私にはトルコ人の友達がいる。彼女の名前はエミネ、オーストラリアのメルボルンで知り合ってかれこれ20年。
そんな彼女とトルコの黒海沿岸を旅行したことがある。
オーストラリアとトルコの二重国籍を持っている彼女からイスタンブールに家を買ったから遊びにいらっしゃい、と電話があったのは2003年。
その時にグルジア(現ジョージア)国境近くまで旅したのだった。トルコの旅はバスが主流。長距離バス網が発達している。
今回はエミネさんにお任せのスケジュールで、バスの旅。黒海地方はエミネさんの故郷でもあり、今も従妹がサムスンに住んでいる。で、まずは一番にそこを訪ねるという。
サムスンは黒海沿岸最大の工業都市で、トルコ建国の父ケマル・アタチュルクが祖国解放の一歩を踏み出したので有名な都市。イスタンブールから850キロメートルほどありほぼ一日がかりの旅程だった。
エミネさんの従妹の家は港を見下ろす高層住宅の一角にあった。従妹はふっくらとしたやさし気な顔立ちの人で、私は正倉院の宝物・鳥毛立女屏風の美女をふっと思い出した。
トルコ人の家族の絆は強く、どこへ行っても年老いた人が大事にされているのには驚くのだが、ここにもエミネさんの伯母さんにあたる九十才を超えた女性がいた。
足が不自由だが、かくしゃくとして、どんな時でも、一番の上座に座っている。落ちくぼんだ眼窩にはとても鋭い目があり、笑うことを知らないような厳しい雰囲気が漂っている。
苦労を重ねて子供を育てたというのがうなずける近づきがたい感じの人だった。私の亡くなった母が生きておればこれほどの歳になっていたのかと感慨深く思ったものだ。
このおばあちゃんの部屋にあったもう一つの小さなベッドを使わせてもらうことになり、彼女と数日を過ごすことになった。私は、母が生きておればしたかもしれない、そんなことをおばあさんにさせてもらおうと思った。着替えを手伝ったり、移動するのに手をかしたり。
言葉は通じないけれど、話かけながら・・。就寝前に私が化粧水をつけるのをじっと見つめる彼女。そっと化粧水をつけてあげると、なんともうれしそうな顔をしてくれた。
この家には、三人の子供がいて、長男は士官学校を出て任官。次は双子の男女で男の子は士官学校生。一人家に残った女の子は大学生。ほっそりした美しい彼女とよく街へ出かけた。彼女もいずれスカーフで身を包み一生を過ごすようになるのかと、複雑な思いにかられたものだが・・
彼女から、おばあちゃんはチーズが大好きと聞いたのでチーズ専門店で彼女にチーズを選んでもらう。家に戻ってキッチンに置いておくと、彼女が来て「直接おばあちゃんに手渡してあげて」と、にっこり笑って言う。そんな心づかいのできる女の子だった。
ところで、ここの主は家電販売店を営んでおられるとかで寡黙な人だった。夕暮れ時にアザーンが聞こえてくると夫婦並んでモスクへ礼拝に出かけて行くのを高階から見送ったものだ。エミネさんの従妹はもちろんスカーフにコートでしっかり肌を覆っている。
夕餉も済んだひと時、エミネさんが、「あなたは構わないからお入り」と居間に招き入れてくれたことがある。薄暗くした部屋でテレビを見ている家族。男性は主一人。あっと、声をあげそうになるほどびくりした。タンクトップ一枚でむっちりした肌を惜しげもなくさらしている肉感的な女性が! 誰あろうエミネさんの従妹だったのだ。
そんなこんなの日々を過ごしていたある日、おばあちゃんの部屋で、エミネさんとエミネさんの従妹が、「どうしてそんなにおばあちゃんにやさしいの?」と私に聞いた。「母が生きておればこんなことをしてあげられたかもしれないと思って」と答えると、二人はポロポロ涙を流す。
えっ、こんな返事に涙ぐんでくれるとはと、私は逆にびっくりして、つられてほろっと涙。エミネさんは「おばあちゃんは、自分のことが話題で、三人が泣いているとは思ってもいないよね・・・」と言って又涙する。
その時だった。おばあちゃんが私の頬をつねったのだ。突然のことに私はびっくりして飛びあがった。何故? おばあちゃんは私のことが嫌いなの・・・と。
しかしこれはトルコでは親愛の情を示す行為(主に子供に対して)だとエミネさんが教えてくれて、おばあちゃんはあなたをかわいいと思っているのよと。そしておばあちゃんの言ったことを通訳してくれた。
翌年におばあちゃんの訃報を聞いた。思い出すたびに胸があつくなる。あの時『私が若かったら、あんたがしゃべっている言葉を習うのに』と言ってくれたのだ。
しかし、言葉は通じなくても心は通じていたと私は今も思っている。
*アザーン イスラムの礼拝の時刻を知らせる呼びかけモスクの塔の上などから流される