これは、このブログ向けに書いたのではないけれど、もしかすると何等かの反応があるのではと思い、ここにも掲載します。
有名なトランペット奏者の日野皓正氏(74歳)が、東京都世田谷区の演奏会中に中学生のドラマーを往復ビンタする事件が発生しました。
それについて新聞紙や週刊誌が取り上げ、ネットでも大騒ぎになっています。下記URLは朝日新聞の記事。
http://www.asahi.com/articles/ASK8Z6K2CK8ZUULB007.html
また、その場面はyoutubeにも取り上げられています。
https://www.youtube.com/watch?v=lmKc4ea4mQA
新聞/週刊誌等によると、その状況は以下です。
・世田谷区教育委員会は、教育の一環(区が取り組む「新・才能の芽を育てる体験学習」)として中学生を集めたジャズバンドを作り、日野皓正氏に指導を依頼し、公演会で演奏させることとした。日野氏もそれを了解し、指導および公演会で共演を行うことになった。
そして4か月間練習を行った。
・600人集まった満員の会場で順調に演奏が進んだが、皆が順にソロを短小節ずつ演奏していくところで、ドラマーをやっている中学生が勝手に長時間ソロを始めた。周辺の他のバンド員は困惑し、演奏を停止したが、ソロは続いた。
・舞台の端にいた日野氏は、ゆっくりとドラマーのところに行き、スティックを取り上げて戻ろうとした。
・しかしドラマーは、今度は手でドラムを叩き出したので、改めて戻り往復ビンタを加え、舞台外へ出ていった。そこでやっとドラマーは叩くのをやめ、出ていった。
・日野氏は、やや行き過ぎはあったが、妥当な行為だと話し、中学生の親、中学生自身ともこの行為については理解しているとのことであった。
これに対し、「これは体罰であり、理由はともあれ絶対にやってはいけないことだ。」という意見と、「その中学生の行為はあまりにも異常だから、往復ビンタがあっても仕方がない。」という2つに意見がネットでぶつかっている。
これに対して、私は以下のように考えます。
1.結果として、聴衆600人と大勢のバンド員の見ている前で暴力事件が発生したことは、世田谷市の教育委員会としては大失態である。 日野氏はゆっくりと歩いており、当然舞台の袖には教育委員会のスタッフがいただろうから、むしろ彼らが先に行くべきだ。
その状況を止めることができなかった教育委員会は、暴力事件については全責任を負うべきである。
2.日野氏は指導を依頼されたが、彼自身は教育者ではなくミュージシャンである。たぶん教育者としての体罰等のルールは知らず、彼が行った行為はミュージシャンとしての掟に基づくものである。
ミュージシャンの彼の考えている掟とは、こうしたビッグバンドの場合、他のセクションをレスペクトしてそれぞれがかっこよくなるようにすることであり、ドラマーの行為は完全にそれに外れていた。
演奏を停止したバンド員にとって納得できることを、彼はしなければならなかった。
また音楽は時間を大事にする芸術であり、ミュージシャンはその時を聴衆と共有する責任がある。異常な時間をさっさと終わらせる手段を考えなければならないから、それを実行した。日野氏はドラマーが正気を失っていると思って、ビンタしたのかもしれない。
3.暴力はいけないということは、誰でも知っている。でもその縛りを突き抜ける沸点が、それぞれの人には必ずある。日野氏は74歳ということだが、それで気が短くなったかそれとも耐久性ができたのかわからないが、自分たちが4か月準備してきた音楽が眼の前で壊されている、そしてこの時の演奏会だけでリカバリーするチャンスはないと思ったら、沸点に達してもおかしくない。
この現場に居合わせた人々は、名のある個人が沸点に達する一瞬を見ることができたということで、いい経験ができ非常に幸せだったのではないかと思う。それはビンタを食らった中学生にとってもそうである。
今回の結果では、当然ながら日野氏は教育者としては不適合ということは示されたが、それは当然のことである。むしろミュージシャンとしては評価を高める行為だったと思う。
もし今後も世田谷区は継続するのならば、社会人は教育のルールを知らないものとして、ちゃんとした教育責任者を近くにつけ、学生たちの行動への責任は取るべきである。
今回のことは小中学生の社会教育という点で非常にいいテーマであり、多くの人が関心を持つべきと思う。
また人がどのように沸点に達するかを例示したものとして、非常にいい経験になった。今私たちは、トランプさん、金さんの沸点がどこにあるかを 固唾を飲んで見守っているのかもしれない。
・
この現場に客として見たという人のコメントを見ました。
それによると、最初は言葉で注意したけどその子は全く無視。
そして映像にあるようなことになったようです。
映像では動きが派手にビンタしてるように見えますが
実際その場にいたその人によると、
かすめるようなピタピタっという感じで、
音もなく、目を覚ませ的な、とても暴力とは言えないものだったと書いてました。
私がその場にいたわけではないので
報道もその場にいたという人も、どちらの話が本当か確信は持てませんが
この報道を長引かせれば、報道にさらされた男子生徒がいつまでも傷つく気がします。
本人は反省し、また参加したいと言ってるそうなので。
日野さんは、中学生を一人前のミュージシャンとして怒りつつも、そういったところで拝領していると思います。また周辺のバンド員に対して状況をちゃんと見せているはずです。
聴衆どうのこうのではなく、一緒に演奏していた他の中学生に聞いた情報がないけれども彼らは納得しているのではないかと思います。
音楽仲間がうまく収まっていれば、日野さんはいいのではないかと思います。
考え方 受取り方は、人それぞれだと思います。
それでいいのだと思います。
私の考え方もお話させてもらってもいいですか?
今の教育現場は、生徒はお客様状態のような気がします。モンスターペアレンツは如何して生まれたのでしょう。それは、子供が学校のお客様で、通ってやっている。との認識があるから、生まれたのではないかと思います。
その昔、先生は尊敬すべき存在でした。またできる先生方ばかりでした。それが今の状況では、先生方は萎縮してしまっています。
手をあげる事!今回にしてもそうですが、愛のある指導なら、少しは有ってもいいと思います。勿論、怪我につながるような酷いモノではいけませんが…
昔は、先生から頭コッツンなんて、誰でも経験してませんか?愛のある指導なら、なんの問題も無いと思います。それが、今では体罰になる訳です。先生方は恐くて、熱血指導なんてできる訳ありません。
それに輪をかけ、本来家庭ですべき躾けまで学校で習うモノになってしまっているのには、驚いてしまいます。まあ、私たちの時代にも、道徳の授業はありましたが…f^_^;
好き勝手にツラツラと書いてしまいました。ゴメンなさい。一個人の意見です。聞き流して下さい。
より 一般的な人の生き方への教育に関する意見をありがとうございます。
私も全般的な意見を書きます。
生きていくという子供への教育は、家庭および親族、地域、学校でなされるものと思います。それが大人への労働強化によって家庭、地域から大人を奪い、学校だけに教育を押し付けたために現在の状況が起こっていると思っています。
家庭、地域に大人がたくさんいれば、子供一人に対して大人が何人か意見を言って、世間としての常識が理解できます。そして子供に対して例えば親族なら、法事等の時に「「しっかりしてきたね。」とか、地域ならば、お祭りの役をやっているのを大人が見守り、「もう任せられるね。」とか 自分が社会人になっていくのを実感させるようなステップのチャンスが与えられます。
しかし学校では、子供多数に対し大人少数で、ちゃんとしたチェックがなされません。
そして、20歳になったらいきなりまわりから「大人だぞ」といわれ、なにが大人なのかを実感できません。
子供に対する社会教育に関しては、社会構造からかえる必要があると思っています。
大人を奪ったのは企業ですが、その結果とんでもない若者たちを採用しなければならないことになって、復讐を受けている状況でしょう。
本人が反省しいてまた練習に復帰したいと思っているのであれば、周りがとやかく言うのはどうかと思いました。
小学校時代に、先生に怪我しない程度に軽くたたかれたこと私も一度だけあります。
でも愛情持ってのことですから、恨んでいませんし、確かに自分が悪かったので反省しました。
少し話がずれてしまうかも知れませんが、
15年ほど前の体操教室の話です。
子供が「A先生は嫌いだ。」というと、その子の親は子供の言いなりに「曜日を変えてB先生に変えてください。」と言って変更するのです。そういう親子が沢山いると聞き驚き悲しく思いました。
いつもそんなことをしていたら、大人になって仕事で嫌な上司がいたら、いやな仕事をさせられそうになったら、我慢無しで仕事を転々と変えていくことになるのではないかと、末恐ろしと思ったものです。
昔は、親も先生ももっと権威があったと思います。
訂正いたします。m(__)m
今、日本には妥当なロールモデルを作ろうとする意志は感じられません。親とか先生とかはある意味仮の形で、実際は社会人としてどういったような行動をすればいいのかということが、共通認識で誰もが説明でき、それにならうようにできればいいのです。
日本には、阿吽の呼吸で言わなくてもわかるだろうという雰囲気がありますが、実態がなく政治家がすぐ法律では・・といいます。
米国の場合は多民族国家のためか、共通倫理にすごく意識を持っていて、科学技術開発でも倫理に予算を付けます。米国ナノテクノロジー開発の15%が倫理に向けられているのを知った時、すごくショックを受けました。生命科学をも扱っていますから、新しい倫理が必要になりますね。でも日本にはそんな考え方はありません。
日本の倫理っは とてもひよわと思っています。私の知人の外国人は、「天皇家が高い倫理で日本人の高潔さの看板を作っておけば、、政治家は何をやってもいいかのように思っている。」と言っています。」