近頃のヒット!なにがと言えば、京都高島屋にたまたま行き合わせて、たまたま見た《岡倉天心の遺産展 4月18日~30日》が、いやーーよかった、よかった、と言うわけで。
岡倉天心・・明治時代・・フェノロサと日本美術の再発見・・日本美術院・・ボストン美術館・・茶の心を出版、等々。これ位のことしか思い浮かばないのだが、あらためて《智の巨人》だったんだと、この展観で知った。ふっと、南方熊楠を思い出したり・・。明治時代にはびっくりするような人物が輩出されていると、感心したり!!
ボストン美術館では天心を顕彰して日本庭園が作られていた。ボストン美術館の向かいにあるガードナー美術館を訪れたときは、これを建てたガードナー夫人と岡倉天心の交流を知り、天心のアドバイスで収集した日本の襖絵や屏風などの展示を見た。天心の外国での足跡のほうが鮮明で、日本でのことはあまり深く知らない・・・・
展示の初め《岡倉天心の生涯》ということで、一番に目に付くのがほぼ等身の金箔を押した座像。古代の衣服に帽子(冠)をつけて、一見柿本人麻呂風に座っている。これはいったいとびっくり・・何か神像の雰囲気?よく見れば、あの有名な平櫛田中作とある!明治22年天心は27歳で東京美術学校の校長になっているが、開校した東京美術学校の記念写真では学生が制服としてこの古代の格好をしているから多分この姿を残したのだろうと合点。
**平櫛田中は・・・平櫛さん、理想ですよ。彫刻で理想をやってくれるのはあんただけです。・・・と、臨終の天心に言われ、それが生涯の目標となったと語っている・・・。**この一行を知って腑に落ちた。彼の彫った天心の胸像はなぜか特別の雰囲気・胸にくるものがあったから。100歳を生きた平櫛田中の天心の弟子としての矜持・思いがこの胸像にこもっているからだろうか・・。
天心の東京美術学校校長時代の卒業生、あの有名な横山大観・下村観山らの卒業制作の絵が展示されていた。これぞ純粋をカタチにしたような、見ていて気持ちが安らぐすばらしいものだった。思いがけずにこんなものを見られて満足・満足。
東京美術学校を反対派による排斥運動のために9年後に追い出さた天心が日本美術院を設立すると言う新たな展開になっていく。が、1906年に活動拠点を茨城県の五浦海岸(いづらかいがん)に移している。この辺りのことはまったく知らなかったが、横山大観・下村観山・菱田春草・木村武山などがこの地に住み一大芸術村の体をなしていた。で、ここに天心が思索の場として建てたのが六角堂。
ここにきて、どうやらこの展観は、五浦六角堂再建をよく知ってもらいたいと開催されているようだと気づく。一年前の大震災で土台を残して流失したものを茨城大学が中心となり、再建に取り組んだ。それがこの4月に完成した。その奮闘過程が《甦る六角堂》としてビデオで紹介されていた。
それにしても、天心の生涯は常人の1.5倍か2倍の厚みがある。えっ、50歳でなくなっておられる・・?年配の方のように思っていたが・・。略記を見れば、1863年生、幼少時に英語・漢籍を習得。明治6年東京外国語学校に入学、10歳!。同8年には東京開成学校(のちの東京大学)に入学し,政治学,理財学を学び、13年東京大学文学部を卒業、17歳!!。それに16歳で結婚、相手は13歳!!くらくらっ・・・・
20代前半東京美術学校設立準備のための欧米視察。30代後半インド訪遊タゴール等と交流。アメリカでボストン美術館中国・日本美術部長等。と、天心の仕事もワールドワイドに。そんな中で、日本の伝統文化に誇りを持ち、そこに西洋の良い部分を取り入れることで、ますますの発展を期したいという考えがはぐくまれたようだ。
インドでは、アジア初のノーベル文学賞を受賞した詩人ラビンドラナート・タゴールと特に深く交流している。岡倉天心の思いはタゴールなどのインド思想に大きく影響を与えたようだ・・。天心に対して書かれた大きなタゴールの書が展示してあった。
Lead me from the unreal to the real / from darkness to light / from death to deathlessness /Rabindranath Tagor(名前)