魂魄の狐神

天道の真髄は如何に?

【横綱免許は嘗て五条家や吉田司家が発給してた。】

2017-11-30 14:02:38 | 歴史

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👆の概説

 五条家堂上家公家である。家格は半家。代々朝廷主催の相撲節会においては相撲司としてその運営を取り仕切ったことや、野見宿禰の子孫ということもあり、紀伝道のみならず相撲の司家として鎌倉時代以来君臨してきた。

横綱免許に関する五条家と吉田司家との確執

 相撲の司家としての五条家の名声は、熊本藩主・細川家の家臣である13代吉田司家当主吉田追風が積極的な相撲興行を展開し、江戸相撲において横綱免許を発給するようになってから失墜することとなる。

 漸く文政6年(1823年)、大関柏戸利助玉垣額之助への横綱免許交付をきっかけに立て続けに吉田司家に先んじて横綱免許を発給するなどして吉田司家への逆襲を始める[2]。五条家単独で12代横綱・陣幕久五郎に横綱免状を発給して以降、明治時代吉田司家西南戦争西郷隆盛軍に加担してその責任を問われたことを契機に五条家単独で大阪相撲京都相撲力士に横綱免許を発給したが、横綱免許を濫発したことが却って横綱の権威を損なう結果を招いた。

(ただし、明治10年(1877年)にすでに五条家から横綱免許を得ていた14代・境川浪右エ門は、吉田司家から横綱免状を発給される。)

更に明治末期に大阪相撲の実力力士・21代横綱若嶌權四郎が五条家から横綱免許を受けたことに続き、若嶌權四郎の後継者とされていた23代横綱大木戸森右エ門の横綱免許取得を巡る対立から、五条家頼みの綱である大阪相撲と吉田司家との間に亀裂を招く結果をも招いた。

終に、明治44年(1911年)に大阪相撲の主催団体大阪相撲協会が吉田司家と和解したことにより、江戸時代以来の横綱免許を巡る混乱に終止符が打たれた。このことは、相撲の世界における吉田司家に対する五条家の完全な敗退を意味した。五条家自身は既に京都相撲の力士・大碇紋太郎に横綱免許を発給したことを最後に相撲界との縁から遠ざかっており、以後、相撲界における五条家の消息は不明となった。

吉田司家- Wikipedia☜左クリックで開く

👆の概説

 吉田司家は、現在まで800年以上の歴史を持つ、五条家に代わる相撲司家家元である。

 志賀清林を祖とする志賀氏の断絶後、志賀氏に代々受け継がれてきた故実・伝書などを受け継いだ初代、吉田家次(吉田豊後守)から始まり、相撲の宗家として代々「追風」のを名乗る。元来、京都二条家に奉公し節会相撲の行事官として務めていた。その後、二条家の許しを受け、細川綱利に招聘され熊本藩に仕え、武家奉公をした。以来、熊本県熊本市に住む。相撲に関する全権は、後鳥羽天皇より委ねられたという。

 江戸時代には、勧進相撲が取り行われるようになり、19世吉田追風は「横綱」を考案し1789年寛政元年)11月、谷風梶之助小野川喜三郎に横綱を免許した。その伝達式の後、両力士は太刀持ちと露払いを1人ずつ従える現代と同じ形の横綱土俵入りを披露。1791年に上覧相撲が予定されていたこともあって、19代吉田追風は派手なデモンストレーションとして横綱土俵入りを企画したが、これがたちまち江戸中で大評判となった[1]

 1791年(寛政3年)および1794年(寛政6年)に、11代将軍徳川家斉上覧相撲を奉仕し[1][2]、武家相撲の作法および土俵の登場・礼式などすべての相撲の様式を定めた。

 

 一方、相撲節会以来の司家を名乗る京都五条家1823年文政6年)、谷風・小野川の先例に目をつけて柏戸利助玉垣額之助 (4代)に独自で横綱免許を与えた。これに対し20世吉田追風は先代の発案した横綱免許を五条家に奪われる危機感から、江戸幕府に対し自らの相撲指揮権について確認することを要求、1827年(文政10年)7月に江戸相撲方取締を拝命、翌1828年(文政11年)正月、江戸年寄一同が揃って吉田司家門弟となり、司家としての権威を固めた[3]。同年2月には阿武松緑之助に横綱免許を与えたことにより、事実上ここに横綱が制度化した。また、行司の最高位である立行司の免許も吉田司家が発行していた。

 1877年明治10年)、西南戦争において23世吉田善門は西郷隆盛率いる反乱軍に従軍し戦いに敗れた後、熊本に帰り暫く謹慎していたが1882年(明治15年)7月、東京相撲会所と交わした約款証書に基づいて梅ヶ谷藤太郎 (初代)に横綱免許状を授与した。その反面、京都の五条家による横綱免許も続いていたが、これも明治末期を境にしてなくなり、以降戦後に至るまで歴代の横綱は吉田司家のみによって授与されていくこととなる[4]

 

 明治維新の中で相撲廃止論が起こったとき、23世吉田善門は身を挺して国技相撲を救った。そして1908年(明治41年)5月、九段靖国神社の拝殿に相撲協会年寄幕内十両以上の力士、並びに足袋免許(「足袋格」すなわち十両格行司)以上の総参集を求め奮起の一喝を与え、1909年(明治42年)6月の両国国技館の新設に向かったのである。そして1925年大正14年)8月相撲協会取締出羽海梶之助から財団法人化申請で相談を受けていた吉田善門は要職の一部を相撲協会の外部から招くよう助言し、同年12月文部大臣岡田良平から財団法人の認証を受けた。会長には陸軍大将福田雅太郎、理事長には元陸軍主計中将が就任した。

 

 一方、大坂相撲には長らく立行司免許のみを発行し横綱免許は発行していなかったが明治に入り若嶌權四郎に横綱免許を発行、大木戸森右エ門の際には大阪協会が司家に無断で横綱免許状を作成したことで1度は大坂を破門するも後に和解成立により追認、これに大錦大五郎宮城山福松を加えた4人の吉田司家の免許を持つ公認横綱が登場した。

 

 第40代横綱東富士欽壹までは吉田司家による横綱本免許状授与式(仮免許は、司家の主君であった細川家東京小石川の別邸で取り行われた)が続いた。しかし、24世吉田長善が不祥事を起こし1951年昭和26年)11月に引退、当時7歳の長孝が25世を継いだが、日本相撲協会は司家代表者と協議した末、永年にわたる司家の権限を変革し、第41代横綱千代の山雅信以降は協会が自主的に横綱推挙を行なうことになり、免許権を協会に移譲し、司家は明治神宮での横綱推挙式に臨席し横綱及び故実書一巻を授与するだけとなった。しかし三役格以上の行司は熊本市の司家で行司免許を授けられてきた。

 

相撲界との関係断絶

 

 1986年(昭和61年)5月、借金問題など司家の経営上の不祥事により、25世吉田長孝と春日野理事長(当時)との会談で、横綱授与の儀式を全面的に協会へと委ね、当面は協会との関係を中断する旨を双方了解した。なお、1983年(昭和58年)7月に推挙の第59代横綱隆の里俊英までは司家も推挙式に臨席し、毎年十一月場所後に司家の土俵での奉納土俵入りが行われていたが、関係中断によって1986年7月に推挙の第60代横綱双羽黒光司以降、司家は推挙式には臨席せず、司家土俵での土俵入りも事実上の廃止となり、行われなくなった。これに伴い、司家が学生横綱に絹手綱を授与する儀礼も、事実上廃止されている。

 

 かつて司家の屋敷は熊本市北千反畑町(中央区)の藤崎八旛宮参道脇にあり、土地約1000平方メートルの敷地に吉田追風の住宅、天照大神住吉大神戸隠大神の三神(十三代吉田追風が相撲関係者の崇拝神として定めたという「相撲三神」)を奉斎した神殿、吉田司家宝物館、土俵など建物計約200平方メートルがあったが、2005年平成17年)2月に土地・建物が熊本地方裁判所にて競売にかけられ、穴吹工務店高松市)に約2億円で売却された。建物はすべて取り壊され、跡地には同社のマンションが建設された。参道に面したマンション敷地内に「吉田司家跡」の石碑が存在する。宝物館には多数の相撲関係資料や美術品等が所蔵されていたが、その行方について日本相撲協会は「現在どうなっているか、まったく分からない」と述べている[5]

 

 その後も25世吉田長孝は相撲界への復帰と司家の権威の回復を目指して支援者らとともに活動しており、2015年には阿蘇市阿蘇内牧温泉に新たな拠点を置く計画を公表、同年4月、阿蘇市小里において「相撲三神」の神霊を熊本市から移す「仮殿遷座祭」を挙行した。司家は今後本殿や土俵を建設して相撲文化の拠点となる施設を設け、相撲大会の開催や相撲を通じた地域おこし、更に横綱奉納土俵入りなどかつての司家の儀礼を復活させる構想を示している。「仮殿遷座祭」には松野頼久衆議院議員佐藤義興阿蘇市長、髙島和男熊本県議会議員ら政界関係者も出席し、司家再興への支援の意向を表明したものの、こうした司家・熊本県関係者側の動きに対し日本相撲協会は全く反応していない。

* 以上は、Wikを其のまゝ写したものだが、保存版として敢えて魚拓にした。

  相撲が日本の伝統的格闘技で、元来奉納の意義を持ったものであるならば、相撲興行の運営権を公益法人としたことは、余りに野暮ったい。相撲の親方たちは、一旦握った宝の山を手放したく無いだろうが、此の際、吉田家に司家の権威の回復させるべき。


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