朝日新聞 「抗議の電話、ほとんどかかってこない」 麻生副総理 2015年7月16日17時19分
「ちょっと聞くけど、「とんでもねえじゃねえか」って言って事務所で抗議の電話をもらった人。どれくらい来た? そんなもんか、数十件ね。普通だいたいね、めちゃめちゃ来るはずなんだ、これ、新聞の言う通りだったら。だって80%反対してるんだもん。もっと来なくちゃおかしい」
「これは間違いなく、日本がより安全なものになるための抑止力を確保するために、自信を持ってみんなこれだけやったんで。ぜひ、きちっとした法案を作り上げて日本の安全が確保されるように、みなさん方の自信と誇りを持ってやっていただけることをお願いしたい」
大将さんとして立派な挨拶かと思われる。
河北新報 <安保法案>情勢変化に対応VS廃案へ追い込む 2015年07月17日金曜日
「本会議採決で賛成した東北の与党議員は「国際情勢や安保環境の変化に対応できる」と意義を強調」
「昨年9月まで安倍内閣の防衛相を務めた小野寺五典氏(宮城6区)は「防衛相時代、日本の安全保障の隙間を感じていた。それを埋められる法案だ」と指摘。国際情勢の変化を念頭に「日本の平和を守るため、さまざまな事態に切れ目なく対応できる」と説明した」
与党側は一定の自信とともに言葉を語る様子。但し,
「同法案をめぐっては、東北でも50以上の地方議会が徹底審議や廃案を求める意見書を可決したり請願を採択するなど、国民の理解が深まっていない面がある」
地方議会でこれほどの「ぐらつき」が見られるのは懸念点。
「「もはや自民党は昔の保守政党ではなく、公明党も平和の党ではなくなった」。衆院特別委で同法案を審議した民主党の寺田学氏(比例東北)は、採決に踏み切った与党を非難」
そりゃまあ,自民党さんについては,政権交代を経たわけだし,”昔通り”とはいかない。まあ,与党による審議拒否とかしないあたり,まだ矜持は持っているとか言ったらダメかな。
「共産党の高橋千鶴子氏(比例東北)は「衆院での強引な法案可決によって、反対の世論はかえって高まるはず。参院審議では国民と共に廃案を目指して全力を尽くす」と述べた」
なお上の文,「。」が抜けているのは原文ママ。品質コントロールちょっと失敗。
ともあれ,「反対の世論」が高まるかどうかは不明というべきか。抗議のパワーは官邸前とか議事堂前とかで使い尽くされてはいないか。もしもそうなら,それは折角のパワーをただ絶叫することで浪費するだけにならないか。浪費は祭りの華ではあろう。だがこの場合,浪費するだけに留まりはしないか。
…全力を(絶叫に)捧げつくした結果,大勢にも世論にも手ごたえなく敗北した,とかなっちゃったら,そこでもう引退しちゃう人多数になりはしないか。もしもそうなるのだとしたら,その運動は若者の力を無為に消尽させ,大勢としては対抗する党派の利益とすることになる―とりあえず自民党議員さんの秘書さんたちは,抗議電話の相手で消耗せず,日常の仕事ができたわけである。
東京新聞 「戦える国」衆院可決 安保法案、参院へ 2015年7月17日 06時58分
「共産党の志位和夫委員長は「憲法九条だけでなく国民主権の大原則を蹂躙(じゅうりん)する歴史的暴挙」と非難した」
「では,国民とは誰ですか」という問いにこたえねばならなくなる。議員・代議士は,主権者たる国民から信託をうけた代表者である国民なのではないか。彼らが国民ではない,国民であってはならないというなら,誰が国民と呼ばれてよい者なのか。どこに国民がいるのか。
―まあ東北の地方議会だけでも50も「意見」があったということは重いですね。そうであればこそ,志位先生もこのようにおっしゃるものでしょうが。
東京新聞 「戦える国」衆院可決 安保法案、参院へ 2015年7月17日 朝刊
「衆院可決を受け、自民、民主両党の参院国対委員長は国会内で会談。自民党は連日開催できる特別委員会の設置を申し入れたが、民主党は応じなかった。野党は衆院の採決が強行だったとして参院での早期の審議入りに抵抗する構えだ」
いや議論しなさいな。
ともあれ,これでは『独裁的な現政権は国民との対話を拒否している』という批判ができなくなっちゃう。『お話しようよ』と言う人に対して『お前は対話を拒否している,だから話なんかしてやらない!』というのは,どうも格好がつかない。
もちろん,かたくなな信仰者との対話の場面を思い起こせば,なるほど対話自体無益なものに終わるであろうから,そもそも会わないのが双方のためだ,という気にもなる。
が,しかしだが,しかし。
たとえ話が通じない相手であろうが,せめて最後までことばで「戦う」のが言論の人の責務ではあるまいか。
…まあ60日間も言論で戦うのとか辛そうだし,それでデモのひとたちが盛り上がり続けるのも厳しそうだし,「プロレス」に落とし込もうというのは妥当な選択かなーとか。
比喩的な意味で言葉を濫用していった結果、なにやら訳が分からなくなってきたという一例か。期間が制度的に区切られていれば、それは「絶対的な政治権力」とはいえまい。選挙等々で民意が示され、その民意に絶対的に反抗してなお政治権力の(恣意的な)濫用が可能であるところに独裁の独裁たるゆえんがあるか。
つまり、この場合民意とは、まずは先日の総選挙で示されたわけであり、次に個々の法案に対する賛否は日々の支持率調査で示唆されるもの、ということだろう。
そうしてそれだけでは上手く行かないとなると、今度は言論の場やデモやで表明されることになるだろう。ではデモが発生した場合、それは必ず採用しなければならない民意なのだろうか? 某山形大であったという、伝説の「たった三人で行われたジグザグ行進」によっても、政権与党が屈服せざるを得ない圧倒的な民意が示されるのだろうか?
だからまあ、
東京新聞 安保法案、衆院通過 民主主義の岐路に立って 2015年7月17日
「人の波は深夜になっても途絶えず、主催者発表の参加者数は十万人にまで膨れ上がった。法案が衆院を通過したきのう夜も、国会周辺には多くの人が集まり、安保法案反対の声が響いた」
集まることが出来る東京周辺の人だけでなお連日10万人を超えるような大反対運動が展開するなら、同考えても「たった三人で行われたジグザグ行進」はるか以上に民意を表明するものになるだろう。このような場合は、地方の人間の意見を―というのは、まあ、ちょっと置かせてもらってもそう悪いとは言われないのではないか。
朝日新聞 安保法案デモ「比較的平穏ではないか」 自民・谷垣氏 2015年7月16日18時55分
「6万人というのはちょっと主催者発表とその他の発表が食い違って、ちょっと6万人というのは、そこはずれがあるように思っております。ただ、かつて60年安保であるとか、その前の警察2法の改正であるとか、以来私もいろんなデモを見てきました。そういう観点からすると、(安全保障関連法案のデモは)比較的平穏なんではないかなあと」
ここらは各個人の皮膚感覚によるところが大きかろうが
「かつての安保にせよ、PKOのときも、自分の時間を使って抗議する方はもっとたくさんいらっしゃったように思う」
国民は、これを重大な岐路とまでは見做していないということになろう。
こうまで言われては、これは反対派としては立つ瀬がない。「動員、できなかったんだね?」と言われているに等しい。国民的な争点にできなかったんだね、と言われているに等しい。
日刊スポーツ 国会前に10万人怒りの集結 「廃案」コール 2015年7月16日10時1分 紙面から
「午後6時半から始まった集会には主催者発表で入れ替わりも含め10万人が集まり」
入れ替わりも含めれば10万人とかいったかもー、と言うのはアリだが、そういうパートタイム参加型も選択肢に入ったのはいいことではあろうが、その分、真剣みが足りなくなるという言い方もあろうし、圧力は人が抜ければそれだけ低くなるわけだし痛し痒し。
次の一文が示唆的であり
「また、あまりの人の多さに、身動きがとれなくなった市民らが歩道ですし詰め状態になり、警備する警察官に怒号を浴びせるひと幕もあった」
つまり、連日治安維持不能になるような、それだけの大規模デモ連発するようなものであってこそ、政権与党は圧倒的な民意をそこに感じ、法案成立に躊躇することになろうというもの。
積極的賛成派はそう多くはないのだろう。しかし積極的反対派もさほどなく、消極的賛成派を消極的反対派に引き寄せることに失敗し、消極的反対派を積極的な運動に動員し切れなかったあたりに、六十年安保運動からみた”運動の後退””手法の穏健化”等の要素を読み取ることになろうか。
南日本新聞社 [委員会採決へ] 憲政史に汚点を残すな 社説 2015年7月15日
「集団的自衛権の行使がなぜ必要か。首相自ら国民に訴えた象徴的なケースでさえ、実際は怪しくなってきた。ミサイル警戒中の米艦防護も同様だ。首相は「日本を守るために警備に当たっている米艦が、攻撃された際に守れなくていいのか」と訴えた。その首相が1年後の特別委で、「米軍に武力攻撃が発生しても、直ちに(集団的自衛権行使ができる)存立危機事態になるわけではない」と答弁する」
要件が詰められてきた、と言うことはないのかどうか。切り張りで言っているだけとは思われないように適宜工夫する余地はあるかと。
「日本の安全保障環境は「根本的に変容」した。中国の軍事的台頭が著しい一方、米国は「世界の警察官ではない」と宣言した」
しかし「だからといって、歴代内閣が禁じた集団的自衛権の行使を、国民に理解されないまま解禁するのは乱暴だし、法の安定を損ねる。首相は「私も丁寧に説明し(国民の)理解が進んできたと思う」と語った。あぜんとする現状認識だ。やはり白紙委任は危うい」
そこで、”事実上の白紙委任”にならないよう、誠実に議論を深める責任が、特に野党に求められよう。
歴史教育の重要性を思わせる話のひとつである。
別にそのどっちかにならなくても中立国を宣言することはできる―というのがそこらの人の意見であろうか。まあ、しかし、大国の勝手で道扱いされることがあるので、中立国でありつづけることのためには大国の好き勝手を退けるだけの実力を身につけるとか、道になる必然性がないところに位置するかという必要があるわけで。
重武装はしたくないし、できないし(予算と人員の問題を想起)、比較的負担が少ないっぽい道を選ぶと、今回みたいなことになるかなーと。
「ちょっと聞くけど、「とんでもねえじゃねえか」って言って事務所で抗議の電話をもらった人。どれくらい来た? そんなもんか、数十件ね。普通だいたいね、めちゃめちゃ来るはずなんだ、これ、新聞の言う通りだったら。だって80%反対してるんだもん。もっと来なくちゃおかしい」
「これは間違いなく、日本がより安全なものになるための抑止力を確保するために、自信を持ってみんなこれだけやったんで。ぜひ、きちっとした法案を作り上げて日本の安全が確保されるように、みなさん方の自信と誇りを持ってやっていただけることをお願いしたい」
大将さんとして立派な挨拶かと思われる。
河北新報 <安保法案>情勢変化に対応VS廃案へ追い込む 2015年07月17日金曜日
「本会議採決で賛成した東北の与党議員は「国際情勢や安保環境の変化に対応できる」と意義を強調」
「昨年9月まで安倍内閣の防衛相を務めた小野寺五典氏(宮城6区)は「防衛相時代、日本の安全保障の隙間を感じていた。それを埋められる法案だ」と指摘。国際情勢の変化を念頭に「日本の平和を守るため、さまざまな事態に切れ目なく対応できる」と説明した」
与党側は一定の自信とともに言葉を語る様子。但し,
「同法案をめぐっては、東北でも50以上の地方議会が徹底審議や廃案を求める意見書を可決したり請願を採択するなど、国民の理解が深まっていない面がある」
地方議会でこれほどの「ぐらつき」が見られるのは懸念点。
「「もはや自民党は昔の保守政党ではなく、公明党も平和の党ではなくなった」。衆院特別委で同法案を審議した民主党の寺田学氏(比例東北)は、採決に踏み切った与党を非難」
そりゃまあ,自民党さんについては,政権交代を経たわけだし,”昔通り”とはいかない。まあ,与党による審議拒否とかしないあたり,まだ矜持は持っているとか言ったらダメかな。
「共産党の高橋千鶴子氏(比例東北)は「衆院での強引な法案可決によって、反対の世論はかえって高まるはず。参院審議では国民と共に廃案を目指して全力を尽くす」と述べた」
なお上の文,「。」が抜けているのは原文ママ。品質コントロールちょっと失敗。
ともあれ,「反対の世論」が高まるかどうかは不明というべきか。抗議のパワーは官邸前とか議事堂前とかで使い尽くされてはいないか。もしもそうなら,それは折角のパワーをただ絶叫することで浪費するだけにならないか。浪費は祭りの華ではあろう。だがこの場合,浪費するだけに留まりはしないか。
…全力を(絶叫に)捧げつくした結果,大勢にも世論にも手ごたえなく敗北した,とかなっちゃったら,そこでもう引退しちゃう人多数になりはしないか。もしもそうなるのだとしたら,その運動は若者の力を無為に消尽させ,大勢としては対抗する党派の利益とすることになる―とりあえず自民党議員さんの秘書さんたちは,抗議電話の相手で消耗せず,日常の仕事ができたわけである。
東京新聞 「戦える国」衆院可決 安保法案、参院へ 2015年7月17日 06時58分
「共産党の志位和夫委員長は「憲法九条だけでなく国民主権の大原則を蹂躙(じゅうりん)する歴史的暴挙」と非難した」
「では,国民とは誰ですか」という問いにこたえねばならなくなる。議員・代議士は,主権者たる国民から信託をうけた代表者である国民なのではないか。彼らが国民ではない,国民であってはならないというなら,誰が国民と呼ばれてよい者なのか。どこに国民がいるのか。
―まあ東北の地方議会だけでも50も「意見」があったということは重いですね。そうであればこそ,志位先生もこのようにおっしゃるものでしょうが。
東京新聞 「戦える国」衆院可決 安保法案、参院へ 2015年7月17日 朝刊
「衆院可決を受け、自民、民主両党の参院国対委員長は国会内で会談。自民党は連日開催できる特別委員会の設置を申し入れたが、民主党は応じなかった。野党は衆院の採決が強行だったとして参院での早期の審議入りに抵抗する構えだ」
いや議論しなさいな。
ともあれ,これでは『独裁的な現政権は国民との対話を拒否している』という批判ができなくなっちゃう。『お話しようよ』と言う人に対して『お前は対話を拒否している,だから話なんかしてやらない!』というのは,どうも格好がつかない。
もちろん,かたくなな信仰者との対話の場面を思い起こせば,なるほど対話自体無益なものに終わるであろうから,そもそも会わないのが双方のためだ,という気にもなる。
が,しかしだが,しかし。
たとえ話が通じない相手であろうが,せめて最後までことばで「戦う」のが言論の人の責務ではあるまいか。
…まあ60日間も言論で戦うのとか辛そうだし,それでデモのひとたちが盛り上がり続けるのも厳しそうだし,「プロレス」に落とし込もうというのは妥当な選択かなーとか。
なぜ選挙が期間を区切った独裁の正当化になるのか皆目わからん。 https://t.co/KAI2m5tXl2
— T-T (@tcy79) 2015, 7月 17
比喩的な意味で言葉を濫用していった結果、なにやら訳が分からなくなってきたという一例か。期間が制度的に区切られていれば、それは「絶対的な政治権力」とはいえまい。選挙等々で民意が示され、その民意に絶対的に反抗してなお政治権力の(恣意的な)濫用が可能であるところに独裁の独裁たるゆえんがあるか。
つまり、この場合民意とは、まずは先日の総選挙で示されたわけであり、次に個々の法案に対する賛否は日々の支持率調査で示唆されるもの、ということだろう。
そうしてそれだけでは上手く行かないとなると、今度は言論の場やデモやで表明されることになるだろう。ではデモが発生した場合、それは必ず採用しなければならない民意なのだろうか? 某山形大であったという、伝説の「たった三人で行われたジグザグ行進」によっても、政権与党が屈服せざるを得ない圧倒的な民意が示されるのだろうか?
だからまあ、
東京新聞 安保法案、衆院通過 民主主義の岐路に立って 2015年7月17日
「人の波は深夜になっても途絶えず、主催者発表の参加者数は十万人にまで膨れ上がった。法案が衆院を通過したきのう夜も、国会周辺には多くの人が集まり、安保法案反対の声が響いた」
集まることが出来る東京周辺の人だけでなお連日10万人を超えるような大反対運動が展開するなら、同考えても「たった三人で行われたジグザグ行進」はるか以上に民意を表明するものになるだろう。このような場合は、地方の人間の意見を―というのは、まあ、ちょっと置かせてもらってもそう悪いとは言われないのではないか。
朝日新聞 安保法案デモ「比較的平穏ではないか」 自民・谷垣氏 2015年7月16日18時55分
「6万人というのはちょっと主催者発表とその他の発表が食い違って、ちょっと6万人というのは、そこはずれがあるように思っております。ただ、かつて60年安保であるとか、その前の警察2法の改正であるとか、以来私もいろんなデモを見てきました。そういう観点からすると、(安全保障関連法案のデモは)比較的平穏なんではないかなあと」
ここらは各個人の皮膚感覚によるところが大きかろうが
「かつての安保にせよ、PKOのときも、自分の時間を使って抗議する方はもっとたくさんいらっしゃったように思う」
国民は、これを重大な岐路とまでは見做していないということになろう。
こうまで言われては、これは反対派としては立つ瀬がない。「動員、できなかったんだね?」と言われているに等しい。国民的な争点にできなかったんだね、と言われているに等しい。
日刊スポーツ 国会前に10万人怒りの集結 「廃案」コール 2015年7月16日10時1分 紙面から
「午後6時半から始まった集会には主催者発表で入れ替わりも含め10万人が集まり」
入れ替わりも含めれば10万人とかいったかもー、と言うのはアリだが、そういうパートタイム参加型も選択肢に入ったのはいいことではあろうが、その分、真剣みが足りなくなるという言い方もあろうし、圧力は人が抜ければそれだけ低くなるわけだし痛し痒し。
次の一文が示唆的であり
「また、あまりの人の多さに、身動きがとれなくなった市民らが歩道ですし詰め状態になり、警備する警察官に怒号を浴びせるひと幕もあった」
つまり、連日治安維持不能になるような、それだけの大規模デモ連発するようなものであってこそ、政権与党は圧倒的な民意をそこに感じ、法案成立に躊躇することになろうというもの。
積極的賛成派はそう多くはないのだろう。しかし積極的反対派もさほどなく、消極的賛成派を消極的反対派に引き寄せることに失敗し、消極的反対派を積極的な運動に動員し切れなかったあたりに、六十年安保運動からみた”運動の後退””手法の穏健化”等の要素を読み取ることになろうか。
南日本新聞社 [委員会採決へ] 憲政史に汚点を残すな 社説 2015年7月15日
「集団的自衛権の行使がなぜ必要か。首相自ら国民に訴えた象徴的なケースでさえ、実際は怪しくなってきた。ミサイル警戒中の米艦防護も同様だ。首相は「日本を守るために警備に当たっている米艦が、攻撃された際に守れなくていいのか」と訴えた。その首相が1年後の特別委で、「米軍に武力攻撃が発生しても、直ちに(集団的自衛権行使ができる)存立危機事態になるわけではない」と答弁する」
要件が詰められてきた、と言うことはないのかどうか。切り張りで言っているだけとは思われないように適宜工夫する余地はあるかと。
「日本の安全保障環境は「根本的に変容」した。中国の軍事的台頭が著しい一方、米国は「世界の警察官ではない」と宣言した」
しかし「だからといって、歴代内閣が禁じた集団的自衛権の行使を、国民に理解されないまま解禁するのは乱暴だし、法の安定を損ねる。首相は「私も丁寧に説明し(国民の)理解が進んできたと思う」と語った。あぜんとする現状認識だ。やはり白紙委任は危うい」
そこで、”事実上の白紙委任”にならないよう、誠実に議論を深める責任が、特に野党に求められよう。
スウェーデンは中立国であるために重武装していて、2010年まで徴兵制があり、独自の兵器開発もするし武器輸出も盛んな死の商人国家で、冷戦時代にはソ連の潜水艦を雷撃してたような国ですが、日本もそのような国になれば良いというご意見ですね。 https://t.co/d48HtXZiak
— 小熊善之 (@0guma) 2015, 7月 17
歴史教育の重要性を思わせる話のひとつである。
ぶっちゃけ、中立国ってのは「誰にとってもどうでも良いような国」か「侵略コストが馬鹿高い重武装国家」のどっちかにならざるを得ないと思うわけで、日本が前者に絶対ならないと言うのは合意できるよねぇ?
— 小熊善之 (@0guma) 2015, 7月 17
別にそのどっちかにならなくても中立国を宣言することはできる―というのがそこらの人の意見であろうか。まあ、しかし、大国の勝手で道扱いされることがあるので、中立国でありつづけることのためには大国の好き勝手を退けるだけの実力を身につけるとか、道になる必然性がないところに位置するかという必要があるわけで。
重武装はしたくないし、できないし(予算と人員の問題を想起)、比較的負担が少ないっぽい道を選ぶと、今回みたいなことになるかなーと。
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