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天皇A級戦犯発言報道に関する簡易まとめサイト

天皇陛下がA級戦犯分祀に関する発言をされたとする報道を検証します。

20日の朝日新聞(1)(初報、政界への波及)

2006-07-21 08:44:05 | Weblog
昭和天皇「私はあれ以来参拝していない」 A級戦犯合祀
http://www.asahi.com/national/update/0720/TKY200607200188.html

2006年07月20日11時12分

 昭和天皇が死去前年の1988年、靖国神社にA級戦犯が合祀(ごうし)されたことについて、「私はあれ以来参拝していない それが私の心だ」などと発言したメモが残されていることが分かった。当時の富田朝彦宮内庁長官(故人)が発言をメモに記し、家族が保管していた。昭和天皇は靖国神社に戦後8回参拝。78年のA級戦犯合祀以降は一度も参拝していなかった。A級戦犯合祀後に昭和天皇が靖国参拝をしなかったことをめぐっては、合祀当時の側近が昭和天皇が不快感を抱いていた、と証言しており、今回のメモでその思いが裏付けられた格好だ。
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昭和天皇(88年)
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天皇陛下の病状について発表する富田朝彦宮内庁長官(当時、左)=1987年9月21日、宮内庁で
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昭和天皇の発言を記したメモ

 メモは88年4月28日付。それによると、昭和天皇の発言として「私は 或(あ)る時に、A級(戦犯)が合祀され その上 松岡、白取(原文のまま)までもが 筑波は慎重に対処してくれたと聞いたが」と記されている。

 これらの個人名は、日独伊三国同盟を推進し、A級戦犯として合祀された松岡洋右元外相、白鳥敏夫元駐伊大使、66年に旧厚生省からA級戦犯の祭神名票を受け取ったが合祀していなかった筑波藤麿・靖国神社宮司を指しているとみられる。

 メモではさらに、「松平の子の今の宮司がどう考えたのか 易々(やすやす)と 松平は平和に強い考(え)があったと思うのに 親の心子知らずと思っている」と続けられている。終戦直後当時の松平慶民・宮内大臣と、合祀に踏み切った、その長男の松平永芳・靖国神社宮司について触れられたとみられる。

 昭和天皇は続けて「だから私(は)あれ以来参拝していない それが私の心だ」と述べた、と記されている。

 昭和天皇は戦後8回参拝したが、75年11月の参拝が最後で、78年のA級戦犯合祀以降は一度も参拝しなかった。

 靖国神社の広報課は20日、報道された内容について「コメントは差し控えたい」とだけ話した。

    ◇

 《「昭和天皇独白録」の出版にたずさわった作家半藤一利さんの話》メモや日記の一部を見ましたが、メモは手帳にびっしり張ってあった。天皇の目の前で書いたものかは分からないが、だいぶ時間がたってから書いたものではないことが分かる。昭和天皇の肉声に近いものだと思う。終戦直後の肉声として「独白録」があるが、最晩年の肉声として、本当に貴重な史料だ。後から勝手に作ったものではないと思う。

 個人的な悪口などを言わない昭和天皇が、かなり強く、A級戦犯合祀(ごうし)に反対の意思を表明しているのに驚いた。昭和天皇が靖国神社に行かなくなったこととA級戦犯合祀が関係していることはこれまでも推測されてはいたが、それが裏付けられたということになる。私にとってはやっぱりという思いだが、「合祀とは関係ない」という主張をしてきた人にとってはショックだろう。

    ◇

 靖国神社への戦犯の合祀(ごうし)は1959年、まずBC級戦犯から始まった。A級戦犯は78年に合祀された。

 大きな国際問題になったのは、戦後40年の85年。中曽根康弘首相(当時)が8月15日の終戦記念日に初めて公式参拝したことを受け、中国、韓国を始めとするアジア諸国から「侵略戦争を正当化している」という激しい批判が起こった。とりわけ、中国はA級戦犯の合祀を問題視した。結局、中曽根氏は関係悪化を防ぐために1回で参拝を打ち切った。だが、A級戦犯の合祀問題はその後も日中間を中心に続いている。

 昭和天皇は、戦前は年2回程度、主に新たな戦死者を祭る臨時大祭の際に靖国に参拝していた。戦後も8回にわたって参拝の記録があるが、連合国軍総司令部が45年12月、神道への国の保護の中止などを命じた「神道指令」を出した後、占領が終わるまでの約6年半は一度も参拝しなかった。52年10月に参拝を再開するが、その後、75年11月を最後に参拝は途絶えた。今の天皇は89年の即位後、一度も参拝したことがない。

 首相の靖国参拝を定着させることで、天皇「ご親拝」の復活に道を開きたいという考えの人たちもいる。

 自民党内では、首相の靖国参拝が問題視されないよう、A級戦犯の分祀(ぶんし)が検討されてきた。いったん合祀された霊を分け、一部を別の場所に移すという考え方で、遺族側に自発的な合祀取り下げが打診されたこともあるが、動きは止まっている。靖国神社側も、「いったん神として祭った霊を分けることはできない」と拒んでいる。

 ただ、分祀論は折に触れて浮上している。99年には小渕内閣の野中広務官房長官(当時)が靖国神社を宗教法人から特殊法人とする案とともに、分祀の検討を表明した。日本遺族会会長の古賀誠・元自民党幹事長も今年5月、A級戦犯の分祀を検討するよう提案。けじめをつけるため、兼務していた靖国神社の崇敬者総代を先月中旬に辞任している。

    ◇

《靖国神社に合祀された東京裁判のA級戦犯14人》

【絞首刑】(肩書は戦時、以下同じ)

東条英機(陸軍大将、首相)

板垣征四郎(陸軍大将)

土肥原賢二(陸軍大将)

松井石根(陸軍大将)

木村兵太郎(陸軍大将)

武藤章(陸軍中将)

広田弘毅(首相、外相)

【終身刑、獄死】

平沼騏一郎(首相)

小磯国昭(陸軍大将、首相)

白鳥敏夫(駐イタリア大使)

梅津美治郎(陸軍大将)

【禁固20年、獄死】

東郷茂徳(外相)

【判決前に病死】

松岡洋右(外相)

永野修身(海軍大将)



「天皇の心」政界に波紋 靖国参拝、分祀論議加熱か
2006年07月21日00時09分
http://www.asahi.com/politics/update/0720/013.html

昭和天皇の気持ちは、政界の議論にどう影響するのか――。靖国神社へのA級戦犯合祀(ごうし)に昭和天皇が不快感を示したメモが明らかになったことで、小泉首相が靖国参拝を公約した8月15日、さらに9月の自民党総裁選を控えるなか、政界に波紋が広がった。天皇の真意をどう受け止めるのか、戸惑いも隠せない。小泉首相の参拝の是非やA級戦犯の分祀などをめぐる議論は、さらに熱を帯びそうだ。

 ■総裁選の争点化か

 「天皇陛下は心の中でこう思われていたのか、と靖国神社をもう一度考え直そうという影響を及ぼすんじゃないか」

 自民党の加藤紘一元幹事長は国会内で記者団にこう語った。天皇発言のメモがきっかけになり、総裁選に向けて靖国問題をめぐる議論が改めて呼び起こされるとの見通しを示した。ある閣僚経験者も「昭和天皇がこうおっしゃっていたと口に出して言う人はいないと思うが、心情的には影響を与える」との見方だ。

 山崎拓前副総裁も記者団に「靖国参拝は外交上の問題として扱ってはならないとの議論が一部政治家によって強調されてきたが、内政上の問題であることが明確になった」と述べた。争点化を望んでいない安倍官房長官らを念頭に、むしろ議論を活発化させるべきだとの考えだ。

 安倍氏が独走しつつあるなか、「反小泉・非安倍」の結集を目指す加藤氏らの勢力は、メモを機に巻き返しを図りたいとの思いが強いようだ。

 これに対し、ポスト小泉候補の口ぶりはそろって慎重だ。

 安倍氏は20日の午前と午後の記者会見で「政府としてコメントすべき立場ではない」などと繰り返すのみ。谷垣財務相も記者団に「天皇陛下がどういうふうにおっしゃったというのを政局と絡めて言うつもりはない」。このところ「靖国神社の非宗教法人化」を唱えている麻生外相も、この日はコメントを避けた。

 総裁候補にすれば、世論調査で賛否がほぼ二分する靖国問題に深入りするのは得策ではないとの判断もある。このため、「天皇の政治利用」との批判を避ける名目で、メモをきっかけに逆に靖国問題の争点化を回避しようとする動きが出てくる可能性がある。

 当面は小泉首相の「8・15参拝」が焦点になる。参拝に踏み切れば、今まで以上に国内の反発も強まることも想定される。

 20日の谷垣派の在京議員総会では「こういう状況で首相はどう判断するのだろうか」との声も出た。安倍氏の周辺からは「これで首相は参拝しない大義名分を得た」との見方も出ている。

 ■分祀論、じわり動き?

 政界には、A級戦犯の合祀に不快感を示した昭和天皇の発言メモが見つかったことで、分祀論議に弾みがつくとの見方が多い。「各方面からA級戦犯分祀論が加速するだろう」。公明党の神崎代表は記者団にこんな見通しを示した。

 分祀論を支持してきた与謝野経済財政担当相も「(天皇が参拝をやめた)本当の理由は分からなかったが、一定の背景説明が可能になった」とメモの意義を評した。

 20日夜には山崎、加藤両氏や津島雄二元厚相、丹羽雄哉元厚相、高村正彦元外相らが集った席で分祀論について持論を言い合ったという。

 別の打開策も浮上している。無名戦没者の遺骨を納める靖国神社近くの千鳥ケ淵戦没者墓苑では20日、隣接する国家公務員宿舎の敷地を使って墓苑を拡充する構想を進める自民党プロジェクトチームのメンバーが、周辺を視察。武見敬三座長は「年内に拡充案のとりまとめをしたい」と意欲を示した。総裁選での靖国問題の過熱化を避けようと、中川秀直政調会長が温めている案だ。

 だが、一気に解決に向かうほど簡単ではない。

 A級戦犯の分祀は、かつて中曽根元首相が靖国神社に働きかけ、99年には当時の野中広務官房長官が同神社を特殊法人化して分祀する道を探ったが、いずれも実現しなかった。

 国立の戦没者追悼施設建設によって解決を図る案もあるが、首相の靖国参拝を支持する若手議員の会は20日、これに反対する意見書を取りまとめた。今津寛会長は天皇の発言メモについて「事実だとすれば重たいと受け止めざるを得ないが、首相に公式参拝をしてもらうことについてはいささかも変わらない」と強調した。

 もともと、ここへきて分祀論を主張し始めたのは日本遺族会会長である自民党の古賀誠元幹事長だ。6月には「けじめをつける」と靖国神社の崇敬者総代を辞任。国立追悼施設などの案により靖国神社の存在が形骸(けいがい)化しかねないとの危機感とともに、政争の具にしたくないとの思いがある。

 だが、関係者の意見集約は容易でなく、古賀氏自身も「実現は非常に難しい」と考えている。中国から20日帰国した古賀氏に記者団がメモの感想を求めたが、事務所の回答は「コメントすることは何もありません」だった。

20日の日経新聞

2006-07-21 08:39:21 | Weblog
昭和天皇、A級戦犯靖国合祀に不快感・元宮内庁長官が発言メモ
http://www.nikkei.co.jp/news/past/honbun.cfm?i=AT1G17008%2019072006&g=K1&d=2006072

 昭和天皇が1988年、靖国神社のA級戦犯合祀(ごうし)に強い不快感を示し、「だから私はあれ以来参拝していない。それが私の心だ」と、当時の宮内庁長官、富田朝彦氏(故人)に語っていたことが19日、日本経済新聞が入手した富田氏のメモで分かった。昭和天皇は1978年のA級戦犯合祀以降、参拝しなかったが、理由は明らかにしていなかった。昭和天皇の闘病生活などに関する記述もあり、史料としての歴史的価値も高い。 (07:00)



「天皇の靖国参拝、諸般の事情を考慮」・安倍官房長官
http://www.nikkei.co.jp/news/past/honbun.cfm?i=AT3S2000D%2020072006&g=P3&d=20060720

 安倍晋三官房長官は20日午前の記者会見で、富田朝彦元宮内庁長官のメモについて「宮内庁から詳細を承知していないと報告を受けている」と述べた。天皇の靖国神社参拝に関しては「そのときどきの社会情勢など諸般の事情を考慮しながら慎重に検討のうえ宮内庁で対処してきたと承知している」と説明した。

 小泉純一郎首相の靖国神社参拝への影響については「参拝は首相ご自身が判断するものと思う」と話した。自らの参拝に関しては「国のために戦った方々に尊崇の念、ご冥福をお祈りする気持ちは持ち続けたい」との持論を繰り返した。

 靖国神社へのA級戦犯の合祀(ごうし)の是非や分祀論については「政府としてコメントすべき事柄ではない」と言及を避けた。無宗教の国立追悼施設の建設構想に関しても「国民誰もがわだかまりなく(参拝)という趣旨に沿って慎重に検討していかなければいけない」と語るにとどめた。 (12:17)



首相「昭和天皇発言メモ、自身の靖国参拝に影響ない」
http://www.nikkei.co.jp/news/past/honbun.cfm?i=AT3L2006L%2020072006&g=P3&d=20060720

小泉純一郎首相は20日夕、首相官邸で記者団の質問に答え、昭和天皇が東京裁判のA級戦犯の靖国神社合祀(ごうし)に強い不快感を示していたことを記録した富田朝彦・元宮内庁長官(故人)のメモの発見を受け、首相自身の靖国参拝に及ぼす影響について、「これはありません」と明確に否定した。さらに、「(靖国参拝は)それぞれの人の思いだから、心の問題だから。強制するものでもないし、あの人が、あの方が言われたからとか、いいとか悪いとかいう問題でもないと思っている」と述べ、自身の姿勢に変わりがないことを強調した。

 A級戦犯を分祀(ぶんし)する必要性に関しては、「一宗教法人に対して、『あああるべきだ』『こうあるべきだ』と政府としては言わない方がいいと思う。議論は結構だ」と述べるにとどめた。今後も靖国参拝を続けるかとの質問に対しては、「心の問題だから行っても良し、行かなくても良し。誰でも自由だ」と応じた。〔NQN〕 (19:01)

鮫島

2006-07-19 07:39:58 | Weblog
人民日報:日経元専務追悼で「胡耀邦秘話」紹介
2005/01/25(火) 10:46:59更新
  24日付人民日報は、昨年12月26日に死去した鮫島敬治・元日本経済新聞専務の、約2000文字に及ぶ長文の追悼記事を掲載した。故胡耀邦・元中国共産党総書記の談話を紹介している点などが注目される。

  鮫島敬治氏は1964年に結ばれた日中記者交換協定により同年、北京特派員として中国における取材活動を開始したが、文化大革命期に中国当局により1年半にわたり身柄を拘束された。

  人民日報の追悼記事では、1977年に国慶節の祝賀に招待された鮫島氏に対して、中国の首脳が文革期の状況について丁重に詫び、特に当時は共産党中央組織部長を務めていた胡耀邦・元共産党総書記が「(文革の)当時は私たちも攻撃されていた。鮫島先生は私たちの「難友(苦難を分かちあった友)」だ」と述べたエピソードが紹介されている。

  胡耀邦氏は中国共産党の青年組織である共産主義青年団第一書記などを務めたが、文革期に失脚。75年に政界に返り咲き、82年には新しく設けられた党総書記に就任した。

  その後も改革派として活躍したが、学生デモ等の責任を取らされる形でに87年1月に失脚した。その後1989年4月15日に死去したが、それがきっかけで始まった学生デモが4月下旬から6月4日にかけての天安門事件に発展した。

  天安門事件の当時、党総書記を務めていたのが1月17日に死去した趙紫陽氏。趙紫陽氏も天安門事件の責任により、失脚している。

  一部ではあるが、中国人の間には「趙紫陽氏が亡くなって間もないタイミングに、(共産党機関紙)である人民日報が胡耀邦氏にまつわるエピソードを掲載した点が興味深い」とする見方もある。(編集担当:如月隼人)

勝谷ブログより

2006-07-19 06:48:27 | Weblog
■2006/07/21 (金) 先帝の忌避を君側の奸とA級で混同せぬ慎重な論議を。

6時起床。天皇という存在はこの国のバランサーだとかねて思っていた。国民がタコツボの中で堂々巡りの論議に陥った時にもう一度論点の軸を明らかにする機能があるのだ。「空気」に支配されがちなこの国の国民が悠遠の歴史の中で作り上げてきた智恵といっていい。昨日私は今回明らかになった昭和天皇のお言葉が「第三のご聖断」だと書いた。ご自身の意見を明らかにされないことが天皇としての立場だと確信されていた昭和天皇が自らの言葉を語られて「場」を動かした過去の二つの例を思い出したからだ。帝都を占拠しようとした将兵を「反乱軍」と呼ぶに躊躇した「場」を動かした2.26事件。そして明らかに亡国へ突き進むのが目に見えていながらも誰も「降伏」の二文字を言い出せなかった「場」を切り裂いた終戦のご聖断。今回明らかになったお言葉は正に今私たちが突きつけられながら立ち往生している大東亜戦争と終戦と戦争責任そして東京裁判を巡る歴史観に対する思想的硬直の「場」を突き動かせという「ご聖断」ではないのか。もちろんその論議はこのお言葉が真正なものかどうかという所から始めなくてはいけない。私は今回の「スクープ」がこの時期に日経新聞から出たことを心から惜しむものである。日経には今日にもガサが入るという情報がある。しかも支那に魂を売り渡し続けた財界人どもが信奉する新聞である。もちろん今という時期は8月15日を間近に控えている。総裁選では日本人の心を売り渡そうとする勢力が担ぐ福田テポドン(笑)が「撃つぞ撃つぞ」といいながらとうとう飛ばないことになりそうで奴らはここはひとつ派手な巻き返しを必要としている。支那はと言えば金豚の説得に失敗して大恥をかき日本に奪われたイニシアティヴを何とか取り返そうとしている。どこをとってもこの時期にかかる重大な事が日経から出る薄汚い事情だらけである。それでも私はこのお言葉と言われるものを頭から否定して論争を拒否する気はない。いや万々が一偽物であっても「昭和天皇のお言葉かもしれない」という動機づけだけで私たち自身の手で私たちの歴史を位置づける契機になればそれこそがまさに先帝の御稜威というほかはない。「支那朝鮮に言われて」ではなく「昭和天皇のお言葉らしきものが出てきたから」私たちは論議を始めるのだ。まさに「場」が動くのである。保守論壇と言われる人々こそ自らの思想硬直から脱せよ。それこそが忠であり義ではないか。

天声人語

2006-07-19 06:36:15 | Weblog
天声人語 2006年07月22日(土曜日)付
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広告終わり

 「あの戦を境にして、『神と人間』『君主と象徴』という対極の生を生きられた天皇が、長い戦争と平和とに隈(くま)どられた昭和という時代を引き連れて、永遠の眠りに就かれた」。89年1月7日、昭和天皇の逝去の報を受けて、本紙の社会面に、そう書いた。

 その前年の4月の日付で、昭和天皇が、靖国神社にA級戦犯が合祀(ごうし)されたことに不快感を示した発言のメモが残されていた。当時の宮内庁長官が記していたというメモには、肉声を聞くかのような臨場感がある。

 「今の宮司がどう考えたのか 易々(やすやす)と」「親の心子知らず」「それが私の心だ」。合祀への不快感については、過去にも側近が証言している。メモはそれを裏付けるもので、歴史を変えるというほどではないものの、大きな発見だ。

 気をつけたいのは、このメモの扱い方だ。冒頭の社会面の記事にも記したように、昭和天皇は、あの戦争の前と後とでは対極的な存在となった。ひとつながりの生でありながら、歴史はそういう軌跡を描かせた。

 この、昭和の歴史と特別なかかわりをした天皇の全体像というものには、途方もない幅と奥行きがあるだろう。宮内庁長官を介して間接的にもたらされた幾つかの言葉から、その像が一気にくっきりと見えてくるものではあるまい。

 メモは一つの史料として冷静に受け止めたい。政治などの場で過大に扱うのも控えた方がいい。もっと大きく、昭和の歴史と向き合ったり、あの悲惨な戦争を考えたりする時の手がかりにしたい。戦争で隈どられる時代が二度と来ることがないように。

東京新聞記事

2006-07-19 06:34:51 | Weblog
http://www.tokyo-np.co.jp/00/hissen/20060721/col_____hissen__000.shtml

「だから私(は)あれ以来参拝していない。それが私の心だ」。…


 「だから私(は)あれ以来参拝していない。それが私の心だ」。昭和天皇が死去の前年、一九八八年に、靖国神社のA級戦犯合祀(ごうし)に不快感を示し、靖国神社参拝を取りやめた理由を語った肉声▼当時の宮内庁長官、富田朝彦氏(故人)が残した天皇発言メモは衝撃的である。富田氏のメモには、七八年秋、秘密裏にA級戦犯を合祀した当時の松平永芳宮司(故人)を、平和志向だった父親と比較して「親の心子知らず」とまで批判する厳しい記述もあった▼昨秋の本紙報道によれば、東条英機元首相らA級戦犯十四人の靖国神社への名簿送付は、六六年に旧厚生省援護局にいた東京裁判批判派の旧軍人らによって行われている。昭和天皇の「内意」を受けた筑波藤麿宮司(故人)が預かりとしていたが、後任の松平宮司が合祀に踏み切った。昭和天皇の「あれ以来」はこれを指す▼国民への戦争責任が問われるA級戦犯を合祀し、東京裁判を批判する現在の靖国神社に現職総理が参拝することを、中国、韓国政府が厳しく批判、両国との関係は国交回復後最悪といっていい▼大阪高裁も昨年秋、憲法違反の判断を示している。日本遺族会会長で靖国神社総代(辞任)だった古賀誠自民党元幹事長も「A級分祀」を訴えている▼任期切れ目前の小泉首相は、国内外の反対を押し切って、八月十五日の靖国参拝に含みを残したままでいる。「心の問題。行けとか行くなとか言われる問題ではない」と言い切る首相は、具体的な証拠で明らかとなった昭和天皇の「心の問題」を無視できるのか。


http://www.tokyo-np.co.jp/00/tokuho/20060722/mng_____tokuho__000.shtml

富田メモ 天皇『発言』の重み
好みも語らず 側近日記が頼り

 「政治的中立」という大原則から、戦後、天皇陛下の「真意」が伝わってくることはほとんどなかった。先の戦争に関する発言はもとより、昭和天皇は、観戦を好まれた大相撲で、好きな力士にすら言及しなかったのは有名なエピソードだ。それだけに、富田朝彦元宮内庁長官(故人)の昭和天皇の発言を記述したとされるメモは、波紋を広げる。天皇の「真意」が、表に出る重さとは-。

 陛下が公に発言する機会は一年を通じて、たくさんある。まずは国内外の公式行事での「お言葉」だ。新年の一般参賀に始まり、国会の開会式、政府主催の全国戦没者追悼式などで、お言葉を述べる。また、外国から国賓を招いた宮中晩餐(ばんさん)会、逆に陛下が外国を訪問した際の行事でも、お言葉がある。

 元共同通信社記者で宮内庁を担当した静岡福祉大の高橋紘教授(近現代史)は、「戦後の公式行事では、昭和天皇は、主催者側が用意した原案に側近が手直しを加えた程度のものを、そのまま読まれていた。今の陛下は、ご自身の意思をきちんと伝えたいとお考えになり、自ら筆を入れ、全面的に書き換える場合もある」と解説する。

 毎年、春と秋の二回、赤坂御苑(東京都港区)で催される園遊会では、陛下は、招待された各界の功績者と話をする。これとは別に、各種表彰受賞者らが、陛下に拝謁(はいえつ)する機会もしばしばある。こうした場合の発言の多くは、報道陣の取材を通じ、広く伝えられる。

 園遊会や拝謁の際の会話は「あらかじめつくられたやりとりというわけではないが、話題の人との会話なので、政治問題に立ち入ることはない」(高橋氏)。

■宮内庁と調整 記者質問用意

 さらに、誕生日前と外国訪問の前に、記者会見するのも慣例だ。報道各社でつくる宮内記者会は質問を用意し、宮内庁と調整した上で会見に臨む。ただし、憲法に、天皇は「国政に関する権能を有しない」と定められているため、質問内容は陛下の中立性を害さないよう、政治問題とは直接関係のない内容になることが多い。

 一方で、陛下と宮内記者会は、那須の御用邸で「偶然会った」という名目で、散策しながら懇談することもある。高橋氏は、昭和天皇が「雷が怖い」「昔の乗馬の写真はお芝居だった」などと、ざっくばらんに話したことが印象深いと振り返る。が、「宮内記者会の会見などの場で、政治問題について直接的な質問が出ることはほとんどない。仮に質問が出ても陛下がお答えになることもない」。

 しかし、政治的な問題について、天皇が直接、「真意」を語ることがないわけではない。昭和天皇は一九八八年四月の誕生日の記者会見で「大戦のことが一番嫌な思い出であります」と率直に話している。

 また、今の陛下は二〇〇四年秋の園遊会で、国旗掲揚・国歌斉唱について、東京都教育委員の米長邦雄棋士に答える形で、「やはり強制になるということでないことが、望ましいですね」と発言した。宮内庁は「政策や政治に踏み込んだ発言ではない」と説明したが、陛下が国旗・国歌問題に言及されたこと自体が異例で、波紋を広げた。

 とはいえ、こうした発言はごくまれだ。天皇は政治問題に限らず、一般に中立性を損なうような意見を話すことには極めて慎重だ。昭和天皇は好きな力士やテレビ番組ですら、記者から問われても明かすことはなかった。今の陛下も同様の姿勢だ。

 そうした立場上、制約の多い天皇の「真意」を推し量る手がかりは、天皇に仕えた側近が日記やメモなどの形で残した資料だ。

 代表的なものだけでも、「木戸幸一日記」「入江相政(すけまさ)日記」、木下道雄「側近日誌」「牧野伸顕日記(抄)」「昭和天皇独白録」などがある。

 このうち「木戸幸一日記」を除く日記は昭和天皇が亡くなった以降の一九九〇年代に入って相次いで公刊されたが、中でも有名なのは月刊「文芸春秋」一九九〇年十二月号に全文が発表された「独白録」だ。

 「独白録」は、敗戦直後の四六年春の昭和天皇からの聞き書きと、これを記録した外交官出身の宮内省御用掛であった寺崎英成氏の日記、寺崎氏の一人娘であるマリコ・テラサキ・ミラー氏の手記からなる。

 昭和天皇の「独白」部分は、二八年六月の張作霖(ちょうさくりん)爆殺事件から敗戦までの回想で、松平慶民宮内大臣や寺崎氏ら五人が四六年三月から四月にかけて直接、昭和天皇から聞き取りしたものとされる。

 この中で、昭和天皇は日独伊三国同盟を推進した松岡洋右(ようすけ)元外相について、「別人の様に非常な独逸(ドイツ)びいきになった。恐らくは『ヒトラー』に買収でもされたのではないかと思われる」などと生々しく語っている。

 記者会見や外国訪問時のお言葉で、昭和天皇が戦争について「遺憾だ」などと語ることはあった。しかし、戦争の過程や特定の人物評について、昭和天皇自らが話した言葉の記録が表に出ることは極めてまれで、その点でも超一級の資料とされている。

 こうした側近日記や「独白録」に比べ、富田氏のメモの資料的価値はどうか。

 昭和史に詳しいノンフィクション作家の保阪正康氏は「そもそも靖国神社は明治天皇の意思でつくられたもので、天皇が参拝するのは当然だった。それが七五年以降途絶えたのは、A級戦犯合祀(ごうし)が原因と以前から指摘されていた」と話す。その上で、資料的価値について「側近の日記にも、昭和天皇の話した言葉は出てくるが、それは印象を記す形の間接話法がほとんどで、昭和天皇がじかに話した記録は『独白録』以外にはない。しかも、富田メモにある『易々(やすやす)と』とか『それが私の心だ』という言葉は、普通の人が使う言葉と違う強い調子だ。昭和天皇は原則主義の人で、靖国神社には行かないという断固とした意志と心中の怒りが伝わってくる言葉だ」と、昭和天皇の胸中を推察する。

 日大講師で現代史家の秦郁彦氏は「昭和天皇が靖国神社に参拝しなくなった理由については、元側近の回想録などから、これまでもA級戦犯合祀への不快感という見方が定説化しつつあったが、今回のメモでそれが裏付けられた」と評価。今後の波及効果については「学術的な評価とは別に、それを信じたくない人もいるだろう。今後、靖国神社側がどのように対応するか、むしろ、その行方が気がかりだ」と注目する。

 宮内庁は現在、『昭和天皇実録』を編さん中だ。京都産業大の所功教授(日本法制文化史)は「『実録』は、元側近の資料も含め細大漏らさず収集の方針と聞いていたので、このような形で世に出るとは思わなかった」としながら、懸念を示す。

■メモ全体から検証の必要
 
 富田氏がどういう意図で書いたのか、可能な限り生前の本人の意向と関連資料を検討した上で世に出すべきで、このようなタイミングで出てくると、昭和天皇の発言の趣旨とずれた形で独り歩きする危険性がある。この日だけのメモの部分だけでなく、富田メモ全体の中で位置づけないと正確性は期せない」

<デスクメモ>

 かつてヘンリー王子がナチスの軍服姿で物議を醸した英国では、BBC放送の調査で、三十五歳未満の60%が「アウシュビッツ」という言葉を聞いたことがないという。人は歴史を忘れるが、事実を積み重ね、歴史を検証することが、過ちを繰り返さない一番の近道と思う。メモもそんな重要な事実の一つだ。 (透)


ムーブ(7/25)

2005-07-26 03:46:30 | Weblog
948 名前:名無しさん@6周年[sage] 投稿日:2006/07/26(水) 00:26:52 ID:Wo3IVzX80
>>793に掲載されたビデオの中の発言↓

去年の秋頃のことです。日経新聞の記者が久しぶりに富田さんの自宅を訪れました。懐かしさも手伝って奥さんは日記の現物と彼女も読んだことのない輪ゴムでまとめられたメモを手渡したと言うんです。
このメモの中に昭和天皇の発言があったというので、ただ資料を読み込んでいたとしても去年の秋にメモを入手してから報道までに非常に時間がかかっている。何のタイミングを見てきたのでしょうか?
実はメモが報道された今月の二十日、『美しい国へ』という一冊の本が出版されました。著者は安倍真三官房長官です。この政権構想とも言うべき著作の中で、小泉首相の靖国参拝に批判的な中国や韓国の姿勢を批判しました。ムーブコメンテーターの宮崎さんはこう語ります。
「ポスト小泉の最有力者が本を出版する当日に、今後のアジアとの関係を心配する経済界を代表して日経新聞がスクープをぶつけた可能性がある。安倍さんの靖国肯定論を牽制する意図があったのか?」
メモが報じられた日のお昼です。東京大手町の経団連本部に加盟企業の幹部およそ20人が集まりました。
有力財界人はこういいます。
「退陣を控えている小泉さんが靖国に行こうが行くまいが事態は変わらない。むしろ大事なのは次の総理の言動・行動だ。」
別の財界の有力者はこう語ります。
「次の総理が誰だろうとこれで強引に参拝するのは難しくなっただろう」
一方で安倍さんに近い自民党の若手議員はメモが出てきたことによってかえって総理が参拝する大義名分が立ったと見ているのです。こちらは自民党の若手議員です。
「天皇発言で参拝を止めたらそれこそ天皇の政治利用になりかねない。
小泉さんはイジでも今年の8月15日終戦記念日に靖国へ行く」
この理屈はポスト小泉にも当てはめることが出来るのです。経済界との安堵感とは裏腹に次期総理の靖国参拝を可能にする皮肉なことでもあるというのです。
東京裁判史観を否定する小林よしのりさんはこう語ります。
「陛下がこういっておられるから御心にひれ伏せ、ではまるで戦前回帰で一番危険な思想ではないか?
もし今後の世論調査で靖国参拝に慎重な意見が高まったとしたら日本人は天皇が大好きな右翼的な国民だというまでだな」とおっしゃるのですが。

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