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天皇A級戦犯発言報道に関する簡易まとめサイト

天皇陛下がA級戦犯分祀に関する発言をされたとする報道を検証します。

電凸

2006-07-21 09:47:46 | Weblog
依頼事項リスト103
http://dentotsu.jp.land.to/irai103.html#Q103_18
>■102-375 マンセー名無しさん 2006/07/21(金) 11:55:14 ID:DpsqUHPr
>【依頼】検証史料を提示してほしい

と依頼は出ているようだが、20日時点のログ見ると日経答えになってないようだね

http://dentotsu.jp.land.to/nikkei1.html#nikkei10
>東京本社に電凸。外堀を埋めるつもりが埋めることができなかった
>
>Q.問題のメモは今、だれが、どこで保管しているのか
>A.お答え出来ません。
>Q.問題のメモを調査したいと思ったら(個人、大学教授等)見ることはできるのか
>A.今は無理。今後については未定
>Q.メモは4P目だったけれど、全体像をつかみたいので1~3P目の掲載はいつ頃にな
>  るか
>A.調査をはじめたばかりなので未定
>Q.メモは故富田氏のものであるらしいが、いつだれがどのような経緯でそちらにいった
>  のか。家族が残したものであるそうだけど
>A.取材源の秘匿のため、答えられない

だそうな。大部経ったから、「いい加減そろそろなんで公開しないの?」
と再電凸してもよさげだが


日経に電凸
 結論として、今回の件に関して日経新聞は「かなり胡散臭い」。日経が経団連の意向を汲んで中国のご機嫌を伺うために、昨年秋から入手していた富田メモを、この時期に、経団連や首相の靖国参拝に反対する勢力に都合のいい解釈が出来るような扱い方をしているのではないか、つまり「捏造まがい」ではないのかと勘ぐってしまう。


592:名無しさん@6周年 :2006/07/21(金) 00:19:54 ID:Km+k5sYW0
NEWS23に電話して聞いてみた。

Q:メモの”私”が昭和天皇とした根拠は?
A:静岡福祉大の高橋教授がそう言った。周辺取材をして判断した。

で色々突っ込んでみると。「昭和天皇が述べたというメモが見付かったと放送しただけ」「昭和天皇だと断定していません。」だと。

Q:昭和天皇が述べたという根拠は?
A:…

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20 名前:∀ラスカル ◆xMeN8RBOyI [sage ジェノサイド・ダンス] 投稿日:2006/07/20(木) 17:43:36 ID:uzKh6C3I
日経新聞に電凸してみたw 以下、そのやり取りw

ラ:『昭和天皇陛下のご発言のメモ書きの記事について、いくつか伺いたいのですが・・・』
日:『手短にお願いいたします。
ラ:『まず、あのメモがこのタイミングで発見されて記事になったと言うことには、何らかの政治的な意図があるのですか?』
日:『いえ、このたび新たに発見されたと言うことです。』
ラ:『なるほど。しかし、メモの存在自体は20年位前から遺族会の間では知られていたということですが、日経新聞さんほどの新聞社さんが、そのことを知らないと言うことはないですよね?』
日:『そうなんですか?ただ、今回改めて発見されたと言うことで記事にしたのですが。』
ラ:『20年弱経過した紙が一切黄ばんでいない点につきましては、どのようにお考えですか?
日:『いえ、ことがことですので、わが社としましても検証はしたのですが・・・』
ラ:『そうですよね。であれば、科学的な年代鑑定や筆跡鑑定などもされているのですよね?』
日:『はあ、それにつきましては、今後の連載記事で検証をいたしますし、
   朝日さんや毎日さん、讀賣さんも夕刊の一面トップにもってきているということですから、各新聞社さんとも検証をしていると思うのですが・・・』

以下、『各新聞社さんとも~』ループが続く。
ラ:『ことがことですから、もし誤報なり捏造だったら日経さん自体も会社の危機ですよね?』
日:『もし本当だったらどうするんですか?』
ラ:『昭和天皇陛下のお心がそういうことであったのかと、思いをいたすだけですが?w』

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742 名前:∀ラスカル ◆xMeN8RBOyI [sage ジェノサイド・ダンス] 投稿日:2006/07/21(金) 18:44:21 ID:8WUVg7pb
本日14:15時点での日経東京本社への電凸w

日経新聞東京本社 お客様問い合わせ係の担当者との対話

(まずは、報道姿勢について聞いてみよう)
日:『わが社としては、このメモは本物であると確信して報道しております。』
ラ:『というときちんと検証されたのですか?』
日:『ハイ。』
  『史実的な資料として重要であると考えまして、これは広く報道しなければならないと判断し、報道しました。』

以下、質問スタートw
ラ:『昨日の昭和天皇のメモについての記事に関して質問をしたいのですが?』
日:『どのような内容でしょう?』
(物的な証拠について聞いてみよう)
ラ:『メモ書きの紙質についてですが・・・(以下、紙、ペンのインク、糊について質問する)』

日:『はあ、そこまで詳しくは検証していないのですが、あのメモは富田宮内庁長官のメモということですから・・・・』

(今度は内容面について聞いてみよう)
ラ:『あのメモ書きの「私』という表現についてなんですが、あの「私」というのは、本当に昭和天皇なんですか?』

日:『と言いますと?』

ラ:『いえ、朝日新聞社から出版されていた「徳川侍従長の遺言」という本の中で展開されている徳川氏のA級戦犯合祀に対する批判的な論調と、
  今回のメモ書きの論理展開がほぼ完全に同じなんですよ(具体的に読み上げて)。」

  『二人の論理展開の手法が完全に同じである、というのは明らかに不自然である、と思いませんか?」

日:『いえ、侍従長は天皇と常に一緒にいるわけですから、思考が同じになっても不自然だとは思いませんが?」

ラ:『なるほど。でも、あの「私」なる人物が徳川侍従長であると考えたら、全てにつじつまが合いますよね?」

日:『・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・では、貴方様はそのように考えていらっしゃると?」

ラ:『考えているというよりは、論理的に考えてそれしかありえないと考えております。』

日:『・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・一つのご意見として伺っておきます。」

ラ:『次に伺いたいのは、「参拝」という言葉についてなんですが、天皇が靖国を訪れる場合、「親拝」という言葉を用いるんですよ。
   もし、あのメモが天皇ご自身の書かれたものであれば「参拝」という表現を用いることもありえましょうが、
   臣下である宮内庁長官が「参拝」なんていう言葉を用いることもなければ、知らないということもあり得ないですよね?』

日:『 「親拝」という言葉を用いるんですか?それは存じませんでした。』

ラ:『使われている言葉の一言一句を検証するのが修辞学の基礎ですよね?この言葉を用いられる省略された主語の人物として、天皇はふさわしくないのではありませんか?』

日:『・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・今後、検証します。』

徳川侍従長発言説

2006-07-21 09:45:00 | Weblog
このメモは天皇発言だと考えると矛盾が多く存在します。そこで、徳川侍従長の引退会見(?)のメモと仮定し、天皇発言説の矛盾を導くことを考えます。

大きなポイントは以下のとおり
・これはPress会見メモである(?)。
・天皇のPress会見とは日にちが違う(?)(25日は読売新聞の資料添付)。
・天皇の会見として考えると、多くの矛盾が生じる(爆弾発言になる?)。
・徳川侍従長の引退と時期が、ほぼ一致する。


蒟蒻ゼリー様が本記事を読んでコメント欄に寄せられた意見
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・最後の「関係者もおり批判になるの点」は、この3日前の記者会見での昭和天皇の言葉「人物の批判とかそういうものが加わりますから」と一致する。
http://www.yomiuri.co.jp/editorial/news/20060720ig15.htm
http://egg.maidx.net/src/egg1021.jpg

・メモ前ページの「云いたかった」などの過去形表現は、前項の示す、3日前の4月25日が昭和天皇最後の記者会見であり、今回の問題部分はその会見時のことを陛下と富田氏とで28日に述懐している時の発言である可能性を裏打ちするものである。


tech_innovationより
-------
蒟蒻ゼリー様のご指摘により、徳川氏の退任会見でな無いと思われます。しかし、陛下の25日の会見について、陛下以外の第3者が語っている可能性は残ると思われます。


以下、徳川氏発言説に関する2chのレス
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1 このメモは、「関連質問」、「そうですかが多い」などの注記により、公表された会見の内容をメモったものであることが明らか。

2 当然、「回答者」「質問者」がいるわけだが、富田がメモっていたということは富田も同席したことになる。すなわち最低3名が出席した。

3 ここで既に「回答者」が昭和天皇であることはあり得ないことがわかる。1988年に昭和天皇が会見でこのような内容の爆弾発言をした事実はないからだ。

4 徳川侍従長の引退会見記事の内容が、このメモ内容と一致することから、会見は徳川侍従長の引退会見、「回答者」は徳川侍従長であることが明らかである

5 メモ最後の「関係者もおり批判になる」で天皇を批判するとは考えられない

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391 名前:名無しさん@6周年[] 投稿日:2006/07/21(金) 08:07:44 ID:sj9SCuEX0
○余り事実関係も知らず、そうですがが多い

余白の書き込みの意味するところは明白だ。事実関係をあまり知らずに「そうですが・・・」を連発したのは誰だろうか?誰に向かって「そうですが・・・」を連発したのだろうか?

天皇のお言葉に対して「余り事実関係を知らなかったので『そうですが、』と何回も反論してしまった。。。失敗したなあ。」だろうかw それとも天皇が事実関係を余り知らず「そうですが」と何回もおっしゃったのだろうかw

少なくとも「そうですが」を何回も言える立場の者の間の会話メモだな、これは。


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220 <丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん [] 2006/07/20(木) 19:59:48 RyimokED

ググったらこんなのヒットしたぞ。
http://www25.big.or.jp/~yabuki/2001/yasukuni.htm

徳川義寛『侍従長の遺言 昭和天皇との50年』(岩井克己 聞き書き・解説。
朝日新聞社、一九九七年二月)、一八〇~一八二頁。

しかし、靖國神社宮司が松平永芳氏に代つて間もなく、昭和五十三年(一九七八)十一月、秘密裏に極東軍事裁判A級戰犯合祀が實施された(それが新聞に報道されたのは翌年四月)。

『入江相政日記』によると、松平宮司は、宮内廳に、徳仁親王[浩宮]が
「御成年におなりになつたのだから靖國神社に御參拜になるべきだ」と言つて來たり、徳仁親王[浩宮]のオックスフォード留學に反對するといふ「馬鹿なこと」を言つて來たりしたといふ。
また、松平永芳宮司は、新發現の『高松宮(宣仁親王)日記』を如何にすべきかといふ喜久子妃の相談に對しては、之を燒却すべきとの意見を述べてをり
(高松宮妃喜久子『菊と葵のものがたり』中央公論社、一九九八年十一月、四八頁)、
歴史に對する認識に於ても著しく缺けてゐる人物であつたことが窺はれる(『入江相政日記』昭和五十五年五月三十日、昭和五十八年三月十四日)。

昭和天皇の侍從長を勤めた徳川義寛氏は、この極東軍事裁判A級戰犯合祀について、
「筑波さんのように、慎重な扱いをしておくべきだったと思いますね」と、松平永芳宮司の措置を批判的に語つてゐる


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昭和天皇の靖国メモは実は徳川侍従長の発言だった?2
http://news20.2ch.net/test/read.cgi/news/1153409538/
朝日新聞の清水建宇の書いた記事に出てくる徳川侍従長からの取材内容と、
今回突然出てきた天皇発言メモが酷似しているとのこと。
詳しくはリンク先参点
http://sakuratan.ddo.jp/imgboard/img-box/img20060720181150.jpg
メモ画像
http://www.asahi.com/national/update/0720/image/TKY200607200322.jpg
http://www.mainichi-msn.co.jp/today/news/images/20060720k0000e040084000p_size6.jpg
http://ca.c.yimg.jp/news/20060720133420/img.news.yahoo.co.jp/images/20060720/jijp/20060720-04602612-jijp-pol-view-001.jpg

(以下、清水建宇の文章)

 後に侍従長を退いてから同僚の記者が取材した証言録によると、以下のような経緯でした。――靖国神社の合祀者名簿は例年、10月に神社が出してくるが、1978年は遅れて11月に出してきて、A級戦犯を合祀したいという。その10年ほど前に総代会はA級戦犯を合祀する方針を決めていたが、旧皇族である宮司の筑波藤麿さんが先延ばししてきたのに、宮司が代わると間もなく合祀を実施した。徳川氏は「松岡洋右さんのように軍人でもなく病死した人も合祀するのはおかしい」などと問いただしたが、押し切られた。

コメンテーター・清水建宇

http://www.tv-asahi.co.jp/n-station/cmnt/shimizu/2001/0816num90.html



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97 名前:86[] 投稿日:2006/07/21(金) 15:12:56 ID:+1F+FDUl
続き
※3ページ目と4ページ目を続けて読むと次の事が判ります。
1.メモはプレスの会見を筆記したものである。
2.昭和63(1988)年4月28日の記述である。
3.質問に対るす答えは率直な感想を述べているように読み取れる。
発言内容を事前にチェックされる立場の人間ではない事が判る。
4.高松宮様に対して薨去という言葉を使っている事から宮家ではなく
仕える立場の人物の発言と読み取れる。
5.「(3) 4:29に吐瀉したが」のくだりは客観的な表現で自身の事ではない。
6.戦争の感想を問われた時「嫌な気持を表現」している人物である。
7.あまり閣僚を知らない人物である。
8.会見時の発言に「そうですか」が多かった。
9.靖国神社の松平永芳宮司を松平の子と呼ぶ事から近親者で年配者である事が判る。

以上の事から考えて、このメモの発言者として最も適当な人物は徳川侍従長である事は明白です。
理由は以下の通りです。
a.徳川侍従長のが勇退日は昭和63(1988)年4月末日。(会見の有無は確認できず)
b.徳川侍従長の以前からの発言と相似している。
c.前出の1~9の指摘事項に全てあてはまる。

では昭和天皇陛下の発言とした場合、以下の矛盾点が生じます。
イ.この日に昭和天皇陛下の会見は報道されていない。翌29日の天皇誕生日での会見は記録に残っている。
ロ.記者が天皇陛下に対してこのような質問をするとは思えない。又、質問する機会もない。
ハ.発言者は自身を「私」と言っている。天皇陛下であれは公式な場は「朕」と言う筈である。

私がこの意見を貴社に送ったのは、他のマスコミが信じられないからです。
日経は3ページ目をわざと隠しています。3ページ目を公表すると捏造がばれるからです。
しかし私達の仲間が3ページ目を解読することに成功しました。
この新事実をネット掲示板だけに留めている訳にはいきません。
ぜひとも昭和63(1988)年4月28日に徳川侍従長の会見があったかどうか裏を取って下さい。
そして会見内容を精査して下さい。もし同じ内容ならば徳川侍従長発言の裏付けになります。
他社には寄稿していません。又、この意見は私1人の意見ではありません。
「2ちゃんねる」靖国肯定派の総意と思って頂いていいと思います。


富田朝彦元宮内庁長官のメモ(3ページ目)

2006-07-21 09:43:07 | Weblog



     63.4.28
xPressとの会見
(1) 昨年は
(1)高松薨去間もないときで
 心も重かった
(2)メモで返答したのでごつごつ
 していたと思う
(3)4.29は吐瀉したがその前で
 やはり体調が充分でなかった
 それで長官に今年はの記者の
 印象があったのであろう
=(2)については記者も申して
おりました
(2)戦争の感想を問われ、
嫌な気持と表現したが
それは后で云いたい
そして戦后国民が努力して
平和の確立につとめてくれた
ことを云いたかった
”嫌だ”と云ったのは奥野国土庁長
の靖国発言中国への言及にひっかけて
云った積りである



解析
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Press会見 ・・・・1988年4月25日の記者会見

[1]昨年は ・・・・1987年の記者会見前後の様子

①高松薨去・・・・1987年2月高松宮(昭和天皇の弟宮)薨去のこと

③4.29に吐瀉したがその・・・
朝日新聞1987年4月30日夕刊 「天皇陛下ご異常なし」
お誕生日祝賀行事で一時気分を悪くされた天皇陛下は(後略)

=②については記者も申しておりました・・・
1988年4月29日 朝刊 「陛下、手術後初会見 お声に張り 「よく回復、だいぶ余裕も」」
(前略)陛下は、皇居・吹上御苑の林鳥亭で15分間にわたり答えられたが、昨年のようにメモを見ることもなく、よどみないお話しぶり。(後略)

[2]戦争の感想を問われ嫌な気持を表現したがそれは後で云いたい・・・
4月25日の記者会見
  何と言っても、大戦のことが、一番いやな思い出であります。(後略)

"嫌だ"と云ったのは奥野国土庁長の靖国発言中国への言及にひっかけて云った積りである・・・
「奥野国土庁長の靖国発言」とは、1983年の奥野誠亮氏による「国家社会の代表が、代表として(靖国神社を)お参りできないようでは、将来、事があった場合どうなるのか」という発言を指すと思われる。この奥野氏、87年(竹下内閣)の国土庁長官時代には「私は侵略という言葉を使うのは、たいへん嫌いだ。あの当時、日本にはそういう意図はなかった」とも発言しており、なかなかの硬骨漢だった。従軍慰安婦問題でも「従軍慰安婦は商行為」と発言し、積極的に反対論を展開した。奥野はこの直後の5/13に辞任している。

http://www.rb-x.com/memo/memo1.jpg
http://www.rb-x.com/memo/memo2.jpg

富田朝彦元宮内庁長官のメモ(該当部分である4ページ目)

2006-07-21 09:20:22 | Weblog



              4.28    ④
   前にあったね どうしたのだろう
   中曽根の靖国参拝もあったが
    藤尾(文相)の発言。
   =奥野は藤尾と違うと思うが
    バランス感覚の事と思う
    単純な復古ではないとも。

     私は 或る時に、A級が
   合祀され その上 松岡、白取
   までもが、
     筑波は慎重に対処して
   くれたと聞いたが
・    松平の子の今の宮司がどう考
余そ  えたのか 易々と
り う    松平は平和に強い考えが
閣で あったと思うのに 親の心子知
僚す  らずと思っている
も が   だから 私あれ以来参拝
知が していない。 それが私の心だ
ら 多
ずい ・ 関連質問 関係者もおり批判になるの点





「中曽根の靖国参拝」とは、当時の中曽根康弘首相による、1985年8月15日の靖国
神社公式参拝を指すと思われる。このとき、野党や中国が猛反発した。その結果、中曽根氏は86年から参拝を中止。以後、首相による靖国参拝を自粛するのが、当たり前になった。

「藤尾(文相)の発言」とは、1986年(中曽根内閣)の藤尾正行文部大臣によるの「日韓併合は当時の両国代表の合意に基づいて行われた。韓国側にもいくらかの責任は
ある」を指すと思われる。藤尾氏は、韓国の猛抗議を受けた中曽根首相の辞職要求を拒否し、結局罷免された。

関連質問 関係者もおり批判になるの意・・・
4月25日記者会見
そのことは、人物の批判とかそういうものが加わりますから、今ここで述べることは避けたいと思います

「中曽根の靖国参拝もあったか」「藤尾(文相)の発言」というようなことがあった、という認識があって、「=奥野は藤尾とちがうと思うが」。つまり、富田氏が「奥野さんは、藤尾さんの場合とは話がちがいませんか?」と申し上げたところ、「バランス感覚のことと思う」「単純な復古ではない」と言及があった。歴史の流れとして、単純な過去復帰ではないだろう、靖国参拝が過大に問題視されるので、バランス感覚を働かせた。

http://puka-world.com/php/upload/ren/img-box/1153404068267.jpg
http://puka-world.com/php/upload/ren/img-box/1153401253062.jpg
http://puka-world.com/php/upload/ren/img-box/1153401268728.jpg

1988年の天皇陛下の記者会見は4月25日

2006-07-21 09:17:04 | Weblog
891 名前:<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん[sage] 投稿日:2006/07/21(金) 16:56:43 ID:B8ulHPiq
天皇誕生日 「大戦が一番いやな思い出」 87歳の陛下、ほお伝う涙/記者会見
1988.04.29 (1)

 「体調はよく回復したし、疲れることもなく、だいぶ余裕があると思います」--
天皇陛下は、八十七歳の誕生日を前にした記者会見で、太平洋戦争についてや、病気のため中止となった沖縄訪問への意欲を、一つひとつ言葉を選ぶように語られた。
「大戦のことが一番いやな思い出」と語りつつ、ほおに一筋、涙も見せられた。昨秋の手術から七か月。「健康時の八、九分まで体調が戻られた」と側近も驚くほどのめざましい回復ぶりを示されている陛下は、暖かくなった今月から、ほぼ連日、宮殿や
生物学御研究所に通われている。お住まいの吹上御所では、出版を予定している「皇居の植物」の執筆にお忙しい毎日。ご進講も多方面のテーマを希望され、公務にも強い意欲を燃やされている。

 二十五日に行われた記者会見での陛下の主なご発言は次の通り。

 --昨年の手術から半年余りたちましたが、最近のご体調はいかがでしょうか。

 「体調はよく回復したし、四月に入ってから、ほとんど毎日宮殿や生研(生物学御研究所)に出かけています。いっこう疲れる様子もなく、だいぶ余裕があると思いますが、侍医の意見を尊重して無理のないように努めています」

 --手術が決定した時、どのようにお思いになりましたか。

 「医者を信用して、何ともそういうことは感じませんでした」

 --皇后陛下のご体調はいかがですか。

 「皇后は腰の痛みは安定したようでありますが、まだ、ひざの故障があるので歩くのが不自由でありますから、女官の介添えが必要なのであります。そのほかのことについては、落ち着いたようであります」

 --生物学の研究も再開されましたが、「皇居の植物」の執筆などで苦心された
点をお話し下さい。

 「普通の学者は研究に専念できますが、私の立場では、公務の余暇にしなければならないので、研究がどうしても断続的になります。だから、成果をまとめるためには、長い年月が必要であります。植物の場合は、林道等の開発のために消失することもあります。動物の方は動くことが多いので観察はなかなか困難でありますし、天候のために、イソ採集や海底の観察ができないこともあります」

 --先日、五十年以上にわたり陛下にお仕えした徳川義寛侍従長が退任しましたが。

 「徳川侍従長に対しては、思い出も深いのでありますが、特に終戦の時に玉音盤をよく守ってくれたこと、戦後、全国を巡遊した時に岐阜の付近で歓迎の人波にもまれてロッ骨を折ったことがあります。裏方の勤務に精励してくれたことを感謝しています。また、ヨーロッパやアメリカの親善訪問の準備をよくしてくれたので、訪問はだいたい成功したように思われます。年齢のためにこのたび辞めることになりましたが、非常に残念に思います」

913 名前:<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん[sage] 投稿日:2006/07/21(金) 16:59:24 ID:B8ulHPiq
天皇誕生日 「大戦が一番いやな思い出」 87歳の陛下、ほお伝う涙/記者会見
1988.04.29(2)

 --陛下が即位式(昭和三年十一月)をされてから六十年になりますが、
第二次世界大戦について、改めてお考えをお聞かせ下さい。

 「何と言っても、大戦のことが、一番いやな思い出であります。戦後、国民が相協力して平和のために努めてくれたことをうれしく思っています。どうか今後とも、そのことを国民が忘れずに、平和を守ってくれることを期待しています」

 --日本が戦争に進んだ最大の原因は何だと思われますか。

 「そのことは、人物の批判とかそういうものが加わりますから、今ここで述べることは避けたいと思います」

 --沖縄訪問について、お気持ちをお聞かせ下さい。

 「病気のため、沖縄の旅行を中止したことを今も残念に思っています。その時に、健康が回復したら、なるべく早い時に旅行したいと考えを述べましたが、今日も、その精神につきましては何も変わっていません」

(読売新聞社)

インクの劣化、その他画像

2006-07-21 09:15:36 | Weblog
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917 名無しさん@6周年 New! 2006/07/20(木) 22:08:44 ID:3j8r6XHW0

純粋に技術的な面から言わせていただくと左側は所謂「ブルーブラック」インキが経年劣化でブルーからブラックに変色した状態。右側は書いて日が浅いのでブルーのままでまだ何年かしないとブラックに変色出来ない。

結論→   左頁と右頁の時間は数十年の開きがある!
http://sakuratan.ddo.jp/imgboard/img-box/img20060720181150.jpg

※報ステでは、ヤヴァイと思ったのか、片方のページを隠して放送。
http://puka-world.com/php/upload/ren/img-box/1153401253062.jpg
http://puka-world.com/php/upload/ren/img-box/1153401268728.jpg

参考:左頁を隠していないNEWS23のキャプ画
http://dentotsu.jp.land.to/img/chikushi_20060720_4.jpg

インクの変色については↓

インク研究会
http://members.jcom.home.ne.jp/y-mo/fullhalter/ink15.html

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2 名前:名無しさん@6周年[] 投稿日:2006/07/21(金) 14:01:00 ID:28Nv9JYd0
藤尾(文相)の発言
http://www.vipper.org/vip295965.jpg

左・右ページの文字の肉付きからみて、万年筆が使用されている。
左ページの文字=黒色
右ページの文字=ブルー

左=書かれてからの年数がかなり経っている。
右=書きたてに近い色。とても20年前に書かれたものとは思えない。
ブルーブラックインクの愛用者なら見た瞬間に気づく点。

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http://members.jcom.home.ne.jp/y-mo/fullhalter/ink19.html
万年筆用に作られたブルー・ブラックは、第一鉄イオンが酸化して第二鉄イオンに沈殿することを利用して作られている。つまり、無色透明の酸化鉄溶液を万年筆に入れて文字を書くと、書いたときには透明だが、しばらくすると酸化作用によって黒く文字が浮き上がってくるのである。しかし、それでは不便なので青い色を染料として付けたものであるという。色合いが染料の青と化学作用によって作られた黒が混ざってブルー・ブラックという色になっている。だから理論的には、書いた時点では青と黒の間のような色合いであるが、時が経つと黒だけが残る。そして、この黒は水にも強く、消えないという。これが本来のブルー・ブラックの組成だそうだ。
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NEWS23のキャプ画
http://dentotsu.jp.land.to/img/chikushi_20060720_4.jpg
http://dentotsu.jp.land.to/img/chikushi_20060720_7.jpg

956 名前:うん子 ◆UNKO.smJbs [sage] 投稿日:2006/07/21(金) 12:48:06 ID:hhd6VXRp
テレ朝(ワイドスクランブル)http://puka-world.com/php/upload/ren/img-box/1153453479655.jpg
http://puka-world.com/php/upload/ren/img-box/1153453488786.jpg
http://puka-world.com/php/upload/ren/img-box/1153453498352.jpg
http://puka-world.com/php/upload/ren/img-box/1153453507097.jpg
http://puka-world.com/php/upload/ren/img-box/1153453564059.jpg
http://puka-world.com/php/upload/ren/img-box/1153453574053.jpg


富田メモに対する意見(岡崎、養老、桜井)

2006-07-21 09:14:05 | Weblog
「徳川氏の発言のメモの可能性」「釈然とせぬメモ」…元駐タイ大使・岡崎久彦氏

昭和天皇のご発言メモ、私はいまだに釈然としない。何度も読み返してみたが、昭和史についての私の知識から言ってどうしても昭和天皇のお言葉と読めないのである。英国風の君臨すれども統治せず、を信条としておられた陛下が、こんなに乱暴に、A級戦犯の合祀と御親拝中止を自分の御意思で結びつけられるだろうか。

 そもそも戦争犯罪者というものについて、昭和天皇は、「占領軍にとっては犯罪者であっても、日本にとっては功労者」あるいは「朕(ちん)の忠良なる臣僚」とおっしゃったこともあり、日本の犯罪者と認めておられない。また戦後の政治家、靖国宮司について、ご自分の臣僚の悪口をこんなに露骨におっしゃるだろうか。

 具体的に論争すれば、反論はあり得よう。ただ、私の感じるのは、全体の流れに昭和天皇らしいご風格が見えないことである。この陛下のお言葉らしくないものが、どうして出てきたかの理由を考えて色々なことを想定してみた。

 富田元宮内庁長官が、当時の時流から考えて、陛下のためを思って、陛下が平和主義者、戦争反対だったことをことさらに強調しようとしたのか、あるいは警察庁の先輩でありボスである後藤田元官房長官の靖国参拝中止の政策を、背後で宮内庁からバック・アップしようとしたのか、とも思った。しかし、それはいずれも、富田氏のような忠実な官僚がすることとしては大胆に過ぎる。

 あるいは陛下のご健康の衰えのためかとも思った。しかし、当時の陛下が、健康はともかくご判断力の上で、そこまで衰えられていたという証言もないし、また、私としては到底信じられない。

 そうしているうちに妙なことに気が付いた。テレビでも新聞でも公表されているこの文書の末尾の1行である。それは、「・関連質問 関係者もおり批判となるの意」と読める。「関連質問」というのは、宮内庁内の記者会見の際、常用される言葉の由である。これを普通に読めば、「その後関連質問が出たが、その趣旨は(批判された人々の)親族なども居るので、批判がましくはないか、ということであった。」ということになる。これは明らかに富田氏の質問ではない。記者会見の後の記者からの質問である。

また、私は確認はしていないが、その前のページに「PRESS(プレス)の会見」という字があるようである。とすると、これは、陛下と富田長官の一対一のメモでなく、何らかの記者会見のメモである。関連質問の内容からすれば、オフレコの記者会見であったろうが、いずれにしても陛下ご自身の記者会見とは、到底思われない。天皇陛下にこういう関連質問がされる可能性は、富田氏からも、記者団からもあり得ない。

 そもそも、記者会見のような場所で昭和天皇がこういう発言をされる可能性は、既に述べた私の個人的感触だけでなく、少しでも昭和天皇のことを知っているすべての人が否定するところであろう。昭和天皇が富田氏に一対一でひそかに語られたということで、わずかに信憑性(既に述べたように私はそれも疑っている)が生まれるのである。

 その後、私自身が確かめたわけではなく、ひとから聞いた話であるが、陛下87歳の御誕生日前日の昭和63年4月28日に、どんな記者会見があったかといえば、昭和天皇ご自身によるものはなく、その前の4月12日に勇退された徳川侍従長が、それまで職務上、固く沈黙を守っていられたのが、元侍従長として自由な立場で記者会見を行ったことがある由である。そこには富田氏も長官として同席し、メモを取っていた、という事実があるようである。

 この徳川氏の記者会見に同席された方のメモ、少なくとも記憶があれば、この問題は解明される可能性が出てくる。ただ、もう18年前のことであり、出席者が誰も残っていないとすれば、この問題は解決されないままになってしまう可能性もある。その場合、私としてはこのメモの信憑性に疑いをもったままであろう。私の尊敬し個人的にも親しい歴史学者たちが、おおむねその信憑性を信じていると新聞が報じている中で、私だけは異端者となるがそれもやむを得ない。(一部略)
 http://www.sankei.co.jp/news/060802/morning/seiron.htm


◇養老孟司…解剖学者

▼天皇の中立性を侵した日経こそ問題

小泉首相は靖国に関して「心の問題」といいますが、その通りで、本人の問題だと思います。行きたいのであれば行けばいい。そのことでメディアに叩かれることもない。それが「信教の自由」だと思います。

首相が参拝すると様々な問題がある、といわれますが、問題が「ある」のではなくて、メディアが問題を「作って」いるんですよ。「経済に影響する」というのもメディアですが、本当に影響があるのか。

今回も、日経新聞がスクープによって新たな「問題」を作り出した。「天皇の中立性」というものを日経の記者はどう考えているのか。昭和天皇ご自身は、自らの政治的中立性を、強く守っておられたはずです。今の天皇陛下も、色々とおっしゃりたいことはあるでしょうが我慢している。「天皇の中立性」とは、天皇陛下が我慢しさえすれば守られる、というものではなく、皆がそういう意識を持つことで守られるものです。

「これは特ダネなんだから、天皇の中立性なんて潰してもいい」と考えたのでしょうか。メディアは今一度自らの倫理基準を問い直すべきです。「天皇の政治的中立性なんて、ウチの会社は認めませんよ」というのなら、現在の天皇制のあり方自体を考えなくてはいけなくなる。天皇陛下のプライベートな発言を、今度は別の社が「こういうことも言っている」と使うかもしれない。そういう天皇制の根幹に関わることを、勝手に一社が、スクープのためにやらないでくれ、といいたい。

新聞は「談合を許すな」と書きますが、自分たちにも職業倫理がないなら、そういうことを書く資格はない。

私は、今回の騒動の中で本当に国益を考えて行動したのは、福田康夫さんと小泉首相だと思っています。福田さんは、日経の記事が出た翌日には不出馬を表明した。
「国論を二分することになりかねない」というのは明らかに中国を意識した発言です。富田メモで、参拝反対派に追い風が吹き、世論が安倍、福田でまっぷたつに割れる、ということを恐れたのでしょう。小泉さんが「心の問題」といって、大事(おおごと)にしないのも、極めて正しい対応だと思いますよ。

今、戦争で亡くなった方のためにお参りしようと思ったら、靖国神社以外にはありません。そして、戦犯もある意味では戦争の犠牲者です。戦争とはそういう犠牲者を生む行為だということを、あそこに参拝することで示してもいる。靖国をなくしてしまったら、日本人の記憶から戦争自体が消えちゃいますよ。

ソース:週刊文春8月3日号 24ページ


◇櫻井よしこ

▼あくまで未検証のメモ

メモが書かれた当時の陛下のご体調を調べてみますと、前年九月に開腹手術をされています。腸閉塞との診断でしたが、実際にはガンでした。そして翌年の一月に崩御されています。メモにある誕生日前の定例会見も従来の三十分から十五分に短縮されており、陛下のご体調が思わしくなかったことがわかります。こうした状況の中で陛下のお言葉を富田元宮内庁長官がメモに残していたわけです。

陛下がメモに書かれているような言い方を本当にされたのか、非常に疑問です。

日経新聞に掲載されたメモの写真を見ると、右上に「4・28 ④」とあります。ならば、①から③も合わせて読まなければ、メモの真意を掴めないでしょうし、ましてや、メモの記述が陛下の真意を反映しているかさえ不明です。陛下のご発言から富田元長官自身が幾つか重要だと考える言葉を抜き出して書いたメモですから。

富田元長官の残した日記と手帳全体を、当時の状況と照らし合わせながら、仔細に検証しなければ、メモの記述が陛下の真意を反映しているか否か、確認できません。

仮に陛下のご発言であるとしても、問題は残ります。

陛下はお好きなテレビ番組や相撲取りでさえも、発言が一人歩きすることを懸念して、明らかにされなかった。公の発言については常に慎重の上にも慎重を期していらした陛下が、仮にメモにあるようなご発言をされていたとしても、それは公にすべきものではないのです。

なぜなら陛下はご自分の発言で現実の事柄を左右してしまうことを強く戒めていらした。加えて陛下の私的発言で政治を動かすことは立憲君主制に反することだからです。

生前の富田元長官は、日記と手帳を「死んだら棺桶に入れて一緒に焼いてもらうつもり」だったとの報道もあります。にもかかわらず、メモが公表され、首相の靖国参拝への影響が取り沙汰されている事態に、最も心を痛めているのは、先帝陛下と富田元長官ではないでしょうか。

まず、メモの信頼性を検証すべきですが、前述のような理由で、メモによって政治が左右されてはなりません。

私たちは一九九二年に中国との関係ですでに一度、天皇を政治利用する過ちを犯しています。この過ちを繰り返してはならないのです。ですから小泉首相はご自分の信念で靖国神社に参拝されるべきです。

ソース:週刊文春8月3日号 25-26ページ

矛盾をきたし始めている報道

2006-07-21 09:13:52 | Weblog
(1)
朝日新聞、社説に二面性…皇室の発言に対し

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 朝日新聞が皇室に対する二面性を露呈している。

 同紙は21日付の社説で「A級戦犯合祀(ごうし) 昭和天皇の重い言葉」として、昭和天皇が靖国神社へのA級戦犯合祀に不快感を示されていたことについて、
「賢明な判断だったと思う。中国などが合祀を問題にする前の主体的な判断だった
ことを重く受け止めたい」などと評価。
「だれもがこぞって戦争の犠牲になった人たちを悼むことができる場所が必要だろう」と訴えた。

 ところが、2月2日付の社説では、「寛仁さま 発言はもう控えては」として、
寛仁親王殿下が女性・女系天皇に異議を唱えられたことに対し、「憲法上、天皇は国政にかかわれない。皇位継承資格を持つ皇族も同じだ」
「発言が政治的に利用される恐れがある」「発言を控えては」などと、言論封殺まがいの苦言を呈しているのだ。

 同じ新聞の社説で、これだけ主張に差があるとは驚くしかない。皇室を政治的に利用しているのは一体誰なのか。


(2)臨場感があるので、内容は信頼できる?
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「内容、かなり信頼できる。あり合わせのメモに臨場感が」…"昭和天皇独白録"関係者

◇分祀論議などにも微妙な影響
 昭和天皇がA級戦犯の合祀に不快感を示していたことを裏付ける資料が発見された
 ことは、小泉純一郎首相の靖国神社参拝がクローズアップされる中、政界に根強い
 A級戦犯分祀論議に一定の追い風となりそうだ。ただ、靖国神社側は分祀について
 これまで強く否定している。
 天皇参拝が途絶えたことは、78年のA級戦犯合祀に配慮したとの指摘がもともと政界に 強かった。一方で、75年の最後の天皇参拝と合祀の間に約3年の空白があることから、 国会で野党が天皇参拝を追及したことが原因、との反論も根強かった。安倍晋三官房長官は20日の記者会見で資料について「宮内庁からは『個人のメモに基づくもので、詳細を承知していない』と報告を受けている。天皇陛下の参拝については、そのときどきの社会情勢など諸般の事情を考慮しながら慎重に検討して宮内庁で対処してきた」と説明。小泉首相の参拝への影響については「首相自身が判断するものだ」と語った。

 A級戦犯については、自民党の古賀誠元幹事長、山崎拓前副総裁らが神社からの
 分祀論を提起している。かねて中曽根康弘元首相は「天皇陛下もお参りできるためには分祀が一番いい」と主張しており、今回の資料発見で天皇参拝の復活を求める観点からの分祀論が勢いを得る可能性はある。
 ただ、政界が分祀論議を提起することは政教分離原則に抵触するとの批判があるうえ、靖国神社側は分祀を強く否定しており、状況は複雑だ。


(3) 東京新聞の報道の矛盾
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604 名前:名無しさん@6周年[] 投稿日:2006/07/22(土) 23:10:54 ID:FIsyucij0
【論説】小泉首相は昭和天皇の「心の問題」を無視できるのか 大阪高裁も昨年秋憲法違反の判断を示している 東京新聞・筆洗
http://news19.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1153435109/
http://www.tokyo-np.co.jp/00/hissen/20060721/col_____hissen__000.shtml
> ▼任期切れ目前の小泉首相は、国内外の反対を押し切って、
> 八月十五日の靖国参拝に含みを残したままでいる。
> 「心の問題。行けとか行くなとか言われる問題ではない」と言い切る首相は、
> 具体的な証拠で明らかとなった昭和天皇の「心の問題」を無視できるのか。

↑ 昨日
↓ 今日

http://www.tokyo-np.co.jp/00/tokuho/20060722/mng_____tokuho__000.shtml
> ■メモ全体から検証の必要 
> 富田氏がどういう意図で書いたのか、可能な限り生前の本人の意向と
> 関連資料を検討した上で世に出すべきで、このようなタイミングで出てくると、
> 昭和天皇の発言の趣旨とずれた形で独り歩きする危険性がある。
> この日だけのメモの部分だけでなく、富田メモ全体の中で位置づけないと正確性は期せない」


(4)自分が散々過大に扱ってきたのに、過大に扱うのは控えるべき?
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朝日新聞
(略)メモは一つの史料として冷静に受け止めたい。政治などの場で過大に扱うのも控えた方がいい。もっと大きく、昭和の歴史と向き合ったり、あの悲惨な戦争を考えたりする時の手がかりにしたい。戦争で隈どられる時代が二度と来ることがないように。

21日各社社説の比較(産経、読売)

2006-07-21 09:12:54 | Weblog
産経
富田長官メモ 首相参拝は影響されない
http://www.sankei.co.jp/news/editoria.htm

 昭和天皇がいわゆる“A級戦犯”の松岡洋右元外相らが靖国神社に合祀(ごうし)されたことに不快感を示したとされる富田朝彦元宮内庁長官のメモが見つかった。昭和天皇の思いが記された貴重な記録だ。

 昭和天皇が松岡元外相を評価していなかったことは、文芸春秋発行の『昭和天皇独白録』にも記されている。富田氏のメモは、それを改めて裏付ける資料だ。メモでは、昭和天皇は松岡氏と白鳥敏夫元駐伊大使の2人の名前を挙げ、それ以外のA級戦犯の名前は書かれていない。

 靖国神社には、巣鴨で刑死した東条英機元首相ら7人、未決拘禁中や受刑中に死亡した東郷茂徳元外相ら7人の計14人のA級戦犯がまつられている。メモだけでは、昭和天皇が14人全員のA級戦犯合祀に不快感を示していたとまでは読み取れない。

 政界の一部で、9月の自民党総裁選に向け、A級戦犯を分祀(ぶんし)しようという動きがあるが、富田氏のメモはその分祀論の根拠にはなり得ない。

 天皇の靖国参拝は、昭和50年11月を最後に途絶えている。その理由について、当時の三木武夫首相が公人でなく私人としての靖国参拝を強調したことから、天皇の靖国参拝も政治問題化したという見方と、その3年後の昭和53年10月にA級戦犯が合祀されたからだとする考え方の2説があった。

 富田氏のメモは後者の説を補強する一つの資料といえるが、それは学問的な評価にとどめるべきであり、A級戦犯分祀の是非論に利用すべきではない。まして、首相の靖国参拝をめぐる是非論と安易に結びつけるようなことがあってはなるまい。

 昭和28年8月の国会で、「戦争犯罪による受刑者の赦免に関する決議」が全会一致で採択された。これを受け、政府は関係各国の同意を得て、死刑を免れたA級戦犯やアジア各地の裁判で裁かれたBC級戦犯を釈放した。また、刑死・獄死した戦犯の遺族に年金が支給されるようになった。

 戦犯は旧厚生省から靖国神社へ送られる祭神名票に加えられ、これに基づき「昭和殉難者」として同神社に合祀された。この事実は重い。

 小泉純一郎首相は富田氏のメモに左右されず、国民を代表して堂々と靖国神社に参拝してほしい。


読売
[A級戦犯合祀]「靖国参拝をやめた昭和天皇の『心』」
http://www.yomiuri.co.jp/editorial/news/20060720ig90.htm

 直截(ちょくせつ)的な表現に、驚いた人も多いのではないか。

 昭和天皇が、「A級戦犯」の靖国神社合祀(ごうし)をめぐって、「だから私はあれ以来参拝していない。それが私の心だ」と語っていた。宮内庁長官だった富田朝彦氏の手帳の1988年4月28日付メモに記されてあった。

 極東国際軍事裁判(東京裁判)で「A級戦犯」に問われた東条英機元首相ら14人が、78年10月、「昭和殉難者」として靖国神社に合祀された。

 昭和天皇は、戦後8回にわたり靖国神社を参拝されたが、75年11月の参拝が最後となった。今の陛下も、即位後は参拝されていない。

 一方、三木首相による75年の靖国神社参拝を契機に、公人としての参拝か私人としてかが、政治問題化した。

 昭和天皇が参拝されない理由は「A級戦犯合祀」なのか、「公人・私人」の政治問題を避けるためなのか。二説があったが、憶測の域を出なかった。メモの発見により、一つの区切りがついた。

 富田メモには「A級が合祀され その上 松岡、白取までもが」とある。松岡洋右元外相と白鳥敏夫元駐イタリア大使を指したものだろう。2人は、日独伊三国同盟の締結を推進し、そのことが日米開戦の大きな要因ともなった。

 90年に公表された「昭和天皇独白録」の中で、昭和天皇は松岡元外相について「『ヒトラー』に買収でもされたのではないか」と厳しく批判している。

 昭和天皇は、一貫して戦争を回避することを望みながら、立憲君主としての立場を踏まえて積極的な発言は控えたとされる。その立場から、戦争責任を問われるべき指導者の合祀に納得できなかったということだろうか。

 別の資料だと、同じ「A級戦犯」でも、木戸幸一元内大臣については、「米国より見れば犯罪人ならんも我国にとりては功労者なり」と語ってもいる。

 富田メモは、「A級戦犯」分祀論議にも一石を投じることになろう。

 だが、靖国神社は教義上「分祀」は不可能としている。政治が宗教法人である靖国神社に分祀の圧力をかけることは、憲法の政教分離の原則に反する。麻生外相は、靖国神社を国の施設にすることを提案しているが、これも靖国側の意向を前提としない限り不可能だ。

 靖国神社には、宗教法人としての自由な宗教活動を認める。他方で、国立追悼施設の建立、あるいは千鳥ヶ淵戦没者墓苑の拡充などの方法を考えていく。

 「靖国問題」の解決には、そうした選択肢しかないのではないか。
(2006年7月21日1時53分 読売新聞)

21日各社社説の比較(朝日、毎日)

2006-07-21 09:09:01 | Weblog
朝日

A級戦犯合祀 昭和天皇の重い言葉
http://www.asahi.com/paper/editorial.html

 東条英機元首相ら14人のA級戦犯が靖国神社に合祀(ごうし)されたのは、78年のことである。戦後も8回にわたって靖国神社に参拝していた昭和天皇は、合祀を境に参拝を取りやめた。

 その心境を語った昭和天皇の言葉が、元宮内庁長官の故富田朝彦氏の手で記録されていた。A級戦犯の合祀に不快感を示し、「だから私あれ以来、参拝していない、それが私の心だ」とある。

 昭和天皇が靖国神社への参拝をやめたのは、A級戦犯の合祀が原因だったことがはっきりした。

 合祀に踏み切った靖国神社宮司の父親は松平慶民元宮内大臣だった。メモには、その名を挙げ、「松平は 平和に強い考(え)があったと思うのに 親の心子知らず」という言葉がある。

 A級戦犯が合祀されているところに参拝すれば、平和国家として生まれ変わった戦後の歩みを否定することになる。昭和天皇はそう考えたのだろう。

 天皇個人としてという以上に、新憲法に基づく「国民統合の象徴」として、賢明な判断だったと思う。しかも、中国などが合祀を問題にする前の主体的な判断だったことを重く受け止めたい。

 戦前、天皇は陸海軍の統帥者だった。自らの名の下に、多くの兵士を戦場に送った。亡くなった兵士の天皇に対する気持ちは様々だろうが、昭和天皇が靖国神社に赴き、戦没者の魂をなぐさめたいと思うのは自然な気持ちだろう。

 しかし、戦争を計画、指導した軍幹部や政治家らを一緒に弔うとなると話は別だ。そう考えていたのではないか。

 メモには「A級が合祀され その上 松岡、白取までもが」と記されている。日独伊三国同盟を推進した松岡洋右元外相と白鳥敏夫元駐イタリア大使への怒りもうかがえる。

 A級戦犯の合祀に対し、昭和天皇がかねて不快感を示していたことは側近らの証言でわかっていた。

 それなのに、昭和天皇が靖国参拝をやめたのは合祀が原因ではないとする主張が最近、合祀を支持する立場から相次いでいた。

 75年に三木武夫首相が私人として靖国参拝をしたことを機に、天皇の参拝が公的か私的かが問題になったとして、「天皇の参拝が途絶えたのは、これらが関係しているとみるべきだろう」(昨年8月の産経新聞の社説)という考えだ。

 こうした主張にはもともと無理があったが、今回わかった昭和天皇の発言は、議論に決着をつけるものだ。

 現在の天皇陛下も、靖国神社には足を運んでいない。戦没者に哀悼の意を示そうにも、いまの靖国神社ではそれはかなわない。

 だれもがこぞって戦争の犠牲になった人たちを悼むことができる場所が必要だろう。それは中国や韓国に言われるまでもなく、日本人自身が答えを出す問題である。そのことを今回の昭和天皇の発言が示している。


毎日

昭和天皇メモ A級戦犯合祀は不適切だった
http://www.mainichi-msn.co.jp/eye/shasetsu/news/20060721k0000m070160000c.html

昭和天皇が、靖国神社のA級戦犯合祀(ごうし)に強い不快感を抱いていたことを示す富田朝彦元宮内庁長官のメモが明らかになった。「だから私はあれ以来参拝していない。それが私の心だ」という簡潔な表現は真に迫っている。史料価値は高い。
 これまでも、1975年以降、昭和天皇が靖国神社へ参拝に行かなくなった理由については、A級戦犯の合祀に不満だからであると言われていた。そして、それがA級戦犯の分祀を求める意見のひとつの根拠になっていた。
 しかし、政界や靖国神社関係者などには、A級戦犯を裁いた東京裁判の不当性を主張すると同時に、天皇の靖国参拝中断はマスコミが騒ぐせいだという声高な反論があった。その論争は、富田メモではっきりと決着がついた。
 中曽根康弘氏は首相として1985年に靖国神社を公式参拝したが、中国の批判を受け翌年の参拝を断念した。
この時、富田元長官は「靖国の問題などの処置はきわめて適切であった、よくやった、そういう気持ちを伝えなさい、と陛下から言われております」という電話を、首相官邸に入れた(岩見隆夫「陛下の御質問」)。昭和天皇は、首相の靖国神社公式参拝にも反対だった。
 富田メモから、昭和天皇の思考の一端がうかがえる。「松平(慶民元宮内大臣)の子の今の宮司がどう考えたのか。易々(やすやす)と。松平は平和に強い考えがあったと思うのに、親の心子知らずと思っている」というくだりである。
 先代の筑波藤麿宮司が棚上げにしてきたA級戦犯合祀を実行した松平永芳宮司に対して、親不孝だという強烈な批判をしている。「易々と」という苦々しい言葉は、A級戦犯を合祀しようとする人々に昭和天皇が反対していた
ことを示している.

戦前の靖国神社は、国民が戦死者をとむらう宗教施設ではなかった。天皇が、天皇のために戦死した軍人たちの栄誉をたたえる顕彰施設だった。戦死者の遺族は「息子が天子様のお役に立てた」という論理で悲しみを癒やされる建前だった。だから天皇による親拝は靖国神社の本質だったのである。
 戦後、宗教法人になり、皇室から独立した。だが、天皇によって遺族が癒やされるという戦前の伝統は、天皇の私的参拝という形で続いていた。それが絶たれた原因は、A級戦犯合祀という神社側の選択にある。
 もちろん、宗教法人となった靖国神社が、天皇と歴史観、戦争観が違っていても自由である。メモにしても天皇個人の気持ちにすぎない。小泉純一郎首相のように「それぞれの心の問題」と考えるのも自由だろう。
 だが、そうだとしても戦没者に感謝と哀悼の誠をささげるための施設として議論の余地がないなら、なぜ内外で大きな論議を呼ぶのだろうか。その最大の原因は、A級戦犯合祀にある。その事実を冷静に考えるならば、いまの状態で首相が靖国神社に参拝するのは、やはり適切ではない。

21日各社社説の比較(日経)

2006-07-21 09:05:56 | Weblog
社説1 昭和天皇の思いを大事にしたい(7/21)
http://www.nikkei.co.jp/news/shasetsu/index20060720MS3M2000220072006.html

 昭和天皇が1975年を最後に靖国神社を参拝しなかった理由について、A級戦犯合祀(ごうし)に強い不快感を示し「だから私はあれ以来参拝していない。それが私の心だ」と語っていたことが、故富田朝彦元宮内庁長官のメモによって明らかになった。昭和天皇の意向が信頼性の高い具体的史料によって裏付けられたのは初めてである。

 小泉純一郎首相の靖国神社参拝をめぐって国内に賛否の大きな議論が渦巻き、この問題で中国、韓国との関係がぎくしゃくして首脳会談も開けない異常事態が続いている。新たな事実が明確になったことを踏まえ、靖国参拝問題を冷静に議論し、この問題を他国の意向に振り回されるのではなく、日本人自身で解決するよい機会にしたい。

 昭和天皇が靖国参拝を見送った経緯については、かねてA級戦犯合祀に不快感を抱いていたとの宮内庁関係者の証言が伝えられていたが、靖国参拝擁護派はこうした見方を強く否定し、「三木武夫元首相が75年に私人の立場を明確にして参拝したため、天皇が参拝しにくくなった」と主張していた。

 今回の「富田メモ」によって昭和天皇の意向が明確になり、天皇が参拝しない理由を三木元首相のせいにした主張の論拠はほぼ崩れ去ったと言ってよい。

 昭和天皇がA級戦犯合祀に強い不快感を示したのは、過去の戦争への痛切な反省と世界平和への思い、米英両国や中国など諸外国との信義を重んじる信念があったためと推察される。そうした昭和天皇の思いを日本人として大事にしたい。

 A級戦犯が合祀された78年以降、昭和天皇は靖国参拝を見送ったが、戦没者に対する哀悼痛惜の念はいささかも変わりはなかった。高齢にもかかわらず毎年8月15日の全国戦没者追悼式には必ず出席し、哀悼の念と平和への思いをお言葉に託していた。

 戦没者に対して深い哀悼と感謝の念をささげることは当然のことであり、その点に限って言えば、靖国参拝も否定されるべきことではない。しかし、A級戦犯合祀は内外の理解を得るのが難しいのも事実である。中国、韓国の反発だけでなく、米欧の世論も厳しい目を向けていることを忘れてはならない。

 靖国参拝問題は小泉首相が言うように「心の問題」で単純に片づけられるものではない。昭和天皇の「心」の歴史的背景を重く受け止め、小泉首相をはじめ関係者が適切に行動することを切に望みたい。

20日の産経新聞

2006-07-21 08:58:38 | Weblog
三国同盟推進の2人批判か
http://www.sankei.co.jp/news/morning/21pol003.htm

 昭和天皇はA級戦犯をひとくくりにして批判していたわけではない。
 昭和天皇の側近、木戸幸一内相の「日記」をみると、昭和天皇はA級戦犯に同情を示している。昭和天皇は終戦直後の昭和20年8月29日に「戦争責任者を連合国に引き渡すは真に苦痛にして忍び難きところ」、9月20日に「敵側のいわゆる戦争犯罪人、ことにいわゆる責任者はいずれもかつては只管忠誠を尽くしたる人々」と語ったという。
 宮内省御用掛の寺崎英成氏が記した「昭和天皇独白録」からは、昭和天皇がA級戦犯の代表格である東条英機元首相を信頼していたこともうかがえる。昭和天皇は21年3月ごろ、「元来東条という人物は、話せばよく判る」「東条は一生懸命仕事をやるし、平素いっていることも思慮周密で中々良い処があった」などと語っている。
 大原康男・国学院大教授は「メモが事実だったとしても、昭和天皇がA級戦犯の合祀そのものに不快感を示しているとは言えない」と指摘する。
 大原氏が注目するのは、今回のメモで言及された人物が、日独伊三国同盟を推し進めた松岡洋右元外相と白鳥敏夫元駐イタリア大使の2人とみられることだ。大原氏は「昭和天皇は『独白録』でも松岡のことを一番批判している」と語る。
 一方、「公の発言ではなく、非公式メモをA級戦犯分祀論に結びつけるのは、昭和天皇の『政治利用』になりかねない」(百地章・日大教授)との懸念も出ている。
 靖国神社は、昭和53年、厚生省が公務死と認定して靖国側に送った「御祭神名票」に基づいてA級戦犯を合祀した。
 昭和天皇も現天皇陛下も春秋の例大祭には勅使を派遣するなど、靖国重視の姿勢を示し続けてこられた。昭和天皇の弟宮である高松宮さま(故人)と三笠宮さまは、合祀後も参拝を続けられた。
現宮司の南部利昭氏は就任に際し「天皇陛下から『靖国のこと、よろしく頼みます』と直接、言われている」(関係者)とされる。
靖国側は分祀について「A級戦犯の御霊だけ除くことはできないし、ありえない」との立場を堅持している。
 政府筋は「手帳のあのページだけ紙がはり付けてあるという。メモを宮内庁で見た人はいない。
本当に昭和天皇が言ったかどうかも分からない」と指摘しており、分祀論の高まりには戦没者の慰霊を置き去りにした政治的意図を強く感じる


昭和天皇、靖国のA級戦犯合祀に不快感
http://www.sankei.co.jp/news/060720/sha060.htm

≪元宮内庁長官、発言メモ書き残す≫

 昭和天皇が靖国神社のいわゆるA級戦犯合祀に不快感を示していたことを示すメモが表に出たことについて、安倍晋三官房長官は20日午前の記者会見で、「政府としてコメントする事柄ではない」と述べた。だが、自民党内は現在、戦没者の追悼をめぐって、A級戦犯分祀(ぶんし)論、国立追悼施設の建設や千鳥ケ淵戦没者墓苑の拡充論など百家争鳴状態にあり、波紋が広がるのは間違いなさそうだ。

 政府は、小泉純一郎首相の靖国参拝に関しては「首相自身が判断するもの」(安倍長官)との姿勢だが、首相の参拝に反対する勢力が、今回のメモ発見を利用し、勢いを増すことも想定される。またメモ発見が、首相の靖国参拝に反対している中国の高官が、「A級戦犯分祀論」を唱える自民党の古賀誠元幹事長に賛意を示したばかりというタイミングの問題もある。

 ただ9月の自民党総裁選に向けて「公になった言葉ではなく、非公式な会話メモで判断するのは、昭和天皇の『政治利用』につながりかねない」(百地章・日大教授)との懸念も出ている。

 政府筋は「(故・富田朝彦宮内庁長官のメモだけでは)昭和天皇が本当に不快感を示すご発言をしたかどうかは、誰も分からないだろう」とも指摘する。

 また、仮に内心がどうであれ、昭和天皇も現天皇陛下も春秋の例大祭には靖国に勅使を派遣するなど、靖国重視の姿勢を示し続けてこられた事実は重い。靖国の現宮司の南部利昭氏は就任に際して「天皇陛下から『靖国のこと、よろしく頼みます』と直接、言われている」(関係者)ともいう。

 今回のメモ発見でも、「戦没者追悼の中心施設は靖国」(小泉首相)という事実には何ら変わりはない。

 ■「政治利用」に懸念も

 昭和天皇が昭和63年、靖国神社のA級戦犯合祀(ごうし)について「あれ以来参拝していない。それが私の心だ」などと不快感を示されたとする当時の宮内庁長官、富田朝彦氏(故人)のメモが残されていることが20日、分かった。昭和天皇は50年以降、靖国神社を参拝されていない。A級戦犯合祀は昭和53年。

 関係者によると、富田氏は昭和天皇のご発言などを手帳などに書き留めており、63年4月28日付で靖国参拝に関するメモが残っていた。昭和天皇が「私は或(あ)る時に、A級が合祀され、その上、松岡、白取までもが」「だから私(は)あれ以来参拝していない。それが私の心だ」などとお話しになったとしている。

 「松岡」「白取」はA級戦犯として祭られている松岡洋右元外相、白鳥敏夫元駐イタリア大使を指すとみられる。

 ほかに「筑波は慎重に対処してくれたと聞いたが。松平の子の今の宮司がどう考えたのか、易々(やすやす)と。松平は平和に強い考(え)があったと思うのに、親の心子知らずと思っている」などの記述もあった。

 「筑波」はA級戦犯の合祀をしなかった筑波藤麿・靖国神社宮司(故人)、「松平」は最後の宮内大臣の松平慶民氏(同)、その「子」は長男でA級戦犯合祀をした当時の松平永芳宮司(同)とみられる。

 富田氏は昭和53年から63年まで宮内庁長官を務めた。

【2006/07/20 大阪夕刊から】

(07/20 16:00)

21日の朝日新聞

2006-07-21 08:55:45 | Weblog
昭和天皇の苦い思い、浮き彫りに
2006年07月21日06時12分
http://www.asahi.com/national/update/0721/TKY200607200618.html

昭和天皇の靖国神社参拝が途絶えたのは、A級戦犯合祀(ごうし)に不快感を抱いたからだった。富田朝彦元宮内庁長官のメモは、天皇の戦争への苦い思いを浮き彫りにした。
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公開された富田朝彦・元宮内庁長官の手帳と日記

 A級戦犯合祀に不快感を抱いている――。その思いは、複数の元側近らから聞いていた。

 「陛下は合祀を聞くと即座に『今後は参拝しない』との意向を示された」

 「陛下がお怒りになったため参拝が無くなった。合祀を決断した人は大ばか者」

 なかでも徳川義寛元侍従長の証言は詳細で具体的だった。

 14名のA級戦犯を含む合祀者名簿を持参した神社側に対して、宮内庁は、軍人でもなく、刑死や獄死でもなく病死だった松岡洋右元外相が含まれていることを例にとって疑問を呈した。だが、合祀に踏み切った。

 87年の8月15日。天皇は靖国神社についてこんな歌を詠んだ。

 この年の この日にもまた 靖国の みやしろのことに うれひはふかし

 徳川氏によると、この歌には、元歌があった。それは、靖国に祭られた「祭神」への憂いを詠んだものだったという。

 「ただ、そのまま出すといろいろ支障があるので、合祀がおかしいとも、それでごたつくのがおかしいとも、どちらともとれるようなものにしていただいた」

 側近が天皇から聞き取った『独白録』の中で、昭和天皇は日独伊三国同盟を推進した松岡洋右外相については「……別人の様に非常な独逸びいきになつた、恐らくは『ヒトラー』に買収でもされたのではないかと思はれる」とまで述べていた。

 昭和天皇の「不快」の一因が、特に国を対米開戦に導いた松岡外相の合祀だったことがうかがえる。A級戦犯の14人は66年に合祀対象に加えられたが、当時の筑波藤麿宮司は保留していた。

 筑波氏は山階宮菊麿王の三男。歴史の研究家としても知られた。しかし、78年に筑波氏の死去後、松平永芳宮司が就任すると、まもなく合祀に踏み切った。

 松平元宮司は松平慶民元宮内大臣の長男で、元海軍少佐。父の慶民氏は、東京裁判対策や『独白録』の聞き取りなどに当たり、天皇退位論が高まった時も「退位すべきではない」と進言した有力な側近だった。

 メモには、昭和天皇は慶民氏について「平和に強い考があった」と評価する一方で、永芳氏について「親の心子知らず」と評しているのにはこうした背景がある。

 メモは、天皇が闘病中の88年、最後の誕生日会見直後の天皇とのやりとりだった。昭和天皇は「何といっても大戦のことが一番いやな思い出」と答えた。本来は「つらい思い出」と答える予定だった。天皇も戦争の第三者ではないからだ。

 その頃、別の側近はこんなことを語っていた。 「政治家から先の大戦を正当化する趣旨の発言があると、陛下は苦々しい様子で、英米の外交官の名を挙げて『外国人ですら、私の気持ちをわかってくれているのに』と嘆いておられた」

 A級戦犯合祀は、自らのこうした戦争の「つらい思い出」と平和への「強い考え」を理解していない、との天皇の憤りを呼んだことをメモは裏付けている。

 「(昭和天皇の)御(み)心を心として」と、即位の礼で誓った現天皇陛下も、即位後は一度も靖国神社には参拝していない。


20日の朝日新聞(3)(慰霊議論)

2006-07-21 08:53:46 | Weblog
昭和天皇発言メモ、慰霊めぐり議論に熱
2006年07月20日22時53分
http://www.asahi.com/national/update/0720/TKY200607200581.html

昭和天皇が靖国神社へのA級戦犯合祀(ごうし)に不快感を示したという元宮内庁長官のメモが明らかになった20日、A級戦犯や戦没者の遺族らに困惑や驚きが広がった。戦後61年の8月15日が近づく中、戦争責任と慰霊をめぐる論議が一段と熱を帯びる。
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参拝客や観光客でにぎわう靖国神社=20日午後4時45分、東京都千代田区で

 ●遺族

 A級戦犯として絞首刑になり、靖国神社に合祀された板垣征四郎・陸軍大将の次男で、自民党参院議員だった板垣正氏(82)は朝、報道機関からの連絡を受け、慌てて自宅近くのコンビニエンスストアに新聞を買いに走った。

 「なぜ昔のことを大騒ぎするのか。本当に天皇陛下の発言か。私は信じない」。憤りがこみあげてきた。

 靖国神社崇敬者総代の一人で、戦没者の遺児でもある所功・京都産業大教授(64)=日本法制文化史=は「短絡的な分祀論に弾みが付くのでは」と危機感を抱いた。

 「いわゆるA級戦犯合祀に疑問を抱いていたとしても、松岡外相や白鳥イタリア大使ら独伊と共に開戦に向かった外交官に対する限定的なものではないか。自身が開戦の決定を認めざるを得なかったことへの申し訳ないという思いもあったのだろう」

 ●靖国神社

 東京都文京区の男性(90)は参拝後、じっと神社に見入っていた。長兄を終戦直前に中国・桂林で失った。天皇の発言をめぐるニュースに、思いがこみ上げた。

 「戦争を1カ月でも早く終わらせていれば。そもそも、なぜ開戦を防げなかったのか」。指導者らの責任を考え続けてきた。「昭和天皇がA級戦犯合祀を不快に思うのは自然なこと」と思った。

 この場所を、小泉首相は就任後5度訪れた。「喜んでいる英霊ばかりではない。英霊が総理に望むのは、戦争を二度と起こさないために近隣諸国と友好を保つことではないか」

 閉門の迫った午後5時半、鹿児島県南さつま市の団体職員(71)は、急いで鳥居をくぐった。出張中にニュースを知り、初めて靖国に足を運んだ。一度、拝みたかった。「思った以上に厳か。こんな神社にまつられる人は幸せだ」

 ●反対派

 首相の靖国参拝に反対する平和遺族会全国連絡会代表の西川重則さん(78)は、安倍官房長官が小泉首相の靖国参拝について「総理ご自身が判断される」と答えたのを聞いて警戒感が募った。「8月15日の参拝を前提にした言葉ではないか」

 兄は24歳で戦病死し、靖国に合祀された。西川さんは「A級戦犯合祀を不快に思うなら、なぜ自分の戦争責任について何も発言しなかったのか」と言った。

 靖国参拝は違憲だとして小泉首相らを相手取って裁判を起こし、最高裁で上告を棄却された島根県大田市の住職、菅原龍憲さん(66)は、首相の参拝に反対する日本と韓国、台湾の市民らが8月11~15日に東京で予定している行事の共同代表に名を連ねる。「靖国問題が、A級戦犯分祀の問題に矮小化(わいしょうか)されるのが心配だ」と言う。

20日の朝日新聞(2)(小沢、小泉発言)

2006-07-21 08:47:16 | Weblog
民主・小沢代表「昭和天皇は偉い方」 靖国発言メモで
2006年07月20日19時58分
http://www.asahi.com/politics/update/0720/010.html

 「昭和天皇は本当に偉い方だったんだなあ。大御心(おおみこころ)だなあ」。民主党の小沢代表は20日、記者団にこう語った。小沢氏は最近でも「戦死ではない人たちが靖国神社にまつられること自体が間違いだ。天皇も堂々と参拝できるような本来の靖国神社にすべきだ」との持論を繰り返していた。

 超党派の国会議員でつくる「国立追悼施設を考える会」の呼びかけ人でもある民主党の鳩山由紀夫幹事長も「A級戦犯合祀(ごうし)が理由で天皇陛下が参拝されていないことが、証拠として示された意義は大きい」と語った。小泉首相に対しては「自分だけの意思で軽々に(参拝する)というのは許されない。この事実を重く受け止めて頂きたい」とくぎを刺した。

 共産党の志位委員長は「『靖国史観』派のシナリオが破綻(はたん)し、参拝を繰り返してきた小泉首相の主張に道理がないことを浮き彫りにするものだ。首相の参拝中止を改めて強く求める」との談話を発表した。社民党の又市征治幹事長も「昭和天皇の意思が資料で裏付けられた。戦争の反省と平和の希求という気持ちが表れた言葉だと思う。政府・与党がどう受け止めるのか注視したい」との談話を出した。


小泉首相、天皇発言の「影響」否定 靖国参拝
2006年07月20日21時08分
http://www.asahi.com/politics/update/0720/012.html

小泉首相は20日夜、靖国神社へのA級戦犯合祀(ごうし)に不快感を示した昭和天皇の発言が、自らの参拝に影響するかどうかについて「これはありません。それぞれの人の思いですから。心の問題ですから。強制するものでもないし、あの人があの方が言われたからとか、いいとか悪いとかという問題でもない」と語り、影響を否定した。首相官邸で記者団に語った。

 首相は就任以来、年1回の靖国参拝を続けており、今年は01年自民党総裁選で公約した8月15日の終戦記念日に参拝するかどうかが焦点。首相は今後の参拝について「これは心の問題ですから、行ってもいいし、行かなくてもいいし、誰でも自由ですね」と記者団に述べたが、8月15日に参拝するかどうかは明らかにしなかった。

 また、首相は昭和天皇の発言について「これは心の問題ですから、陛下におかれても様々な思いがおありだったと思う」と述べた。A級戦犯分祀については「一宗教法人に対して、こうあるべきだ、と政府としては言わない方がいい」と指摘。新たな追悼施設建設については「いまどういうものがいいのか、なかなか結論が出にくい」などと語った。

 一方、安倍官房長官は20日午後の記者会見で、昭和天皇の発言が自らの靖国参拝に対する考えに影響するかどうかについて「国のために戦った方々のためにご冥福をお祈りし、尊崇の念を表する。その気持ちに変わりはない」と語った。