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青天を衝くー渋沢栄一の生涯 新型コロナウイルスを歴史に学ぶ

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余話「渋沢栄一の生涯」第9話 パリ万博の命下る

2021年07月20日 | 渋沢栄一の生涯
余話「渋沢栄一の生涯」第9話 パリ万博の命下る
伊能忠敬研究会東北支部長 松宮輝明

 
 栄一にパリ万博の命が慶応2年(1866)8月11日、26歳の渋沢栄一は、徳川慶喜公の名代として長州に出征しました。栄一は、一ツ橋家の勘定組頭となり御使役を兼任し、併せて御用人手附を拝命しました。栄一は、長州征伐で死を覚悟し、遺言と懐剣を夫人に贈り死を覚悟しました。
 9月7日、幕臣の陸軍奉行支配謫役となりました。世情が不安定の中、新撰組の沖田総司らと命令に依り書院番士大沢源次郎を逮捕し、武勇を褒めたたえられましたが、不本意で心が休まりません11月に、幕臣を辞退しょうと決意しました。
 逮捕した大沢源次郎(文政12年生まれ)は武蔵国の出身で、元治元年には見廻組勤方となり、7月に上京し、敦賀で田沼意尊(曾祖父は田沼意次)の命で渋沢と天狗党を制圧し、慶応2年に陸軍奉行並となった人物です。大沢源次郎は謀反の罪で薩摩人との親交関係の容疑です。新撰組の島田魁日記によると、慶応2年、新撰組が源三郎を兵庫港まで護送し、江戸の評定所で裁かれ、翌慶応3年9月に「御目見以下小普請人」左遷されました。維新後の大沢源次郎の詳細については不明です。
 慶応2年秋、渋沢は、将軍慶喜公の命に依り蕃書調所の市川斎宮のもとで電信の技を学びます。市川は、万延1年(1860年)、プロシアの東洋遠征艦隊が来航の際ドイツ語を学び、翌年には幕府洋書調所にドイツ学科を開設し、ドイツ語読本(官版独逸単語篇)を出版した先駆者です。
慶応2年11月29日、将軍慶喜公の弟君、徳川昭武公をフランスのパリで開かれる万国博会に派遣し、併せて昭武をフランスに留学することにしました。栄一は、内命を承けてパリ万国博覧会の徳川家の名代徳川昭武徳昭武公に随行することとなりました。12月7日、総務係の命を受け、12月21日班を勘定格に栄進します。
 栄一は、女子が一人で男子がなく、「御用中重病または不遼の事故により、勤仕が出来なくなる。18才の義弟平九郎を養嗣子(見立養子)として家督を相続させたいと願い出て認められました。平九郎は、栄一の妻藍香の弟で、義弟を養嗣子としました。平九郎は、彰義隊結成に参画し、振武軍に参加し飯能戦争で新政府軍との戦いで戦死します。享年20歳。
 慶喜公に、慶応2年6月、ナポレオン3世からパリ万博の参加の要請がありました。口ツシユの話によれば、日本君主の名代をパリに派遣し、徳川家と国交の親善を図るべく勧告を受け、博覧会への日本国の出品を承諾し、弟徳川昭武公の派遣を決めました。
 15歳の昭武は、水戸藩主、徳川斉昭の第18男子、この年、12月9日、水戸藩より御三公卿の清水家の当主となっております。フランス国に派遣し、併せて、ヨーロッパの締盟国を訪問し、友好を厚くし、フランス国に留学させることにしました。
 翌年、慶応3年11月28日昭武公にフランス国派遣の公命が下りし渋沢も随行の内命がありました。
 11月29日、原市之進(幕府目付)は渋沢を自宅に招き、詳しく昭武公海外派遣の事情を語りました。原は「昭武公の洋行に、水戸藩士の間に反対があった。異議も収まり、昭武公の御世話の係として、水戸藩士7名に随行を命じた。しかし、水戸藩士たちは、頑固もので、更に攘夷の志を捨てていない。昭武公の留学に種々の問題が出てくる。慶喜公の御内意に、栄一は、かねて攘夷論者であったが随行員の中にあって、調停に適任である。殊に有為の材なれば、栄一の前途の為にも、海外に遊学しヨーロッパの世界を学べとの仰せである。幸い庶務会計の任に適任者である。即、準備せよ」との下命がありました。
 渋沢は大に喜び、即座に命を拝しました。この時期、渋沢は、既に幕府の前途に望みを絶ち、浪人生活に戻ろうと考へおりました。この外遊は、苦境を脱し、近代日本社会の先覚として、時代を指導する人物の基因となりました。渋沢のグローバルな考えは、徳川昭武公のパリ万博随行によるものです。 



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