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Tesyuke‘s diary

行く川の流は絶えずして・・・
日々忘れ去っていくことどもを書き留めて思い出といたしましょう。

  トルコのおばあさん

2016-04-14 22:20:15 | トルコ

私にはトルコ人の友達がいる。彼女の名前はエミネ、オーストラリアのメルボルンで知り合ってかれこれ20年。

そんな彼女とトルコの黒海沿岸を旅行したことがある。

オーストラリアとトルコの二重国籍を持っている彼女からイスタンブールに家を買ったから遊びにいらっしゃい、と電話があったのは2003年。

その時にグルジア(現ジョージア)国境近くまで旅したのだった。トルコの旅はバスが主流。長距離バス網が発達している。

今回はエミネさんにお任せのスケジュールで、バスの旅。黒海地方はエミネさんの故郷でもあり、今も従妹がサムスンに住んでいる。で、まずは一番にそこを訪ねるという。

サムスンは黒海沿岸最大の工業都市で、トルコ建国の父ケマル・アタチュルクが祖国解放の一歩を踏み出したので有名な都市。イスタンブールから850キロメートルほどありほぼ一日がかりの旅程だった。

エミネさんの従妹の家は港を見下ろす高層住宅の一角にあった。従妹はふっくらとしたやさし気な顔立ちの人で、私は正倉院の宝物・鳥毛立女屏風の美女をふっと思い出した。

トルコ人の家族の絆は強く、どこへ行っても年老いた人が大事にされているのには驚くのだが、ここにもエミネさんの伯母さんにあたる九十才を超えた女性がいた。

足が不自由だが、かくしゃくとして、どんな時でも、一番の上座に座っている。落ちくぼんだ眼窩にはとても鋭い目があり、笑うことを知らないような厳しい雰囲気が漂っている。

苦労を重ねて子供を育てたというのがうなずける近づきがたい感じの人だった。私の亡くなった母が生きておればこれほどの歳になっていたのかと感慨深く思ったものだ。

このおばあちゃんの部屋にあったもう一つの小さなベッドを使わせてもらうことになり、彼女と数日を過ごすことになった。私は、母が生きておればしたかもしれない、そんなことをおばあさんにさせてもらおうと思った。着替えを手伝ったり、移動するのに手をかしたり。

言葉は通じないけれど、話かけながら・・。就寝前に私が化粧水をつけるのをじっと見つめる彼女。そっと化粧水をつけてあげると、なんともうれしそうな顔をしてくれた。

この家には、三人の子供がいて、長男は士官学校を出て任官。次は双子の男女で男の子は士官学校生。一人家に残った女の子は大学生。ほっそりした美しい彼女とよく街へ出かけた。彼女もいずれスカーフで身を包み一生を過ごすようになるのかと、複雑な思いにかられたものだが・・

彼女から、おばあちゃんはチーズが大好きと聞いたのでチーズ専門店で彼女にチーズを選んでもらう。家に戻ってキッチンに置いておくと、彼女が来て「直接おばあちゃんに手渡してあげて」と、にっこり笑って言う。そんな心づかいのできる女の子だった。

ところで、ここの主は家電販売店を営んでおられるとかで寡黙な人だった。夕暮れ時にアザーンが聞こえてくると夫婦並んでモスクへ礼拝に出かけて行くのを高階から見送ったものだ。エミネさんの従妹はもちろんスカーフにコートでしっかり肌を覆っている。

夕餉も済んだひと時、エミネさんが、「あなたは構わないからお入り」と居間に招き入れてくれたことがある。薄暗くした部屋でテレビを見ている家族。男性は主一人。あっと、声をあげそうになるほどびくりした。タンクトップ一枚でむっちりした肌を惜しげもなくさらしている肉感的な女性が! 誰あろうエミネさんの従妹だったのだ。

そんなこんなの日々を過ごしていたある日、おばあちゃんの部屋で、エミネさんとエミネさんの従妹が、「どうしてそんなにおばあちゃんにやさしいの?」と私に聞いた。「母が生きておればこんなことをしてあげられたかもしれないと思って」と答えると、二人はポロポロ涙を流す。

えっ、こんな返事に涙ぐんでくれるとはと、私は逆にびっくりして、つられてほろっと涙。エミネさんは「おばあちゃんは、自分のことが話題で、三人が泣いているとは思ってもいないよね・・・」と言って又涙する。

その時だった。おばあちゃんが私の頬をつねったのだ。突然のことに私はびっくりして飛びあがった。何故? おばあちゃんは私のことが嫌いなの・・・と。

しかしこれはトルコでは親愛の情を示す行為(主に子供に対して)だとエミネさんが教えてくれて、おばあちゃんはあなたをかわいいと思っているのよと。そしておばあちゃんの言ったことを通訳してくれた。

翌年におばあちゃんの訃報を聞いた。思い出すたびに胸があつくなる。あの時『私が若かったら、あんたがしゃべっている言葉を習うのに』と言ってくれたのだ。

しかし、言葉は通じなくても心は通じていたと私は今も思っている。

 *アザーン イスラムの礼拝の時刻を知らせる呼びかけモスクの塔の上などから流される


コンヤ in Turkey ②

2009-12-28 23:08:03 | トルコ
ビニール袋に靴を入れて素足で《メヴラーナ博物館》の中に入る。
イスタンブルで沢山のモスクを見、地中海沿岸ではギリシャ・ローマの色に染まり、再びのイスラム。

とはいえ、このコンヤのメヴラーナ博物館、普通のイスラム文化とは毛色が違う。
イスラム教の一派で神秘主義教団であるメヴラーナ教団発祥の地。で、博物館といっているがこのモスクは教団創始者・メヴラーナ・ジェラールッディン・ルーミー(1207~1273年)の霊廟なのだ。メヴラーナ教団は今では踊る宗教として結構知られている。白い服(スカート)を着てただくるくる回るだけ、それが瞑想の手段。
<・・・・セマ(旋舞の儀式)は、信者が笛や太鼓にあわせてゆっくり反時計まわりに旋回するところからはじまります。彼らは墓標をあらわす帽子をかぶり、最初は死を意味する黒い衣服を着ています。やがて、黒い衣服を脱ぎ捨てると、その下には再生を意味する白い服を着ています・・>といった説明を聞く。
(写真は展示物・旋回している僧達)

神秘主義のせいかどうか知らないが、トルコ共和国建国の父・アタチュルクの宗教分離政策で教団は解散、旋回舞踏は禁じられ、1927年に霊廟は宗教色を薄める形で博物館としてオープンしたのだとか。

内部にはいろいろな物が所狭しと展示されていて高僧たちの棺がこれまた所狭しと並んでいる。イスラムの棺はとっても大きくて独特の色彩で飾られていてターバンが載せられている。一番奥にある一回り大きい棺がメヴラーナ・ジェラールッディン・ルーミーのもの。棺の上に乗っているターバンも又大きい・・(ターバンは地位の象徴)

建物を出て、バスに戻る。ぞろぞろ歩いている観光客に子供達がアタック。お土産を売りに来る・・・売りに来る・・・
コンヤも今では地方都市、(ルーム・セルジューク朝には首都だった)子供達もイスタンブルの子達に比べると押しが甘い感じ!
しかし、こんなものを買いました。柄の付いたプラスチックの円盤上に鶏が並んでいて、真ん中にえさが置いたある。柄を持って水平にまわすと、円盤から下にたれた糸に付いた鉛の玉がぐるぐる回り、糸で結ばれた鶏の首が動き、えさを突っつく。カタコトカタコトえさをつつく音までする優れもの。

ところで、有名な旋回舞踏は1970年代に再開を許されたとかで、日本で公演されたこともある。tesyukeもカッパドキアで2回見ることができた。静かな中に興奮がみなぎってくるような不思議なものだった。2005年の方がカクテル光線を使用してよりショーアップしてあった。っ実際の修行の場合はなどでは、きっとトランス状態になって、神に出会うこともあるんだろうな・・・等と思う。

コンヤ in Turkey ①

2009-12-26 21:55:14 | トルコ
最近のニュース。《京都市長がトルコのコンヤ市を訪問。パートナーシティ提携式・日本京都庭園オープニング式典に出席。京都がトルコのコンヤ市とパートナーシティ提携を行った》と。

コンヤか・・・・懐かしいな・・・と、tesyuke。
典型的なトルコ旅行では地中海沿岸から内陸(アナトリア)に入りカッパドキアから首都・アンカラを経てイスタンブルへ戻る。
その時に、アナトリアはパムッカレからコンヤへ。コンヤからカッパドキアへ。と移動していくのだが、ケースバイケースでコンヤには寄らずに通過していくことも多い。
1997年にオーストラリア人達とした旅行では、コンヤへ寄った。
2005年は夜明けのコンヤをレストラン(バスの休憩所)から眺めるだけだった。

1997年時に、tesyukeはコンヤのことをまったく知らなかった。
コンヤで向かったのはメヴラーナ博物館と呼ばれている大きなモスク。観光バスが長い列を作り観光客が入り口に群れを成していた。
トルコ人の友達(Emine)がここは戒律が厳しいのよと、おもむろに大きな美しい白いスカーフを取り出し額も隠して肩まで覆うように(日本の尼さんのようなかんじ)きっちりとかぶり、貴女もよと言った。オーストラリアで暮らしている彼女はイスラム教徒だが、普段は短パンにTシャツで肌はもろに露出している。トルコに来るとTPOをわきまえ、軽から重へ、着込んだり覆ったりと変幻自在。スカーフだっていろんなかぶり方がある!

敬虔なスカーフをかぶったモスレムの女性達に混じって、ざわざわしているのが外国人たち。どうも勝手が違うという感じ。短パンの男性達は大きな布を渡されて、巻きスカート状にして肌を隠すが、ちょっとこっけい!(写真:メルボルンの高校の校長さんです)
靴を手に持って内陣へ。

再びエーゲ海の島・・ロードス島

2009-03-28 23:19:47 | トルコ
コス島からトルコに戻り、3日ほど内陸をうろうろした(石灰棚の丘陵地帯・パムッカレ等へ行った)後、又海辺に出てきた。マルマリスという町。ここから今度はロードス島へ・・・
ロードス島はトルコ領だったこともあるが、今はギリシャ領。ロードス島北端にある島の中心地ロードス市へ水中翼船でわたる。コス島に比べ大きいこともあって、船は大きくカスタムも立派。
トルコからギリシャへと、行って帰って行って帰って、パスポートにスタンプが8個!!

ロードス島到着。海岸から沖へと海の色が変化して沖へ行くほど濃いブルー。砂浜には、ビーチパラソルが立ち、ビーチチェアーが規則正しく並んで、大勢のバカンス客で、にぎわっている。彼らは、明るい夏の太陽を満喫するために居り、過去の(ロードス島)戦記の記憶などみじんも持ち合わせていないように見える。

美しい夏のエーゲ海から目を移すと、そこには黒ずんだ物々しい城壁と櫓。これが、十字軍の聖ヨハネ騎士団が築いた城壁なのか!(もっとも紀元前にはすでに建物が建設されていたという。)
ロードス市に残るこの中世期の町並は「ロードスの中世都市」の名で世界遺産に登録されている。

重要スポットと言うわけで、ギリシャ人のガイドがついて、旧市街と呼ばれている場所へ。
ガイドは大學で考古学を専攻しているという美しい女性だった。
城壁にあるアーチ状の石の門をくぐれば、旧市街。Saint Anthony Gate。この門の上は、くりぬいた小部屋のようになっていて、像が立っている。(Saint Anthony この町の守護神か?)いよいよ聖ヨハネ騎士団が14世紀に建設した街へ。

街での一番のお目当ては聖ヨハネ騎士団の住居が並んでいたと言う「騎士団通り」。この中世そのままと言う町並みは意外と細い。そして、長く続く通りに面し途切れることなく塀や建物が続いている。塀を越して表にせり出している木々の緑と花々が美しい。
建物は色彩も建て方も統一されているようで、直接通りに向け窓を持つ建物もあれば、玄関になっているところも。
所々にはアーチ形の石の門(玄関口)があり、鉄の扉が開いていて、中に入って行ける。アーチの上にはその家の紋章か、レリーフが。そんなお屋敷は奥深く表の暗さに対し、明るい中庭が輝いて目に入る。ブーゲンビリアの赤紫がちらっと見えたりする。

外国人が妻籠・馬籠あたりを歩いて、日本の江戸時代や・・と、感激するかしら?なーーんて、しょうもないことを考える。
いやいや、ロードス島、値打ちが違います。石の文化は強い!
歩道の敷石だって、建物だって確実に当時のもの。どれだけの人々が踏みしめ行き来したのか・・

この通りは、土産物屋など一切無く、歩いているのは観光客だけでなんとものんびりした感じ。ふーーっつと、中世の風が吹いてくるようだ。

写真:騎士団通り

エーゲ海の島・・コス島 ②

2009-02-22 12:07:24 | トルコ
で、彼女について船室へ。いました、隅っこに日本女性が。ガールって言ってたよと言うとそんな年では・・と、苦笑い。桂子さんという東京出身の彼女も日本語に飢えていたのか二人でしゃべりまくり。(長い旅の間心ゆくまで日本語をしゃべったのはこのときだけ。)

桂子さんは、イスタンブルでトルコ系の旅行社に勤めていて、休日を利用してコス島へ。バスで今朝着いたとか。ふーーん、バス?と、トルコ事情を知らないtesyukeは不思議な思い。今ならば、このパターンの旅行が一般的でリーズナブル、トルコ人仕様ということは分かっているが・・

コス島に上陸。入国審査!
小さい島で港のあるコスタウンがすべての中心。白い建物にブーゲンビリアの赤い花が美しい。海岸線は美しい砂浜で海水浴客が多いようだ。砂浜の先は青い海と青い空。。白と赤と青のギリシャ!
トルコの町にはなにかごみごみとした粘着性を感じるがここはからっと明るさのみ。

行くのはコスタウンだけなので、特別のガイドは着かず、三々五々、船着場からなだらかな石の坂道を上がっていく。桂子さんも一緒に来ると言う。
で、町の真ん中にあるアゴラ遺跡へ(Ruins from the Ancient Agora of Kos, dated to the late 4th century b.C.)
原っぱに白い石の残骸が遺跡をかたちづくっている感じで、遺跡のそこかしこにモザイクがいっぱい!中でもフライング・ドルフィンのモザイクが美しかった。
この島は医聖ヒポクラテスの生地で、彼関連の遺跡もあったがそこには行かなかった。

改めて当時の写真を見ていると、街角の店に‘へちまたわし’がぶら下がって売られているのがあった。白くて大きい。今ではお目にかからないが、日本でも昔はへちまを植えたらそんなものを作っていた。うわーー、日本とおんなじや!と思ったたのだろう。
木の板にコス島の景色を描いたものを買っていたら、メメントウやねと言われた。一つ英単語覚え! memento・・思い出の品・みやげ

桂子さんとはほんとに良くしゃべった。
二人で盛り上がったのは、外国人とショッピングに行って、≪この洋服素敵ね・・・そう、思わない?≫なんぞと言われたときに、答えに窮するよね・・と言うような話。
やっぱり、好み・感性がちがうから、こちらはぎょっと思えど、素敵とは思いもしないような時、なんと言ってよいのやら・・困るわね。

桂子さんと別れるとき、彼女がまじめな顔をしてtesyukeに言った。『tesyukeさん、トルコの夏に無理をしては駄目よ。プランのすべてに参加しようと思わないで・・。時々エスケープしてのんびりしなさいね』
ほんとに、この言葉のおかげで、無理をしないで以後の旅行を続けられた。

海外で日本女性に会うと、そのとき感じる素の人柄だけが頼り。年齢・バックボーンは関係なく、**さんと呼び合って対等に話が出来るのがうれしい。
が、さすが母娘二人と言う彼女に、『たまにはお母さんにファックスしてあげてね』と、tesyukeはかなり母親サイドの気分。思えば十年一昔と言うが、インターネットは黎明期で国際電話は高い時代だった

写真 タイルのフライングドルフィン

エーゲ海の島・・コス島 ①

2009-02-20 22:24:54 | トルコ
マンマ・ミーアがエーゲ海の島でロケされたと知って、見に行く前からわくわく。あの海の色!あの海の色!世界中の光を集めたような輝かしき海。
この映画の島よりは大きかったが、それでもかなり小さいコス島にtesyukeは行ったことがある。
1997年。オーストラリアの人達との1か月のトルコ旅行中。
トルコのBodrumボドルムからフェリーで渡った。
(この旅行の顛末は又いずれ書きたいと思っているが、イスタンブルで合流したオーストラリア人が予想を超えた大部隊で、可憐な日本女性たった一人では太刀打ちできまへんと恐れをなしていた頃だった。
まだ腰が落ち着かず、このまま旅行を続けず日本へ帰ろうか・・と、思案していた。)

当時、tesyukeにとってトルコのイメージはイスラム!だった。
かろうじて知っている名前ダーダネルス海峡を越えヨーロッパ大陸からアジア側に入るとトルコはエーゲ海そして地中海に面するようになる。このときほどトルコの地に古代ギリシャ・ローマを強く感じたことは無い。目からうろこの思い。

ともあれ、Bodrumボドルムはエーゲ海の南西部にあるトルコで最も人気のあるリゾート地。日帰りでここからギリシャ領へ行けるのだ。
海に突き出るように15世紀初め十時軍が築いたと言うボドルム城が見えている。その近くにフェリー乗り場やカスタムがある。まず、カスタムへ。

日本で暮らしていると、どこへ行くにも自分の立場は同じで身分をうんぬんされることは無い。又、外国の町へ飛行機で降り立つ時はそれなりにかしこまった気分になる・・・。
が、このときのコス島、ちょっと前に見えている所に行くんだけど・・・それでもパスポートを見せて、税関通らないといけない・・・・と、とっても新鮮な経験だった。たとえて言うなら、村の船頭さんに川を渡して貰うのに、なんだか身体検査されるといったギャップみたいなもの。(多分下関と釜山が同じようなことかもしれないが・・)

小さな建物に大勢の人が船を待つ。チケットを渡すとフェリー会社のトルコ人スタッフがtesyukeに言った。『日本人は、われわれの兄弟ですよ。日本人にしちゃあんた大きいね・・』
‘兄弟’は言い過ぎやろうてと思いつつ、日本人の方の熱が同等で無いかもと、ちょっと申し訳ない気持ちに。

小さなフェリーの二階席で心地よい風に吹かれてぼおっとしていると、オーストラリアの旅の仲間ジェラルデインが、一段とばしの勢いで階段をかけ上ってくる。
何事かと思っているとtesyukeの前に立ち、『早くいらっしゃい。一階の奥に日本の女の子がいるから。日本語がしゃべれるよ。早く・・早く・・』
このときだった。最後まで旅を続けようと決心したのは!
ありがとう。仲間と、思ってもらってたんだ・・・

写真:写真:ボドルム城と港(写りが悪い・・)

自句自解・トルコによせて

2009-02-01 15:19:41 | トルコ
友達が、ファックス句会をしてるんよ・・入らない?っと声をかけてくれた。
かれこれ10年続いているそうで、
とっても気楽よ・・・いつもは出来ないちょっと冒険した句をだしたりするの・・と。
それで、入会したのが昨年秋。
月に一回提出だけのことなのに早い早いあっという間に1ヶ月が過ぎていく。

それでも句会の結果を記した便りが届くのは楽しく待ち遠しいもの。
なかでも≪今月の自句自解≫コーナーなどを見ては、この作者はどんな方なんだろうと、想像を膨らませる。
それが、今回≪自句自解≫お願いしますと言うメモが、ポロリと落ちて・・・あわてふためくことに。
いずれまわってくるのならと、tesyuke本来の先生お目通し句を引っ張り出してにわか作文。
ふうふう・・ 以下駄文。

≪トルコによせて ≫           
阿弥陀くじに一本線を書き足すと思わぬ結果を得ることがある。
私にとってエミネ・ジュマートがそれに当たるのかもしれない。
1996年オーストラリアのメルボルンでたまたま会った彼女は移民のトルコ人。
トルコのビデオを見せてもらったりしているうちに私はトルコに魅せられていった。
そして、翌年初めてかの地を訪れた。

*涼風や言葉通じぬ国にいて
*鶏鳴けるカッパドキアの朝涼し

奇岩で有名なここカッパドキアも夏はむせるように暑い。
それゆえ朝の爽やかさはひとしお。
雄鶏が時をつくる、忘れさったのどかさの中に目覚める・・・

何度かの訪問の中でも忘れられないのは、彼女と行った黒海地方。
彼女の故郷でもあるグルジア国境近くまでの旅だった。
黒海の沿岸を長距離バスは走る。
リセと言う町近くに来ると車窓に茶畑が広がる。
宇治田原を髣髴させる風景が延々と続く。

*リセに咲くチャイとなる茶の木の花が

行く先々でトルコのお茶・チャイをご馳走になり、貴女を好きよと、頬をつねられた。
お祈りの時間を告げるアザーンの声が胸をふるわす、
あのトルコの地を私は今も忘れがたく思っている。

イヤー、句友の皆さん、どんなtesyukeを想像なさるでしょうか?
落差にびっくり。会わぬが花。

ナイチンゲール・ミュージアム⑥

2009-01-06 12:29:13 | トルコ
tesyuke達の前に座った上官はどうやら話がしたいらしい。
フェジティンが傍に座って通訳してくれる。なんだかんだよもやま話の後で・・・
『ところで、アメリカについてはどう思われますか?』
ヒェー!えらい質問が飛んできたもんだ。

アメリカのイラク侵攻にトルコは同調している。(というか、せざるを得ない状態) 
アメリカよりの政府の態度に対してtesyukeの会ったトルコ人はみな反対の立場だった。エミネさんなんかはブシュを悪魔とよんではばからないぐらい!!
思わず本音を言いかけたとき、hus.が日本語で、『ここは軍隊やで。しょうもないことを言いなさんな。』
はっはーーー、と、思わず口をつむぐ。
上官とhus.の会話は続く・・・

そして、チャイを飲み終わって、件の本館へフェジティンが案内してくれる。
あとで聞いたのだが、フェジティンはクルド人だとか。どうやらそんな話を道すがら二人はしていたらしい。なるほどと合点する。特徴あるあの精悍さ・・こんなところでクルドの人に会うとは!

そうこうしているうちに、本館の入り口へ。例の幹部の方々のいかめしい部屋。
パスポートを預けて、又会いましたミスター・ポアロ。ハイ・ハイ、私のhus.ですよ。(めんどくさがって、独身と言わなかったものだとしみじみ・・・正直が一番!です。)
先日と同じように彼について行く。銃火器の部屋では、相手を得たと言わんばかりにとくとくと説明する。ナイチンゲールの部屋でも同じ。悔しいけど相手の理解度を見透かしている!!
ビジターブックに記名しながら、hus.があの軍艦の船医さん達が昨日来てるわと言う。数日前、ボスポラス海峡に見つけ、どこの国のだろうと旗をチェック。それが旭日旗で、日本の軍艦だったのでびっくりした経過がある。

見学を終え、ミスター・ポアロについて廊下を行く。
重厚な廊下の壁面にずらりと肖像画が飾られている。オスマンの衣装に身を包んだ恰幅の良い将軍方の肖像が近代の軍服に変わり、絵画が写真になって延々と続いている。
オスマントルコの時代から現代までの歴代の陸軍の一番偉い方達だ(なんて呼ぶんだろう?)。打ち破ったものを含めトルコと言う一つのライン上に軍隊はあるのか!政体が変わっても、かってこの建物を統治したオスマンの将軍達は壁の上から追われはしなかったんだ!とへんに感心する。
そしてやっと白い壁面、次期写真設置場所に。
tesyukeとhus.声をそろえて言おうとするより早く、
『この場所は私のためにあけてあるんですよ』と、ミスター・ポアロがにやり。
んっ、もう・・無粋な!訪問者に言わせろ!

無事見学を終え、パスポートをかえしてもらってて出口に。
フェジティンがニコニコと現われて、帰路に。待っている間に書いてくれたのか、フェジティンが小さなメモをtesyukeに渡してくれた。
Tesyuke San
I didn't forget you.
You are really good person and different. F
一期一会。ほんとうに・さようなら・・・

ナイチンゲール・ミュージアム⑥

2008-10-27 22:08:44 | トルコ
トルコの人にイスタンブルで一番気に入った場所は?といった質問を良く受ける。
そんな時ちょっとすかしてアジアサイト!と、答える。あれっと言った顔をされるが、これがあながちうそではない。
ヨーロッパサイトの旧市街には綺羅星のごとくに世界遺産の建物があるが、一本一本素晴らしい木としての存在。ところが、ボスポラス海峡を隔ててアジアサイトから見るとみんなまとめて森として眺めることが出来る。このすばらしさ!

そんなヨーロッパサイトを眺めながらアジアサイトの海岸線を散歩するのをtesyukeと hus.は日課のようにしていた。北から歩いてきてフェリー乗り場から少し南に下がったところで、仲良くなったトルコ人のスタンドでチャイを飲む。
そんなある日、ファースト・アーミー・コマンドへ行った数日後の話。

もう少し南まで行ってみようか?と、歩き続ける。
ムラートは歩いて行けると言っていたよとナイチンゲールミュージアムの話をしながら、海岸べりを離れ、家々の立ち並ぶあたりまで歩いて来る。と、ポンとファースト・アーミー・コマンドの裏側近くに出てきたようなのだ。遠くに見えている塔がどうやらコマンドの建物だろう。

ここまで来ると、さすがに正面まで行ってみようという気になるから不思議。しかし、正面に行くのにかなりの道のり!(それほど大きい)
ごみごみした場所を通り抜けると例の人っ子一人居ない幹線道路。その道路に面して、コマンドの前面の塀がずーっと続いている。
前回はタクシーで来てタクシーで帰ったのでこんなに距離があるとは思わなかった。とにかくいつまでたっても門に行き着かないので止めて帰ろうと思ったほど。

門の前まで来てすごいとこでしょと、話をしていると、警備担当の兵隊さんが出てきた。
事の成り行きは不思議なもので・・どうぞお入りくださいという雰囲気。
えっと驚いたのはhus.とtesyuke。いえいえ、予約してませんので、外から見てるだけなんです・・(入るつもりはございませんので・・・)
それが、見学者と思い込んでしまっているのか、どうぞどうぞお入り下さいと言う。
逆に断るのが悪い雰囲気。仕方が無いので、彼の後について、例の建物まで。
tesyukeにしたらさようならと完結した場所。二度来ると思いもしなかった。
事務室のような兵隊の溜まり場へ引き継いで門の兵隊さんは帰っていく。

又会いましたフェジティン。こんにちは!hus.をつれてきましたよ!
フェジティンがとってもうれしそうな顔をして迎えてくれた。
そして、例のごとく荷物をすべて預けると、おもむろにここにお掛け下さいと椅子を勧める。
そして、なんとここの責任者の上官まで現われ、運ばれてきたチャイを勧めてくれる。
フェジティンがなんと言ったのか待遇の随分違うこと!

ナイチンゲール・ミュージアム⑤

2008-10-10 00:52:44 | トルコ
なんだかとんでもない異空間から帰還したtesyuke。
その訪問を証明するものは手元にある1枚のパンフレットのみ。
それによれば・・
あの巨大な建物はSelimiye Barracksと呼ばれているらしく、1963年以来the First Army command が使用。
tesyukは思いがけなくもPeace Headquarters of the First Army commandを訪問した事になる。

この建物のオリジナルはスルタン・セリム(Sultan Selim Ⅲ)によって200年ほど前に、彼が創設したオスマン近代陸軍の宿舎として建てられている。Selimの名前からSelimiye Barracks と呼ばれているようだ。
その後、焼失したがより大きく立派なものに再建され、19世紀はずーっと軍事施設。ただしクリミア戦争のときに期間限定で病院として使用!!
20世紀になって、第一次世界大戦末、イスタンブルが占領された時は、イタリア軍が使用。オスマントルコが終焉を向かえ、新たにトルコ共和国が生まれた後しばらくは、軍事以外の目的に使用されていたようだが、結局は200年前と同じく陸軍が使用することになり今に至る。

パンフレットは、病院として提供された1850年代がこの建物の長い歴史の中でもっとも興味深い時代と述べている。
まさに、この建物がナイチンゲールの居た病院そのものだったのだ!
改めて、感激。

しかしtesyukeの想像の中では、ナイチンゲールはクリミアの荒野に横たわる傷病兵の間をカンテラを下げ、見舞っているはずだったが・・・

クリミア戦争は帝政ロシアとオスマン帝国の戦い(ヨーロッパの歴史上では非常に大きな位置を占めているようだ)。そして英国とフランスはオスマン帝国に加担。前線(クリミア)で負傷した英国兵士の病院となったのがこのSelimiye Barracks。

この病院の衛生状態が良くないことを英国の特派員が本国へ報告。それを受けて軍務大臣(ナイチンゲールの知り合い)が戦病者・戦傷者の看護をナイチンゲールに依頼。彼女も志願して《トルコにおけるイギリス陸軍病院看護婦監督 》の公式任命のもと38名の看護婦達を連れイスタンブルへ。ナイチンゲール34歳。1854年。

最初は旧態依然とした病院の首脳(軍幹部)の反目を受け活動を封印され、なすすべもない状態であった。
が、彼女はビクトリア女王に直接手紙で状況報告ができる!という特権(?)を持っていた。
それをてこに野戦病院の衛生環境を改善して行き、兵士の死亡率はぐんと下がった。(当時はどこの戦争でも一般に戦死者より戦病死者の方が多かった)
この時彼女は彼女のやり方を軍の首脳部に納得させるために、彼女が発明した統計
グラフを使用したという。
それらをあの部屋で作成していたのかと思うと感慨深い。
1856年 4月29日クリミア戦争終結。 7月16日病院の最後の患者が退院したのちナイチンゲール帰国とある。

改めて、ナイチンゲールのことを知って、tesyukeは驚いた。子供用の伝記が省いたであろう部分の偉大さ!彼女を情の人の様に思っていたが、なんと知の人。
ウィキペディアは書いている。彼女は統計学者、看護教育学者。近代看護教育の生みの親。あまり知られていないが病院建築でも非凡な才能を発揮した。ギリシア哲学についても造詣が深い、と。

ナイチンゲールは女性にも家庭に引きこもるだけでなく社会に出て積極的に活動する生き方があるのだということを実践してみせた。
女性の外へ向かう力のまさに弾かれんとする時代の申し子。そんな時代に彼女は配置されるべく生まれたんだ・・・と、造化の妙にぞくっぞくっ。ヴィクトリア女王と同年代であると言うことも意味深い。《ナイチンゲール(1820-1910) ヴィクトリア女王(1819-1901) 》

彼女は生涯に150の本と12000通の手紙を書いていて、手紙の大半が世界各地から看護と衛生に関して送られてきた質問状への回答とか。
なんだかマザー・テレサを学者にしたような人・・

改めて、思う。あのSelimiye Barracksに、行ってよかった!

ナイチンゲール・ミュージアム④

2008-10-07 23:17:47 | トルコ
天井の高い広い廊下を、彼についてコツコツと歩いていく。
小柄なめがねをかけたこの人は誰かに似ている!誰かにとっても似ている・・・
思いだせないままにロの字型の建物の上左角にあたる部屋に到着。

部屋に入ると、彼はおもむろに膝を折りtesyukeの手をとって手の甲にキスのご挨拶!!
ヒヤーー、ギョッ。びっくりして飛び上がりました・・・生きてりゃいろんなことが・・・とは言え、tesyuke、初めての経験!!
こんな丁寧な挨拶をして頂けるような美しい手は持ち合わせてないが・・・・びっくりした弾みに思い出した。この慇懃無礼な感じと言い、テレビで見た『名探偵ポワロ』に彼はそっくり。そっくりさんだ!驚くほど似ている。
ポワロもしょっちゅう、「ボンジュール・マダム」なんていいながらこの挨拶をうやうやしくしているじゃないですか・・

一階の部屋は広くって、武器の展示室になっていた。
クリミア戦争・バルカン戦争・第一次世界大戦・(オスマントルコからトルコ共和国が生まれるための)独立戦争の時に使用されたものが大砲の類から剣・ライフル・オスマン独特の鎧兜まで所せましと置かれている。

二階へ。
小さな部屋。質素。机が置いてあり職務用か。ナイチンゲールは沢山の手紙を書いたとかで、直筆のものが壁に展示されている。彼の説明でナイチンゲールが現役として活躍した時期は短いが、一線を退いて後、とっても長生きだったことを知り少々びっくりした。
その部屋には小さな狭い鉄の螺旋階段がありもう一階上(三階か?)につながっている。

上っていくと小さな質素なベッドが目を引く。
ベッドルーム。ほんとにこの部屋で、このベッドでナイチンゲールが過ごしていたのか?と、その時は半信半疑。
そしてランプがおいてあった。挿絵で見たと同じランプ。
彼女はこれを片手に、夜も患者見て回り、患者はランプの灯りを希望の光として待ち望んだとか。それが彼女のことを“Lady of the Lamp”(ランプの貴婦人)と呼ぶ所以です。と、ミスタ-・ポアロ。
ミスター・ポアロはうっとうしいことに個人的質問を投げかけてくる。これぐらいの会話がまあ丁度よい英語レベルとふんだのか?難しい説明をしても解らんじゃろうて・・
もおーっとは思ったものの、何故かこのときは場所柄か相手が探偵風だからか、職務質問に正直に答えていたtesyuke。
後になって思うに、良くぞ独身などと言わなかったことだ・・・

ナイチンゲール記念館を出ると、来館者のサイン帳が。名前を書きながら気がついた。医者や看護婦の来訪が多い。
それで分かった、ミスタ-・ポアロがしつこいほどtesyukeの職業を聞いてきたわけが。主婦では拍子抜けもいいとこだったのかも。

部屋を出ると廊下。高い天井に古風な趣があり、先がはっきり見えないくらい幅広く長い廊下・・こだまが返ってきそうな・・
ミスター.・ポアロが言った。ナイチンゲールが居た時には、この廊下にもびっしり患者が寝かされていたのです、と。
ん、じゃーここは病院だったていうわけ?なんだかおぼろげにナイチンゲールがこの建物に居たことが納得できたのだった。

パスポートを受け取り、お礼を言って部屋を出るとフェジティンが待ち受けていてくれて、兵士のたまり部屋まで。バッグを受け取る。
フェジティンが軍靴をカチッと鳴らして敬礼して送ってくれた。(かっこよかった!)

さようなら。一期一会。
その時は、続きがあるとは夢思わず・・

ナイチンゲール・ミュージアム③

2008-10-05 00:48:05 | トルコ
2008.2.13 ナイチンゲール・ミュージアム②の続きです

静まり返ったゲートの、はるか奥に白い巨大な建物が見える。
どちらかといえばごみごみしたイスタンブルに信じられない空間。広い敷地。
そう言えばイスタンブルの旧市街からボスボラス海峡を隔てて大きな建物が見えている。翩翻と美しい赤いトルコ国旗が翻っている。あれだったのだ、と合点する。

しかし、ナイチンゲールミュージアムにこんないかめしい雰囲気が似つかわしくなくて、ほんとにここなのかしらと途方に暮れてしまう。
一体全体この建物にどこから入ればよいのやら・・・
と、ぴっちり閉まったゲートが自動的に開き車が出て行った。警備担当の兵隊が門衛所から出てきて敬礼して見送っている。

人がいる! 意を決して兵隊に近づく。
ナイチンゲール・ミュージアムに来たのですが・・・
と、とんでもないことに・・・予約をしていますか?と・・予約が無いと入いれません!
そ、そんな・・そんなこと聞いてませんよ。ここまで来てはいれないなんて!
もうもう必死のtesyuke・・・
予約のことは聞いていません。これこれしかじか、せっかく遠い所を来たのです・・・・と、食い下がる。
とうとう根負けしたのか、入ってよいと!(言わしたが、正解かな?)

そしてその兵隊が中の大きな建物へ先導してくれる。門から見て奥へ大きな長方形の建物が伸びていて、縦長の“ロ”の字型。
巨大な建物の端っこ、ゲートよりの入り口から入る。事務室で、兵隊の溜まり場のよう。
見学者をここで‘引き渡す’もとい、引き継ぐと、守衛の兵隊は戻っていった。
来意を告げると、持ち物すべてをここに置いて、パスポートだけを持つように言われる。

一人の見上げるほど背の高い精悍な若い兵隊が案内してくれるらしく、付いてくるようにと言う。英語の話せる彼がもっぱらこの役をしているようだ。めがねの奥の目がとってもやさしい人で、tesyukeも緊張が解けて、おもわず‘メルハバ’ 《トルコ語でこんにちはの意》。彼の名前はfeyzettin・・・・と、とっても長くて覚え切れない。
難しいからフェジティンと呼んでくれと言う。tesyukeも挨拶をして名前などを名乗る。ウスクダラのトルコ人の友達のところに来ていて、このミュージアムのことを知った話なども。
彼は、日本の女性が一人でここに来るなんてことは初めてだ。あなたはとってもdifferentと、しきりにdifferentを連発。

彼が話しのついでにトルコ語にミスター・ミセスに当たる言葉があることを教えてくれる。日本語では?‘さん’とか‘さま’とか。そうそう子供なんかに親愛の情を込めて‘ちゃん’をつけて呼びますよ・・・
あなたにだったら “フェジティンちゃん、かな” などとたわいも無い話をする。
すっかり仲良くなった頃に建物の丁度中間・いかめしい正面玄関へ。

薄暗い大きな室内へ案内される。どなたがどんな肩書きの方かは知らねども一人離れて大きな机に立派な椅子、どうやらこの部屋で一番えらいらしい方の前に。
ふらっと出てきて、急転直下こんな状況が待っていようとは・・・
ここで、パスポートを預け、サインをする。

ミュージアムを案内してくれる方が現われて,彼について部屋を出る。

ナイチンゲール・ミュージアム②

2008-02-13 18:19:02 | トルコ
二年後の2005年夏・イスタンブル
hus.は軍事博物館に行くといって出かけた。(tesyukeは昔にすでに訪問済み)
トルコの夏も日本に負けないぐらい暑い。
今日は冷房の良くきいた室でのんべんんだらり・ぼけーーっと過ごそう・・・これが極楽極楽。
そんな時何かし残したことがあったような気分に襲われた。せやせや、ナイチンゲール・ミュージアム。

一瞬の躊躇の後、行こう!

この機会を逃したら、一生行かずに終わってしまうかもしれない!とたんに、外界のまぶしいほどの光と熱など何するものぞ・・と、外へ飛び出す気力が湧いてきた。あの時ほど、人間って、したいと思えばどんな状況でもがんばれるんだ。気力やなーーーと、しみじみーーー思ったことは無い。
かといってこのミュージアムの資料は持っていないので、Eに詳細を聞いてみるとインターネットで調べてくれた。

ぎよ・ぎょ・ぎょ・・・
なーんと、軍の建物の中にあるというではないか!
今日はオープンしているという。タクシーで行く方が安全だろうと、通りへ出てタクシーを拾って,トルコ語で行き先を告げてくれた。

とにかく目当ての住所まで・・

いつもの南へ下りていく道はとらず逆方向・北に上がっていく。南北に位置しているボスボラス海峡に平行して背骨のように小高い丘がある。それを北側から迂回して南へ下りるらしい。tesyukeにとって、まったく知らない道。それに加えてどうやら運転手はこんなミュージアムのあることなどまったく知らないらしく何度も車を止めて道を聞く。乗っていて不安になってくる。

そして、車はとんでもなく大きな建物の前で停車。
広い大きな道は車だけが時折通る。タクシーは走り去り、人っ子一人いない空間にほおりだされたtesyuke。これはどうしたらよいものやら・・・

ナイチンゲール・ミュージアム ①

2008-02-03 15:04:05 | トルコ
小さい頃はよく伝記物をんだ。もちろんナイチンゲールも。
で、覚えていることといったら、クリミア戦争で傷ついた将兵の看護にあたってクリミアの天使と呼ばれた人。看護婦という職業を確立(?)した人。トリヴィア的にはイタリアのフェレンツエで生まれたからフローレンスと名づけられた。ぐらい。
そして挿絵のイメージからか、野原に横たわる傷病兵を見て回っているカンテラを持った女性の姿を想像する。でも、それだけ・・・・
クリミア半島の正確な位置は?とかクリミア戦争はと聞かれたらtesyukeはしどろもどろもいいとこ。知らないことって多い。

そんな中、ちょっと調べてびっくり。
クリミア戦争にtesyukeが知っているだけでこんな人がかかわっていたなんて。大きな戦争だったのだ。
·ノーベル -ロシア軍の機雷設置請負業で財を成した
·レセップス - トルコ側について参戦し混乱したエジプトからスエズ運河の建設権を取得
·シュリーマン - 戦争のための補給物資を扱い、財を成し、その金を元にトロイ発掘を行う
·トルストイ - 将校として従軍。従軍した体験を元に小説を執筆
·プチャーチン - ロシア海軍軍人で幕末に条約締結のため来日。
·吉田松陰 - 長崎からの密航を計画したが、開戦によりロシア艦が予定より早く引き上げたため失敗して投獄
·ファラデー - イギリス人化学者。英国政府から化学兵器の作製を依頼されるが、拒否

話変わって2003年夏。
tesyukeはイスタンブルの友達Eの家に滞在していた。
そして、Eの息子のムラートとしゃべっていた時、彼が言った。

ここにナイチンゲールミュージアムがあるの知ってる?
ナイチンゲール?
イギリス人でしょ?
えっえーーーー!イスタンブルに? なんでやねん?と、大阪風にびっくり。

イスタンブルはボスボラス海峡をはさんでヨーロッパ側とアジア側にまたがっている。
旅行者は主にヨーロッパ側を散策。アジア側は普通のトルコ人の日常が・ゆったりとした時間が流れている。
そのアジア側を海峡に沿って南に下りていけばあるという。アジア側にあるこの家からだと歩いていける距離とか。

イヤー、行きたい。行こうと思ったが、時間が無くて実現しなかった。
白い小さなこじんまりしたミュージアムを想像して,その時は帰国したのだった。

トルコからのメール

2008-02-03 00:47:45 | トルコ
オヤオヤ誰から・・:見知らぬ名前のこの人は?
覚えてますか? この住所で連絡OKですか? どうしてますか?っと言っただけのものだが、メールアドレスに使われている名前を見て合点。

2005年の夏にイスタンブールのナイチンゲールミュージアムで会った兵隊さんだ。
帰国後に出した御礼メールへの返信。
二年半後のメールなんて、随分と間延びのした話だが、なつかしく当時を思い出した。
兵役の間は忙しくて暇も無かったのだろうか。それより、なにか制約があったのかも知れない。
今はトルコ東部で公務員をしているようだ。除隊したのでメールを出せるようになったのかな・・・・なんて、思ったりしている。
彼の今住んでいるところは、tesyukeたちがネムルート山に行ったときに拠点として泊まった町なので、なおさらなつかしい。

トルコには、忘れえぬ人がいっぱいいる。忘れないうちに(?)思い出を書いておきたいと思っている。
彼もその中の一人。優しい目をした背の高い精悍な若者だった。
軍靴をかちっとあわせて敬礼をしてくれた姿のかっこよかったこと!