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九谷焼美術館 “永楽和全展”によせて

2009-01-13 17:26:11 | 九谷焼
 石川県立九谷焼美術館では ”永楽和全と 賀の人々展” を2月15日まで催しています。私も解説のボランテイアをして居りますので永楽和全について少々調べました。

 永楽和全は京都の高名な陶芸家で、幕末に加賀大聖寺藩に招かれて、疲弊していた九谷焼を指導するために当地、山代に来られた方です。

 皇太子殿下は私共の九谷美陶園が作りました、夫婦湯呑をお買い下さいましたがこれも永楽手でした。当地では金襴手を永楽和全に習いましたので、今日でも永楽手と申しております。。

永楽和全の“永楽”の意味 
 永楽年間1403~24年(中国の民時代初期)は政局が安定し経済が発展した事から
 宮廷用の磁器の需要が多く、景徳鎮窯の品質や技術が飛躍的に高まった。
 そのため永楽年間以外の景徳鎮窯の宮廷用器も“永楽焼”と称されるほど、
 永楽と言う名声が高かった。和全の永楽と言う姓も、これが基になっている。

永楽和全の先祖
 和全の先祖の初代善五郎は16世紀初頭に奈良で春日神社の斉器を作っていたが、
 茶人武野紹鴎好みで土風炉を作るようになった。後代には千家の・職家の土風炉 師になったが10代善五郎(代了)が茶陶を手がける様になり、11代善五郎(保全 1795~1854年)からは京焼の名工として知られる。

「永楽」の銀印を賜る
 1827(文政10)年に保全は 紀州徳川家の偕楽園御庭焼へ出仕し、藩主徳川治宝
 (はるとみ)より「永楽」の銀印を賜り、以後保全から永楽を陶号とした。
 作風は染付、交趾、金欄手などに巧みであった。1843年水野忠邦による「天保の 改革」が陶業にも及び保全は隠居を余儀なくされ、家督を息子和全に譲り、和全 は12代善五郎を名乗る。その後、明治に至り姓を永楽とす。

 父・保全は友人の塗師の次男宗一郎を養子として善一郎家を創設した。和全との 間に不和が生じ、保全の陶技開発に要した多額の借財が、和全の家計を圧迫し、 ついに善一郎家創設を取り止め、保全個人として各地での作陶に腐心した。
 
永楽和全1843年に襲名 
 和全(1822~96)は21歳で善五郎を襲名した後、父が養子にした宗一郎と協力  して家を統一し、善五郎家一本化し仕事を活性化した。
 後に義弟宗一郎と片腕であった西山籐助の功績に報いるため両者を善五郎家の  13代とした。 

和全の活動は下記の4期に分けられる。  
(1)御室永楽窯時代1852~1865(嘉永5~慶応元)年。
   野村仁清の故地 御室に登り窯を築いて作陶した。
(2)九谷永楽窯時代1865~1870(慶応元~明治3)年
   加賀大聖寺藩の招きで山代村の九谷本窯で作陶した。
(3)岡崎永楽窯時代1872~1877(明治5~10)年
   家督を長男の得全に譲り、三河国岡崎で作陶。
(4)菊谷窯時代1877~1882(明治10~15)年
   京都東山の下河原鷲尾町に居を移しての作陶した。明治29年没。

和全の真価
 和全は20歳にして父の保全をも賞賛させる才能があり、すでに第一期の
 御室永楽窯時に於いて、呉州赤絵、古染付、祥瑞、金欄手などでは
 父・保全以上に本歌に迫るものがあると言われる。しかし和全の真価は
 新しい作風の創造にある。 器に布を載せ其処に絵付けをした布目手。
 九谷に於いて、金襴手に金箔を用いて焼き付けるなど、華麗な意匠が
 表現された。その他、茶陶意匠を大幅に変更するなどの功績があった。

永楽姓に改姓1871年
 明治4年家督を長男に譲り、これまでの西村姓から永楽姓に変える。 
 永楽家は現在も受け継がれ、千家の使用する茶の湯道具の最も正統的な製作者と して、千家十職の一家として知られる。
 先日現在の17代善五郎氏はご夫妻で、この展覧会をごらんに来駕された。

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