その他 2chで集めた資料(未整理)

943 名前:名無しさん@6周年[sage] 投稿日:2006/08/12(土) 01:07:21 ID:JDBnoRzl0

4月28日に宮内庁長官の会見があったのは神田氏も言ってた

以下8月5日日経
8月30日付の日記では「陛下と90分。教科書問題に関連して韓国や中国へのお気持ちを大正末期、昭和初期の事実を踏まえてお話くださる」とある。沈んだ心を慰め、職務を続けさせたのは昭和天皇の昔語りだったのかもしれない。
12月30日付の日記にはこの年の出来事を振り返り、「すべてを通じて陛下の私に対して(の)お言葉に専念。これでこれでと涙のこぼれる思いをかみしめて救われる1年であった」とある。天皇が様々な問題への思いを語り、富田氏が皇室が抱える問題を報告する。立場上、人に言えぬ事柄を話し合ううち、両者の間に憂いを分かち合うような空気が生まれたのだろうか
「陛下が大いにお元気なご様子は私としては何とも有り難いことである。言上時、ふと申し上げたことにあれこれお考えになってお話あるのは恐縮である」(85年1月16日付)。富田氏の何気ない言葉にも誠実に答える昭和天皇。信頼はそこまで深まっていた。」


922 名前:名無しさん@6周年[sage] 投稿日:2006/08/12(土) 00:20:06 ID:JDBnoRzl0

勇退の徳川侍従長が会見、昭和史のエピソードなどを語る
1988.04.12 東京夕刊 9頁 社会 写図有 (全1,556字) 
宮中の生き字引、尾張徳川家の血筋、学者肌、頑固--。様々な人物評を贈られた徳川義寛侍従長が半世紀を超える侍従生活に終止符を打つ。侍従に就任したのは2・26事件の年の昭和十一年十一月。戦前、戦後の激動の中で、天皇、皇后両陛下の素顔に接し、皇室を支えてきた。次の侍従長は生っ粋の行政官。天皇の側近も大きく様変りする。十二日午前の記者会見で徳川さんは「いつも陛下のおそばで教えていただいているうちに五十年がたってしまった」と退官に当たっての感想を語った。さらに「乾徳(けんとく)をつねに仰ぎてひたぶるに 仕へまつりぬこの五十年(いそとせ)を」と、今朝の心境を託した歌を披露した(乾徳とは天皇の徳の意味)。六十年十月、侍従長に就いた際「微風のような仕事をしたい」と述べたが、陛下の手術という“嵐”を無事乗り越え、皇居の新緑を渡る春風に送られて、昭和史のステージを去る。

927 名前:名無しさん@6周年[sage] 投稿日:2006/08/12(土) 00:37:06 ID:yzlO9ptV0

徳川前侍従長、参与に
毎日新聞 夕刊 1988年4月26日 10頁
宮内庁は26日、今月13日付で勇退した徳川義寛前侍従長(82)を、同庁侍従職参与とする人事を発令した。今後、徳川さんは非常勤のかたちで陛下の歌づくりや、、
ご病気の鷹司和子さんら両陛下のお子様のお世話をする。
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島津貴子さん、常陸宮さまが自宅(東京新宿区)でお見合い、
結ばれたエピソードに触れると「島津さんの時は、皇太子さま(の結婚)に皆さんの注意がいっている時で、うまくいきました」と笑顔に。浩宮さまのお見合いも自宅で、と質問が飛ぶと「子供が家を建てるので、半分ぐらいに狭くなってしまいます」
とかわした。
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1988.04.26 朝日新聞東京朝刊 2頁 2総 

 奥野国土庁長官の22日の記者会見での発言要旨

 (奥野氏が靖国神社に参拝したのは公人としてか私人としてか、の問いに) それは占領軍に聞いてみて下さいよ。占領軍は昭和20年12月に「公務員の資格で、
 いかなる神社にも参拝してはならない」と禁止指令を出した。再び米国に立ち向かえるような体制はとらせない、とにかく団結を破壊したい、ということだった。神道は祖先を氏神さまとして祭ろうというもので、人はみな死ぬと神になる。氏神さまの頂点にあるのが天皇家だ。参拝が公人か私人かでいま問題になっているが、戦後43年たったのだから、占領軍の亡霊に振り回されることはやめたい。中国はいろいろ誤解しているが、共産主義国家だから宗教への理解が少ない。だんだん理解してもらえるのではないか。小平氏の発言に国民みんなが振り回されているのは情けないことだ。中国の悪口を言うつもりはないが、中国とは国柄が違う。占領軍は国柄、国体という言葉も使わせなかった。神道に関することは教科書からも削除したが、神話、伝説をもっと取り上げたらいいと思う。
 白色人種がアジアを植民地にしていた。それが、日本だけが悪いことにされた。だれが侵略国家か。白色人種だ。何が日本が侵略国か、軍国主義か。開国して目をさましてみたら、軍事力強化の立場に追い込まれていた。小平さんが言っていることを無視するのは適当ではないが、また日本の外交当局がそれなりに対応されていいと思うが、日本人の性根を失ってはならない。

671 名前:名無しさん@6周年[sage] 投稿日:2006/08/10(木) 22:50:47 ID:t0J41r8E0
朝○皇担取材簿 63/4.28

その後報告終えと後。驚いたが-確かだ。
少なくとも松岡白鳥二方はお祀りの
要件なり・違う意見。その日内。
筑波宮司には伝えてあったので-慮・処と
それは皆も知る事。気取る事は-せぬ。
宮司が終ましてしまわれた。着いて日浅い
伝えた時 何や申されたがあっさりに。
確かめたいと念じても出来ぬよ。
そうであれば私としてもお参りなどできようもない。
-率直に申しますとそれに尽きる。-
筑波さんは波風を立てぬよう一々
穏便に
知った時は
宗秩-での辛苦を知るか。疑問
父子であれば-更
図っていなく  (強く)


741 名前:名無しさん@6周年[sage] 投稿日:2006/08/10(木) 23:32:56 ID:t0J41r8E0

関西ローカルで元宮内庁職員が発言(電話)していたけど、天皇以外から天皇に奏上を持ちかける場合、つまり天皇が呼んでもいないのに臣下が用事がある場合、侍従が受けて天皇に伝える場合も言上というんだって。もちろん直接声を掛けるのはすべて言上になるらしい。


763 名前:名無しさん@6周年[sage] 投稿日:2006/08/11(金) 00:03:02 ID:PrIbf7PS0
(略)原初にして最大の謎、「左右で色が違い過ぎる問題」には言及が無く、また当日の動静も推測のみ。

で、秦「松岡と永野は、そもそも別枠なんです。合祀されたA級戦犯14人の中で、この二人だけは、判決前の病死ですから、戦後、厚生省が靖国神社に祭神名票を送るときも、この二人を最初は外していたくらいです」「ひとつ言っておきたいのは、富田長官の日記の方にも、天皇が靖国への批判をしているという部分が何箇所かある。たとえば、昭和60年12月31日にも《靖国・松平宮司への批判記述》とある。長官にとっては、折にふれ何回も聞いているから、A級戦犯合祀への天皇の怒りは、おなじみだったんだと思いますよ」


774 名前:文春から[sage] 投稿日:2006/08/11(金) 01:29:22 ID:PrIbf7PS0
半藤「松平宮司の考えが、いまの靖国神社の基本哲学になっていますよね。
    A級戦犯の分祀は出来ないと頑なに繰り返すのも、神道の教義に基くというより、
    松平精神なのかもしれない」

だから神社本庁が言ってると何度言われれば…
http://www.jinjahoncho.or.jp/news/170609.html
>祭神の分離といふ意味の「分祀」は、神社祭祀の本義からあり得ない。
そもそも「分祀」出来ないってのは筑波宮司の時代からだし。

秦「それを強く感じるのは、遊就館の展示ですよ。松平宮司の時代に、大々的な改装が
  計画されて、今の姿になったでしょう。亡くなった方の遺品とか、零戦なんかを展示
  するのはともかく、歴史観とか主義主張のトーンが露骨過ぎます。またそういうところに
  限って英訳が添えてあるんです」

が松平宮司は
http://homepage.mac.com/credo99/public_html/8.15/proposal.pdf
>松平・元宮司は、戦後、防衛庁防衛研究戦史室(http://www.nids.go.jp/about_us/)に
>勤務されておられたときから、宮司在任中、昭和 61(1986)年の遊就館再開に到るまで、
>「後世に残る『史料』の収集と整理の重要性から歴史観に言及するものではない」ことを、
>首尾一貫、理路整然と明言されておられました。
だったそうで。

やはりネットを使えないと専業と言えどミスが…


御厨貴:
http://www.videonews.com/asx/marugeki_backnumber_pre/marugeki279_pre.asx
「不の記録であるような気がするから全部見るのは気が重い。だから、その部分だけ見せてもらうことにした。」「文献は素直に読むべきだ…」


216 名前:名無しさん@6周年[] 投稿日:2006/08/09(水) 18:15:27 ID:b0D0U0Of0

青山さんはこんな感じ。徳川侍従長。

「私、参拝、A級」は天皇が使うハズのない言葉。それでも、青山が侍従の日記等からすべて天皇の発言を調べたところ、「私」というのも「オレ」という発言もあった。「オレ」なんか特に言うはずがないから、これは日記を書いてる人が自分の習慣で記してるのもあるので、メモはあてにならない。 つまり「私」という記述だけで天皇ではありえないとは言えないし、むしろここは拘ってはいけない。「参拝」ということばについては、伊勢神宮に行く時だけ「参拝」ということはを1回だけ使ってた。でも、それは父祖の神社だから参拝というあがめるような言葉をつかったが、靖国で使ったことはないし使うとは考えにくい。「A級」。これこど一切つかったことがないし、これを天皇が使うとは考えられない。やっぱり冨田さんは天皇以外のだれかの発言をメモしたのではないか。

ここで徳川侍従長がでてくる。 4/28は徳川侍従長が参与として初出勤の日。この日に表にでない完全にオフレコの懇談会があったのではないか。それに冨田さんが同席した時のメモでは。天皇誕生日の前日で、4/25の短い会見では材料がすくないし
記者としては何か必要。 それに徳川侍従長は在任中は口が固くて有名だったが、その任をとかれて参与なった日に徳川元侍従長にぜひ内心を聞きたい記者はいたはず。

徳川侍従長の言葉ではないかとはいったが、それでもこれだけでは絶対天皇の言葉でないということも言えない。やはり、戦後天皇は象徴であって、そのお言葉に左右されずに政治を決めようというのが戦後の政治であって、しかも本人がしゃべったかどうかも定かでない他人のメモで政治が左右されることはあってはいけない。
メモはメモ、それを政治に反映させるのは間違い。


229 名前:名無しさん@6周年[] 投稿日:2006/08/09(水) 18:49:42 ID:b0D0U0Of0

青山の共同通信時代の知り合いの宮内庁の関係者がいうところによると、公式の時は別として皇居の「奥」では決して「私」とは言いませんでしたよ、と言われたらしいよ、青山は。

昔天皇崩御の直前には「天皇班」だったので、宮内庁や皇宮警察等知り合いがいるらしい。

とにかく、メモの私を云々しても意味無いということ。

A級はずっと広く言われてるじゃないか、天皇がそう言う区別をしなかったと。


234 名前:名無しさん@6周年[sage] 投稿日:2006/08/09(水) 19:15:22 ID:qyM7MKE60

「私」は入江相政日記見ると普通に奥で使ってるけどねー

「参拝/行幸」に関して取り上げるなら、宮中の勝手知ったる侍従(長)が、「靖国御行幸」を「靖国御参拝」と使うのもおかしいと思うけどねー
「靖国神社招魂殿に御参拝」 徳川義寛終戦日記 352頁
「両陛下靖国神社御参拝」 徳川義寛終戦日記 515頁
「靖国神社御参拝」 入江相政日記 第5巻 189頁

「A級」以外は、その言葉使いに拘るのは不毛のように思う

235 名前:名無しさん@6周年[] 投稿日:2006/08/09(水) 19:20:10 ID:b0D0U0Of0

青山も言ってるんだけど、「奥」では使わないという情報を得たが、実際使ってると。 また、調べたところでは「オレ」というのもある。「オレ」という言葉さえ天皇はご存じなかっただろうし、このへんから「私」とかに拘るのは意味無い。


247 名前:名無しさん@6周年[sage] 投稿日:2006/08/09(水) 21:27:27 ID:Dve0KdUh0
日経の記事では、通常、言上は1対1で、富田氏と昭和天皇ってことを暗にしめしてるけど、あの縦書きは1対1では不自然なんだよな。横の発言について、だれかの様子を書いたものと考えるのが普通だろう。メモした人(富田氏)、発言者(私)、傍聴した人(縦書きの様子の人)3人以上は現場にいたとみるべきでしょう。

314 名前:名無しさん@6周年[sage] 投稿日:2006/08/10(木) 09:32:10 ID:TIhReXEq0

勝谷は文藝春秋時代半藤の部下だったから検証能力を疑っていない


371 名前:名無しさん@6周年[sage] 投稿日:2006/08/10(木) 13:50:11 ID:e6UyA8NW0
文藝春秋

○秦・半藤両氏とも25日に行われた天皇会見と富田メモの内容の合致からみて、『記者会見の3日後の4月28日に、天皇が富田宮内官庁を呼んで、記者会見についての感想を語った。それがこの「靖国メモ」になったと思われます。(秦)』と、言上での発言メモと見ている。

○《余り閣僚知らず そうですかが多い》については、半藤『うーん、ここはよくわかりません。』

○秦『ひとつ言っておきたいのは、富田長官の日記のほうにも、天皇が靖国への批判をしているという部分が何箇所かある。たとえば、昭和61年12月31日にも《靖国・松平宮司への批判記述》とある。長官にとっては、折にふれ何回も聞いているから、A級戦犯合祀への天皇の怒りは、おなじみだったんだと思いますよ。』

○半藤『日経によると、記事を出す前日には、宮内庁を通じて今上天皇にも、富田元長官のメモを報じることと、靖国メモの内容をお伝えしたそうです。宮内庁からは、わかりましたという返事があったという。』


944 名前:名無しさん@6周年[] 投稿日:2006/08/07(月) 19:53:07 ID:92TvzvGI0

44年 秋田県護国神社親拝、靖国神社親拝、長崎県護国神社親拝
45年 大阪護国神社親拝、岩手護国神社親拝
46年 広島護国神社親拝
47年 札幌護国神社親拝、鹿児島県護国神社親拝
48年 宮崎県護国神社親拝、千葉県護国神社親拝
49年 茨城県護国神社親拝
50年 滋賀県護国神社親拝、三重県護国神社親拝、靖国神社親拝

三木首相の公式参拝が問題化

51年 親拝なし
52年 親拝なし
53年 高知県護国神社親拝(5月20日植樹祭のついで? 松平が宮司に就いてA級戦犯を合祀する以前)

以降、昭和天皇の親拝なし


924 名前:名無しさん@6周年[sage] 投稿日:2006/08/07(月) 19:34:51 ID:WgTB8F0A0

1979年、A級合祀が報道されたのは、厚生省幹部からのヒントで取材した三ヶ野大典記者(共同通信)のスクープだが、半日遅れで追いかけた主要新聞の扱いを見ると思ったより穏やかである。朝日新聞の見出しも「賛否、各界に波紋」といった程度で、二日後の二十一日の例大祭にクリスチャンの大平首相は予定通り参拝している。海外からの反応は全く報じられていない。(現代史の対決P274)

だそーな。国会では山花委員長が取り上げていた。

>むしろ、いち早く問題提起したのが陛下だったと言えないか?
誰が合祀されていたかを知っていると問題提起にならないw

953 名前:名無しさん@6周年[] 投稿日:2006/08/07(月) 19:59:40 ID:fD1fit1P0

こちらの方が正確だろう。
http://www.tokyo-np.co.jp/00/kakushin/20060721/mng_____kakushin000.shtml


548 名前:名無しさん@6周年[] 投稿日:2006/08/07(月) 15:50:56 ID:kIs926Q60

最後の「関連質問」云々は、「嫌だと云ったのは 奥野国土庁長/ の靖国発言中国の言及にひっかけて/云った積もりである」に関係してくると思われる。

http://d.hatena.ne.jp/lovelovedog/20060724/kaiken

陛下 今の質問に対しては、何と言っても、大戦のことが一番厭な思い出であります。

これだけしか29日の記事にはなっていないが、こういうインタビュー記事は、整合性をもたせるために、省略や前後の入れ替えがあるのが普通。日経の筋書きによれば、4月25日に天皇会見、28日に富田氏から記者のブリーフィングがあって、29日に記事になった。 とすれば、会見の後、記者からの補足質問状が提出されているはず。

奥野国土庁長官は、昭和天皇が会見されたほんの3日前の22日、記者会見で「靖国神社に参拝したのは公人としてか私人としてか」と問われて、閣僚の靖国参拝を非難する中国を批判している。これについて、「奥野氏の発言が波紋をよんでいるが、陛下は、近隣諸国との友好をどう思っておられるか」というような関連質問が、出されていた可能性は高い。それに対する答えとしては、「大戦のことが一番厭な思い出であります」でいいのではないか、ということではないかな。「関係者もおり批判になる」ので。


近隣諸国(中韓)との友好に関連して、「中曽根の靖国参拝もあったか」「藤尾(文相)の発言」というようなことがあった、という認識があって、「=奥野は藤尾とちがうと思うが」。つまり、富田氏が「奥野さんは、藤尾さんの場合とは話がちがいませんか?」と申し上げたところ、「バランス感覚のことと思う」「単純な復古ではない」と、奥田氏への言及があった。つまり、歴史の流れとして、単純な過去復帰ではないだろう、靖国参拝が過大に問題視されるので、奥田氏がバランス感覚を働かせたのだろう、ということ。

ここまでは陛下のご発言として、「私は」にはじまるA級戦犯にまつわる部分は、あきらかに異質。陛下のご心情であったにしても、記者たちへのブリーフィングにはけっして出せない話で、ブリーフィングのためのメモではありえない。この部分だけが、松平参与の話を個人的にメモした可能性は高い。


488 名前:名無しさん@6周年[sage] 投稿日:2006/08/07(月) 15:17:51 ID:rmL50f1G0
尚、天皇の意志があっても行動が自由にならない例は去年のサイパン行幸がある。
http://www.mail-journal.com/20050629.htm
>なぜいま陛下がサイパン島慰霊訪問なのか、国民のひとりとして、筆者は知り
>たいと思っている。戦後60年、天皇が「慰霊」を目的に外国訪問をされるの
>は初めてのことなのだ。

>しかし陛下は、10年以上も前からこのことを強く望んでおられたといわれる。
>外務省や内閣府(以前は内閣官房)が強く反対し、宮内庁でも賛否が分かれて
>いたことから、ようやく、実現に至ったという経緯がある。


>>474
>「戦没者の定義」を拡大解釈して独自性を発揮したいのであれば、大東亜戦争での刑死者、獄死者の合祀を認可したのは昭和天皇。

http://blog.goo.ne.jp/harumi-s_2005/e/68f35e5b462db71626c67378079ca1a5

 昭和天皇に仕えた入江相政侍従長(故人)の日記には「靖国神社の松平君が『(皇太子さまが)御成年におなりになったのだから靖国神社に御参拝になるべきだ』と言ってきた由。『そんなのほっとけば』といふ」(八〇年五月三十日)、「また靖国神社の松永(松平)宮司が馬鹿(ばか)なこと、浩宮様(皇太子さま)の
御留学について反対を云(い)ってきたとか」(八三年三月十四日)との記述があり、松平氏が実際に皇室を諌めていたことが分かる。


富田メモの存在は、現宮内庁の高官が知っていた。創価学会に関わっており、現内閣で公明党から出ている閣僚とは特別の間柄。公明党は分祀を主張。福田の総裁選不出馬によって、何らかの手を打つべく相談。
このメモを利用することを考えた。この公明党閣僚はつい先日中国を訪問して、靖国問題については何とかしますというような話をこっそりして来た。靖国参拝反対を提唱している財界の動きから見て、日経のスクープとすれば効果もあり且つ2人の策動を表に出すことがなく、大きな影響を与えられると思策し、日経にその役を振ったようだ。

「公明党閣僚」とは、北側国土交通大臣。創価学会に関わっている現宮内庁高官は、隠れ学会員という噂がある風岡典之氏。風岡氏は、国土交通省次官から宮内庁次長に。北側大臣とは当然、関係が深い。風岡氏の人事については、4月12日付で、各マスコミに怪文書がばらまかれた。「“隠れ学会員”故に、本当はもっと適任者がいたにも拘わらず、その政治力で持って、学会の意思を体現して送り込まれて来たというもの」。
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