから目を転じれば広々した公園のかなた道を隔てて立派なお屋敷が見える。あれが目的地か・・と、急ぎ門前へ。
ロングフェロー国立歴史地区 Longfellow National Historic Site
1759 House Built By Major John Vassal 1759年に建てられ
Headquorters of General George Washington 1775-1776 ワシントン将軍の指令本部
Home of Henry Wadsworth Longfellow 1837-1882 ロングフェローの住居
この家の前で又びっくり。独立戦争中にジョージ・ワシントン将軍が住んでいたのだ!
門はあいているので中に入っていく。が、今日は休館日・・建物の中には入れない・・残念!
家の周りを一周。庭園は自由に散策できる。綺麗に手入れされていて花が色々咲いている。裏庭へ回ると、リンゴの木もあって、小さな実がたくさんなっている。
あらあら、その木に若い女性の顔がのぞいている。こんにちは・・・
ロングフェロー邸の庭の手入れに来ている庭師さんだとかで、この女性も国立公園のレインジャーさんなのかもしれない。
この木は林檎ですか?と聞けば、サワー・アップルですっぱいので食用にはなりません。ジャムなんかにしますとのこと。
日がかげって、あっという間に夕暮れ。早く帰らなくてはとロングフェロー邸をあとに。
往路に輪をかけての恐ろしさ。だーーれも歩いてない。長い塀が続く。日は落ちてうす暗くなってきた。musumeが朝に言っていたことを思い出す。大学の管理部から連絡メールが来てたわ。最近このあたりで事件がおきたので、全学教職員・学生気をつけて下さい、だって。とにかく、地元民には見えないんだから十分気をつけてね!
コツ・コツ・コツ・コツ。あーー、後ろから靴音が。だれやーー。こわーー。
恐る恐る振り返ると、それは仕事を終えて家に帰るあの庭師さん。あーよかった。ハイ!又会いましたね。ちょっと写真取らしてもらってもいいですか?
素朴な感じの良い女性だった。(というより少女のような感じ)