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ジャズの歴史⑧”60年代、バップの衰退とフリージャズ”

2005-10-04 22:53:00 | ジャズの歴史
ジャズ史上最大の革命といわれて、40年代頭から60年代末頃まで、約30年間にわたってジャズ界の主流としてシーンを牽引し続けたバップイディオム。クールにせよウエストにせよ、ハードバップにせよファンキーにせよ、おおもとのイディオムはバップに固定されていて、その範疇でバリエーションを選択していたに過ぎない。
バップ期に、いわゆる「脱バップ」の試みをした人というのは、まぁいないことはなかったんだけど、バップの隆盛があまりにも際立ったものだったので、黙殺される形でシーンの中核にはなりえなかった。バップってのはジャズ界にとってそれほど画期的な出来事だったのね。
ただ、バップにも問題点がないわけではなく、イディオムとしての限界は案外早くやってくる。

バップのコンセプトを一言でいうと「コードを追う」だよね。「譜面に書かれているコードを吹く」ということ。
そのボイシングとタイミング(音の構成や並び、すなわちメロディ)は演奏者各々のセンスや感覚に任されて、そのセンス、感覚の違いが、バップ期のさまざまな派閥を形成してきた。でもどの派閥も、やってることはとどのつまり「コードを吹いていた」んだよね。
バップによって振幅の激しいエキサイティングなアドリブを獲得したジャズメンたちは、さらなる躍動感や洗練を求めてさまざまな試みを重ねていった。だけどバップの演奏である以上、メロディはコードの範囲でしか創れない・・・・・もっといいフレーズを、もっといいメロディをとエスカレートしていった結果、なにが起こったかというと「譜面にコードを増やすこと」ね。
コードでアドリブするんだから、複雑高度なアドリブを求めればこれは当然の帰結。既製の曲にはガンガン経過和音が書き込まれ、書かれるオリジナルナンバーはギッシリとコードに埋め尽くされた。
これによって確かにフレーズは複雑になり、演奏には高度なテクニックが要求されるようになったけど、逆に考えればこれは「コードに縛られる」ということだったのね。
演奏者はコードを追うことに必死。自身の感覚に基づいて自由にフレーズを動かそうにもそのスペースがない。だってすぐに次のコードが来ちゃうんだもん(笑)。
コードにがんじがらめに縛られて、創造性を生かす余地がなくなっていった・・・・・これがバップの行き詰まり。
ハードバップまできて、多数のジャズメンはこの限界に気づかずに、幾多のコードにフレッシュなフィーリングを封じられ、感性が枯渇していく。
そしてバップシーンは徐々に衰退に向かっていった。

あれほど偉大なバップ革命は、最終的におっそろしい結末を迎えることになってしまった・・・・・って、ちょっと大げさでしょうか?(笑)。
このバップイディオムの限界にいち早く気づいた一部のバップ派、そしてバップとはまた別の畑で研鑽を積んでいたミュージシャンたちによって、次代のジャズの萌芽がもたらされる。バップ以降のモダンジャズのさらなる発展として、60年代に勢力を伸ばしてくる勢力は主に2派。
フリージャズ、そしてモードジャズ。
この脱バップの動きは、ハードバップが日の出の勢いでシーンを席巻し始めていた50年代にCecil Taylor(セシル・テイラー、p)とOrnette Coleman(オーネット・コールマン、as,tp,vln)によって、まずフリージャズの側から始まる。

フリージャズの演奏を文章で書くのはちょっと難しいんだけど・・・・・思想や風刺、激情、抑えきれない感情の迸りといったもの、それらを音楽的な秩序に縛られることなく、感性のままに吐き出していく。破壊、疾走感、ともすればノイズィーにも感じられる、荒唐無稽な音塊の果てしない連なり・・・・・そんな音楽。
基本的な理念は、コードに基を置いてアドリブを組み立てたバップに対して、「何物にも基をおかずにアドリブする」というもの。それは和声学を否定した不協和音の使用だったり、一定のテンポに拘らないことだったり、最終的にはまったくビートを設定しないところまでいってしまったりする。なにものにも制約を受けずに、演奏者の主体のみによって音を出す。これがフリージャズの骨子。
Taylorは自身の音楽のバックボーンにある黒人音楽、Duke Ellington(デューク・エリントン、p)の影響、それらにバルトークやストラヴィンスキーといったクラシック現代音楽の影響を取り入れて、この理念をジャズに導入する。
その結実を見た最初のアルバムが「Jazz Advance」。55年に吹き込まれたこのアルバムはTaylorの初リーダー作で、一般にフリージャズの先鞭をつけたといわれているのね。
そして50年代末、西海岸で活動していたアルト奏者、Ornette Colemanがニューヨークのジャズシーンに登場してくる。
Colemanは自身で構築した独自の「ハーモロディクス理論」に基づいたフリーフォームを50年代半ばに完成させ、59年に満を持した形でニューヨークのジャズクラブ、ファイブスポットに出演、これによってフリーのコンセプトは大々的に世に出され、賛否両論の激しい衝撃をもたらした。同年吹き込んだ「Shape of Jazz to Come」は、Colemanが言いたいことを言い尽くした最初のアルバムとして名高い。
聴衆はこの自由奔放なフリーフォームの音楽を、それまでの概念を覆したモダンジャズの対義語として「ニュージャズ」と呼んだ。

50年代後半はハードバップの誕生から、ファンキーブームに火がついてちょうど盛り上がってくるころで、TaylorやColemanの試みは、当時のジャズシーンで市民権を得るところまで行くには少々時間がかかった。バップの様式を洗練させる方向で進んできたそれまでのジャズ界に、様式を否定するフリーの思想はあまりにも先を行きすぎていて、理解されにくかったのね。
そんななか、経済的に不振を囲ったColemanが62年の年末に一時引退に追い込まれたりもするんだけど、ベトナム戦争や人種問題の沸騰など、アメリカの鬱屈した社会情勢の下で、フリージャズの奔放でエネルギッシュなコンセプトは若手を中心としたアーティストたちの創造意欲に火をつけ、徐々にその勢力を延ばしていく。
64年に「ジャズの10月革命」と題された、言ってみればミュージシャンによるフリージャズのワークショップのようなコンサートが開催される。これは演奏活動と討論会を交えた、ジャズシーンの中にフリージャズのムーブメントを具体的な形を持って位置づけていこうという趣旨のイベントで、TaylorやColemanの両巨頭をはじめフリーを志すミュージシャンが一堂に会して、ニュージャズ派の決意表明、大々的な旗揚げ興行の意味合いを持って成功を収めた。
このフリージャズの盛況に刺激を受けたColemanが65年に復帰。さらにMilesのグループを脱退して独自の活動を続けていたJohn Coltrane(ジョン・コルトレーン、ts,ss)が、同年録音の「Ascension」をもってフリーフォームを導入するに至って、ニュージャズ派はシーンに確固とした地位を築き上げる。
大手レコード会社もこの動静を無視できなくなり、以降数々の名盤が残されていくことになった。

こんなところでしょうか・・・・・いやー、今回は苦労した。バップの行き詰まりまではサラサラ書けたんだけど、フリージャズに関してはなかなか筆が進まなかった。
これは僕がフリーに関してある程度の知識は持っていても、結局好きじゃないんだろうね。興味がないから熱く語れないというか(笑)。
あと文中の流れで書ききれなかったことを、ちょこっと書いとくか。
フリーフォームの試みは必ずしもTaylorやColemanから始まったわけではなくて、Tristano学派による40年代末の吹き込みや、ウエスト派のShelly Manneらの前衛的な実験など、結構以前から存在したのね。ただそれが一連の流れにならなかったというだけ。よく書評なんかで目にする「Ornette Colemanがフリージャズを創った」というのは間違い、というか極論過ぎる。TaylorとColemanはニュージャズ派の大きな旗手ではあったけど、もし彼らがいなかったとしてもあのムーブメントは起こっていた。時期の早い遅いはあったかもしれないけどね。
僕はそんなふうに思います。 
あと、文中でフリージャズとニュージャズっていうふたつの言葉を用いているよね。これは、「フリージャズ」はフリーフォームで演奏されたジャズ、すなわち「演奏法」を指した言葉で、「ニュージャズ」はフリージャズの演奏者たちを、モダンジャズに対峙する勢力として捉えた「派閥」を指す言葉だということ。ここは混同しやすい。
このふたつを補足して、今回は筆を置こうと思う。

疲れたー(笑)。
次回はモードジャズから新主流派にいたるまでの流れ・・・・・フリージャズを書くよりははるかに楽でしょう。
ではでは。