人文学は社会に必要だから存在しているのではない。逆である。人間が存在するかぎり、どうしても人文学が必要なのである。なにも表現せず、思い出をもたず、そればかりか考えもしない人間は、おそらく存在しないからである。人文学は、人間の条件である。だから人文学は、いつも人間を映す鏡となる。
— 田中希生 (@kio_tanaka) 2017年11月19日
これは一面の真実だろう。
そしてこれに対して「植物状態は?」「ボケの進みきった状態は?」「脳死状態のうちのばーちゃんは?」と問われたときに、上掲の人文学の定義は揺らぎ、宗教の領域がそこに広がることになるのだろう。そんなわけで、上掲の定義の場合、宗教学が人文学からはずれかねない。
なお、『そーゆーきっつい状態の元人間についても准人間的に配慮する』というアイディアはある。それで論点や感情を回収しきれるか、といわれると難だが。
また、そうした配慮からする「人権」を持ち出し、脳死状態の人間についても人文学で相手に出来る―と言うことはできるが、『ん。じゃあ、配慮は適切なところで切り上げようね。資源の問題があるからね』といわれちゃう。資源配分に関する社会的合意がなされたら処分OK!って流れになるわなーってはなし。具体的には身体・知的障害者の殺処分にいたる道。
そんなわけで、うーん、学部1-2年で、現代応用倫理学の授業をするときに有用なたたき台になるし、近現代史の多少の復習にもなるし、論点として便利かなっ。
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