21日の朝日新聞

昭和天皇の苦い思い、浮き彫りに
2006年07月21日06時12分
http://www.asahi.com/national/update/0721/TKY200607200618.html

昭和天皇の靖国神社参拝が途絶えたのは、A級戦犯合祀(ごうし)に不快感を抱いたからだった。富田朝彦元宮内庁長官のメモは、天皇の戦争への苦い思いを浮き彫りにした。
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公開された富田朝彦・元宮内庁長官の手帳と日記

 A級戦犯合祀に不快感を抱いている――。その思いは、複数の元側近らから聞いていた。

 「陛下は合祀を聞くと即座に『今後は参拝しない』との意向を示された」

 「陛下がお怒りになったため参拝が無くなった。合祀を決断した人は大ばか者」

 なかでも徳川義寛元侍従長の証言は詳細で具体的だった。

 14名のA級戦犯を含む合祀者名簿を持参した神社側に対して、宮内庁は、軍人でもなく、刑死や獄死でもなく病死だった松岡洋右元外相が含まれていることを例にとって疑問を呈した。だが、合祀に踏み切った。

 87年の8月15日。天皇は靖国神社についてこんな歌を詠んだ。

 この年の この日にもまた 靖国の みやしろのことに うれひはふかし

 徳川氏によると、この歌には、元歌があった。それは、靖国に祭られた「祭神」への憂いを詠んだものだったという。

 「ただ、そのまま出すといろいろ支障があるので、合祀がおかしいとも、それでごたつくのがおかしいとも、どちらともとれるようなものにしていただいた」

 側近が天皇から聞き取った『独白録』の中で、昭和天皇は日独伊三国同盟を推進した松岡洋右外相については「……別人の様に非常な独逸びいきになつた、恐らくは『ヒトラー』に買収でもされたのではないかと思はれる」とまで述べていた。

 昭和天皇の「不快」の一因が、特に国を対米開戦に導いた松岡外相の合祀だったことがうかがえる。A級戦犯の14人は66年に合祀対象に加えられたが、当時の筑波藤麿宮司は保留していた。

 筑波氏は山階宮菊麿王の三男。歴史の研究家としても知られた。しかし、78年に筑波氏の死去後、松平永芳宮司が就任すると、まもなく合祀に踏み切った。

 松平元宮司は松平慶民元宮内大臣の長男で、元海軍少佐。父の慶民氏は、東京裁判対策や『独白録』の聞き取りなどに当たり、天皇退位論が高まった時も「退位すべきではない」と進言した有力な側近だった。

 メモには、昭和天皇は慶民氏について「平和に強い考があった」と評価する一方で、永芳氏について「親の心子知らず」と評しているのにはこうした背景がある。

 メモは、天皇が闘病中の88年、最後の誕生日会見直後の天皇とのやりとりだった。昭和天皇は「何といっても大戦のことが一番いやな思い出」と答えた。本来は「つらい思い出」と答える予定だった。天皇も戦争の第三者ではないからだ。

 その頃、別の側近はこんなことを語っていた。 「政治家から先の大戦を正当化する趣旨の発言があると、陛下は苦々しい様子で、英米の外交官の名を挙げて『外国人ですら、私の気持ちをわかってくれているのに』と嘆いておられた」

 A級戦犯合祀は、自らのこうした戦争の「つらい思い出」と平和への「強い考え」を理解していない、との天皇の憤りを呼んだことをメモは裏付けている。

 「(昭和天皇の)御(み)心を心として」と、即位の礼で誓った現天皇陛下も、即位後は一度も靖国神社には参拝していない。

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